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国盗り物語88

时间: 2020-05-25    进入日语论坛
核心提示:六角斬《ぎ》り「試合は十三日辰《たつ》ノ刻《こく》、場所は楓《かえで》の馬場《ばば》、よろしいな」「よろしい」光秀は、う
(单词翻译:双击或拖选)
六角斬《ぎ》り

「試合は十三日辰《たつ》ノ刻《こく》、場所は楓《かえで》の馬場《ばば》、よろしいな」
「よろしい」
光秀は、うなずいた。
「検分役はどなたを望まれる」
六角浪右衛門はきく。
「どなたでも結構」
当然なことだ。誰《たれ》、と名指しできるほど光秀は朝倉家の家中の顔ぶれを知っているわけではない。
「されば」
——物頭にて鯖《さば》江《え》源蔵殿、天流をおつかいなさる、拙者のほうにて頼みおく、よろしゅうござるな、と六角浪右衛門はいった。
「御念にはおよばぬ」
「当日まで十日のゆとり《・・・》がある。ゆめゆめお逃げなさるなよ」
浪右衛門がいったのは、むしろ光秀に逃げてほしいというのが本音だったのかもしれない。六角にすれば職業的兵法者の看板の手前、試合を申し入れたものの、どういう結果になるかもわからぬ試合を、この男も好きこのんでしたいわけではなかろう。(逃げよ)と言わんばかりに、十日という、ひどく悠暢《ゆうちょう》な準備期間をかれの側から指定してきたのである。
光秀にも、六角の気持がわかる。
(逃げてしまおうか)
ふと思わぬことはなかったが、ここで逃げて汚名を残せば将来《ゆくすえ》の名にかかわる。
「逃げは致さぬ」
と物やわらかくいって六角を帰した。
その日から七日たった夕、光秀が小屋の前を掃いていると、街道の西のかたに夕靄《ゆうもや》が淡く流れている。その夕靄のなかから、旅姿の男女がこちらに近づいてくるのが見えた。
逆光なために、影のように見える。影が茜《あかね》に染まりつつ近づいてきた。
(お槙《まき》と、弥平次ではないか)
妻である。
弥平次光春は、従弟《いとこ》であった。
ふたりは光秀を見つけて小走りに駈《か》けてきた。どちらも、泣きそうな顔をしていた。
     ……………………
 光秀には、そういう名の妻がある。
美濃にいたころ、娶《めと》った。一族の土岐頼定の娘でまき《・・》。於《お》牧《まき》とも於槙とも書く。ひかえめな性格だが、才智のすぐれた女性として娘のころから美濃では評判だった。小《こ》柄《がら》で器量にもめぐまれている。後年、天下第一の美《び》貌《ぼう》といわれた細川ガラシャ夫人を生む婦人である。
光秀も、生涯《しょうがい》側室といえるほどのものを置かなかったほどにこの妻を愛したが、なにぶん、この夫婦の若いころは世間なみからみれば悲惨といっていい。
婚儀をあげてほどなく道三は没落し、明智氏は新国主の斎藤義竜に攻められ、城は陥《お》ち、当主の叔父は戦死し、光秀は、妻と叔父の子弥平次光春を連れて国外にのがれ、流亡の生活を送らねばならなかった。
食える暮らしではない。
京都の天竜寺に禅道という老僧がいる。禅道はかつて諸国を行脚していたころ美濃明智城に錫《しゃく》をとどめ、三年ばかり城内で暮らしていたことがあり、その縁で、光秀はこの禅道に妻と弥平次の世話を頼んだ。
禅道はこころよく世話をひきうけてくれ、門前の借家にかれらを住まわせ、米塩だけを提供してくれていたのである。
「越前にゆく」
といって光秀が京を出るとき、
「もし越前朝倉家で、しかるべき処遇をしてくれるようになればそなた達を迎えにくる」
と言い残して発《た》った。いつまでも禅道の好意にあまえて居られぬと思う気持が、光秀の念頭をいつも去らない。
(それがなぜいまごろ、この越前に)
不審におもった。来よ、と手紙で申し送ってやったおぼえはないのである。
とりあえず二人を、小屋に入れた。すでに昏《くら》くなっていたが、光秀には燈火の代《しろ》がなく小屋のなかは真暗だった。
「このような暮らしだ。まだまだそなた達を呼びよせられるような事情ではないのだが、いったい、どうしたのか」
お槙が、顔をあげた。
「禅道殿が、遷《せん》化《げ》なされたのでございます」
「えっ亡《な》くなられたのか」
「それでやむなく」
京を離れざるをえなかったのであろう。お槙は、暗闇《くらやみ》のなかで髪を垂れ、白い顔を伏せている。光秀の眼にはさだかではないが、泣いているのではあるまいかと思われた。
「槙、心を気丈にすることだ。いつかは笑って暮らせるようになる」
「なげいてなぞおりませぬ」
「それならばよい」
光秀はこのお槙を賞讃《しょうさん》したい気持になることがある。美濃にあるときは土岐頼定の姫君として、おおぜいの女奉公人にかしずかれて日を送った。それがいまでは、乞食同然の生活に落ちているが、この妻は愚痴ひとつ言ったことがない。
「はらがすいているだろう。めしにしよう」
と光秀は立ちあがったが、果して米があるのか、心もとなかった。米櫃《こめびつ》をしらべてみると、雑炊にするほどならある。
「わたくしが致します」
と、お槙は立ちあがり、裏口へ出た。小屋に炉がないために煮たきはそとでしなければならない。
弥平次は、機転のきく者だ。松明《たいまつ》をつくり、釣《つ》り竿《ざお》をもってそとへ出た。道中、饑《ひもじ》さをふせぐために渓谷《けいこく》をみつけては魚を釣りながら、この越前まできたのである。
半刻ほどして、夕《ゆう》餉《げ》の支度ができた。
弥平次は松明を土間のすみに据え、その煙と火を唯一《ゆいいつ》のあかりに、三人は鍋《なべ》をかこんで食事をはじめた。
「こんな暮らしもおもしろいな」
光秀がいった。世が世なれば、十兵衛光秀も弥平次光春も、明智の若様である。お槙にいたっては美濃で神格的な尊崇をうけている土岐一族の姫君であった。
「槙、どうだ」
「槙はひもじいことなどすこしも辛《つら》くはありませぬが、御亭主殿と別れて暮らさねばならぬことが淋《さび》しゅうございます」
「考えてみれば」
この若夫婦は、明智落城以来、ともに暮らした月日は二十日ほどもないのではないか。
「もう、離れて暮らせ、とは言わぬ」
「ま」
お槙は小さな叫びをあげた。
「では、槙はここで住んでよいのでございますか」
「ここで」
というお槙の言葉に、光秀は胸を突かれる思いがした。ここで、というが、此処《ここ》は乞食も住まぬような物置小屋ではないか。
「うれしゅうございますわ」
(女とは、そのようなものかな)
光秀は、あやうく涙ぐみそうになるのをおさえて、箸《はし》を動かしている。
食事がおわると弥平次が、
「さきほど川へ降りたときに、よい瀬をみつけておきました。いま一度釣りにゆき、あすの朝の魚を獲《え》てきたく思います」
と、松明をにぎって立ちかけた。
「よいではないか」
光秀が言ったが、弥平次はまだ前髪をのこした顔をにこにこさせて、
「好きなのです」
と、出てしまった。後年、光秀の部将として坂本城の湖水渡りなどという、さわやかな武《ぶ》辺譚《へんだん》をのこすこの若者は、そのような勇将になるとは思えぬほどに、おとなの心の機微を知りぬいたような感受性をもっている。
「妙な思いやりをするやつだ」
あとで、光秀は苦笑した。弥平次の、若い夫婦を二人きりにしてやりたいという思いやりが、光秀の胸にもひびいている。
その意味を知ってお槙は、暗闇のなかで赤くなった。
「こどもだとばかり思っていたが、いつのまにか、あんな出すぎた心づかいをするやつになっている」
「でも」
お槙の眼には、まだまだ少年に映っているらしい。
「子供っぽうございますよ、お齢《とし》よりも。道中をしていても、魚を獲《と》ったり鳥を刺したりすることばかりに執心で、わたくしを置きざりにしたまま森や川に入って、日が暮れそうになっても出て来ぬことが多うございましたわ」
「すると、いまのもごく無邪気にそうしたのかな」
光秀はお槙を抱きあげ、寝わらの上まで運んでゆき、そっと藁《わら》のなかに埋もれさせた。
お槙の小さな顔を両掌《りょうて》でかこい、かがみこんで唇《くちびる》を吸ってやった。
そこまでは、たがいに貴族育ちらしいつつしみも抑制もあるふるまいだったが、お槙がたまりかねたように夫の首の根にかいな《・・・》を巻きつけたときから、光秀の呼吸が物狂おしくなった。
「お会い致しとうございました」
とお槙があえいだ。わらのなかでお槙の白い脛《はぎ》が、ゆるやかに、むしろ典雅なほどのゆるやかさで動きはじめたとき、光秀にはもういつもの彼がいない。ただひたすらな身動きを、お槙のなかで果たしつづけた。
刻《とき》が経《た》ち、光秀はお槙をおこしてやり、その長い髪を指でと《・》いてわらくずを落してやった。
ふたりは、土間にもどった。
「もっと早くきくべきであったが、京では患《わずら》わなんだか」
「一度、風邪をひきました」
やくたいもない夫婦の会話がつづいたあと、ふと光秀は、
「おれは野心を、しばらく縮めたい」
といった。光秀にすれば、できれば朝倉家の軍師になり、窮乏している将軍家と結びつけ、朝倉氏執権のもとで足利《あしかが》幕府を再興するということであったが、いざこの一乗谷にきてみて、一足とびに朝倉氏軍師という高い立場が得られそうにないことがわかってきている。
「かといって軽い身分で仕官をしてしまえば、石高相応の軽い評価しか得られなくなるおそれがあり、そのことで悩んでいた」
しかしお槙と弥平次がこうして来てしまった以上、いつまでも小屋ずまいのその日暮らしでは済まされない。だから高望みは捨て、暮らしにそこそこの知行を取れるならば取ってみたい、と光秀はいった。
「あの……」
お槙は、眼をあげた。自分が越前にきたことは光秀にとってやはり邪魔だったのか、という意味のことを、声の表情でいった。
光秀には、感じとれたらしい。
「ちがう」
と否定した。が、すぐ、
「男を酔わしめるものは、胸中に鬱勃《うつぼつ》と湧《わ》いている野望という酒だ。わしはつねにその酒に酔ってきた。いまも酔っている」
と、関係《かかわり》のないことをいった。
「しかし」
光秀は、話題にもどった。
「酒に酔うだけでは人の世はわたれぬということを、近頃《ちかごろ》、やっとわかってきた。男はお槙、妻子を養わねばならぬ」
(まあ)
お槙は笑いだした。こんな簡単なことを、諸国流浪のあげくやっとわかったというのは、やはり、苦労知らずな育ちのせいかもしれぬ。
(というより)
この亭主殿のえもいわれぬよいところであろうと、お槙はおもうのである。
「おれはじつは、数日後に、兵法《ひょうほう》の試合をせねばならぬ。負ければ死ぬ」
「えっ」
「おれはな」
光秀は、他人《ひと》事《ごと》のようにいった。
「逃げようか、と思っていた。この越前一乗谷をだ。他愛《たわい》もない兵法者と打ち合いをして落命するには、この明智光秀が惜しすぎる」
「お、おやめなされませ」
「左様、しかしそなたがここへ来た。退転する気は消《う》せたわ」
「わたくしが来たために?」
なぜでございますか、わたくしが、もしお志の邪魔をしているならいまから京へ帰りまする、とお槙がせきこんでいうと、
「いやさ、そうではない。そなたが来たことによって、わしは力いっぱい、その兵法者と打ち合ってみる気になった。打ち合って勝てば、朝倉家のほうでわしを見捨ててはおくまい。二百石か三百石、その程度の物頭に取り立ててくれるはずだ」
それも妻をして飢えさせぬためだ、そのために戦うことも男の栄光の一つだということがわかった、と光秀はいうのである。
(そのような卑《ひ》賤《せん》の兵法者づれと)
お槙は、この場合どのようなことを光秀にいっていいかわからない。
お槙は、光秀の少年時代の、美濃明智郷ではほとんど神話的にまでなっている逸話を、胸の痛むような思いでおもいだした。
光秀の十二、三歳のころだ。
その夏、城のそばの河であそんでいて、葦《あし》の根に大黒天の木像が流れついているのを見つけ、城にもち帰った。
明智城の若侍たちが、
「大黒天を拾えば千人の頭《かしら》になる、という言い伝えがございます。若君様はかならず、御出世あそばしましょう」
と言うと、光秀はだまって鉈《なた》をもち出し、その大黒天を打ちくだいて火中に投じてしまった。
叔父の光安、つまり弥平次の父がこれをきいてよろこび、
「よくぞやった。さすが亡き兄の子だ。将来、万人の頭になり、大名《たいめい》をあげるであろう」
とほめると、光秀は冴《さ》えぬ顔をした。万人の頭、ということさえ、かれには不満だったのである。
(それほどのお人が、兵法者づれとたかが刀技を争うために命を賭《か》けねばならぬとは)
光秀の不遇と逆境をおもうと、お槙はどういう言葉でこれに酬《むく》いていいかわからない。
光秀の剣技そのものに対しては、お槙はふしぎと不安の気持がなかった。
槍術《そうじゅつ》と兵法は、明智城に流寓《りゅうぐう》していた中村閑雲斎《かんうんさい》という者が、光秀の幼少のころから付きっきりで教授し、長じてからは、閑雲斎でさえ敗れた西国牢人《ろうにん》の中川右《う》近《こん》という兵法者を、光秀は師匠にかわって稽《けい》古《こ》槍《やり》で立ちむかい、一合《いちごう》して相手の咽《の》喉仏《どぼとけ》を砕いている。
「だいじょうぶでございましょうか」
お槙が念のためにいうと、
「だいじょうぶだ」
とは光秀はいわない。着実な、実証的な思考を好むこの男は、その種の景気のいい法螺《ほら》がいえないのである。
「勝負は、そのときの運とそのときの気だ。腕など、二ノ次といっていい。それゆえわしにはなんとも言えぬ」
「——でも」
「案ずることはない。六角浪右衛門なる兵法使いを倒しても本来なにもならぬが、この際は、わしが食えるか食えぬかにかかっている」
自然、必死の気組がある。その点、防衛する側の浪右衛門よりも利があろう、と光秀はいうのである。

試合は、詳述してもつまらない。
光秀は握《にぎ》り太《ぶと》の黒《くろ》木《き》一本をぶらさげ、その刻限、楓《かえで》の下に立っている。
南側の幔幕《まんまく》のかげから、浪右衛門が四尺ばかりの木太刀をもってあらわれた。
ゆったり歩み寄ってくる。
その腰のさま《・・》、歩の運びよう、眼のくばりなど、さすがに尋常でない。
(おれよりも、技倆《わざ》はすぐれている)
と光秀は見てとったとき、いきなり自分の黒木の棒をすて、
「真剣で参ろう」
と、地を三歩、 《つか》に手をかけたまま歩み寄った。
真剣、ときいて浪右衛門には意外だったらしい。無用のたじろぎが、その眼に出た。
心に、混乱がある。
が、意を決して四尺の木太刀をすて、 に手をかけたとき、光秀が飛びこんだ。
浪右衛門の刀がすでに鞘《さや》をはなれ、光秀の頭に及んでいたが、光秀の抜刀はそれよりも早く袈裟《けさ》に一閃《いっせん》し、浪右衛門の右高胴《みぎたかどう》ににぶい音を立てていた。
瞬間、光秀は飛びちがえ、十数歩走ってふりむき、刀をおさめた。浪右衛門は死んでいる。
堺《さかい》と京
 さて、信長のほうである。
このとし永禄《えいろく》四年の正月、信長は清《きよ》洲《す》城で新春の賀宴を張ったあと、
「すこし酔った」
と、つぶやきながら立ちあがり、奥へ引っこんでしまった。
——殿は酒にお弱い。
ということを広間に居ならぶ家臣どもは知っている。たれも怪しまなかった。
信長は、廊下をひどくゆるゆると渡ってゆく。
右手の庭の苔《こけ》に昨夜の雪が消え残っている。臥竜梅《がりょうばい》に、蕾《つぼみ》がほころびかけていた。
桜樹もある。
むろん枝はまだ春寒に堪えていて、蕾にはよほど間があろう。
(亡《な》き舅《しゅうと》の道三は、桜が好きであったな。あれほど桜の好きな男もめずらしかった)
ふと、そんなことをおもった。
(道三は、物好きな。——)
と、そんなことを思ったのは、尾張であれほど阿《あ》呆《ほう》あつかいにされていた自分を、奇妙なほどに愛し、器量をみとめ、ついにはその死にのぞんで、
「美濃一国をゆずる」
という譲状《ゆずりじょう》さえあたえてくれたのである。
(せっかく道三から美濃の譲状をもらっていながら、なおまだ一片の紙きれにすぎない)
新国主の斎藤義竜が、意外なほど美濃侍の信望を得ていて、容易には美濃に攻めこめそうにないのである。
(道三の仇《かたき》を討たねばならぬ)
とおもいつつも、月日が過ぎている。
空《むな》しく過ぎているわけではない。その間、桶狭《おけはざ》間《ま》(田楽《でんがく》狭間)に進襲して今川義元を討ち、東方からの脅威をのぞいた。
(あとは北方の美濃への進攻だ)
と思うが、まだまだそれだけの自信はなかった。
妙な男だ。
動けば電光石火の行動をするくせに、それまでは偵察《ていさつ》、政治工作のかぎりをつくし、万《ばん》々《ばん》負けることはない、という計算が確立してからでなければ、この男は容易に手を出さないのである。
「機敏」
という文字に臓《ぞう》腑《ふ》を入れて作られたような男であるくせに、「軽率」という類似性格を置きわすれてうまれついている。
が、宴席を脱け、廊下を渡っている信長は、べつだん、道三への懐旧の情にひたろうと思ってそうしているのではなかった。
奇想を思いついた。
だから家臣団の目の前を去ったのである。
(清洲のこの城から消えてやろう)
と、いうことを思い立ったのだ。
やがて濃姫《のうひめ》の部屋に入り、
「お濃よ、膝《ひざ》を貸せ」
と、それを枕《まくら》にごろりと寝ころがった。目をつぶり、思案をしはじめた。
「おねむいのでございますか」
「眠いといえば、いつも眠いわ」
うるさそうに手をふった。だまって居よ、という合図である。やがて、
「お濃よ、三十日ばかり、おれが城から居なくなっても騒ぐな」
「騒ぎませぬ」
「奥で風邪をひいてひきこもっている、と侍《おん》女《な》どもにはそう申しておけ。おんなどものうち、心確かな者にだけは明かしておけ。おれはしばらくなごや《・・・》の城に居ると」
「なごや《・・・》の城に渡《わ》らせまするのでございますか」
「聞くな」
余計なことは、というふうに信長は目をあけ、下から濃姫をみた。
すぐそのあと信長は茶亭にふたりの家老をよんだ。
柴《しば》田《た》勝家《かついえ》と丹羽《にわ》長秀《ながひで》である。
「京へのぼる」
と、いきなりいったから、二人とも身をのけぞらせて驚いた。
「なにを仰《おお》せられまする。四面敵にかこまれ、国中にもなお殿に服せぬ者がいると申しまするのに、京へなどと」
「堺へもゆく」
信長は、命ずるだけである。
「権六《ごんろく》(勝家)は城に残って留守を治めよ。五郎左(長秀)は供をせい。供は平服、行装《こうそう》はめだたぬように。田舎小名《いなかしょうみょう》が都見物にでもゆくようにこしらえるのだ。人数は八十人を超えてはならぬ」
「いったい、なんの目的で京や堺に参られるのでござりまする」
「見物だ」
例の叫ぶような口調でいった。それっきり口を噤《つぐ》んだ。
「シテ、御出立は?」
「いまからだ。馬に鞍《くら》をおかせておけ」
ぐずぐずすれば雷が落ちる。柴田と丹羽は跳ねとぶようにして消えた。
(京にいる将軍に会いたい)
それが目的の一つ。
(堺で、南蛮の文物《ぶんぶつ》を見たい)
それが目的の二つ目である。
むろんかれを駆りたてているエネルギーはこの男の度外れて烈《はげ》しい好奇心であるが、その好奇心を裏付けているずっしりとした底意もある。他日、天下を取るときのために中央の形勢を見、今後の思考材料にしたいのだ。
時期はいい。
人が屠蘇《とそ》酒《ざけ》に酔っている正月である。それに今川氏からの脅威が消滅したいま、この束《つか》の間の安全期間中を利用するしかない。

夜陰、清洲城を騎乗《うまのり》二十騎、徒歩《かち》六十人の人数が風のように去り、無名の海浜から船に乗り、伊勢へ渡った。
伊賀を駈《か》けぬけ、大和に入り、葛城《かつらぎ》山脈をこえて河内に出、羽《は》曳《びき》野《の》の丘を越えて和泉《いずみ》に入り、ついに堺の口に出た。
「これが堺か」
信長は馬をとどめて、前面の天を劃《かく》する一大都城の景観を見た。
まるで南蛮や唐土《から》の都市のように、町のまわりに濠《ほり》をめぐらし、土塁をきずき、その土塁の上には巨木を惜しげもなく使って柵《さく》を組みあげている。
(都市《まち》そのものが城なのだ)
日本の富はここに集まり、政治もことごとく町衆の自治でおこなわれている。諸国の武将も堺には兵を入れることができず、まして町中で戦争はおろか、喧《けん》嘩《か》口論をすることもできない。仇敵《きゅうてき》の仲といった武士なども、剣をぬいてたたかうためには都市《まち》の門を出てからでなければならない。
他の地方で交戦中の大名たちも、たまたまこの堺で顔をあわせれば友人のごとく談笑するのが普通、とされている。
「ベニス市のごとく市政官によって治められている」
と、信長がこの堺へきた年、やはりここを訪れた宣教師が報告している。
富商の多くは海外貿易を業としているため牢人《ろうにん》をかかえて兵士とし、船に乗りこませて海賊と戦う。それらの傭兵《ようへい》が町にあるときには、この自由都市の富と自治を守るための警備軍になっている。
「五郎左、十騎のみわしに従って入れ」
と信長は命じた。八十人もの侍を市中に入れることを堺は嫌《きら》うであろうと思ったのである。七十人は市外に分宿させた。
信長は蹄《ひづめ》をとどろかせながら濠にかかった板橋を渡り、大門へ入った。この門は日没後にとざされ、内側から巨大な吊錠《つりじょう》がおろされる、ということを信長は聞き知っている。
市中に入ると信長は馬を降り、徒歩になった。町並の華麗さは、尾張の田舎衆どもの目を奪うばかりであった。
信長は、宿場町に泊まった。妓《おんな》がいる。酒もある。酒は、客が望めば、赤や黄の南蛮酒も出した。
調度も唐風、南蛮風などがふんだんに用いられ、日本にいる思いがしない。
信長は、天性、伝統的な古くささがきらいで、新奇な文物を好む性質があったから、たちまち南蛮の品々のとりこになった。
翌日、商家の店さきをのぞきつつ、かれらが如何《いか》にしてこれほどの富を得たかを知ろうとした。
海外との交易である。
(かほどまで富が集まるものか)
交易というもののふしぎさに感嘆した。
ついで、港に出た。
唐船がいる。城のような南蛮船も、港の内外に碇《いかり》をおろしている。
「あの舷側《ふなばた》の大砲《いしびや》数の多さを見よ」
と、信長はとうとう声を放っていった。
港のあちこちを、絨製《じゅうせい》の衣服で身をまとった南蛮人がうろうろしている。
「あれらに餅《もち》をやれ」
と、信長は丹羽長秀にいった。
丹羽長秀はやむなくかれらを信長の前にあつめ、地に片膝《かたひざ》をつかせ、命ぜられたとおり餅をくばってやった。
南蛮人は、餅を掌《てのひら》にのせ信長を見あげながらひどく当惑している。
「汝《わい》らの国は遠いか」
信長は、突き刺すようにきいた。
言葉が通ぜず、南蛮人たちは首を振るばかりであったが、そこへかれらの船の通訳をしている唐人(中国人)がやってきて、信長とのやりとりを通訳した。
「ときに一年も海上に浮かばねばこの港市《まち》に来ることができませぬ」
「ほう」
信長は、かれらの驚嘆すべき冒険精神とそれを駆り進めている野心の壮大さに目をあらわれるような心地がした。
(おれも左様であらねばならぬ)
とチラリと思いながら、なおも、彼等の国の模様、政体、風俗などをきいた。
信長は数日、堺に滞在した。堺は、かれの気宇と世界知識を育てるための学校の役割りをはたしたであろう。
それまでの信長にとっては、
——日本を制《せい》覇《は》する。
ということは途方もなく大きな望みのように思われたが、この町の華麗な潮風に吹かれてみると、日本制覇などはひどく小さな野望にすぎぬようにおもわれはじめた。というより、
「日本制覇」
という概念が、この若者の空想のなかからぬけ出して、あたりまえの、ごく現実くさい志望としてかれの心に定着した。
数日たった朝、信長は堺を去るべく南荘の大門を出、そこに待っていた供の人数をひきつれ、街道を北にとった。
「殿、もはや国をお留守になされてずいぶんと相成ります。道をいそいでお帰りあそばさぬとどのような大事がおこっているやも知れませぬぞ」
「京へのぼるのだ」
信長は馬を打たせてゆく。
京で、将軍の義輝の寓居《ぐうきょ》を訪ね拝謁《はいえつ》を乞《こ》いたい。これは堺で膨《ふくら》ませた日本制覇への野望を現実化するための輝ける下調査なのだ。将軍と面識を通じておき、他日近国を切り取って実力を備えたとき、一挙に京にのぼって将軍を戴《いただ》き、その御教書《みぎょうしょ》によって、自分に従わぬ諸国の大名を打ちたいらげねばならぬ。堺の夢と京の現実、このふたつを見て肝に銘ずることが、こんどの信長の旅行の二大目的であった。京にはのぼらねばならぬ。
京に入ると、信長は二条にある日蓮宗《にちれんしゅう》の寺院に宿をとり、義輝将軍に使者を出した。
義輝は、居館がない。
ちかごろは足利家歴代の菩《ぼ》提《だい》寺《じ》である等《とう》持《じ》院《いん》に仮《か》寓《ぐう》しているが、いつどこから義輝の命を狙《ねら》う大名が押し寄せて来ぬともかぎらぬため、寺では、
——そんな巻き添えを食って焼かれてはかなわぬ。
と思い、義輝の滞在を迷惑がっている現状だった。
信長の家来が訪ねてきたとき、将軍側近の若い細川藤孝《ふじたか》が応対した。
「目通りを許す、とおおせられておる」
と、藤孝は答えて使者を帰した。田舎の大名がのぼって来れば手土産の金品を置いてゆくであろうし、朝廷への官位昇格の奏請権を将軍はにぎっているから、もしそれが希望ならばいくばくかの冥加金《みょうがきん》もとれるのである。来訪は決して迷惑ではない。
信長はきた。
室町《むろまち》風の礼式どおり信長はふるまい、はるかにシキイをへだてて将軍に拝礼した。
「織田上総介《かずさのすけ》でござりまする」
と、将軍側近の者が、はるか下座に平伏している信長を紹介した。
将軍義輝は、わずかにうなずいた。
数えて二十六歳の若者である。色黒く顔長く、眼光に異彩がある。
傑物の相《そう》ともおもわれぬが、首筋ふとく腕たくましく、信長が想像していた日本最高の貴族という印象からほど遠かった。
当然なことで、義輝はいま流行《はやり》の兵法きちがいで朝夕木刀をふるい、塚原卜伝《ぼくでん》からその奥義を皆伝されるまでになっている。
信長は無口な男だ。
将軍も当然、無口である。
拝謁はそれっきりでおわり、あとは別室で休息し、細川藤孝から懇切なもてなしをうけつつ、等持院を去った。
その夜、藤孝が信長の宿所にやってきて丹羽長秀に会い、
「お耳に入れておきたいことがござる」
と、意外な事実を教えた。
美濃の斎藤義竜からも家臣団が京にのぼっていて、数日前、将軍への贈りものを持ってきたという。それだけではない。
「噂《うわさ》では」
信長の上洛《じょうらく》をかれらは知っており、京で待ち受けて刺殺する密計だというのである。
細川藤孝はよほど織田家に好意をもっているらしく、斎藤家の家臣団の宿所まで教えて辞し去った。
さっそく丹羽長秀が信長に言上すると、
「デアルカ」
と、例の口癖でうなずいたきりである。
しかし夜明け前、信長はにわかに出発を命じ、路上に出、
「美濃の刺客どもが泊まり居る旅宿にゆく」
と寺僧を道案内に立たせた。
二条西洞院《にしのとういん》の臨済寺まで寺僧が案内してきたとき夜が明けた。
「寺をかこめ」
言うなり信長はただひとり、鞭《むち》をもって寺の門を入り、小僧をよんで彼等の宿所の庫裡《くり》に案内させた。
美濃衆は、庫裡のなかの三室ばかりを借りきって、いま床を離れたばかりであった。
まだ床のなかにいる者もある。
手洗《ちょうず》に立った者もあった。
信長は土足のままズカズカと室内に入り、仁王立ちに立って、
「身は、上総介である」
と、大喝《だいかつ》した。
室内にいる十二、三人の美濃侍どもは、この瞬間ほどおどろいたことはないであろう。みな跳ねあがって居ずまいを正し、その場その場で不覚にも平伏してしまった。
「巷間《まち》の噂では、そのほうどもは義竜の密命をうけて身を害せんとしているときく。王城の地にあって、不《ふ》埓《らち》のふるまい」
金を斫《き》るように鋭い声である。
「左様なことがあっては差しゆるさぬぞ」
彼等が頭をあげたときは、信長の姿はもう無かった。あわてて剣をとりに走る者、信長のあとを追って廊下を駈け出す者など騒然となったが彼等が二度目に信長を見たときは、信長が、背をむけて山門を出ようとしているところであった。
ふりむきもしない。
やがて門前で馬《ば》蹄《てい》のとどろく音が聞こえ、それが北へ消え去った。
信長は、尾張清洲へ帰った。
「信長が、ひそかに将軍に拝謁した」
という報《し》らせを、越前一乗谷の明智光秀が京の細川藤孝の手紙で知ったのは、北国の雪が解けようとしているころであった。
(尾張の信長が?)
従妹の濃姫の婿《むこ》だけに、光秀がつねにその名を意識の一隅《いちぐう》に入れている相手である。
(あの男にも、京に旗を樹《た》てる野望があるのか)
嘲笑《あざわら》って笑い捨てたい気持と、有能な競争相手に対する軽い嫉《しっ》妬《と》、
(あるいは道三殿が申したように、意外な器量の持ちぬしかもしれぬ)
というあらためて見直してみたい気持と、複雑にいりまじった感慨を味わった。
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