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国盗り物語95

时间: 2020-05-25    进入日语论坛
核心提示:甲賀へ 光秀は三挺《ちょう》の鉄砲を小《こ》脇《わき》にかかえ、闇の中をあちこちと駈けまわった。「それ、松林に入ったぞ」
(单词翻译:双击或拖选)
甲賀へ

 光秀は三挺《ちょう》の鉄砲を小《こ》脇《わき》にかかえ、闇の中をあちこちと駈けまわった。
「それ、松林に入ったぞ」
と、追手は口々に叫びながら、光秀のあとを追った。
光秀は、くるくると逃げまわる。これもこの男の作戦である。
まず、追手を手間どらせて、覚慶門跡《もんぜき》一行をできるだけ遠くへ逃がすことが目的である。さらには、この奈良坂で斬り防いでいるのは光秀一人ではなく、
——五、六人はいる。
という錯覚を敵にあたえるためだ。とにかく松林の中をくるくるまわっては、時に突出して、
「見たか」
と、追手を斬った。
光秀の作戦は、それだけではない。敵の松《たい》明《まつ》の群れがかれを遠巻きにして包囲しはじめたと知ると、一息つき、
(そろそろ脱出するか)
と思い、一計を案じた。手に、三筋の火《ひ》縄《なわ》がぶらさがっている。
光秀はそれを三挺の鉄砲の「火挾《ひばさみ》」にとりつけ、とりつけおわると足音もなく駈け、一挺ずつ、五間の間隔をおきつつ、別々の松の木に立て掛けて行った。
(用意はできた。風があるから火縄は消えることはなかろう)
光秀は三挺の鉄砲を持ち上げ、火《ひ》蓋《ぶた》をはずし、火《ひ》皿《ざら》に導《くち》火薬《ぐすり》をサラサラと流しこみ、馴《な》れた手つきでパチリと火蓋を閉じた。
(どれを撃つかな)
光秀は、松明の群れをながめた。その白煙の流れるなかで、影絵のように往《ゆ》き来している騎馬武者がいる。
光秀は鉄砲をあげ、銃身を松の幹にもたせかけつつ騎馬武者に照準し、息をとめた。
すでに引金に指がかかっている。が、がちりと引いてはあたらない。すでに光秀の時代の射術にも、
「暗夜に霜のおりるがごとく静かに自然に、引金をおとせ」
という言葉が、流布《るふ》している。この撃発心得の言葉は、その後数百年を経てなお、日本軍隊の射撃操練に使われつづけた。
光秀は照準し、いつのほどか、引金をひきおとした。火挟にはさまれた火縄が、火皿の上の火薬粉を撃ち、つづいて装薬に引火し、轟然《ごうぜん》と火を噴いた。
鉛弾がとび、闇中《あんちゅう》三十間を飛びわたって、騎馬武者を落馬させた。
そのときは光秀はすでに駈け、二本目の松の根方にうずくまり、こんどは膝《ひざ》射《う》ちでもって、轟発した。
射撃がおわると鉄砲をすててころがり、三本目の松の木にゆき、さらに射撃した。
追手は騒然となり、包囲陣がくずれ、あらそって鉄砲の射程外にのがれ出ようとした。
(いまぞ)
と、光秀は地を蹴《け》った。
松林を駈けぬけて路上に出、背をまるめて奈良坂を駈けのぼりはじめた。
五町ばかり駈けてゆくと、真暗な闇のなかから、巨《おお》きなものが飛び出した。
ぎょっとしたが、よくみると馬である。騎《のり》手《て》をうしなった馬が、ここまで放《ほう》馬《ば》してきたものであろう。
(これこそ手《た》向山《むけやま》明神のご加護)
と光秀は手綱をとって馬をひきよせつつはるか興福寺の方角、手向山の森にむかい、ちょっと祈るしぐさ《・・・》をした。神仏にさえ、律《りち》義《ぎ》な男だ。
祈ってから馬にまたがり、北の天をめざして一散に駈け出した。

光秀は、そのまま十キロ駈けとおして山城《やましろ》(京都府)の木津の聚落《まち》に入り、馬を捨てた。すでに夜は明けている。とある寺の門に入って、
「一椀《わん》の粥《かゆ》など頂戴《ちょうだい》したい。できれば、日暮まで寝かせていただけぬか」
と、銭《ぜに》を渡して寺僧に頼みこんだ。
寺僧はうろん《・・・》臭げに光秀の血しぶきをあびた小《こ》袖《そで》を見ていたが、やがて、
「どうぞ」
と、庫裡《くり》へ通した。光秀は台所の板敷で冷《ひや》粥《がゆ》を食い、そのあとその板敷の上でころがって眠りをむさぼった。夜にならぬと街道はあぶない、と思ったのである。
日が傾きはじめたころ、まわりに人の気配がするのに驚き、光秀は薄目をあけた。
台所に、武士五人が突っ立って、光秀の寝姿を窺《うかが》っている。
(寺僧め、訴えたか)
武士どもはおそらく検分のためにやってきたのであろう。
(機敏を要する)
光秀は寝入っているふりをしながら呼吸をととのえ、やがて息を大きく吸いこむなり、跳ねあがって土間に飛びおり、飛びおりざま、一人を叩《たた》っ切って庫裡のそとに駈けだした。栗鼠《りす》のようにすばやい。
山門に出た。
馬が、つながれている。それに飛びのるなり馬腹を蹴って木津の聚落を走りぬけ、木津川沿いの街道を伊賀へむかって駈けた。
追手が光秀を追った。
(日よ、暮れよ)
と、光秀は必死で祈念しつつ逃げた。闇にまぎれる以外、逃げのびようがない。
やがて加茂まできたとき、陽《ひ》が暮れ、山河は闇一色になった。
光秀は馬から降り、足跡をくらますため、馬を渓流《けいりゅう》へ突き落し、あとは、徒歩で東へむかった。ほどなく笠《かさ》置《ぎ》に入った。
ここから間道に入るべく崖《かげ》をとびおりて渓谷に降り、急流を泳ぎ渡り、対岸の崖《がけ》にとりつき、崖道を這《は》いのぼって山上に出、そこから、杣道《そまみち》を歩きはじめた。
(もう、追手は来ぬ)
この樹海は、東は伊賀につづき、北は甲賀までつづいている。山林はほとんど原生林といってよく、巨木の枝が天を蔽《おお》い、ときに剣を抜いて木を薙《な》ぎながら進まねばならない。
光秀は山中で二日野宿し、三日目にようやく近江甲賀郡の信楽《しがらき》の里に入った。
信楽は山中の里で、土地では「信楽谷」といっているとおり、まわりを山にかこまれ、茶碗《ちゃわん》の底のような小盆地である。奈良朝のころ、聖武《しょうむ》帝が一時、ここに離宮を営まれたことで知られている。
(もはや、歩けぬ)
と、さすが、美濃脱出以来、天下を放浪してきた光秀も、飢えと疲れで、倒れそうになった。
一軒の百姓家を訪ね、腰の袋をひろげて銭を見せ、
「なにか、食わせてくれぬか」
と、いんぎんに頼んだ。
なにしろ、すさまじい姿である。衣服はやぶれ、ところどころ返り血が飛び、草鞋《わらじ》は右足しかはいていなかった。
「どなた様で」
「美濃の者、明智十兵衛という者だ。山中で熊《くま》に襲われ、かような姿になった」
百姓は光秀を家のなかに入れ、カマチにすわらせて、食物を与えてくれた。
百姓は、中年の小男である。ことばはやわらかで、京言葉にちかい。
「ここは、甲賀郡か」
「はい、甲賀のうちでござりまする。殿様はどこまで行《い》らせられまする」
「和田だ」
甲賀郡のうちである。
「ここから、近いか」
「いやいや甲賀は山郷《やまざと》なれど、ずいぶんと広うございましてな。ここから山中八里(三十キロ)はございましょう。和田ではどなたをお訪ねなされまする」
「和田殿だ」
「ああ伊賀守様でござりまするか」
と、百姓はいっそうに言葉を鄭重《ていちょう》にした。
この甲賀の山郷は、五十三家の世にいう「甲賀郷士」によって分割支配され、その五十三家の郷士はそれぞれ仲がよく、同盟して結束し、郷外からの軍事・政治的圧力に対抗している。
「このあたりは、たれの支配かな」
「多羅尾四郎兵衛尉《たらおしろうひょうえのじょう》さまでござります。お館はこのむこうの多羅尾にござりまする」
「どのような仁《じん》だ」
「お人柄《ひとがら》もよく、御武《ごぶ》辺《へん》なかなか健《すこや》かなお人とうけたまわっております」
(会ってみよう)
と思ったのは、光秀の機敏さだ。次の将軍たるべき覚慶門跡が奈良を脱出してこの甲賀の和田惟政《これまさ》の館《やかた》に身を寄せるとなれば、一人でも合力《ごうりき》する武士がほしい。
(説いて、味方にしてしまえ)
と思い、百姓に道案内させ、多羅尾の多羅尾屋敷に行ってみた。
屋敷の前に、大きな杉《すぎ》の木がある。多羅尾家はこの当代四郎兵衛尉光俊《みつとし》まで十三代つづいてきた古い豪族で、屋敷も堀や土塁をめぐらして城塞《じょうさい》ふうには構えているものの、門や殿舎は、どこか京の公卿《くげ》屋敷に似せている。
「美濃の住人、明智十兵衛と申す者」
と、光秀はいんぎんに家来衆にまで頼み入り、面会を申し出た。
多羅尾四郎兵衛尉は土地では最高の権力者だが、光秀という、どこの馬の骨ともわからない旅の者に、こころよく会ってくれた。
意外に若い。
身長五尺七寸ばかり、筋骨堂々として偉丈夫だが容貌《ようぼう》はむしろ公卿風の目鼻だちで、思慮深そうな男である。
光秀は、いきなり用件を話すことはせず、さりげなく諸国の情勢などを語った。
多羅尾四郎兵衛尉は、いかにも智恵深そうな表情でいちいちうなずき、そのつど、
「なるほど」
とか、
「ああ、さもござろうか」
などと、相槌《あいづち》のことばをさしはさんだ。
この当時、地方の豪族というのは、旅僧、武者修行者を好んで屋敷に泊め、諸国の情勢を聴くことにつとめたものだ。山中にいる多羅尾四郎兵衛尉としては、光秀の豊富な見聞、明晰《めいせき》な解説が、うれしからぬはずがない。
(これは、尋常な人物ではない)
と次第に思いはじめたのか、時がたつにつれて言葉づかいがいよいよ丁寧になった。
話題は当然、さきに京でおこった驚天動地の将軍弑逆《しいぎゃく》事件に触れた。
「弟君までお殺されあそばしたそうでありますな」
と、多羅尾はいった。
その模様を光秀がくわしく話すと、おどろいたことに多羅尾はそれ以上にくわしく知っていた。
(さすが、甲賀郷士)
と、光秀もおもわざるをえない。甲賀侍は、この山むこうの伊賀の郷士たちとならんで、いわゆる忍衆《しのびしゅう》の名が高い。世の動きや情報に対する感覚のするどさは、尋常ではない。
「甲賀衆は」
と、光秀はいった。
「京も近く、しかも山中に兵を秘めて他から侵されにくうございます。そのため代々の将軍の信頼があつく、しばしばこの郷の士をお頼みなされることが多うござった」
「いやいや、逆の場合もありましたな」
九代将軍義尚《よしひさ》のとき、義尚がみずから幕軍をひきいてこの近江の大名六角高頼《ろっかくたかより》を攻めたとき、甲賀郷士団は六角方に加担し、将軍義尚が在陣する鈎《まがり》の城を単独夜襲し、将軍に戦傷を負わせ、ついに死にいたらしめたこともある。多羅尾はそのことをいっているらしい。
「有名な鈎ノ陣のことでござるな」
と、光秀は苦笑した。この夜襲は甲賀衆の名を高からしめ、
——甲賀者は魔法をつかうのか。
とさえ、世上で取り沙汰《ざた》された。べつに魔法をつかうわけでなく、甲賀は山国で小豪族が割拠しているため、自然、戦法の芸がこまかくなり、平野そだちの侍どもの思いもつかぬことをやる。
「前将軍には」
と、多羅尾四郎兵衛尉はいった。
「いまひとり、弟君がおられるはずでござるな。たしか、奈良の一乗院門跡の」
「左様」
光秀は、うなずいた。
「そのご門跡は、いかがなされています」
と、多羅尾はきいた。さすが甲賀郷士とはいえ、数日前におこった門跡失踪《しっそう》事件までは耳に入っていないらしい。
(言うべきか)
光秀は、迷った。
(いや、さらにこの人物の心底を見きわめたうえで)
と思い、巧みに話題をそらし、話をさりげなく詩《しい》歌《か》管弦《かんげん》にもって行った。
おどろいたことに、この多羅尾四郎兵衛尉はそのほうにもあかるい。甲賀郷士は家系が古いだけに、教養の累積《るいせき》というものがあるのかもしれない。
多羅尾も、光秀の教養の深さにおどろき、まるで手をとらんばかりの態度になり、
「ぜひ、今夜、当屋敷に泊まってくださらぬか。願い入ります」
と思う壺《つぼ》に入ってくれた。
夜、ともに酒を酌《く》みかわし、さまざまの物語をするうち、
(この人物、信ずべし)
という気に、光秀はなってきた。多羅尾四郎兵衛尉は、どうやら光秀と同質の男で、伝統的な権威に対する愛着や憧憬《どうけい》がつよいたちのようだ。
「将軍家があっての武家」
とか、
「いまの世は下の者が上を剋《こく》し、秩序もなにもあったものではない。これというのも室町《むろまち》様(将軍)のお力が衰えているからだ」
とかいったような、幕権再興論にもうけとれることをいったりした。
光秀はこの夜、屋敷の客殿で泊まり、寝床であれこれと考えぬいたすえ、翌朝、
「実は次の将軍たるべき覚慶御門跡は、ここから八里むこうのおなじ甲賀のうち、和田の館に身をひそめておられる」
と、声をひそめていった。
「ただし、天下の秘事でござるぞ」
「当然なこと」
多羅尾は、さわやかにうなずき、
「お手前が尋常《ただ》人《びと》でないと思うていたが、はたして覚慶御門跡のお側衆でござったか。それがし、さほどの秘事を打ちあけられた以上、非力ながらも御門跡のために尽したい」
と、目もとも涼やかにいった。
光秀は、その日も、多羅尾にひきとめられるまま、泊まった。
縁とは奇妙というほかない。多羅尾四郎兵衛尉は、このとき光秀と親交をむすんだことによって世に出た、といっていい。
のちに光秀の手引きで織田信長に仕え、甲賀信楽に在館のまま山城・伊賀で飛《とび》地《ち》領をもらい、総計六万石の大名となり、のち秀吉に仕え、豊臣秀次《とよとみひでつぐ》の事件に連座して領地の大部分をとりあげられたが、のち家康につかえ、甲賀郡の代官となり、代々代官を世襲しつつ幕末におよんでいる。
三日目の朝、光秀は、多羅尾館を発《た》ち、八里の山道をあるいて、甲賀郡和田(現・甲賀町内)の和田惟政の館に入った。
光秀の姿をみて狂喜したのは、幕臣細川藤孝である。
「ごぶじだったか」
と、手をとって玄関からあげ、さっそく覚慶に言上した。
「わしを」
と、覚慶ははげしく吃《ども》りながらいった。
「背負って、十兵衛は駈けてくれた。追手を一人で斬りふせぐと申して奈良坂で別れたが無事であったか」
「十兵衛殿、よほど奮戦したものでござりましょう」
「忠なる者よ」
と、覚慶は、涙をこぼした。
「さっそく御前に罷《まか》らせましょうと存じましたが、なにぶん十兵衛光秀は無位無官。この御前にまかり出ることができませぬ」
「なんの、わしとて流寓《りゅうぐう》の身よ。格式などどうでもよいではないか」
「しかし」
藤孝はなおも遠慮したが、覚慶はいらだたしく手をふり、
「十兵衛はわが恩人ではないか。早うこれへ」
と、せきこんだ。覚慶はよほど光秀が気に入っているのであろう。
 
和田《わだ》館《やかた》
 和田館は西に正門があり、背後と両側は、ひくい松山にかこまれている。
光秀は、門外の供待《ともまち》部屋のようなところで待たされていた。いかに戦国の世とはいえ、無位無官の分際ではその程度の待遇しか受けられない。
庭一つ隔てた母《おも》屋《や》では、その棟《むね》の下に覚慶御門跡がおわすのか、まだ日暮前後というのに煌々《こうこう》と灯《あか》りがつき、人の声が笑いさざめいているようだ。
(わしも、早く世に出たい)
光秀は、夕闇《ゆうやみ》につつまれながら、物哀《ものがな》しくなるような感情のなかで、その一事を想《おも》った。それを想うにつけてもおもい出されるのは、尾張の織田信長のことであった。
(ついに信長は美濃の稲葉山城を陥《おと》したらしい)
このことはまだ真偽はさだかでないが、そのような風聞がこのあたりに伝わってきている。事実とすれば、尾張の富と美濃の強兵を手に入れた信長は、まるで野望に翼をつけたようなものだ。もはや天下を狙《ねら》う志をたてても、おかしくはないであろう。
(信長は、恵まれている。父親の死とともに尾張半国の領土と織田軍団をひきついだ。それさえあれば、あとは能力次第でどんな野望も遂げられぬということはない)
うらやましい男だ、と思う。人間、志をたてる場合に、光秀のように徒《と》手空拳《しゅくうけん》の分際の者と、信長のように最初から地盤のある者とでは、たいそうな相違だ。
(おれはいまだに、小城一つ持ち得ずしてこのように放浪同然の境涯《きょうがい》にいる。おれほどの者が、なんと悲しいことではないか)
光秀は、自分の能力が信長よりもはるかにすぐれていることを、うぬぼれではなく信じきっている。
(おれと信長とを裸にして秤《はかり》にかければ、一も二もなくおれのほうがすぐれていることがわかるはずだ)
しかし徒手空拳の身では、いかんともしがたい。
(男子、志を立てるとき、徒手空拳ほどつらいものはない。死んだ道三殿は一介の油売りとして美濃に来られたがために、あれだけの才幹、あれだけの努力、あれだけの悪謀をふるってさえ、美濃一国をとるのに生涯かかった。もし道三殿をして最初から美濃半国程度の領主の家に生まれしめておれば、おそらく天下をとったであろう)
人のつながりというのは妙なものだ。道三の娘濃姫《のうひめ》こそ光秀の弱年のころの理想の女性であり、しかもイトコ同士というつながりから光秀の許《もと》へ、という佳《よ》き縁談《はなし》も一時はあったと光秀は聞き及んでいる。それが「尾張のたわけ殿」といわれていた信長のもとに輿《こし》入《こ》れしてしまった。以来、信長は光秀にとってある種の感情を通してしか考えられぬ存在になった。ある種の感情とは、嫉《しっ》妬《と》ともいえるし、必要以上の競争心ともいえるし、そのふたつを搗《つ》きまぜたもの、ともいえる。とにかく事にふれ物にふれて、尾張の織田信長を意識せずにはいられない。
(もう、虫が鳴いている)
まだ秋には早いが、山里だけに陽《ひ》が落ちると、にわかに風がつめたくなるようであった。
夕闇が、濃くなった。
庭前に、大きな樟《くすのき》がそびえ立っている。
その樟のむこうから、手燭《てしょく》の灯が一つ、ゆらゆらと揺れ近づいてきて、沓脱石《くつぬぎいし》のあたりでとまった。細川藤孝である。
「十兵衛殿、お待たせいたしましたな。蚊が大変でござったろう」
「ああ、蚊」
物想いにふけっていたせいか、それには気づかなかった。そういえば臑《すね》や腕のあちこちがかゆい。この和田館の者は、光秀のために蚊いぶし《・・・》ひとつの心くばりもしてくれなかったのである。
「十兵衛殿、およろこびくだされ。御門跡にあられては、命の恩人の十兵衛にぜひとも会って礼を申したい、座敷にあげよ、酒肴《しゅこう》を用意せよ、と大そうな御機《ごき》嫌《げん》でござる」
「それはありがたいこと」
光秀は、行儀よく頭をさげた。なにしろ覚慶のために命を的にしてここまでやってきたのだ。それぐらいによろこばれて当然なことであった。
「されば、案《あ》内《ない》つかまつる」
と、藤孝は手燭をかざした。光秀は庭に降り、藤孝とともに庭を横切った。
「虫が鳴いておりますな」
と、藤孝は言い、この館に入って詠《よ》んだという近詠の歌一首を光秀に披《ひ》露《ろう》した。相変らず、古人にもまれなほどの巧みさである。
光秀は、覚慶門跡にあてがわれているこの城館のなかの書院に入った。ついでながらこの城館のあとは、覚慶が流寓《りゅうぐう》していたということで、いまも滋賀県甲賀郡和田の小《こ》字《あざ》である門田という在所に「公《く》方《ぼう》(将軍)屋敷」として槙《まき》の垣をめぐらせて保存されている。
光秀は、板敷の次室にすわった。
平伏すると、座敷の覚慶は、やや軽率なほどの躁《はしゃ》ぎかたで手をあげ、
「十兵衛参ったか、待ちかねたぞ」
と言い、「あがれ、あがれ」とさわがしくいった。座敷にあがって覚慶と座を共にするのはそれだけの官位がなければならない。が覚慶はそんな格式は無視した。
「十兵衛、遠慮はいらぬ。わしが将軍職を嗣《つ》げば、そちを四位《しい》にも三《さん》位《み》にもしてつかわすぞ。それだけの功のあるそちではないか」
(すこし騒々しいお方じゃな)
と、光秀は意外な感じがしながら、つぎつぎに頭上に飛んでくる覚慶、のちの義昭の声をきいている。
「十兵衛殿」
と、藤孝は落ちついて言った。
「お上《かみ》にあっては、あのようにおおせられておる。いまは無位無官ながら、三位になったようなお心持で、お座敷に入られよ」
「されば、お慈悲に甘え」
と、光秀は野袴《のばかま》を鳴らして膝《ひざ》をすすめ、座敷のはしで再び平伏した。
「頭をあげよ。直答《じきとう》もゆるす」
と、覚慶はいった。
「顔がみたい。奈良坂では三十人ほどの兵《つわもの》を斬《き》ったそうな」
「いや、せいぜい七、八人でございました」
光秀は、眼を伏せていった。
「予を見よ」
と、顔を見ることもゆるされた。
声が癇高《かんだか》いわりには据《す》わりのずっしりした顔で、輪郭だけはなかなか頼もしげである。が、輪郭のりっぱさとは逆に目鼻がちまちまと小さく、なにやら人物が小さげにみえた。
(まだ数えて二十九の御齢《おんよわい》だ。これからさきどのように器量をあげられるか、それはわからない)
人物がどうであろうと、覚慶の偉大なのは足利将軍の正系の血をうけているということである。この地上に次の足利将軍たるべきひとは、この人を措《お》いていない。
(おれの運命を託するに足る)
と、光秀は激しい感動とともにそれをおもった。
(信長に追いつくには、将軍に取り入ってその幕僚になる以外に道はない)
なるほど将軍には実力はないが、燦然《さんぜん》たる権威がある。天下の諸大名や豪族に官位をあたえる(天子に奏請して)栄誉授与権ももっている。光秀にすればこの将軍のその側近になり、将軍を動かすことによって天下の風雲に臨むという、いまだかつてたれもやったことのない経路で天下の権を夢見ていた。
(信長、何するものぞ)
光秀の脳裏に、ふたたびそれが去来した。

光秀は、和田館に滞留した。覚慶はよほど光秀が気に入ったらしく、
「十兵衛、十兵衛」
と呼んで、側《そば》から離さない。なにしろ光秀は諸国の地理風俗、政治情勢にあかるく、その解説と分析は掌《たなごころ》を指すがごとく明晰《めいせき》で、覚慶にすれば地上でこれほどの頭脳があろうかと驚嘆する思いでみているのだ。
その上、光秀は武技に長じている。
覚慶は幼くして僧門に入れられたために亡兄の義輝将軍とちがって武技は習いおぼえていない。当節、流《る》浪《ろう》の身である。なによりもほしいのは、護衛者であった。身辺心もとない覚慶が光秀を頼りにするのは当然な心情であったろう。
さて。——
光秀が和田館に入った翌日、これからどうすべきか、という評定《ひょうじょう》がおこなわれた。
「ひろく天下の諸大名に救援を乞《こ》いたい」
と、覚慶はいった。
問題はそこである。天下は乱れに乱れている。その群雄のうちで、将軍家に心を寄せてくれる者はたれとたれか。
「まず越後の上杉輝虎《うえすぎてるとら》(謙信)でござりましょう」
と、お側衆の一色藤長がいった。なるほどこれは第一であろう。いま天下の諸雄のなかで上杉輝虎ほど将軍を崇敬している者はいないし、その誠実さ、その義侠心《ぎきょうしん》、その実力、どの点をとりあげても、後援者としては彼におよぶ者はない。
ただ、遠い。
「それに、輝虎殿には、隣国に武田信玄という年来の敵手をひかえておりまする。信玄がおるかぎり、輝虎殿は本国を留守できませぬ。されば早《さ》速《そく》の御用には立ちかねましょう」
と光秀は言い、
「しかし輝虎をこそ第一の者と思う、との御《み》教書《ぎょうしょ》と使者をお出しになることは必要かと存じまする」
といった。覚慶以下、大いにうなずいた。
「遠国《おんごく》と申せば、薩《さつ》摩《ま》の島津家も頼朝公以来の名家たることを誇りにしており、しかも当代の島津貴久《たかひさ》、義久父子は、類《たぐ》いまれなる将軍家思いにて、御使者を下せば大いに感激いたしましょう。手前、諸国回遊のみぎり鹿児《かご》島《しま》城下に入り、親しく謁《えつ》を受けたことがござりまする」
光秀の見聞は、遠く鹿児島にまでおよんでいる。一同、ひたすらにうなずいて聴き入るしかない。
「しかしながら遥《はる》かなる遠国。これまた兵を出さしめることはできませぬ。御教書だけは下しおき、将来に、お備えあるがよろしかろうかと存じ奉りまする」
そのほか、中国の毛利氏の話も出た。出雲《いずも》の尼《あま》子《こ》氏、土佐の長曾《ちょうそ》我部《かべ》氏なども話題にのぼった。しかしそれらはいずれも遠国の上、いずれも近隣に強敵をひかえて攻伐に明け暮れており、本国を抜け出して上方《かみがた》にのぼって来ることはできない。
とにかく、覚慶は後ろ楯《だて》がほしい。
強大な後ろ楯とその兵力をもって京に押しのぼり、三好・松永の勢力を駆逐する以外に、覚慶は、将軍の位につくことはできないのである。第一、三好・松永の徒は、阿波で保護している足利義栄《よしひで》を立てて将軍にしようという策謀をすすめているというではないか。光秀ら覚慶擁立派にすれば、事をいそがねばならぬ。
「尾張の織田信長はどうじゃ。ちかごろ、旭《きょく》日《じつ》昇天の勢いじゃと申すではないか」
と、覚慶でさえ、その名を知っていた。が光秀は露骨に首をかしげた。
「信長はまだ、海のものとも山のものともわかりませぬ。それに家系が悪《あ》しゅうござりまする」
譏《そし》るわけではなく、光秀は事実そうおもっている。信長の織田家では家系がわるい。
将軍を擁立しようというほどの熱意をもつ大名は、一つの点で共通している。名家意識である。越後の上杉輝虎のばあいは出身こそ素姓《すじょう》のわるい長尾家だが、足利管領家の上杉氏を嗣《つ》いだために、宗家である将軍家の擁立にいよいよ熱心になったし、薩摩の島津家にしてもそうである。島津家は遠く鎌倉幕府とともに興った家柄《いえがら》で、頼朝によって守護職を命ぜられた。かれらはいま出来の実力大名でないという誇りをもっていればこそ、武門の頭領である足利家を大事にしてゆこうという意識がつよい。
そこへゆくと、織田家はどうか。数代前は越前から流れてきた神主にすぎぬというのではないか。
「なるほど当節は、力の世でござりまする。氏素姓などをとやかく申すのは愚のいたりのように見えまするが、将軍家擁立というこの場合にかぎってはそうではござりませぬ。いま流行《はやり》の“素姓卑《いや》しけれども実力あり”という出来《でき》星《ぼし》(成上り)大名などの心底はわかったものではござりませぬ。将軍家を護《まも》り奉ると称して虎《こ》狼《ろう》の悪心を抱き、おのれの野望の具に供し奉らんとするやも知れず。その例は遠からず。三好・松永の徒こそ、まずその好き例ではござりませぬか」
光秀の論は、そのとおりであろう。しかし言葉に無用の激越さが帯びはじめたのは、信長に対する感情があるからに相違ない。
「なるほど」
僧形《そうぎょう》の貴人は素直にうなずいた。
「されば策としては」
と、光秀はいう。
「遠国の良き大名には御教書を遣《つか》わすにとどめ、兵を近国であつめるがよろしきかと存じまする」
しかし近《きん》畿《き》の大名小名は、いずれも小振りで兵も弱く、力頼みにはならない。そのなかで辛うじて近江南部で十数万石を領する六角《ろっかく》承禎《じょうてい》がまずまずの力になってくれるであろう。それに紀州の根《ね》来《ごろ》寺《じ》に巣をかまえる僧兵集団の「根来衆」もいい。かれらは鉄砲を多く貯《たくわ》え、その射撃の精巧さにかけては海内《かいだい》に定評がある。
それに越前の朝倉氏。
これは光秀が客分として禄《ろく》をもらっている家だ。当主義景《よしかげ》は凡庸といっても、光秀のいう素姓論からいえば正式の越前守護家で、覚慶に頼られれば感激はするであろう。
「朝倉家には、それがしが参って説き、たとえ当主義景がみずから大兵をひきいて参上できぬとしても、とりあえず百や二百の御警固の武士を当御所に差しのぼらせるよう、説得いたしまする」
「なにぶんとも頼む」
と、覚慶は涙ぐむばかりにしていった。覚慶にすれば寺をとびだせばすぐ将軍になれると思いこんでいたのに、天下の情勢はそうは甘くはないことを知るにおよんで、心細くなりはじめている。
そのうち、覚慶が近江の甲賀郡の土豪の館に潜んでいるということを京の幕臣らが聞き伝えて、おいおい馳《は》せ集まってきた。
「お歴々が」と、光秀は次のような意味のことをいった。
「この山中に無為徒食していても仕方がない。みな、御門跡の内書や御教書を携えて四方に飛びなされ」
その路用の金もなかった。
「兵を出さぬ遠国の大名には、金品を出させるのです。往き《・・》の路銀だけをもってくだれば、帰路はその献上金でなんとか帰れる」
と光秀はいった。
当の光秀は、和田館に十日ほど足をとどめただけで、細川藤孝とともに朝倉家を説くべく越前一乗谷へ発《た》った。
一乗谷に着くと光秀はすぐ登城し、義景以下重臣の前で懸《けん》河《が》の弁をふるい、覚慶救援の対策を一挙にきめさせた。
護衛兵の派遣、金品の献納の二つである。
その帰路、近江小《お》谷《だに》の浅井氏、近江観音寺の六角氏を訪ね、それぞれ覚慶応援の約束をとって、和田館にもどった。
ほどなく覚慶は、和田の在所が交通上不便すぎるため、同じ近江の矢《や》島《しま》(守山付近)の少林寺という寺に移り、ここで髪を貯え、名を足利義秋(義昭)と名乗った。
矢島は、野洲《やす》・守山・草津といった街道の要衝に近いため、諸国の情報がきこえやすい。この矢島に移ってから、
「尾張の織田信長の勢いはいよいよ熾《さか》んなそうな」
という風聞がしきりと入ってくるため、光秀も捨てておけなくなり、
「いちど、探索に参りとうござりまする」
と義秋まで申し出、そのゆるしを得て尾張にむかって発った。このところ、光秀の才覚と活躍だけが、この将軍家相続者の存在をささえているようなものであった。
光秀は、尾張に入った。
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