妙なものだ。
筆者はこのところ光秀に夢中になりすぎているようである。人情で、ついつい孤剣の光秀に憐憫《れんびん》がかかりすぎたのであろう。
しかしその光秀も、多少の成功をおさめた。つまり、かれの人生のためには魔法の杖《・・・・》ともいうべき覚慶門跡を掌中におさめることができた。あとは八方駈《か》けまわって、覚慶の後援者をかきあつめ、この足利家出身の僧侶《そうりょ》を将軍に仕立てあげてゆく仕事だけが残っている。
かれほどこの仕事に性《しょう》が適《あ》っている男もめずらしい。この男は、「奔走家」という型に属する。余談だが、後世ならこの種の人物は出てくる。とくに徳川末期がそうである。幕末、諸藩の脱藩浪士は、はちきれるような夢を尊王攘夷《そんのうじょうい》と天皇政権の樹立に託しつつ天下を奔走した。しかし戦国中期にあっては、志士・奔走家といえる人物は明智十兵衛光秀しかない。
その光秀は、諸国を駈けまわりつつも、
(尾張の信長の動静はどうか)
との懸《け》念《ねん》が脳裏から離れない。信長め《・》はどこまで伸びるか、それともどこで潰《つぶ》れ去るか、その一事を注目しつづけた。
注目、といっても、光秀は、当の信長が伸びることを希望しているのか、それともあっさり潰れ去ることを祈っているのか、かれ自身でもよくわからない。
とにかく、光秀は信長の近況をさぐるために、尾張に入った。
さて、その信長。——
筆者はこのところ光秀に夢中になりすぎているようである。人情で、ついつい孤剣の光秀に憐憫《れんびん》がかかりすぎたのであろう。
しかしその光秀も、多少の成功をおさめた。つまり、かれの人生のためには魔法の杖《・・・・》ともいうべき覚慶門跡を掌中におさめることができた。あとは八方駈《か》けまわって、覚慶の後援者をかきあつめ、この足利家出身の僧侶《そうりょ》を将軍に仕立てあげてゆく仕事だけが残っている。
かれほどこの仕事に性《しょう》が適《あ》っている男もめずらしい。この男は、「奔走家」という型に属する。余談だが、後世ならこの種の人物は出てくる。とくに徳川末期がそうである。幕末、諸藩の脱藩浪士は、はちきれるような夢を尊王攘夷《そんのうじょうい》と天皇政権の樹立に託しつつ天下を奔走した。しかし戦国中期にあっては、志士・奔走家といえる人物は明智十兵衛光秀しかない。
その光秀は、諸国を駈けまわりつつも、
(尾張の信長の動静はどうか)
との懸《け》念《ねん》が脳裏から離れない。信長め《・》はどこまで伸びるか、それともどこで潰《つぶ》れ去るか、その一事を注目しつづけた。
注目、といっても、光秀は、当の信長が伸びることを希望しているのか、それともあっさり潰れ去ることを祈っているのか、かれ自身でもよくわからない。
とにかく、光秀は信長の近況をさぐるために、尾張に入った。
さて、その信長。——
ここ数年、光秀のいう「信長め」は、美濃攻略に熱中してきた。軍事・謀略・国境放火などあらゆる方法を信長は用いてきたが、結果はなお思わしくない。
「美濃と稲葉山城がほしい」
と、何度、濃姫の前でつぶやいたことか。
濃姫はたまりかねて、
「どうぞ。お奪《と》り遊ばせるなら」
と、皮肉をいってしまったことがある。彼女にとっては信長の攻撃対象は実家《さと》方《かた》の国である。いかに亡父道三が信長に「譲状」を遺《のこ》して死んだとはいえ、そうむざむざと美濃が崩れてはたまらぬという感情もある。
ところが。——
「なんの、稲葉山城はとっくに陥落しておりまするぞ。国守の竜興《たつおき》殿は、城を落ちて身を草深い片田舎に隠しておられまする」
との信ずべからざる情報をもちかえった細《さい》作《さく》(間諜《かんちょう》)がある。
「たわけ《・・・》を申すな」
と、最初信長はいった。信じられることではなかった。尾張軍数万の間断なき攻撃にもびくともしていない稲葉山城が、
——じつは陥《お》ちている。
とはどういうことであろう。竜興は陥ちてどこへ行ったのか。そもそもたれがその城を陥《おと》し、誰《たれ》がその城にいるのか。
「いま一度、くわしく調べてみよ」
と細作を多数放ったところ、かれらがぞくぞくと戻《もど》ってきて、口をそろえていうのは、
「まぎれもなく陥ちておりまする」
という驚くべき事実だった。しかし、尾張領へは一発の銃声もきこえてこなかったではないか。
(まるで、怪談《もののけばなし》のようだ)
と信長は思い、陥した人物の名をきいた。
「竹中半兵衛重治《しげはる》という人物でござりまする」
その城を陥した話というのは、ちょっと浮世ばなれがしているほど、ふしぎな話なのである。
「なんの、稲葉山城はとっくに陥落しておりまするぞ。国守の竜興《たつおき》殿は、城を落ちて身を草深い片田舎に隠しておられまする」
との信ずべからざる情報をもちかえった細《さい》作《さく》(間諜《かんちょう》)がある。
「たわけ《・・・》を申すな」
と、最初信長はいった。信じられることではなかった。尾張軍数万の間断なき攻撃にもびくともしていない稲葉山城が、
——じつは陥《お》ちている。
とはどういうことであろう。竜興は陥ちてどこへ行ったのか。そもそもたれがその城を陥《おと》し、誰《たれ》がその城にいるのか。
「いま一度、くわしく調べてみよ」
と細作を多数放ったところ、かれらがぞくぞくと戻《もど》ってきて、口をそろえていうのは、
「まぎれもなく陥ちておりまする」
という驚くべき事実だった。しかし、尾張領へは一発の銃声もきこえてこなかったではないか。
(まるで、怪談《もののけばなし》のようだ)
と信長は思い、陥した人物の名をきいた。
「竹中半兵衛重治《しげはる》という人物でござりまする」
その城を陥した話というのは、ちょっと浮世ばなれがしているほど、ふしぎな話なのである。
竹中家は、光秀の明智氏と同族で、美濃の小豪族の一つであり、不《ふ》破郡《わのこおり》の菩《ぼ》提《だい》という村に小さな城館を持っていた。菩提は、関ケ原から二キロばかり北方にある山間の村である。
半兵衛重治、この後世、天才的な軍略家として名を残した男は、少年のころはさほどの人物であるとの評判はなかった。
「菩提の半兵衛は呆気《うつけ》者《もの》である」
との評判さえあった。半兵衛は早く父を亡《な》くしたため少年の身で城主になっている。小《こ》賢《ざか》しく喋《しゃべ》りちらしては近隣の大人の城主どもから切り取られてしまう、と用心していたのかもしれない。戦国期にはめずらしく読書家で、軍書や兵書に精通していた。
おだやかで、無口な男だ。稲葉山城内での諸将の寄り合いのときも、
「おや、半兵衛はそこにいたか」
と、ひとびとが改めて気づかねばならぬほどに、人中でも物静かな男である。
乗用の馬まで静かであった。悍《かん》馬《ば》を好まず肥馬、大馬も好まない。痩《や》せておだやかな馬を好み、しずしずと打たせてゆく。
ふだんは年若なくせに隠居のような服装を好み、色合いも地味なものしか用いない。
合戦にはむろん、具足を着る。その具足は現今《いま》でも岐阜県関ケ原町の町役場に保存されている。革具足で、革は馬の裏皮を用い、それに粒漆《つぶうるし》を塗り、青と黄の中間色(萌《もえ》黄《ぎ》色《いろ》)の糸で縅《おど》した好みのしぶいものである。兜《かぶと》には一ノ谷の立物《たてもの》を打ち、腰に佩《は》く太刀は、「虎《とら》御《ご》前《ぜん》」という家重代の名刀を常用していた。
十七、八歳のころから、野戦に参加し、とくに南方から侵入してくる織田軍との戦闘に従軍し、しばしば武功をたて、
「退却のとき、半兵衛が殿《しんがり》をつとめてくれると、これほど安心なことはない」
という評判が、ぼつぼつうまれてきた。退却戦などのときの指揮ぶりがいかにも静かで、しかも軍配の一つ一つが神のように的確で誤るところがなかった。
平素、軍略を芸術のように考えているところがあり、たまに喋っても軍略のことばかりで、軍事以外は俗事にすぎぬ、と思っているようであった。
二十で、妻を娶《めと》った。
妻の実家は、美濃でも大豪族である。本巣《もとすの》郡芝原《こおりしばはら》の城主の安藤氏で、当主は、半兵衛の舅《しゅうと》にあたる安藤伊賀守守就《もりなり》であった。
舅の伊賀守は、土豪としては厄介《やっかい》な性格をもっている。能弁で活動家で、片時もじっとしていられない。自然、やることに策が多い。
「半兵衛、お屋形にはこまる。あれでは美濃は信長に食われてしまう」
と、つねづね、若い国守の竜興の荒淫《こういん》ぶりや投げやりな性格をこぼし、こぼすだけでなく稲葉山城に登城しては竜興に拝謁《はいえつ》を乞い、
「お屋形様のこの御乱行ぶりでは、美濃も長くはござりませぬぞ」
とずけずけいったり、さらにはもっと言葉に毒を含ませて、
「さぞ、隣国の信長はよろこんでいることでござろう。お屋形様は、信長を喜ばせるために美濃の国守になられたようなものじゃ」
といった。その言い方がいかにも嫌《いや》味《み》なために竜興はついには伊賀守を憎《ぞう》悪《お》するようになり、ある日、酒興の席で、
「伊賀、汝《うぬ》の口は!」
と飛びあがりざま、扇子で伊賀守の大頭をびしりと打ち、
「退《さが》れ、二度とその面《つら》を見せるな」
と、謹慎を命じた。
安藤伊賀守はこれを恨み、女婿《むすめむこ》の竹中半兵衛にぐずぐずとかき口説いた。
「なるほど、いかに人君たりとも、美濃三人衆の一《いつ》である舅上《ちちうえ》を打たれるとは、竜興様も悪性《あくしょう》な」
「悪性で済むか。いやさ、わしは頭を打たれようと出仕を止《と》められようともかまわぬ。この君を戴《いただ》いては美濃がほろびる。織田に奪《と》られてしまえば、かつての明智と同様、美濃衆はことごとく領土を離れ、諸国に流《る》浪《ろう》せねばならぬ」
「ではお屋形様のお目を醒《さ》ませ奉って進ぜましょう」
「どうするのじゃ」
「稲葉山城を乗っ取るのでござる。なに、城を奪るだけで、国を盗《と》るとは申しませぬ。お屋形様を追っぱらい、それでお目が醒めたならばお迎えし奉る」
「半兵衛、似合わぬ大言を吐くわ」
伊賀守はかつ驚きかつあきれたが、やがて半兵衛が即座に立てた乗っ取りの秘策を聴くにおよんで、膝《ひざ》を乗り出してきた。
「ふむ、出来そうじゃな」
「さればそれがしにお任せくだされますか」
「応《おう》さ、まかせいでか」
と、伊賀守は、いっぱしの悪謀家になったように昂奮《こうふん》し、顔を火照《ほて》らせた。
半兵衛重治、この後世、天才的な軍略家として名を残した男は、少年のころはさほどの人物であるとの評判はなかった。
「菩提の半兵衛は呆気《うつけ》者《もの》である」
との評判さえあった。半兵衛は早く父を亡《な》くしたため少年の身で城主になっている。小《こ》賢《ざか》しく喋《しゃべ》りちらしては近隣の大人の城主どもから切り取られてしまう、と用心していたのかもしれない。戦国期にはめずらしく読書家で、軍書や兵書に精通していた。
おだやかで、無口な男だ。稲葉山城内での諸将の寄り合いのときも、
「おや、半兵衛はそこにいたか」
と、ひとびとが改めて気づかねばならぬほどに、人中でも物静かな男である。
乗用の馬まで静かであった。悍《かん》馬《ば》を好まず肥馬、大馬も好まない。痩《や》せておだやかな馬を好み、しずしずと打たせてゆく。
ふだんは年若なくせに隠居のような服装を好み、色合いも地味なものしか用いない。
合戦にはむろん、具足を着る。その具足は現今《いま》でも岐阜県関ケ原町の町役場に保存されている。革具足で、革は馬の裏皮を用い、それに粒漆《つぶうるし》を塗り、青と黄の中間色(萌《もえ》黄《ぎ》色《いろ》)の糸で縅《おど》した好みのしぶいものである。兜《かぶと》には一ノ谷の立物《たてもの》を打ち、腰に佩《は》く太刀は、「虎《とら》御《ご》前《ぜん》」という家重代の名刀を常用していた。
十七、八歳のころから、野戦に参加し、とくに南方から侵入してくる織田軍との戦闘に従軍し、しばしば武功をたて、
「退却のとき、半兵衛が殿《しんがり》をつとめてくれると、これほど安心なことはない」
という評判が、ぼつぼつうまれてきた。退却戦などのときの指揮ぶりがいかにも静かで、しかも軍配の一つ一つが神のように的確で誤るところがなかった。
平素、軍略を芸術のように考えているところがあり、たまに喋っても軍略のことばかりで、軍事以外は俗事にすぎぬ、と思っているようであった。
二十で、妻を娶《めと》った。
妻の実家は、美濃でも大豪族である。本巣《もとすの》郡芝原《こおりしばはら》の城主の安藤氏で、当主は、半兵衛の舅《しゅうと》にあたる安藤伊賀守守就《もりなり》であった。
舅の伊賀守は、土豪としては厄介《やっかい》な性格をもっている。能弁で活動家で、片時もじっとしていられない。自然、やることに策が多い。
「半兵衛、お屋形にはこまる。あれでは美濃は信長に食われてしまう」
と、つねづね、若い国守の竜興の荒淫《こういん》ぶりや投げやりな性格をこぼし、こぼすだけでなく稲葉山城に登城しては竜興に拝謁《はいえつ》を乞い、
「お屋形様のこの御乱行ぶりでは、美濃も長くはござりませぬぞ」
とずけずけいったり、さらにはもっと言葉に毒を含ませて、
「さぞ、隣国の信長はよろこんでいることでござろう。お屋形様は、信長を喜ばせるために美濃の国守になられたようなものじゃ」
といった。その言い方がいかにも嫌《いや》味《み》なために竜興はついには伊賀守を憎《ぞう》悪《お》するようになり、ある日、酒興の席で、
「伊賀、汝《うぬ》の口は!」
と飛びあがりざま、扇子で伊賀守の大頭をびしりと打ち、
「退《さが》れ、二度とその面《つら》を見せるな」
と、謹慎を命じた。
安藤伊賀守はこれを恨み、女婿《むすめむこ》の竹中半兵衛にぐずぐずとかき口説いた。
「なるほど、いかに人君たりとも、美濃三人衆の一《いつ》である舅上《ちちうえ》を打たれるとは、竜興様も悪性《あくしょう》な」
「悪性で済むか。いやさ、わしは頭を打たれようと出仕を止《と》められようともかまわぬ。この君を戴《いただ》いては美濃がほろびる。織田に奪《と》られてしまえば、かつての明智と同様、美濃衆はことごとく領土を離れ、諸国に流《る》浪《ろう》せねばならぬ」
「ではお屋形様のお目を醒《さ》ませ奉って進ぜましょう」
「どうするのじゃ」
「稲葉山城を乗っ取るのでござる。なに、城を奪るだけで、国を盗《と》るとは申しませぬ。お屋形様を追っぱらい、それでお目が醒めたならばお迎えし奉る」
「半兵衛、似合わぬ大言を吐くわ」
伊賀守はかつ驚きかつあきれたが、やがて半兵衛が即座に立てた乗っ取りの秘策を聴くにおよんで、膝《ひざ》を乗り出してきた。
「ふむ、出来そうじゃな」
「さればそれがしにお任せくだされますか」
「応《おう》さ、まかせいでか」
と、伊賀守は、いっぱしの悪謀家になったように昂奮《こうふん》し、顔を火照《ほて》らせた。
それからほどもない。正確にいえば、永禄七年二月七日のことだ。
朝からめずらしいほどの晴天で、ひどく寒い。野に風の立つなかを、半兵衛は騎馬で出かけた。例によって軽装で、物静かな馬に乗り、身内と郎党わずか十六人しか従えていない。そのままずっと稲葉山城の大手門を入った。
「斎藤飛《ひ》騨守《だのかみ》殿に会いたい」
と、殿中に入り、一室にすわった。斎藤飛騨守というのは竜興のお気に入りの男で、年の頃《ころ》もあまりかわらない。ひたすらに竜興に迎合し、安藤伊賀守打擲《ちょうちゃく》事件のときも、
「ようこそなされた」
と、竜興をむしろけしかけ、ころげながら退出してゆく安藤伊賀守に、後ろから嘲罵《ちょうば》をはなった男である。
「半兵衛殿、なにか御用か」
と、斎藤飛騨守が入ってくると、竹中半兵衛はうなずき、低い声でぼそぼそと話しかけた。その声が飛騨守には聞こえない。
「もそっと、大きな声を出されよ」
と言いながら膝をすすめて耳を傾けたとき、やにわに半兵衛がその襟《えり》をつかんだ。
「あっ、なにをする」
と飛騨守が叫ぼうとしたときはすでに遅く半兵衛の脇差《わきざし》が抜かれ、
「極楽《よいところ》へ参られよ」
と、心《しん》ノ臓《ぞう》を一突きに突き刺していた。
「気の毒だが、やむを得ぬ。軍は必ずしも幾千幾万の兵をもって野戦攻城をするものとはかぎらぬ。匕《ひ》首《しゅ》を飛ばして瞬時に事を決する場合もありうる」
と、静かに廊下に出た。そのときには半兵衛の手まわりの者十六人が四方に飛んで竜興の側近の者五人を斬《き》り殺していた。
白昼の出来事である。
まさか白昼、殿中でかようなことを仕出かす者があるとは思えぬため、殿中の人々はいたずらに狼狽《ろうばい》するのみでどうすることもできない。
なにしろ荒淫に明けくれている竜興のそばには役に立つ士もおらず、さらにこの若い国守にとって不幸だったのは、稲葉山城警備を担当している家老日根野備中守が、自分の領地の厚見郡《あつみのこおり》中島ノ庄へ帰ってしまっている留守中の出来事だった。備中守以外に、この殿中の混乱を収拾する人物はいない。
半兵衛にとっては、そこがつけめ《・・・》だった。斎藤飛騨守を刺殺するや、すぐ人を走らせて城内の鐘楼にのぼらせ、最初は静かに、つぎは激しく、最後は捨鐘《すてがね》を一つ撞《つ》いて城外に合図した。
城外には、安藤の人数二千人ほどを伏せてある。それが一時に立ちあがり、鬨《とき》の声をあげて城門からなだれ込み、たちまち城内の要所々々を占拠してしまった。
乗っ取りは、うそのような手ぎわよさで、すらすらと運んだ。
さて、当の竜興である。
この騒ぎの最中、御座所で女どもを相手に酒を飲んでいたが、やがて事態を知り、茶坊主を走らせて様子をさぐらせると、西美濃衆一万が城内に入りこんでしまったという。
「一万」
むろん、半兵衛の流した流言である。竜興はその数に恐怖し、もはやかなわぬとみて城を脱け出した。竜興が城をぬけ出せるよう、半兵衛は勢子《せこ》が獣を追い立てるようにたくみに仕掛けを作ってある。竜興は美濃の野を駈《か》けに駈けて、本巣郡文殊村《もんじゅむら》の祐向山まで逃げこんだ。
「これでよし」
と、半兵衛は城門をとざし城下に高札《こうさつ》を立て、
「悪心から城を奪ったわけではなく、竜興殿を諫《いさ》めんがために非常手段に訴えたものである。されば士《し》庶《しょ》は鎮《しず》まるべし。ただし御城は当分のあいだ、竹中半兵衛がお預りする」
美濃の諸将にも、同様の使いをやった。美濃衆たちはかねて竜興の乱行に不安を抱いていた上、半兵衛の人柄《ひとがら》もよく知っている。
「よくぞやった」
とかえってほめる者もあり、ほめぬまでも兵を動かそうとする者はなく、ことごとく鎮まって成り行きを観望する態度をとった。
この急変が、勃発《ぼっぱつ》後何日目かで信長の耳に入ったのである。
「半兵衛とは、どのような男だ」
と美濃通の家来をよびあつめて聞くと、ひどく評判がいい。おだやかな君子肌《はだ》の若者、ということに、どの評も一致した。
「齢《とし》は」
「たしか、二十一でござりまする」
信長は、その若さに驚嘆した。しかし信長には半兵衛の人柄までは理解できない。半兵衛が一種の義憤と酔狂で竜興を追った、などというようなお伽話《とぎばなし》めいたことは、当節、信じられることではない。
(慾心があってのことだ)
と見た。第二の道三が美濃に出現したか、と信長は思った。その見方の上に立って、使者を、稲葉山城頭の竹中半兵衛のもとにやった。口上《こうじょう》は、
「この城はわしに譲れ」
ということである。
「わしの手もとには、故道三殿からの譲状もある。されば稲葉山城はわしのものである。しかしながら半兵衛、せっかくの骨折りゆえ、当方に譲り渡しの上は美濃半国を進ぜる」
と、使者に口上させた。
(その手には乗らぬ)
半兵衛は、深沈とした表情できいている。
この若者にはむろん信長の申し出を受ける気は金輪際《こんりんざい》なかったが、もし受けたばあい、そのあとどんな光景になるかという見通しさえありありと見えている。信長は稲葉山城を取りあげたあと、美濃半国を与えるどころか、
——主を追った不届者《ふとどきもの》
という名目で半兵衛を殺してしまうであろう。
「せっかくですが、お受け致しかねる。上総《かずさの》介《すけ》殿は、なにかかん《・・》ちがいあそばされているのではないか。拙者がこういう仕打ちを主に加えたのは義のためであって私利によるものではありませぬ」
そう返答すると尾張の使者を追いかえし、その日のうちに文殊村から竜興を迎えてさっさと城を返し、わが自領の不破郡菩提の山城にひきあげてしまった。
(水ぎわだったことをする男だ)
と、信長はこの始末を尾張小牧山城できき、この乱世に、竹中半兵衛のような男がいることをむしろよろこんだ。信長には、こういう無慾な酔狂人というのが、たまらなく好きなところがあるらしい。
「あの男をわが家来にしたい」
といってそのころすでに織田家の部将になっている木下藤吉郎秀吉を美濃菩提村にゆかせ、さんざんに口説かせたのは、このあとである。
藤吉郎は六度、菩提の城館を訪ね、六度とも半兵衛にことわられた。
半兵衛の拒絶には、竜興への節義を立てるという理由もあったが、ひとつには、信長の苛《か》烈《れつ》な性格を怖《おそ》れた。
(あの殿は人を許せぬ性格《たち》だ。いずれ長いあいだには機《き》嫌《げん》を損ずることがあろう。そのときは自分の身のほろぶときだ)
とみて、あくまでも承諾しない。
が、半兵衛の内心、織田信長という若い武将を高く買うところがある。
(いずれ美濃はほろび、自分は止り木をうしなうことになるだろう。それとは逆に信長は大いに伸び、ついに天下に威をふるうときがくるかもしれない。されば自分の軍才をこのまま朽ち枯らせるよりも、信長によって大いに表現の場を得てみたい)
という気持もあった。木下藤吉郎はそこを刺《し》戟《げき》し、さんざんに口説いたすえ、七度目についに承諾させた。
信長の直臣《じきしん》になるということではない。藤吉郎の参謀になる、という契約である。これは半兵衛が持ちかけた条件だった。
半兵衛の信長観は、不幸なかたちで的中した。このとき半兵衛とともに帰属した舅の安藤伊賀守守就についてである。信長は伊賀守の策謀癖をきらい、重用しなかった。
伊賀守もそれを察し、織田家に帰属した美濃の二、三の将と謀《む》反《ほん》を企てて失敗し、領地を没収されて武儀郡の山中に蟄居《ちつきょ》した。
さて、この半兵衛事件の半年後のことである。
(半兵衛でさえ奪った稲葉山城を、おれがとれぬことがあるか)
と信長は発奮し、美濃国内に十分謀略の手を打ったあと、この年の七月三十日、にわかに軍をおこした。
「半兵衛とは、どのような男だ」
と美濃通の家来をよびあつめて聞くと、ひどく評判がいい。おだやかな君子肌《はだ》の若者、ということに、どの評も一致した。
「齢《とし》は」
「たしか、二十一でござりまする」
信長は、その若さに驚嘆した。しかし信長には半兵衛の人柄までは理解できない。半兵衛が一種の義憤と酔狂で竜興を追った、などというようなお伽話《とぎばなし》めいたことは、当節、信じられることではない。
(慾心があってのことだ)
と見た。第二の道三が美濃に出現したか、と信長は思った。その見方の上に立って、使者を、稲葉山城頭の竹中半兵衛のもとにやった。口上《こうじょう》は、
「この城はわしに譲れ」
ということである。
「わしの手もとには、故道三殿からの譲状もある。されば稲葉山城はわしのものである。しかしながら半兵衛、せっかくの骨折りゆえ、当方に譲り渡しの上は美濃半国を進ぜる」
と、使者に口上させた。
(その手には乗らぬ)
半兵衛は、深沈とした表情できいている。
この若者にはむろん信長の申し出を受ける気は金輪際《こんりんざい》なかったが、もし受けたばあい、そのあとどんな光景になるかという見通しさえありありと見えている。信長は稲葉山城を取りあげたあと、美濃半国を与えるどころか、
——主を追った不届者《ふとどきもの》
という名目で半兵衛を殺してしまうであろう。
「せっかくですが、お受け致しかねる。上総《かずさの》介《すけ》殿は、なにかかん《・・》ちがいあそばされているのではないか。拙者がこういう仕打ちを主に加えたのは義のためであって私利によるものではありませぬ」
そう返答すると尾張の使者を追いかえし、その日のうちに文殊村から竜興を迎えてさっさと城を返し、わが自領の不破郡菩提の山城にひきあげてしまった。
(水ぎわだったことをする男だ)
と、信長はこの始末を尾張小牧山城できき、この乱世に、竹中半兵衛のような男がいることをむしろよろこんだ。信長には、こういう無慾な酔狂人というのが、たまらなく好きなところがあるらしい。
「あの男をわが家来にしたい」
といってそのころすでに織田家の部将になっている木下藤吉郎秀吉を美濃菩提村にゆかせ、さんざんに口説かせたのは、このあとである。
藤吉郎は六度、菩提の城館を訪ね、六度とも半兵衛にことわられた。
半兵衛の拒絶には、竜興への節義を立てるという理由もあったが、ひとつには、信長の苛《か》烈《れつ》な性格を怖《おそ》れた。
(あの殿は人を許せぬ性格《たち》だ。いずれ長いあいだには機《き》嫌《げん》を損ずることがあろう。そのときは自分の身のほろぶときだ)
とみて、あくまでも承諾しない。
が、半兵衛の内心、織田信長という若い武将を高く買うところがある。
(いずれ美濃はほろび、自分は止り木をうしなうことになるだろう。それとは逆に信長は大いに伸び、ついに天下に威をふるうときがくるかもしれない。されば自分の軍才をこのまま朽ち枯らせるよりも、信長によって大いに表現の場を得てみたい)
という気持もあった。木下藤吉郎はそこを刺《し》戟《げき》し、さんざんに口説いたすえ、七度目についに承諾させた。
信長の直臣《じきしん》になるということではない。藤吉郎の参謀になる、という契約である。これは半兵衛が持ちかけた条件だった。
半兵衛の信長観は、不幸なかたちで的中した。このとき半兵衛とともに帰属した舅の安藤伊賀守守就についてである。信長は伊賀守の策謀癖をきらい、重用しなかった。
伊賀守もそれを察し、織田家に帰属した美濃の二、三の将と謀《む》反《ほん》を企てて失敗し、領地を没収されて武儀郡の山中に蟄居《ちつきょ》した。
さて、この半兵衛事件の半年後のことである。
(半兵衛でさえ奪った稲葉山城を、おれがとれぬことがあるか)
と信長は発奮し、美濃国内に十分謀略の手を打ったあと、この年の七月三十日、にわかに軍をおこした。