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国盗り物語90

时间: 2020-05-25    进入日语论坛
核心提示:美濃攻略 さて尾張の信長のことである。 弘治二年四月二十日、舅《しゅうと》の道三が死んでからすでに五年経《た》っている。
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美濃攻略

 さて尾張の信長のことである。
 弘治二年四月二十日、舅《しゅうと》の道三が死んでからすでに五年経《た》っている。
その間、信長は何度か、
——舅の弔合戦《とむらいがっせん》をする。
と呼号していながら、木曾川むこうの強国「美濃」を攻めとることができなかった。
道三を謀殺した美濃の斎藤義竜が、意外なほど有能な統治者であることが、信長の野望をくじけさせつつあったといっていい。信長はこの五年のあいだ、ときに美濃領へ手を出したことがあるが、そのつど、義竜の巧妙な指揮と武強をもって知られる美濃衆のために撃退された。自然、信長のかかげている「舅の弔合戦」という旗はいたずらに歳月に古びはじめている。
ある日、信長は濃姫の部屋でごろ寝をしながら、
「おれは道三にだまされたのかもしれぬな」
といった。
「そうだろう、お濃。道三殿はかねがねわが義子《こ》の義竜のことを大男の薄のろ《・・》とののしっておった」
そのとおりだった。義竜は背が六尺五寸、体重が三十貫ある。常人ではない。
——ばけものめ。
と、道三は平素、義竜の名をよばずそんなぐあいに蔭口《かげぐち》を言い、事ごとにあほう《・・・》あつかいにしていた。
その義竜が、内実はともかく世間的には父であるはずの道三をほろぼして美濃の統治権をにぎってからというものは、どうみてもあ《・》ほう《・・》ではない。
国はよくおさまっている。美濃衆も、土岐家の血を受けている義竜に心服し、敬愛しきっている様子だった。
その上、兵は強く国は富んでいる。隣国の信長としてはつけ入るすきがなかった。
「どうやら蝮《まむし》のとんだ鑑定《めきき》ちがいであったようだ」
「そうでしょうか」
と、濃姫は是とも非ともいわない。美濃斎藤家は彼女の実家であり、当主の義竜は父をほろぼしたとはいえ、彼女はあの六尺五寸殿を真実の兄とおもって成長したのである。どちらかといえば彼女は、大男で人が好くて笑顔に愛嬌《あいきょう》のあるあの「兄」が好きであった。
信長は、濃姫に、義竜のことをこまごまときいた。そのいずれもが、「お庭でわらびをとってくれた」とか、「京塗りの小箱をくれた」とかいったたぐいの他愛ない話《わ》柄《へい》ばかりであったが、そのいずれもが、義竜のもっている人間味を知る上での好材料といえなくはない。そういう男なればこそ、美濃衆もかれに心服しているのであろう。
またあるとき。——
信長は、濃姫にこうきいた。
「義竜の娘で馬場殿と申される女《ひと》、国中でも評判の容姿であるそうな。そなたもきいているか」
「はい、左様に」
「そうか、聞いているか。さればそのむすめにわしの子をうませたいとふと思案したが、この思案、お濃はどう思う」
と、とほうもないことを信長はいった。まじめな顔つきである。
濃姫には、子がうまれない。子を得ねばならぬ必要上、ちかごろ信長は数人の女に手をつけ、何人かの子を生ませている。
濃姫は、答えなかった。
が、信長は濃姫の返答如何《いかん》にかかわらず、この「妙案」に熱中した。すぐ使者を美濃の稲葉山城にやり、義竜にこの旨《むね》を言わせた。
義竜にとって、物心ついてからこれほど不快な目にあわされたことはないであろう。
「尾張の小せがれが何をいう」
と、髯《ひげ》をふるわせて怒った。
「気でもくるったか。おれの家は美濃の守護職土岐家の嫡流《ちゃくりゅう》だ。信長の家は、もとをただせば尾張守護職斯波《しば》家の家来のさらに家来の家柄《いえがら》である。正妻として欲しいという望みでも高望みでありすぎるのに、妾《めかけ》とは何事だ」
と言い、使者を追いかえしてしまった。
使者が帰ってきてこの旨を信長に復命すると、信長も表面上は義竜の無礼な言いざまに腹を立てたふりをしたが、内心、
(六尺五寸も、やはりあほう《・・・》でないらしい)
と、感心した。信長の真意は、ひとつは面《おも》白《しろ》半分、ひとつは斎藤義竜という男の器量をはかってみたかったのであろう。
そのあと、
「お濃、妾の一件は不調であったぞよ。六尺五寸めはえらく腹を立ておったらしい」
と言うと、濃姫はさすがに眉《まゆ》をひらき、うれしそうに、
「まあ左様でございましたか。殿様にはお気の毒さまなことでございましたこと」
と言いおわったあと、ことさらに気の毒な顔をつくった。
(このひとは、何を考えているのか)
正直なところ、濃姫にも信長の腹の底がつかめぬことが多い。
こんな話もある。ある時期、信長は夜なかになると奥をぬけ出て本丸の最上の階にのぼり、窓から美濃の方角を見ている。それが夜ごとの習慣のようになった。
濃姫は不審におもい、ある日、
「殿様は夜になると美濃の方角をご覧あそばしていらっしゃるようでございますが、なにかあるのでございますか」
「火を見ているのだ」
信長は、無造作にいった。
「火を?」
「じつは美濃の宿老の者が、ひそかに義竜の前途を見かぎり、わしのほうに慇懃《いんぎん》を通じてきている。わしはその者に、もしその志がまことならば稲葉山城に火を放て、と申してやった。その火が、きょうあがるか、あすあがるか、と思って見ているのよ」
信長は、必要以上に癇高《かんだか》い声でいった。
濃姫付の侍女には、美濃から来ている者が多い。当然なことながら、尾張の情勢をなんらかの手段で美濃へ報《し》らせ送っている。
この者たちの耳にわざときこえるように信長はそんなうそをついたのである。
それが美濃に流れ、義竜の耳に入った。義竜は自然、重臣のたれかれを猜《さい》疑《ぎ》の目で見ざるをえなくなった。
が、美濃はそうたやすく崩れない。

意外なことで、崩れ初《そ》めた。
信長が、堺・京の視察からひそかにもどってきて、四カ月目のことである。
義竜が死んだ、という。
「まことか」
謀略家の信長自身、はじめはなかなか信ぜられなかった。
(おれを美濃におびきよせる策略ではあるまいか)
と疑った。なにしろついさきごろ、旅さきの京で信長は義竜の刺客に出くわしている。それほどまでして信長を討ち殺そうとしていた義竜が、自身はやばやと地上から消滅するとはどういうことであろう。
「真偽をさぐってこい」
と、信長は諜者《ちょうじゃ》を発したり、その他幾通りもの方面からの情報を得ようとした。その結果、事実だということがわかった。永禄《えいろく》四年五月十一日、義竜は稲葉山城内で急逝《きゅうせい》した。年三十五。
「かの持病で死んだか」
信長は、報告者にきいた。義竜には難治の持病があった。
「いいえ、卒中とのことでござりまする」
と、報告者は辞世まで写しとってきて信長にみせた。
三十余年
人天を守護す
刹《せつ》那《な》の一句
仏祖不伝
という禅臭い偈《げ》である。義竜は生前禅にこ《・》って別伝和尚《おしょう》という禅僧に帰依《きえ》していたからそういう辞世をつくったのであろう。禅にはなんの興味ももたぬ信長には、この文句の意味などわからない。
わかろうともしなかった。信長に鮮明にわかったことは、
(おれの前途が展《ひら》けた)
ということであった。
「喜太郎は馬鹿だ」
と、信長は、義竜の後継者のことをそのように評価していた。喜太郎、名は竜興《たつおき》、十四歳である。
義竜が死んだのは十一日、信長が確報を得たのはその翌日の十二日。
義竜の死の翌々日の十三日には、信長はにわかに甲冑《かっちゅう》に身をかため、出陣の陣貝《かい》を吹き鳴らさせ、清洲城の城門をとびだした。
(この機に美濃を討つ)
という性根であった。隣国の不幸ほど、当国にとっての幸福はない。美濃一国は悲しんでいようし土岐家の老臣たちも度をうしなっていよう。葬儀の支度でいそがしくもあるにちがいない。それが信長のつけめだった。信長は悪魔のような機敏さで行動した。
信長は国境の墨股《すのまた》付近に六千の兵を集結し、どっと西美濃へ押しだした。
付近の美濃衆の頭目である日比野《ひびの》下野守《しもつけのかみ》、長井甲《か》斐守《いのかみ》らは、信長の不意の来襲を稲葉山城に急報する一方、西美濃の村々へ陣貝を吹きならして屯集《とんしゅう》をもとめたが、怒《ど》濤《とう》のような織田軍の侵略に抗しきれず、いずれも首を織田方にあたえてしまった。
稲葉山城では宿老があつまっていそぎ軍団を編成し、一万をもって押し出してきたため信長はあっさり陣をひきはらって尾張へかえった。
美濃侍はつよい。その上、戦さ上手で知られている。同数以下の尾張勢の力ではとても歯が立たないことを信長は知りぬいていた。父の信秀の代から美濃・尾張の対戦で尾張勢が勝ったためしはほとんどなかった。
尾張にひきあげてから信長は、美濃衆への切りくずし工作を十分にしたあと、
「こんどこそ。——」
と、七月二十一日、一万の大軍を動員し、国境の木曾川に押し出し、川を人馬で埋めつつ美濃平野に侵入した。美濃に入るや、非常な勢いで稲葉山城下にせまった。
このときも、信長は惨敗《ざんぱい》している。
信長は木曾川を河田渡《こうだのわた》しから渡りおわるとすぐ柴田勝家を先鋒《せんぽう》大将として第一陣をひきいさせ、第二陣は池田信輝《のぶてる》、第三陣は丹羽長秀、みずからは第四陣をひきい、烈日の下を進撃させた。この渡河点から稲葉山城まではわずか十二、三キロしかなく、猛攻すれば一挙に稲葉山城下に攻め入れるであろう。
防戦に出た美濃軍は意外にも弱く、いたるところで破れた。それを追尾しつつ織田軍は揉《も》みにもんで進んでゆく。
(あらそえぬものだ。義竜の死後、美濃兵はこうも弱くなったか)
信長も内心おどろいた。美濃軍のにわかな弱さには十分の理由と解釈がつく。義竜の死、というその理由と解釈に信長はみずからまどわされた、判断力が曇った、といっていい。
信長はのちに戦略戦術の天才といわれたが、この当時まだ満二十七歳でしかない。いままでの経験といえば多くは国内の小《こ》競《ぜり》合《あ》いばかりで、わずかに奇襲戦をもって今川義元を屠《ほふ》った桶狭間(田楽狭間)の一戦だけが、かれの唯一《ゆいいつ》といっていい大軍団との衝突の経験であった。
(その桶狭間でおれは勝った)
という自信が信長にある。その自信が信長をしゃにむに《・・・・・》前進させた。
余談だが、戦術家としての信長の特色は、その驚嘆すべき速力にあった。必要な時期と場所に最大の人数を迅速《じんそく》に集結させ、快速をもって攻め、戦勢不利とみればあっというまにひきあげてしまう。その戦法はナポレオンに似ている。
手のこんだ、巧《こう》緻《ち》で変幻きわまりない型の戦術家ではない。その種の工芸的なまでの戦術家の型は、多くは甲州、信州、美濃北部といった地形の複雑な地方に多く輩出している。武田信玄、真田昌幸《まさゆき》、同幸村、竹中重治《しげはる》といった例がそうであろう。
信長は、一望鏡のように平坦《へいたん》な尾張平野で成長し、その平野での戦闘経験によって自分をつくりあげている。尾張は道路網が発展しているため兵力の機動にはうってつけだが、一面、地形が単純なため、ここで育った信長は山河や地形地物を利用する小味な戦術思想に欠けている。
美濃の地勢はその点、小味で陰性な戦術家を多くそだてている。
陽気《・・》な尾張の平野人たちは勢いに乗って猛進した。
ついに稲葉山城が目の前にせまっている長森まできたとき、天地が逆転したかとおもわれるほどの異変がおきた。
まわりの森、藪《やぶ》、土手、部落からおびただしい数の美濃兵が湧《わ》き出てきて、信長軍の両側を突き、かつ退路を遮断《しゃだん》し、さらにいままで退却をつづけていた美濃軍が、いっせいに旋回して織田軍の先鋒を突きくずしはじめたのである。
美濃風の戦鼓、陣鉦《じんがね》、陣貝が天地に満ち、織田軍は完全に包囲された。
(いかん)
とおもったときは信長は馬を尾張にむけさせ、戦場からの脱出をはかったが、美濃軍のなかでも猛将で知られる日根野備中守《ひねのびっちゅうのかみ》兄弟が信長の旗本をめがけて火の出るように攻め立ててくるため動きがとれない。
織田方の崩れを見て、稲葉山城から美濃軍の主力がどっと攻めかかり、織田軍を分断しつつ包囲殲滅《せんめつ》にとりかかった。
信長は身一つで血路をひらき、やっと尾張に逃げ落ちたが、対岸の美濃では羅《ら》刹《せつ》に追われる地獄の亡者《もうじゃ》のように織田兵が逃げまどって惨澹《さんたん》たる戦況になっている。
やがて陽《ひ》が落ち、暮色が濃くなるにつれて織田兵は救われた。闇《やみ》にまぎれてかれらは南へと退《ひ》きはじめた。
夜が、退却軍を救っただけではない。織田軍の一将校が、かねて野伏《のぶせり》の群れを稲葉山の峰つづきである瑞竜寺山《ずいりゅうじやま》の山麓《さんろく》に伏せさせておいた。かれらがかねての手はずどおり、山麓でおびただしく松明《たいまつ》を焚《た》き動かしたため、城を空けて野を駈《か》けまわっている美濃軍が、
「さては本城に織田方の別働隊がとりついたか」
と錯覚し、いそぎ包囲陣を解いて稲葉山にひきあげたため、織田軍はあやうく虎《こ》口《こう》を脱することができた。
この松明の虚陣を張らせて全軍を潰滅《かいめつ》から救った織田方の一将校というのは、この日一隊を率いて殿軍《しんがり》にいた木下藤吉郎秀吉であった。
さらに、信長を危地におとし入れた美濃軍の巧妙きわまるこの戦術は、
「十面埋伏《じゅうめんまいふく》の陣」
と、いわれるもので、その立案者——だと尾張方面に伝聞された人物は満十七歳の若者でしかない。
若者は美濃不《ふ》破郡《わのこおり》にある菩《ぼ》提山城《だいさんじょう》の城主で、竹中半兵衛重治といった。のちに半兵衛は織田家にまねかれ、秀吉の参謀となり、諸方の作戦に参画し、天正七年、播州《ばんしゅう》三木城攻めの陣中で病死する。いずれにせよ信長はこの合戦で、敵の半兵衛、味方の藤吉郎によって、智謀智略というものの価値の高さを知ったのであろう。
一方、明智十兵衛光秀はこれらのうわさを越前の一乗谷で聞き、
「さても信長とは働き者であることよ」
と、従弟の弥平次をつかまえて感心した。光秀にすれば、敗れても敗れても「美濃」という富強の土地に武者ぶりついてゆく信長のぶきみなほどのしぶとさにあきれるおもいもし、同時に、
(あの執念ならついには美濃を併呑《へいどん》するのではあるまいか)
とおもいもした。信長はすでにこの年五月に三河の徳川家康と同盟して東方の脅威を去っている。北方の美濃攻略に専念できるはずであった。
(もし美濃をとれば、天下を望むこともできるのではないか)
朝倉家に身を寄せている光秀としては、信長の成長は決してうれしい話題ではない。
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