光秀の野望は、一つである。
「幕府を中興せねばならぬ」
ということのみであった。京で虚位を擁するにすぎぬ足利将軍家に天下の権をとりもどさせ、むかしどおりの武家の頭領としての威信を回復し、諸国の兵馬を統一し、それによって戦乱をおのが手におさめてみたい。
そういうことである。
(たかが、一介の匹《ひっ》夫《ぷ》の身で)
と、この光秀の野望のとほうもない大きさにお槙《まき》や弥平次でさえ、光秀のあたまを疑わしく思うことがある。
が、光秀とは妙な男だ。この男が、越前一乗谷の家の一隅《いちぐう》で荘重にこのことを語りだすと、聴いているお槙も弥平次も、自然と気持が高揚してきて心気おどり、眼前に極彩色の泰平の絵巻があらわれ出るような錯覚にとらわれるのである。
光秀、朝倉家で二百石。
かれが、独力をもって地上で得た最初の収入であった。
ところがその二百石の身代も、天下を志すかれにとっては大したよろこびではないらしい。
げんに朝倉家の家老朝倉土佐守にともなわれてはじめて義景に拝謁《はいえつ》したときも、
「思うところがござれば、御当家の客分にして頂きとうござりまする」
と言い、二百石の知行を辞退した。光秀の希望は、二百石の身分だけはもらい、知行地は要らない。家族が衣食できるだけのものを御《お》蔵米《くらまい》から受けとらせていただく。そのかわり進退の自由な客分にして頂ければ。
というものであった。
越前の王朝倉義景は、よほど凡庸な男であるらしい。こういう光秀の申し出について、
「なぜ左様なことを申す」
と疑問を投げるべきであった。下問してやれば光秀はここぞとばかりに「幕府中興の素志がござれば」と、答えたであろう。が、義景はなにもたずねず、
「それでよいのか」
と、格は二百石、客分とし、家老土佐守の預りとするなど、拍子ぬけするほど簡単に光秀の希望を容《い》れてしまった。
(ばかな屋形だ、なぜ理由をたずねぬかよ)
光秀は多少あせり、ある日、朝倉家の粟《ぞく》を食《は》んだ早々ながら、家老の土佐守のもとに衣服をあらため罷《まか》り越し、
「おねがいの儀がござる」
「どういうことか」
「京の将軍家がもとに参りたく思いますゆえ少々のお休暇《いとま》を頂戴《ちょうだい》したい」
田舎大名の家老の土佐守は驚いた。将軍家は衰えきっているとはいえ、天下第一の貴人である。その将軍のもとに、このあいだまでの牢人《ろうにん》がまるで実家《さと》帰りでもするようにらくらくと遊びにゆくとはどういうわけであろう。
「じつは」
と、光秀はいった。
「将軍家御《ご》奏者番《そうじゃばん》細川兵部《ひょうぶ》大輔《だゆう》藤孝《ふじたか》殿から、かようなごとき手紙が参っております。されば、いそぎ京へのぼらねばなりませぬ」
うそでない証拠にその手紙をひろげてみせた。その手紙をみて土佐守はまるで魔法にかかったように仰天し、
「人というのは、わかっているようでわからぬものだ。いったい十兵衛殿は何人《なにびと》であるのか」
と、言葉づかいまであらためた。
「左様」
光秀は口をひらいた。内実は将軍側近の友人であるにすぎぬ。しかし越前のような田舎で自分の楽屋を正直にいったところで仕方がない。
「手前はどういうわけか将軍に信頼されております。先年の秋、連歌の御催しにも伴席させて頂いたこともあり、いろいろと枢密《すうみつ》な相談にもあずかっておりまする」
「ほう、枢密なこと」
土佐守は小さな顔をふりたてて感服しきったような顔をした。
「シテ、このたびの御召しも、なんぞそのような大事なことか」
「察するに」
と、光秀は、細川藤孝からの毎度の手紙で読み知っている京の情勢をおもしろく話してやった。
京の将軍義輝は、三好《みよし》・松永といった阿波《あわ》と山城《やましろ》を地盤とする大名のために食いもの同然になっている。ところが二条の館《やかた》にすむ義輝将軍というのは年が若いうえに兵法の免許皆伝をうけたほどに気概のある人物だから、いつまでも三好長慶《ながよし》や松永久秀《ひさひで》のあやつり人形にはなっていない。
先年、越後の長尾輝虎《てるとら》の上洛《じょうらく》をもとめ、その力添えをたのんだことなども、三好・松永の徒と縁をきりたいという一念のあらわれであった。
輝虎は北越の猛兵をひきいて上洛し、おびただしい金品を献上した上、将軍に忠誠をちかい、しかも京を去るにあたって言上した。
「それがし京にあって三好・松永の徒を見ておりまするに、おそれながら彼等は将軍《くぼう》様《さま》を尊崇せぬばかりか逆意をさえ抱いていることはまぎれもござりませぬ。もしいま御命令さえ頂ければ、たちどころにかれら奸《かん》徒《と》を誅殺《ちゅうさつ》し、京を去る置きみやげにつかまつりましょう。いかがでござりまする」
輝虎は滞京中に将軍から、名家上杉《うえすぎ》の姓をつぐことをゆるされ、関東管領《かんれい》の名誉職まで頂戴し、形式だけながらも幕府の「重職」についている。その御恩がえしの意味と、輝虎の性格的な正義感からそういったのであろう。輝虎、のちの上杉謙信である。かれの軍事的能力をもってすれば三好・松永の徒など蠅《はえ》をたたくほどの苦労も要るまい。現に松永弾正少弼《しょうひつ》久秀などは、輝虎の滞京中は奴婢《ぬひ》のごとき態度で輝虎の旅館を毎日のように訪ね、その機《き》嫌《げん》をとることに夢中になっていたのだ。
「いかがでござりまする」
輝虎は、かさねていった。このとき、将軍義輝がただひとこと、
「されば殺せ」
といっておれば、のちの大害はなかったであろう。そこは利口で勇気があるようでも貴族育ちであった。ためらった。ついに、
「そこまでせずとも」
と、輝虎のすすめをしりぞけた。
輝虎と北越の軍団は京を去った。そのあと三好・松永の横暴はもとに復し、義輝の心楽しまぬ毎日がつづいた。
といって義輝はこの間《かん》、手をつかねたままで悶《もだ》えていたわけではない。義輝には謀才もあり、しかも細川藤孝のような謀臣がいる。
(いつかは三好・松永の徒を)
と思いつつ、京に近い、たとえば近江《おうみ》あたりの豪族のうちで将軍好きの者をそれとなくひきよせておく秘密工作をつづけていた。なにぶん越後の上杉は地理的に遠く、いざ軍事行動というときには間にあわないのである。
「将軍様も、ご苦労なことであるな」
と、土佐守は、光秀の噺《はなし》につい身を入れ、涙さえうかべていった。
「おそらく、細川藤孝殿がそれがしに相談したきことありと申されるのは、その一事でござりましょう。天下に頼むべき大名はたれとたれか、ということかと存じまする」
「わが朝倉家はどうだ」
と、土佐守はつい言った。
光秀はなぜか苦笑して答えない。土佐守は光秀の煮えきらぬ微笑が気になり、かさねて、
「どうだ」
といった。光秀はわざと視線をそらせ、
「いまは戦乱の世とはいえ、ここ十数年のあいだには統一の機運が出て参りましょう。はたしてたれが統一するか」
「たれだ」
「それがし案ずるに、いちはやく将軍に志を通じ将軍を協《たす》け、将軍の命のもとに諸大名を糾合し、将軍の命によって服せぬ諸大名を討ち平げる大名のみ、天下を統一する者かと存じまする」
(将軍にそれほどの権威があるものかな?)
土佐守は、光秀の天下統一方式にやや疑問をもったのはそのことだった。将軍の命をきくぐらいならとっくにこの乱世はおさまっているはずではないか。そう疑問を発すると、
「左様、おおせのとおりです」
と、光秀は微笑した。
「いまは将軍の権威はありませぬ。しかし天下に統一へのきざしがあらわれたとき、ふたたび将軍の存在は光芒《こうぼう》を放ちます。統一にはシンが要るものでございます。そのシンは将軍でなければならず、具眼の諸侯は当然そこに目をつけましょう。尾張の織田信長などはその最たる者かと存じまする」
「信長?」
朝倉土佐守はあざ笑った。織田家はその遠祖さえさだかでない家で、流《る》説《せつ》では先祖はこの越前の丹《に》生郡《ぶのこおり》織田荘の神官で、それがいつのほどか尾張へ流れて行った者の末裔《まつえい》がいまの信長であると土佐守はきいている。信長がちかごろどれほど東海地方で頭を出しはじめているにせよ、名家の朝倉家からすれば、わが領内から流れて行った者の末裔《すえ》にすぎない。
「信長が、それほどの者か」
「いや、存じませぬ。ただ、若年のくせにちかごろ京へみずから情勢探索に出かけたとのことを耳にし、怖《おそ》るべき時勢眼《がん》の者かな、と感じ入りましてござりまする」
「京へ。将軍様に拝謁したか」
「なんの。信長は上総介《かずさのすけ》を自称しているものの正式の官位もない卑《ひ》賤《せん》の出来《でき》星《ぼし》大名。将軍に晴れ晴れと拝謁できる資格などはございませぬ」
「そうであろう。そこへゆくとわが朝倉家などはちがう。歴《れき》とした越前の守護職であり、お屋形様が帯びておられる従《じゅ》四位左兵衛督《さひょうえのかみ》の官位官職もいまどき流行《はやり》の自称ではなく、ちゃんと京から拝領したものだ。わがお屋形様ならば、京にのぼれば天子にも将軍にも拝謁できる」
「されば、のぼられますか」
と、光秀は、いよいよ問題の核心をつくつもりで、じっと土佐守を見つめた。
「御上洛あそばすとすれば、拙者およばずながら京へ飛び、将軍、公卿《くげ》衆に工作し、お迎えの準備を万端ととのえまするが」
「いや、それは」
家老は、あわれなほどあわてた。義景が兵をひきいて京にのぼるとすれば、東方の加賀の本願寺門徒とも和《わ》睦《ぼく》をしておかねばならぬし、沿道に立ちふさがる近江の浅井、六角といった強力な大名と一戦するか、和睦をしてからでないと到底国を留守にすることはできない。またその度胸も、朝倉家にはなかった。
「いかがでござる」
「いまのところは、その気持はあっても近隣に足をとられて一歩も越前から出るわけにはいかぬ。気持は万々あるが」
「ござるな、お気持が」
「いかにも」
「されば左様な志のあることのみ将軍家にお伝え申しあげましょう。されど言葉のみでは意が通じませぬ。お屋形様の御書状を一通と、朝倉家の誠意をこめた献上の金品などをそれがしにお持たせなされませ」
光秀の将軍家や細川藤孝への面目《かお》も、それで晴ればれしくなるというものである。
「よいことを教えてくれた」
土佐守はむしろよろこび、それらを光秀の出発までに整えることを約束した。
「幕府を中興せねばならぬ」
ということのみであった。京で虚位を擁するにすぎぬ足利将軍家に天下の権をとりもどさせ、むかしどおりの武家の頭領としての威信を回復し、諸国の兵馬を統一し、それによって戦乱をおのが手におさめてみたい。
そういうことである。
(たかが、一介の匹《ひっ》夫《ぷ》の身で)
と、この光秀の野望のとほうもない大きさにお槙《まき》や弥平次でさえ、光秀のあたまを疑わしく思うことがある。
が、光秀とは妙な男だ。この男が、越前一乗谷の家の一隅《いちぐう》で荘重にこのことを語りだすと、聴いているお槙も弥平次も、自然と気持が高揚してきて心気おどり、眼前に極彩色の泰平の絵巻があらわれ出るような錯覚にとらわれるのである。
光秀、朝倉家で二百石。
かれが、独力をもって地上で得た最初の収入であった。
ところがその二百石の身代も、天下を志すかれにとっては大したよろこびではないらしい。
げんに朝倉家の家老朝倉土佐守にともなわれてはじめて義景に拝謁《はいえつ》したときも、
「思うところがござれば、御当家の客分にして頂きとうござりまする」
と言い、二百石の知行を辞退した。光秀の希望は、二百石の身分だけはもらい、知行地は要らない。家族が衣食できるだけのものを御《お》蔵米《くらまい》から受けとらせていただく。そのかわり進退の自由な客分にして頂ければ。
というものであった。
越前の王朝倉義景は、よほど凡庸な男であるらしい。こういう光秀の申し出について、
「なぜ左様なことを申す」
と疑問を投げるべきであった。下問してやれば光秀はここぞとばかりに「幕府中興の素志がござれば」と、答えたであろう。が、義景はなにもたずねず、
「それでよいのか」
と、格は二百石、客分とし、家老土佐守の預りとするなど、拍子ぬけするほど簡単に光秀の希望を容《い》れてしまった。
(ばかな屋形だ、なぜ理由をたずねぬかよ)
光秀は多少あせり、ある日、朝倉家の粟《ぞく》を食《は》んだ早々ながら、家老の土佐守のもとに衣服をあらため罷《まか》り越し、
「おねがいの儀がござる」
「どういうことか」
「京の将軍家がもとに参りたく思いますゆえ少々のお休暇《いとま》を頂戴《ちょうだい》したい」
田舎大名の家老の土佐守は驚いた。将軍家は衰えきっているとはいえ、天下第一の貴人である。その将軍のもとに、このあいだまでの牢人《ろうにん》がまるで実家《さと》帰りでもするようにらくらくと遊びにゆくとはどういうわけであろう。
「じつは」
と、光秀はいった。
「将軍家御《ご》奏者番《そうじゃばん》細川兵部《ひょうぶ》大輔《だゆう》藤孝《ふじたか》殿から、かようなごとき手紙が参っております。されば、いそぎ京へのぼらねばなりませぬ」
うそでない証拠にその手紙をひろげてみせた。その手紙をみて土佐守はまるで魔法にかかったように仰天し、
「人というのは、わかっているようでわからぬものだ。いったい十兵衛殿は何人《なにびと》であるのか」
と、言葉づかいまであらためた。
「左様」
光秀は口をひらいた。内実は将軍側近の友人であるにすぎぬ。しかし越前のような田舎で自分の楽屋を正直にいったところで仕方がない。
「手前はどういうわけか将軍に信頼されております。先年の秋、連歌の御催しにも伴席させて頂いたこともあり、いろいろと枢密《すうみつ》な相談にもあずかっておりまする」
「ほう、枢密なこと」
土佐守は小さな顔をふりたてて感服しきったような顔をした。
「シテ、このたびの御召しも、なんぞそのような大事なことか」
「察するに」
と、光秀は、細川藤孝からの毎度の手紙で読み知っている京の情勢をおもしろく話してやった。
京の将軍義輝は、三好《みよし》・松永といった阿波《あわ》と山城《やましろ》を地盤とする大名のために食いもの同然になっている。ところが二条の館《やかた》にすむ義輝将軍というのは年が若いうえに兵法の免許皆伝をうけたほどに気概のある人物だから、いつまでも三好長慶《ながよし》や松永久秀《ひさひで》のあやつり人形にはなっていない。
先年、越後の長尾輝虎《てるとら》の上洛《じょうらく》をもとめ、その力添えをたのんだことなども、三好・松永の徒と縁をきりたいという一念のあらわれであった。
輝虎は北越の猛兵をひきいて上洛し、おびただしい金品を献上した上、将軍に忠誠をちかい、しかも京を去るにあたって言上した。
「それがし京にあって三好・松永の徒を見ておりまするに、おそれながら彼等は将軍《くぼう》様《さま》を尊崇せぬばかりか逆意をさえ抱いていることはまぎれもござりませぬ。もしいま御命令さえ頂ければ、たちどころにかれら奸《かん》徒《と》を誅殺《ちゅうさつ》し、京を去る置きみやげにつかまつりましょう。いかがでござりまする」
輝虎は滞京中に将軍から、名家上杉《うえすぎ》の姓をつぐことをゆるされ、関東管領《かんれい》の名誉職まで頂戴し、形式だけながらも幕府の「重職」についている。その御恩がえしの意味と、輝虎の性格的な正義感からそういったのであろう。輝虎、のちの上杉謙信である。かれの軍事的能力をもってすれば三好・松永の徒など蠅《はえ》をたたくほどの苦労も要るまい。現に松永弾正少弼《しょうひつ》久秀などは、輝虎の滞京中は奴婢《ぬひ》のごとき態度で輝虎の旅館を毎日のように訪ね、その機《き》嫌《げん》をとることに夢中になっていたのだ。
「いかがでござりまする」
輝虎は、かさねていった。このとき、将軍義輝がただひとこと、
「されば殺せ」
といっておれば、のちの大害はなかったであろう。そこは利口で勇気があるようでも貴族育ちであった。ためらった。ついに、
「そこまでせずとも」
と、輝虎のすすめをしりぞけた。
輝虎と北越の軍団は京を去った。そのあと三好・松永の横暴はもとに復し、義輝の心楽しまぬ毎日がつづいた。
といって義輝はこの間《かん》、手をつかねたままで悶《もだ》えていたわけではない。義輝には謀才もあり、しかも細川藤孝のような謀臣がいる。
(いつかは三好・松永の徒を)
と思いつつ、京に近い、たとえば近江《おうみ》あたりの豪族のうちで将軍好きの者をそれとなくひきよせておく秘密工作をつづけていた。なにぶん越後の上杉は地理的に遠く、いざ軍事行動というときには間にあわないのである。
「将軍様も、ご苦労なことであるな」
と、土佐守は、光秀の噺《はなし》につい身を入れ、涙さえうかべていった。
「おそらく、細川藤孝殿がそれがしに相談したきことありと申されるのは、その一事でござりましょう。天下に頼むべき大名はたれとたれか、ということかと存じまする」
「わが朝倉家はどうだ」
と、土佐守はつい言った。
光秀はなぜか苦笑して答えない。土佐守は光秀の煮えきらぬ微笑が気になり、かさねて、
「どうだ」
といった。光秀はわざと視線をそらせ、
「いまは戦乱の世とはいえ、ここ十数年のあいだには統一の機運が出て参りましょう。はたしてたれが統一するか」
「たれだ」
「それがし案ずるに、いちはやく将軍に志を通じ将軍を協《たす》け、将軍の命のもとに諸大名を糾合し、将軍の命によって服せぬ諸大名を討ち平げる大名のみ、天下を統一する者かと存じまする」
(将軍にそれほどの権威があるものかな?)
土佐守は、光秀の天下統一方式にやや疑問をもったのはそのことだった。将軍の命をきくぐらいならとっくにこの乱世はおさまっているはずではないか。そう疑問を発すると、
「左様、おおせのとおりです」
と、光秀は微笑した。
「いまは将軍の権威はありませぬ。しかし天下に統一へのきざしがあらわれたとき、ふたたび将軍の存在は光芒《こうぼう》を放ちます。統一にはシンが要るものでございます。そのシンは将軍でなければならず、具眼の諸侯は当然そこに目をつけましょう。尾張の織田信長などはその最たる者かと存じまする」
「信長?」
朝倉土佐守はあざ笑った。織田家はその遠祖さえさだかでない家で、流《る》説《せつ》では先祖はこの越前の丹《に》生郡《ぶのこおり》織田荘の神官で、それがいつのほどか尾張へ流れて行った者の末裔《まつえい》がいまの信長であると土佐守はきいている。信長がちかごろどれほど東海地方で頭を出しはじめているにせよ、名家の朝倉家からすれば、わが領内から流れて行った者の末裔《すえ》にすぎない。
「信長が、それほどの者か」
「いや、存じませぬ。ただ、若年のくせにちかごろ京へみずから情勢探索に出かけたとのことを耳にし、怖《おそ》るべき時勢眼《がん》の者かな、と感じ入りましてござりまする」
「京へ。将軍様に拝謁したか」
「なんの。信長は上総介《かずさのすけ》を自称しているものの正式の官位もない卑《ひ》賤《せん》の出来《でき》星《ぼし》大名。将軍に晴れ晴れと拝謁できる資格などはございませぬ」
「そうであろう。そこへゆくとわが朝倉家などはちがう。歴《れき》とした越前の守護職であり、お屋形様が帯びておられる従《じゅ》四位左兵衛督《さひょうえのかみ》の官位官職もいまどき流行《はやり》の自称ではなく、ちゃんと京から拝領したものだ。わがお屋形様ならば、京にのぼれば天子にも将軍にも拝謁できる」
「されば、のぼられますか」
と、光秀は、いよいよ問題の核心をつくつもりで、じっと土佐守を見つめた。
「御上洛あそばすとすれば、拙者およばずながら京へ飛び、将軍、公卿《くげ》衆に工作し、お迎えの準備を万端ととのえまするが」
「いや、それは」
家老は、あわれなほどあわてた。義景が兵をひきいて京にのぼるとすれば、東方の加賀の本願寺門徒とも和《わ》睦《ぼく》をしておかねばならぬし、沿道に立ちふさがる近江の浅井、六角といった強力な大名と一戦するか、和睦をしてからでないと到底国を留守にすることはできない。またその度胸も、朝倉家にはなかった。
「いかがでござる」
「いまのところは、その気持はあっても近隣に足をとられて一歩も越前から出るわけにはいかぬ。気持は万々あるが」
「ござるな、お気持が」
「いかにも」
「されば左様な志のあることのみ将軍家にお伝え申しあげましょう。されど言葉のみでは意が通じませぬ。お屋形様の御書状を一通と、朝倉家の誠意をこめた献上の金品などをそれがしにお持たせなされませ」
光秀の将軍家や細川藤孝への面目《かお》も、それで晴ればれしくなるというものである。
「よいことを教えてくれた」
土佐守はむしろよろこび、それらを光秀の出発までに整えることを約束した。
ごく自然に、光秀は自分の独特の地位をつくりあげた。このときは、かれは最初の公式上洛でもあり、ごく短期間で越前へ帰ってきたが、このとき以後、越前朝倉家の連絡将校としてしきりと一乗谷・京のあいだを往来し、将軍家と朝倉家をむすぶ紐帯《ちゅうたい》となった。
当然なことだが、将軍義輝にも名と顔を記憶してもらえるようになった。それどころか三度目の上洛のとき、将軍義輝から、
「予はそちを直参《じきさん》のように思うぞ。そう思うてかまわぬか」
という破格な言葉さえたまわった。
光秀は無位無官の身だから、萩《はぎ》の花の咲く庭さきに土下座し、将軍は通りかかり、という体《てい》で濡《ぬ》れ縁に立っていた。この言葉が頭上から降ってきたとき、策謀家のわりには多感な光秀はがば《・・》と地に体をなげうち、噴《ふ》きあげるような涙で顔をよごしながら、
「御奏者番細川兵部大輔殿まで申しあげまする。光秀、生あるかぎり、いや、たとえこの身滅しまするとも、七度《たび》うまれかわって上様の御為《おんため》に身を粉にし骨を砕いてお尽し申しあげる覚悟でござりまする」
真実、とめどもなく涙がこぼれ、ついに光秀は草の上に泣き伏してしまった。光秀にはそんなところがある。この男のもっている意外な可《か》憐《れん》さに将軍義輝は当然感じ入った。だけではなく、そばに侍している細川藤孝さえ、袖《そで》をあてて目頭をぬぐった。
しかし藤孝は才覚のまわる男で、こういうさなかにも、明智光秀というこよない友人を将軍に売りこんでおいてやる親切と努力をわすれない。
「光秀殿は、朝倉家に禄《ろく》仕《し》しているのではなく客分であるそうな。そのこと、この際、大きに都合がよい。城池《じょうち》をうしなったとは申せ、もとをただせば美濃明智郷の住人にて土岐源氏の名流であり、根をたどればおそれ多くも将軍家の御血統と同根になる。当然、将軍家御直参と申してもさしつかえない。いまからはその御心組でおられまするように」
と、義輝の言葉に念をかさね、むしろその念を義輝にきかせるようにいったから、義輝もふと気づき、光秀に狩衣一襲《かりぎぬひとかさね》と白桐《しろぎり》の御紋入りの飾太刀一口《ひとふり》をあたえた。
光秀は押しいただき、
「おそれながらこの御品々は、光秀を御郎従のおんはしにお加えくだされましたるおん証拠と存じ、拝領つかまつりまする」
といった。
このことは、朝倉家における光秀の位置を一変させた。むろん給与される蔵米の高はかわらなかったが、家中の光秀を見る目が、「京の将軍家からの派遣者」というふうに変わり、義景に対しても家老同然の発言権をもつようになった。この変化も当然であったろう。他日、朝倉家が将軍を擁して立つことがあれば、光秀は将軍家派遣の軍監の役目につくことになるからである。
永禄《えいろく》七年になった。
この間《かん》、尾張の信長は美濃奪取の夢がわすれられず、いや忘れられぬどころか、美濃に食いついては美濃衆の逆襲によって叩《たた》きつけられ、追いかえされして執念ぶかい攻略をくりかえしていた。永禄四年以来、連年、連戦連敗をつづけて勝ったためしもないのに侵攻をくりかえしている。
(倦《あ》きもせずよくやることだ)
と越前の地で光秀は思い、信長の体質に身の毛もよだつほどの異常な執念ぶかさを発見し、考えこまざるをえなかった。
(あの執念ぶかさをみれば、あるいは信長こそ英雄といえる者かもしれぬ)
信長の性格を、その逸話から単に短気者とみていた光秀は、意外な思いがしはじめたのである。美濃攻略に関するかぎり信長の性格は、まずその貪婪《どんらん》さ、その執拗《しつよう》さ、この二つが世間に濃厚に印象づけられはじめている。いずれも英雄の重要な資質といっていい。さらに二敗三敗してもくじけぬ神経というのも、常人ではないであろう。さらに大きなことは、三敗四敗をかさねるにつれて信長の戦法が巧妙になってくることであった。
(あの男は、失敗するごとに成長している)
いや、光秀の越前からの観察では、信長は、成長するためにわざと失敗している、としか思えぬほどのすさまじさがある。
最近の情報では、信長は美濃侵略のために長年の居城の清洲を置きすて、美濃境によりちかい小《こ》牧山《まきやま》に城をきずき、急造の城下町をつくり、そこへ家臣の屋敷も移してしまったという。家臣団は生活の不便からこの移転をよろこばなかったが、信長は強行した。
(稲葉山城の咽喉《のど》の下から食いつこうとする算段だ)
などと、光秀はあきれたり怖《おそ》れたりしながら、尾張からの情報に異常な関心をもちつづけていた。
翌永禄八年、信長は相変らず美濃侵攻作戦を断念せず、いままで西濃を進攻路にしていたのを一転して東濃に刃《やいば》を転じ、この夏ついに東濃の一部に斬《き》り入り、その後一進一退しつつあるという噂《うわさ》を光秀はきいた。
ところが、この年五月、光秀の身にも重大な異変がおきた。
将軍義輝が、松永久秀の手で殺されたのである。
将軍義輝が、松永久秀の手で殺されたのである。