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国盗り物語87

时间: 2020-05-25    进入日语论坛
核心提示:一乗谷《いちじょうだに》 光秀は、真夏の山風に袂《たもと》をふくらませつつ越前一乗谷にむかって歩いていた。(今川義元は田
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一乗谷《いちじょうだに》

 光秀は、真夏の山風に袂《たもと》をふくらませつつ越前一乗谷にむかって歩いていた。
(今川義元は田楽狭《でんがくはざ》間《ま》で落命した。東海の政情はがらりとかわった。おれの構想も修正をくわえねばならぬであろうが、とりあえず越前一乗谷へゆこう。後《こう》図《と》を考えるのはそれからだ)
一乗谷。
越前の覇《は》王《おう》朝倉氏の都府である。北陸の雄都といってよく、光秀の希望もまたそこでひらけるであろう。
敦賀《つるが》から東は、七里ばかりのあいだ、えんえんと山坂がつづく。一条の小《こ》径《みち》が樹海のなかを縫ってつづき、その樹海に陽光があふれ、手足まで青く染まるような緑の氾濫《はんらん》のなかを歩きながら、
(来る年も来る年もこのように歩きつづけていて、ついにおれはどうなるのだろうか)
と、ふと空《むな》しさをおぼえぬこともない。人の一生というのは、ときに襲ってくるそういう虚無とのたたかいといってもいい。
木《き》ノ芽峠《めとうげ》にさしかかると、一人の旅商人と道連れになった。いかにも旅なれた中年の男で一乗谷の者だという。
「わしも一乗谷へゆくのだ」
光秀は、自分の姓名と生国《しょうごく》とをいった。相手の商人が一乗谷の者だというので、これから乗りこむべき都府の様子をきいておくのもわるくはない、とおもったのである。
「一乗谷とは、にぎやかか」
「そりゃもう、朝倉様五世百年のお城下でございますからな。御城塁《ごじょうるい》、社寺、お武家屋敷、町家、鍛冶場《かじば》などがびっしりと、谷にひしめきまして京のにぎわいに劣りませぬ」
「谷間にある町か」
それが光秀にもおもしろい。
一里ばかりの細ながい谷で、その谷にただ一本だけの公道がついている。その公道の左右に町がながながと伸びており、防衛としては、公道の前後をおさえるだけで町は難攻不落のものとなる。
(そんな地形のところをえらんで都府を築いた例は唐土《から》にもない。本朝にもない。はじめて一乗谷をひらいた朝倉氏の中興の祖敏景《としかげ》とは天才的な人物だったのであろう)
朝倉氏の祖は、むかしは但馬《たじま》にいたようである。足利尊氏《たかうじ》の天下統一事業に参加して武功があり、越前の守護代になった。のち守護職斯波《しば》氏にかわって守護職になったのが一乗谷に都城をひらいた朝倉敏景である。
「敏景様は、御当代より五世前のお方でござりまするが、神のような智謀のもちぬしでありましたそうな」
「そうときいている」
敏景は人心収攬《しゅうらん》にもっとも才があったらしく、越前の言いつたえでは、「一粒の豆を得ても掌《たなごころ》を連ねて士とともにこれを食い、一樽《いっそん》の酒を受けても流れを濺《そそ》いで卒とひとしくこれを飲んだ」といわれている。
敏景が書きのこした家憲というのは、のちの朝倉家繁栄のもとになった、といわれているもので、光秀もそれを知っていた。
「宿老制をとらない」
というものである。門閥血統によって重職につかしめず、すべて実力によって要職を任用せよ、というものであった。
これは門閥主義の足利時代にあっては信じがたいほどにめずらしい組織思想で、この体制あるがために戦国期に突入してからも朝倉家は天下の風雲に堪えてこられた、と光秀は思っている。とくに天下放浪の士である光秀にとっては、この体制は魅力にみちたもので、
(おれのような放浪の士でも、朝倉家をたよればあるいは重用されるかもしれない)
と思っていた。人材を愛するという風聞をきいておればこそ、かれの足は北方の覇府《はふ》にむかっているのである。
だけではなく、越前は京に近い。軍事力は強大である。流亡の将軍をたすけて幕府を再興せしめる可能性は、ゆたかに満ちあふれているであろう。
ただひとつ欠点はある。
当主義景《よしかげ》という人物が、先祖の敏景に似気《にげ》もなく凡庸だということであった。これはあるいは致命的な欠陥であるかもしれない。
「御当主義景殿はどうだ」
と光秀が水をむけると、旅の商人はさすがに批評をつつしんで無言でいたが、やがて、
「宗滴《そうてき》様はお偉うございましたな」
と、別人のことをいった。宗滴とは朝倉氏の一族で名を朝倉教景《のりかげ》と言い、当主義景の補佐官として軍事に政治に大いに活躍し、朝倉氏の勢威を、むしろ敏景時代以上にあげた人物であった。
「ところが惜しくも先年、お亡《な》くなりあそばしましてな。弘《こう》治《じ》元年九月でありましたか」
道三が死んだ前年である。まだほどもない過去であった。
「それよりは御家は振いませぬ」
商人は物やわらかくそう言ったが、実際は振わぬどころか、宗滴なきあとの朝倉家は、本尊のない大《だい》伽《が》藍《らん》にひとしい、とまで京都あたりでは酷評されている。当主義景はよほど無能なのであろう。
(なんの、おれを亡き宗滴の位置につかせてくれるならば、朝倉の勢威はりゅうりゅうたるものになり、ついに近隣を合併しつつ京にのぼり、将軍を擁して天下に号令できるようになるであろう)
義景が無能でもいい。いやむしろ無能なほうが、光秀の才が縦横無尽にふるえていい、とこの男はおもっていた。

一乗谷そのものには知る辺《べ》がなかったが、そこから二十キロ北方に長崎(現丸岡町)という部落があり、そこに称念寺という時宗《じしゅう》の大寺がある。
そこに光秀は、いったん草鞋《わらじ》をぬいだ。この寺は京で知りあいになった禅道という僧が紹介してくれたもので、その紹介状に、
「明智十兵衛、美濃の貴種なり」
という言葉があったため、称念寺でも粗略にはあつかわなかった。
称念寺の住持は、一念という。一念は一乗谷の高級官僚のあいだに知人も多く、当主義景にもしばしばまねかれてお咄《はなし》の座に侍している。
「越前での御希望はなんでござろう。お力になれるならば、なってさしあげたい」
と、対面そうそう、光秀のよき後ろ楯《だて》になることを約してくれた。一念はおそらく、光秀のもっている貴族的な風�《ふうぼう》、作法にかなったふるまい、それに卓抜した教養に惚《ほ》れこんだものであろう。
「御仕官がおのぞみでござるのなら、橋渡しもつかまつろう」
「左様さな」
まさか、空席になっている宗滴のあとがまにすわりたい、とはいえない。
「かようなことを申しては、一介の素《す》牢人《ろうにん》がなにをほざくとお笑いでありましょうが、しばらく一乗谷城下に住み、朝倉家の人士ともつきあい、御当家の情勢も見、はたして光秀が生涯《しょうがい》を託することができる家かどうかをトクと見さだめてから、身のふりかたをきめとうござる」
正直な本音である。
「ああ、士は左様になくてはならぬ」
と、一念は、光秀がいささかもおのれを安く見ない点に感動し、いよいよ光秀という器量を大きく評価した。
「さればさしあたって、一乗谷城下で文武教授の道場をひらきたい」
「道場」
一念は手をうった。
「これはよいことを思いつかれた。左様なものが一乗谷にはござらぬのじゃ」
諸国にもない。武士は大半が文字を習わぬが、習う者もせいぜい寺の僧について習学する程度で、その方面の専門施設というものはない。まして「武」のほうもそうである。兵《ひょう》法者《ほうしゃ》を自邸によぶか、その師の自宅に押しかけて技をまなぶというのが普通であった。
「教授する内容は」
と、光秀はいった。
「兵法、槍術《そうじゅつ》、火術(鉄砲)、それに儒学一通り、唐《とう》土《ど》の軍書」
「ほほう」
一念はついに顔をふりたてて感嘆してしまった。これほど絢爛《けんらん》多彩な各分野にわたって一人で教授できる人物もまずないし、第一、これほど広範囲な種目を一堂で教えてくれる私立学校は天下ひろしといえどもないであろう。
「これはきっと繁昌《はんじょう》いたしまするぞ」
「繁昌させてみたいものです」
「いや、わしが吹聴《ふいちょう》する。どこか一乗谷で屋敷の一角なりとも借らねばなるまいが、それも拙僧が奔走いたしましょう」
「なにぶんとも」
と、光秀は頭をさげた。
そのあとよもやまの話をし、一念は、光秀が幕府の再興の志に燃えていることを知って、いよいよ感動し、
「御当代の将軍家とはどのようなお方でござる」
と、無邪気な質問をした。
「つまり、義輝将軍は」
実のところ、光秀は、無官であるがために拝謁《はいえつ》したことがない。しかし将軍近習の細川藤孝を通じて堪能《たんのう》するくらい聞かされているから、まるで京でいつも将軍と膝《ひざ》をつきあわせて暮らしているような、はなしかたをした。これには一念はまたまた感心し、光秀に対する評価をいよいよ大きくした。
(気の毒だが、やむをえぬ)
光秀には多少のうしろめたさがある。しかし天下放浪の孤客が、他郷で人とのつながりを求めるとき、この程度の法螺《ほら》はやむをえないことであろうとわが心を励まし、いかにもつつしみ深そうな口調で、義輝将軍の御日常を話した。
「兵法者上泉伊勢守《かみいずみいせのかみ》の門人塚原卜伝《ぼくでん》という者について兵法をまなび、印《いん》可《か》までお受けなされたお腕前でござる」
「兵法を!」
一念は驚いた。よく驚く男である。
「将軍家が兵法などという歩卒の芸を。——もはやそれほどまでにおちぶれなされておりまするか」
と、一念は噴《ふ》きだすように涙をあふれさせた。兵法などという個人の芸は、まだまだ名のある武士から卑《いや》しまれている現状だが、人もあろうに将軍家がそれを学ぶとはどういうことであろう。将軍の暮らしが窮迫して庶人に近くなっているという印象のようにもうけとれて、一念はにわかに涙をながしたのである。
「それもありましょう」
光秀は、一念をもてあました。
「ひとつにはお好みにもよるかもしれませぬ。しかし最も大きな理由は、将軍家にはお手勢というものはなく、ご身辺をお護《まも》りするのは近習数人という状態であるため、ついつい護身のために兵法修行をなさるお気持になられたのでありましょう。しかしながら印可をお受けあそばすほどのお腕といえば、これは容易ならぬ」
「左様、容易ならぬ」
お腕だ、と一念はうなずくのである。
いずれにせよ、一念はあす、光秀の一乗谷居住のための下準備に出かけよう、と言い、
「これはよいお人が越前に来られたものよ。先刻からのお話を、あす一乗谷でふり撒《ま》くだけでも人々によろこばれましょう」
と、ほくほくと笑った。
 翌日、一念は一乗谷にゆき、この町で、
「土佐様」
とよばれている武士に会い、称念寺に舞いこんできた明智光秀という牢人のことを大いに吹聴した。土佐様とは、朝倉の家老で朝倉土佐守という人物である。
が、土佐守は、一念が昂奮《こうふん》するほどには驚かず、
「左様な有芸な者であれば、屋敷の小屋を一つ提供するゆえ、それにて足軽などに兵法でも授けてもらえればありがたい」
というのみであった。
数日して光秀は土佐守家に入り、その執事に会い、邸外の小屋を一つ貰《もら》った。
(なんだ)
と失望したが、この種の冷遇には馴《な》れてきている。せめて土佐守に拝謁できればとおもい、その旨《むね》を執事に申し出ると、
「正気か」
という顔を執事はした。土佐守といえば朝倉王国の家老である。流浪の芸者に会うような身分の人物ではない。
「いずれ、機《おり》をみて申しあげておく」
と、執事はつめたくいった。
光秀は小屋で暮らすようになった。小屋といえばまったくの牛小屋同然のもので、床《ゆか》さえなく、五坪ほどの土間があるだけである。
光秀は、百姓家に行ってわらを貰って来、それを一隅《いちぐう》に積みあげて寝具とした。かつては明智城の城主の子であり、美濃の村落貴族として裕福な暮らしをしていた昔をおもえばなんという落ちぶれようであろう。とりあえず、
「諸芸教授所」
という看板をかかげ、入門を志願してくる者を待った。が、その日の糧《かて》が手に入らない。それについては、称念寺に足を運んでは一念から銭を借りた。
それが度《たび》かさなるにつれて、称念寺の一念も、だんだん光秀に昂奮しなくなってきた。
むしろ、
(将軍家の御側衆《おそばしゅう》のように申しておるが、こうも貧乏とはどういうことであろう)
食わせ者ではないか、とまでは思わなかったが、借銭が重なるにつれ軽侮するようになってきた。あるとき、何度目かに小銭を借りにきた光秀に、
「十兵衛殿、まだ門人が来ぬか」
と、一念はいった。言葉までぞんざいになっている。
「いや、参らぬな」
「それではこまる」
「だが、来ぬもの仕方がない」
光秀は、借銭がかさなるにつれていよいよ高くおのれを持した。
(ここが瀬戸ぎわだ)

と、光秀は思っている。旅から旅へあるいて苦労をかさねてきたこの男は、こういう場合のおのれの処し方を心得ていた。この瀬戸ぎわで卑屈になれば、ただの乞《こ》食《じき》とかわらなくなるのであろう。
「こういう噂《うわさ》をきいた」
と、一念はいった。
一乗谷の城下に、武田家の牢人で六角浪《ろっかくなみ》右《え》衛門《 もん》という牢人が早くから流れてきている。
これが家士某の家に寄食しつつ、家中の士に兵法を教授していた。兵法の流儀は、常州鹿《か》島《しま》明神の松本備前守《びぜんのかみ》から学んだと称し、その精妙さは城下でおよぶ者はない。
「その浪右衛門が、しきりと悪声を放って十兵衛殿のもとに門人がゆこうとするのをさまたげているらしい」
「なるほど」
光秀も、そういう噂は聞き及んでいた。
もともと兵法者の社会は偏狭なもので、一つ城下に二人の剣客は双《なら》び立たぬ、といわれている。光秀が一乗谷で師範の門を張ろうとすれば、まず六角浪右衛門を試合でもって打ち倒すほか道はないであろう。
「試合われればどうか」
「それは愚かじゃ」
光秀は、しずかに笑った。
「なぜであろう」
「剣の試合など、根っからの優劣で勝負がつくのではなく、勝負はまぐれが多い。たとえそれがしが技倆《ぎりょう》まさると言っても、その場の運と呼吸一つで負けになるかもしれぬ。この命を、たかが剣技で落したくはない」
「思いもよらぬことを言われる。さればお手前は門人を取り立てぬおつもりか。門人を取り立てねば、さきざきまで当山にご無心にお出《い》でなさらねばならなくなる」
迷惑だ、といわんばかりの不機《ふき》嫌《げん》さで一念はいった。
光秀は、一乗谷に戻《もど》った。
一乗谷に戻った翌日のことである。朝、小屋のなかで煮物をしていると、戸を叩《たた》く者がある。
(入門の願い人か)
と期待しつつ戸をあけると、すね《・・》が三尺ほどもありそうな大兵《だいひょう》の男が立っていた。
「わしは六角浪右衛門」
薄ら笑いをうかべている。
「お手前は、明智十兵衛殿であるな」
「いかにも」
「当御城下で兵法を教授なさるという噂をきいたが、さきに当地にきて門を張っている拙者のもとには、待てども待てどもなんの御《ご》挨《あい》拶《さつ》もない。とうとう待ちかねて拙者のほうからまかり越した。一手、御教授ねがえるか」
「御教授とは?」
「立ちあって頂こうということよ」
試合の申し入れである。
光秀は、内心こまったと思ったが、すぐ笑顔になり、ゆっくりとうなずいた。
「おのぞみのとおりにしよう」
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