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国盗り物語89

时间: 2020-05-25    进入日语论坛
核心提示:浮沈 六角浪右衛門との兵法試合に勝ちはしたが光秀の人気はいっこうに騰《あが》らなかった。「食い詰め牢人《ろうにん》がふた
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浮沈

 六角浪右衛門との兵法試合に勝ちはしたが光秀の人気はいっこうに騰《あが》らなかった。
「食い詰め牢人《ろうにん》がふたり、楓《かえで》の馬場のすみで試合をし、一人が斃《たお》れ、一人が生きのこったそうな」
そんな程度の反響である。なんということであろう。
(これは意外な)
と、光秀も思わざるをえない。六角も光秀も命を賭《か》けて試合をしたのはおのが人気を得るがためだ。これでは死んだ六角でさえ浮かばれないではないか。
(六角もいい面《つら》の皮だ)
光秀は、あばら家のなかで思案にのめりこんでしまった。あれこれと理由を考えてみたのである。
まず。朝倉家は、越前の老大国である。なるほど五代前の朝倉敏景《としかげ》は近隣を切りとって覇府《はふ》を一乗谷に置き、家憲をさだめ、軍法、人材の登用法、武器の選択法、それに衣服、調度、放鷹《ほうよう》、猿楽《さるがく》などの日常の暮らしや娯楽にいたるまでの項目にわたって朝倉家の運営の基本方針をのこした。このころの朝倉家は、北国の太陽ともいうべき、かがやかしい存在だった。
それから五代経《た》っている。当主義景《よしかげ》は凡庸であり、重臣は偸安《とうあん》の暮らしに馴《な》れ、家臣団は安泰そのものの秩序のなかでねむっている。
(驚かぬのだ)
と、光秀はおもった。物に驚くという、若々しさと弾みにみちた精神をこの一乗谷の人々はうしなってしまっているのである。
(さればこそ、ふたりの牢人が兵法試合をして一方が勝ったということも、乞《こ》食《じき》の喧《けん》嘩《か》程度にしかみていないのであろう)
朝倉一乗谷という老朽した社会そのものの感受性が、老人のようににぶくなっている。こういう城下でいかにあがいてみたところで、
——一躍名をあげる。
という牢人の夢は遂げにくいであろう。
もっとも、光秀のかすかなる名声をききつたえて入門して来る者もある。
数人にすぎなかった。
それも、足軽かせいぜい足軽組頭、それに陪臣《ばいしん》といった雑人《ぞうにん》なみの連中ばかりで、このような門人を土台にして朝倉家に驥《き》足《そく》を伸ばすというようなことは一場の滑稽《こっけい》ばなしにすぎない。
かつ、かれらに刀術、槍術といった闘技を教えはしたが、光秀が真に教授したいと思っている戦略戦術の学問をかれらに教えるわけにはいかない。足軽に大将の軍略を教えたところで仕方がないではないか。
生活も、窮迫した。
なぜといえば、光秀はかれらから教授料《そくしゅう》をとらなかった。とればただの牢人師匠になりさがってしまう。ただでさえこの谷の尊大な人々は、光秀を、
——食い詰め者よ。
とみている。光秀は、かれの気位を維持するためにはたとえ餓死しようとも教授料はとれぬと覚悟していた。
それでも、なにがしかの米塩は、たれが持ってくるともなしに家に入る。それに、お槙《まき》が土岐一門の姫君あがりにしては工面が上手であったし、従弟の弥平次も、山に猟に行ったり川で魚介を獲《と》ったりして働くため、なんとか食いつないでゆくことはできた。
そこへ光秀が病気になった。
風邪がこじれたらしい。熱がとれず、食も細くなり、みるみる痩《や》せ衰えてしまった。肋《ろく》膜炎《まくえん》のようなものであったろう。
「それがしが代わって教授をつとめまするゆえ、ご安心して御療治くだされ」
と弥平次が甲斐々々《かいがい》しく言い、光秀に学んだ兵法や槍術を門人に教えたが、門人のほうでは、
——代稽古では。
という不満があって足が遠のき、ついに一人も来なくなった。
例の越前長崎、称念寺のそばに考庵《こうあん》という在郷《ざいごう》で知られた医者がいる。光秀とは多少の面識があり、わざわざ一乗谷に見舞にきてくれたが、その考庵が脈をとって、
「これはいかん。早々にそれがしの家の近所に引越されよ。薬代などは要りませぬゆえ、わが一心をもってなおしてみせまする」
と申し出てくれた。
光秀は一乗谷を去り、その郊外の長崎に移って称念寺の門前で小さな家を借りた。
(なんと運の悪《あ》しきことよ)
と思わざるをえない。
美濃を去ってから諸方を廻国修行し、足利家の若い幕僚である細川藤孝とも莫逆《ばくぎゃく》の契《ちぎ》りをむすび、たがいに幕府再興をはかろうとちかいあって彼は越前朝倉家にきた。義景を説得して京に兵を出させ、その軍事力と富力をもって義輝将軍を押したてて貰《もら》わんがためであった。
その野望たるや、平原の天にかかる虹《にじ》のように壮大華麗といっていい。が、現実は、朝倉家の家老にさえ近づき得ず、さらには一乗谷をさえ離れ、その草深い郊外で病熱と貧窮とに打ちひしがれている。
従弟の弥平次にしてもそうだ。光秀はつねづね弥平次に、
「わしが他日、大軍の采《さい》をとる身になったあかつきは、そちは家老筆頭になり、一城を守り、大領の鎮《ちん》撫《ぶ》もし、いざ合戦のときにはわしにかわって一軍の指揮もせねばならぬ。そのときになって器量不足をなげかぬよう、素養を積むことを怠ってはならぬぞ」
と言いきかせているのだが、現実の弥平次は、素養を積む《・・・・・》どころか、近郷の百姓にやとわれて行っては、畑打ちや草取り、縄《なわ》ないなどをして、わずかな玄米《くろごめ》をもらって帰ってくる。
お槙もそうである。
医師の考庵があるときお槙に耳打ちして、
「十兵衛殿の病いに効く薬は一つしかござりませぬ。申しかねるが、朝鮮人蔘《にんじん》でござる」
一匁《もんめ》が黄金一両という、とほうもない高貴薬である。
が、お槙は金を工面し、人蔘を買い、光秀にすすめた。光秀が病床から仰ぐと、お槙は寒念仏《かんねんぶつ》の尼がかぶるような白麻の炮烙《ほうろく》頭《ず》巾《きん》をかぶっている。
(髪を売ったのか)
と、光秀は気づき、この暮らしの悲惨さに慟哭《どうこく》したい思いがした。
(壮夫の貧はむしろ凜冽《りんれつ》としている。しかしその壮夫も妻をもち子をなし、その家族が貧に落ちるとき、もはや凜冽たる気は保てぬ。本当の貧が、志、気節をむしばみ、ついにただの貧夫になりさがってしまう)
とおもった。そういうとき、
(かならず他日、天下を取ってやる)
という思い以外に、この惨状のなかで自分の精神の毅《き》然《ぜん》とした姿勢をまもる手はなかった。光秀は、気持がみじめになればなるほど、そのことを想《おも》った。念仏僧が念仏をとなえ西方浄土の阿弥陀《あみだ》如来《にょらい》を欣《ごん》求《ぐ》する気持に似ている。弥陀の御名を唱えつづけるようにそのことに憧憬《あくが》れ、そのことを念じ、そのことを成《じょう》就《じゅ》できる道を考えつづけた。
一年で、病いは去った。
が、まだ病後の衰えが回復せず、本復とまではいかない。
そのとき、越前に戦雲がおこった。

越前の隣国は、加賀である。
加賀はもともと富《と》樫《がし》氏が守護大名で、二十三世五百年あまりもつづいてきていた。
富樫氏というのは、勧進帳《かんじんちょう》に出てくるあの富樫氏である。「平家物語」には富樫入道とあり、「義《ぎ》経《けい》記《き》」には、義経《よしつね》主従の道行をえがきつつ、
加賀の国の富樫と言ふ所も近くなり。富樫ノ介《すけ》と申すは、当国の大名なり。
とある。
その伝統のふるい加賀大名の家も、この物語の前編の主人公斎藤道三のうまれる数年前にほろび去っている。
ほろぼしたのは、宗教である。浄土真宗をとなえる本願寺の門徒が一《いっ》揆《き》をおこし、加賀の地侍と連合して富樫氏をほろぼした。
以後七十数年、加賀一国には統一大名がなく、地侍と本願寺僧侶《そうりょ》、門徒の三者合議によってなる一種の共和国家のようなかたちになっている。本願寺国家といってもいい。
この加賀本願寺国家も、つねに内部分裂や能登《のと》、越後、越前などとの交戦をくりかえして七十余年は決して安泰ではなかったが、とにかく後に信長の本願寺征伐まではこの「共和体制」はつづく。
「共和」といっても複雑なものだ。地侍がたがいに権力をのばそうとして国中がまとまりにくく、その間、さまざまな野心家が出ては消えている。
当節、加賀に、
坪坂《つぼざか》伯耆《ほうき》
という者がいる。
加賀の石川郡鶴《つる》来《ぎ》の地侍で、天才的な戦術家であり権謀家でもあり、にわかにこの「共和国」のなかで勢威をふるいはじめている。
売り出し中といっていい。
坪坂は、国内で権力をにぎるには野戦司令官として外征し、国外で勝つことによって国内での名声を確立しようとしているらしい。
「その坪坂伯耆が越前へ来襲する」
ときこえたのは、永禄《えいろく》五年の初秋で、しきりと間者を一乗谷付近に出没させていたが、いよいよ兵をひきいて国境付近を掠《かす》めはじめたのはこの年の九月であった。
「坪坂伯耆といえば智勇北陸道に冠絶した男だときいている。朝倉家はどうするか」
と、光秀は、称念寺門前の陋居《ろうきょ》にあって人のうわさをしきりと聞きあつめていた。
いよいよ出兵という。
言うほどに、朝倉義景は、家老朝倉土佐守に四千の兵をあたえ、みずからも一千の後詰《ごづ》めをひきい、加賀・越前の国境にちかい加賀大聖寺城《だいしょうじじょう》まで出陣して、そこに本陣をかまえた、という話をきいた。
「お槙、弥平次、秋《とき》はきたぞ」
光秀は弥平次にいそぎ旅支度をさせ、槍一筋、白扇一本をもって称念寺門前の陋居をぶらりと出た。
北へ。
大聖寺へゆく。
九《く》頭竜川《ずりゅうがわ》をわたると国境への道は、朝倉勢の荷駄《にだ》方《かた》の往来で混雑していた。
光秀は大聖寺に入ると、朝倉の本営付近に宿をとり、敵味方の様子を観望した。
敵の坪坂伯耆の人数は意外にすくなく、わずか千五百人だという。
朝倉勢は、五千である。
が、朝倉の陣中では敵の坪坂伯耆の作戦能力におびえ、士気があがらない。それに坪坂伯耆のひきいる加賀門徒兵は念仏信仰でこりかたまった決死の猛兵で、カブトの内側に南無阿弥陀仏の名号《みょうごう》を貼《は》り、
進めば極楽
退《ひ》けば地獄
という、宗祖親鸞《しんらん》も言った覚えのない奇妙な信仰をもっている。戦場で進む者のみが極楽で往生し、退却する者は地獄に堕《お》ちる、というこの時代の本願寺の出先僧侶が考案した非親鸞的な俗信であった。この信仰のもとに戦場を馳駆《ちく》するため、五千の朝倉兵は、少数の加賀兵に戦慄《せんりつ》し、前哨《ぜんしょう》戦ではことごとく破れていた。
(あすはどうやら決戦があるらしい)
という夜、光秀は弥平次をつれて最前線へ忍び入り、闇《やみ》にまぎれて敵陣に接近し、地に耳をつけて人馬のざわめきを聴いたり、前方の闇を見すかして異変を見わけようとしたりしていたが、やがて、
「坪坂はあすは朝《あさ》駈《が》けする、な」
と、つぶやいた。
やがて田畑や山林を横ぎって大聖寺にもどり、威儀をただして朝倉の本営を訪ねた。
軍営の門で朝倉の人数にとらえられたが、
「決して怪しい者ではござらぬ。美濃明智の出の者にて明智十兵衛光秀と申す者。朝倉土佐守殿に謁《えつ》を乞《こ》いたい。火急に申しあぐべきことがござる。御陣存亡の急に関することでござるぞ」
と、凜《りん》乎《こ》といった。兵は気押《けお》されて順をふんで朝倉土佐守まで取り次いだ。光秀は、陣中によばれた。
陣中を歩きながら、
(これはこのままでは朝倉の負けじゃ)
という確信を深めた。陣中が弛《ゆる》みにゆるんで、諸陣との連絡もわるく、どの陣幕の中、陣小屋のうちも、士卒が眠りほうけている。未明に坪坂伯耆に奇襲されれば、たちまちに混乱し、ひとたまりもないであろう。
朝倉の家老土佐守は、光秀を引見した。
縁の下にすわっている光秀を見て、
(わが屋敷の門前の小屋にて武芸、学問を教授しておった美濃牢人とはこの男か)
と、そのことをやっと思いだした。なんぞ申し立てたきことがあるのか——と土佐守は尊大にきいた。
光秀は沈《ちん》毅《き》な表情をつくって、
「御陣の危急がせまっておりまする」
明朝、陽《ひ》の昇るまでに坪坂伯耆は全軍をもって奇襲してくるであろう、と光秀は言い、相手の反応を見るためにしばらく沈黙した。
「加賀勢が朝駈けを?」
「左様」
「なぜそのようなことがわかる」
(馬鹿《ばか》な。兵学の初歩ではないか。それをも気づかずにのったり《・・・・》と眠りをむさぼろうというのは、どこまでこの家は阿《あ》呆《ほう》にできていることか)
敵は寡《か》兵《へい》である。すでに両軍は五里の間にまで接近している。敵が寡をもって衆を破ろうとすれば夜討か朝駈けしかないではないか。そのうち夜討のうごきは光秀が偵察《ていさつ》したところではまず無い。とすれば朝駈けである。坪坂伯耆が智将ならば当然やるであろう。
が、兵学というものは、右のような理をもって説けば有難《ありがた》味《み》がうすくなるものだ。とくに朝倉土佐守のような庸人《ようじん》に対しては、である。光秀はこういった。
「お疑いとあらば、高楼におのぼりくださりまするように」
といった。
土佐守は、手まわりの人数をつれて櫓《やぐら》の上にのぼり、敵陣の方角を遠望した。
闇である。
星がわずかに見えるほか、何もみえない。
「これなる方角が」
と、光秀は漠々《ばくばく》たる闇の一角を指さした。
「加賀の陣でござる。その御《み》幸塚《ゆきづか》の東の天に月の暈《かさ》のごとき茫《ぼう》っとしたる赤《せっ》気《き》が立っているのがみえませぬか。見えましょう」
「見えぬ」
「凡眼では見えませぬ」
とは、光秀はいわない。兵書によれば敵陣に赤気が立つときは朝駈けの兆《きざし》、という旨《むね》をつつましく言い、
「なおなおお見つめくだされ。御覧になれるはずでござりまする」
土佐守は、なおも見つめているうちに光秀がかけた暗示のせいか、なにやら赤い気がたちのぼっているようにもみえる。
「見えた」
「されば御用意をなされませ」
備えをして悪かろうはずがない。土佐守はすぐ陣に触れを出したあと、光秀に、
「もし的中したとき、恩賞には何を望む」
といった。
光秀はなにも望まぬ、といった。
「ただ、御陣のはしをお借り申して合戦をつかまつりたい」
とのべた。牢人が、合戦のあるときに、一方の将に頼み入って「陣借り」をし、功名のしだいでは取り立てを受ける、というのはこの道の常道である。
土佐守は、ゆるした。
 果然、丑《うし》ノ下《げ》刻《こく》をすぎたころ、朝倉陣のまわりの草木がにわかに人と化して坪坂伯耆が奇襲してきた。
奇襲部隊は指物《さしもの》もつけず、たいまつ《・・・・》ももたず、具足の上に白い紙の肩衣《かたぎぬ》をつけて味方の目印とし、しきりと合言葉を呼びかわしながらやってきたが、すでに朝倉軍は数段の構えをしてこれを待ちうけていたため難なく撃退し、陽がのぼるとともに、はげしく追撃して敵に殲滅《せんめつ》的な打撃をあたえた。
光秀の功といっていい。
こうなれば朝倉土佐守といった田舎大名の家老などの場合、無邪気なほどの傾倒を示しはじめるものだ。
「ぜひ、推挙したい」
と言い、光秀を一乗谷につれて行って、わが屋敷に泊まらせ、数日して義景に拝謁《はいえつ》させた。
義景は光秀の都びた物腰や相貌《そうぼう》をひと目みて気に入り、当家に仕えぬかといった。禄《ろく》、わずか二百石である。
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