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国盗り物語97

时间: 2020-05-25    进入日语论坛
核心提示:藤吉郎 美濃攻めには、木下藤吉郎秀吉という尾張の浮浪児あがりの将校が演じた役割りがもっとも大きい。秀吉は、この年、満で二
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藤吉郎

 美濃攻めには、木下藤吉郎秀吉という尾張の浮浪児あがりの将校が演じた役割りがもっとも大きい。
秀吉は、この年、満で二十八歳。信長よりもふたつ年下である。
「猿《さる》はなかなかやる」
と、信長はつねにそういう目でこの秀吉を見ている。
信長には、稀有《けう》な性格がある。人間を機能としてしか見ないことだ。織田軍団を強化し、他国を掠《かす》め、ついには天下を取る、という利《と》ぎすました剣の尖《さき》のようにするどいこの「目的」のためにかれは親類縁者、家来のすべてを凝集しようとしていた。
かれら——といっても、彼等の肉体を信長は凝集しようとしているのではない。
かれらの門地でもない。かれらの血統でもない。かれらの父の名声でもない。信長にとってはそういう「属性」はなんの意味もなかった。
機能である。
その男は何が出来るか、どれほど出来るか、という能力だけで部下を使い、抜擢《ばってき》し、ときには除外し、ひどいばあいは追放したり殺したりした。すさまじい人事である。
このすさまじい人事に堪えぬいたのが、秀吉である。いや、むしろ織田家の方針・家風がそうであったればこそ、この男のような氏も素姓もない人間でも抜擢につぐ抜擢の幸運にあうことができた。門閥主義の他国には類のないことである。
能力だけではない。
信長の家来になるには働き者でなければならない。それも尋常一様な働きぶりでは信長はよろこばなかった。身を粉にするような働きぶりを、信長は要求した。
それだけではない。
可愛《かわい》気《げ》のある働き者を好んだ。能力があっても、謀《む》反《ほん》気《ぎ》のつよい理屈屋を信長は好まず、それらの者は織田家の尖鋭《せんえい》きわまりない「目的」に適《あ》わぬ者として、追放されたり、ときには殺されたりした。
そんな家風である。だから他国では、
「上総介《かずさのすけ》殿は残忍である。家来に対して容赦をせぬ」
とか、
「織田家では、ただの侍はつとまらぬ」
などと取《と》り沙汰《ざた》された。現に、織田家から勧誘された知名の牢人《ろうにん》でも、
「織田家だけは」
と尻《しり》ごみして断わる例が多い。最近では竹中半兵衛がそうである。
そういう信長の方針に、小者のときから堪えぬき、堪えぬくだけではなく信長の方針に適《かな》うみごとな模範として頭角をぬきん出てきたのが、木下藤吉郎秀吉である。
竹中半兵衛が、
「織田家の直参はいやだが、あなたの家来ならば」
と秀吉を見込んだのも、ひとつはそういう点である。
信長の苛《か》烈《れつ》きわまりない方針に堪えて中級将校になるまで立身した男というだけでも、異常である。なぜならば信長という男は口先でごまかされる男ではなく、家来の骨髄まで見ぬいてその人間を評価する男だ。
(それだけに秀吉はいよいよ立身するにちがいない)
と、半兵衛は見た。立身すれば大軍を動かす。その大軍の軍師を半兵衛はつとめる。軍師としてこれほどおもしろく、やりがいのあることはない。
だからこそ、半兵衛は秀吉に仕えた。
さて、秀吉である。
この男は、人の心を読むことに長《た》けている。名人といっていい。信長の関心が、一にも二にも美濃攻略以外にないと見、自分自身も一将校の身分ながら、かれの範囲内で美濃攻めのことに没頭しぬいた。
いや、範囲外にまで出た。
美濃攻めの橋頭堡《きょうとうほ》(足掛りの野戦要塞《ようさい》)を築くにあたって、
「ぜひやつがれ《・・・・》に」
と、志願し、危険をおかして国境線の河中の洲《す》で築城作業をし、ついに築きあげた。世に「墨股《すのまた》の一夜城」といわれる手《て》柄《がら》である。
信長はよろこび、
「藤吉郎、汝《われ》が番をせい」
と命じたので、一躍、秀吉は野戦要塞の指揮官になった。この要塞にはかれの才覚でかきあつめた野武士を多数入れておいた。蜂《はち》須《す》賀小《かこ》六《ろく》らである。
この墨股に駐屯《ちゅうとん》したことは秀吉の前途を大いにひらかせた。なぜといえば、美濃への最前線である。
「よく守っておれ」
と信長はそれだけの任務をあたえただけだが秀吉は任務を拡大した。美濃への秘密工作に乗り出したのである。
美濃侍の竹中半兵衛を口説いて自分の家来にしたのもその一例であった。
半兵衛には、利用価値がある。
かれを通じて、美濃衆の切り崩しを秀吉ははじめた。さらに情報もあつめた。
「猿は、美濃の政情にあかるい」
と、信長に認められるようになった。事実織田軍のなかで秀吉はずばぬけた美濃通になり、信長は何事も秀吉に相談せざるをえなくなった。
秀吉の秘密工作は、すさまじい。
一例をあげると、こうだ。
美濃の本城である稲葉山城のことである。
「稲葉山城はさすがに故道三殿の居城だっただけに兵糧蔵《ひょうろうぐら》の米がおびただしゅうござる。あれならば二年、三年の籠城《ろうじょう》にも堪えられましょう」
と竹中半兵衛がいったので、秀吉はなるほどと思い、半兵衛と一策を講じて、それをなんとか分散させようとした。
そこで半兵衛を通じて、すでに織田方に内通を確約している美濃三人衆を口説き、一策をさずけた。
美濃三人衆はさっそく稲葉山城に登城し、お屋形様である竜興に説き、
「将来、織田軍は、多方面から美濃に侵略してまいりましょう。兵や兵糧を、稲葉山城に集中しておいては国内各所での防戦ができかねます。よろしく分散あそばすのが、得策かと存じまする」
といった。
竜興は、愚物である。「ああそれも一理である」とその説を容《い》れ、ただちに城から兵糧米を運び出させ、守備兵も各地に分散した。
策は成功した。
秀吉はこの旨《むね》を信長に報告すると、
「猿、やったわ」
と膝《ひざ》をうち、いま一度念を押した。
「たしかに兵糧米は分散したか。人数も手薄になっておるか。間違いはないな」
「間違いござりませぬ。手前、稲葉山城下に諜者《ちょうじゃ》を放って、シカと相確かめましてござりまする。されば間違いはござりませぬ」
信長は、不確実な仕事をきらう。秀吉はその気質をよく知っている。
秀吉は退出した。
その翌日の未明である。信長は、美濃への前線指揮所である小牧山城に、にわかに大軍をあつめた。
夜は、まだ明けない。
しかも前夜来からの雨が風をともない、道を掘りくだくような豪雨になった。
(桶狭《おけはざ》間《ま》のときも、このような風雨だった)
この雨に、信長は気をよくしていた。いや、この風雨なればこそ、信長はにわかに決意し、突如の軍令をくだし、不意の作戦をおこそうという気になったのである。
「敵は、三《み》河《かわ》である」
と、信長は全軍に布告し、まず味方をあざむいた。三河ならば、東である。
美濃稲葉山城は北であった。城門をとび出した信長は路上でくるくると輪乗りし、やがて手綱をぐっとひくや、馬首を北にむけ、
「美濃へ」
と、一声さけんで、鞭《むち》をあげた。

尾張小牧から美濃稲葉山城(岐阜市)へは二十キロある。
道路は、あぜ道をひろげた程度の粗末なものだ。兵はときには三列になり、ときには一列にならざるをえない。その狭い北進路を揉《も》みに揉んで進んだ。
風雨は衰えず、滝のなかをくぐるような行軍になった。ときに人馬が泥濘《でいねい》のなかでころび、あとにつづく馬《ば》蹄《てい》に踏みくだかれる者もある。
「めざすは稲葉山城ぞ」
ということは、すでに雑兵《ぞうひょう》のはしばしにいたるまで知りはじめていた。
稲葉山城は、先代信秀のころからあくことなく攻撃をくりかえし、累計《るいけい》幾千の尾張兵がそのために命をおとし、しかもなお巍《ぎ》然《ぜん》として陥落を知らぬ城である。
信長も、雨に打たれている。
雨は兜《かぶと》の目庇《まびさし》から流れ落ち、その雨の条《すじ》を通してかろうじて前方を進む前衛部隊のタイマツの炎がみえるほどである。
「藤吉、藤吉」
と、信長はよんだ。使番が走り、その旨が前衛軍にいる秀吉に伝わった。
秀吉はさがってきて、馬を降り、手綱を曳《ひ》きながら、馬上の信長を見あげた。
「藤吉郎、おん前に」
「工夫がついたか」
と、信長は、唐突にいった。信長はほとんど前置きをいわない。ときに言語の主格をさえはずして、藪《やぶ》から棒にいう。よほど機敏な頭脳とかん《・・》をもった男でなければ、この男の家来にはなれない。
秀吉は馴《な》れている。
(おれに、独自の稲葉山城攻めの工夫があるかというお言葉か。殿様はそれを省略なされている。いきなり、その工夫がついたか、とおおせられているのであろう)
むろん、秀吉はぬけ目がない。工夫はついている。ついているどころか、この男はすでに手も打っていた。
秀吉の細心は、それだけではない。あまり独断を用いると、信長の嫉《しっ》妬《と》を買う。それを知っている。これを嫉妬というべきかどうか。
とにかく秀吉は信長の天才であることを知りぬいている。才能というものは才能をときに嫉《そね》むものだ。秀吉は嫉まれたくない。
それに、家来があまりに才走りすぎると、鋭敏な将ほど、
(はて?)
と、用心の心をおこすものだ。将来、自分の位置を狙《ねら》うのではないか、という警戒と怖れである。幼いころから人中《ひとなか》で苦労してきた秀吉は、そういう人情の機微をよく知っている。
例がある。秀吉自身の例である。秀吉がのちに立身したとき、創業の功臣である竹中半兵衛にはほんのわずかな知行をあたえ、その功に値いするような大領をあたえなかった。
——なぜ半兵衛をあのような少禄《しょうろく》におとどめなされておるのでございます。
と側近がきいたとき、秀吉は笑って、
「半兵衛に五万石も与えれば天下を取るであろう」
といったことがある。秀吉の参謀筆頭ともいうべき黒田官兵衛(如水《じょすい》)に対しても、ほんのわずかな領地をあたえたにすぎなかった。秀吉の用心といっていい。
秀吉は、信長という気むずかしい大将に仕えるのに、細心の心くばりをしていた。
この、
「工夫」
についても、かつて信長にこれこれの思案がございますがその実施にはどうすればよろしゅうございましょう、とむしろ信長から智恵を拝借するというかたちで言上したことがある。すると信長は、よろこんで指示をした。
そのことを、いま雨中を行進している信長はわすれているらしい。
「殿、以前に御《お》指《さし》図《ず》を頂戴《ちょうだい》しましたる一件」
「指図?」
馬を進ませている。
「したか」
信長の言葉はつねにみじかい。
「はい。なされました。稲葉山城下に野ぶし《・・・》を多数埋めておけ、と。藤吉郎、御指図どおり、ここ十日ばかり前から、かれら墨股の野ぶしを、百姓、物売り、雲水、山伏《やまぶし》、乞食、高野聖《こうやひじり》、川人夫などに化けさせ、小人数ずつ、目だたぬように美濃へ入れてござりまする」
「ようやったぞ」
信長は、秀吉の才気よりもむしろ、その蔭《かげ》日向《ひなた》のない精励ぶりに感心した。秀吉がねらったのも、才気をほめられるよりその精励ぶりをほめられたかったのである。
「それで、その乱《らっ》破《ぱ》(野ぶし)どもには、この突如なる美濃攻めがわかっておるか。わかっておらねば、呼応できぬぞ」
「さん候《そうろう》」
秀吉は小気味よく答えた。
「蜂須賀小六、すでに駈《か》け走りましてござりまする」
小六は秀吉が家来分にした野ぶしのかしら《・・・》である。すでに美濃へ駈けこんでかれらを掻《か》きあつめつつあるというのだ。
「どこへ集めるつもりだ」
「おそれながら独断ではござりまするが、瑞《ずい》竜寺山《りゅうじやま》の裏に」
瑞竜寺山とは、稲葉山の一峰である。その裏山に隠密《おんみつ》裏《り》に集合させつつあるという。
「されば、お願いの筋がござりまする」
「なんだ」
「それがしの部署のことでござりまする。瑞竜寺山方面の寄せに加わらせていただきとうござりまする」
「よかろう」
信長はこころよくうなずいた。
 夜あけとともに雨はあがったが、風は衰えない。午前十一時ごろ信長は稲葉山城下に入り、城下を大きく包囲した。
兵、一万二千人である。
稲葉山城のほうは例の調略に乗って守備兵をすくなくしてしまっているため、ほとんど城外での防戦ができず、ことごとく本城に逃げこんでしまった。
信長は、全軍に布告した。
「勝負は、二度はない」
それだけの言葉である。父の代以来、十数度この城にピストン攻撃をくわえてきたがことごとく失敗した。しかしこのたびこそ最後の勝負であるという意味である。
風は西風になっている。
その風に乗って、まず、火《か》攻《こう》を施した。敵の防戦の拠点を灰にするため、城下一帯に火を放ち、とくに神社仏閣や目ぼしい建築物をことごとく焼きはらわせた。その黒煙は宙天に渦《うず》をまき、稲葉山の山容をさえかくすほどであった。この火攻めのために、午後になると稲葉山城は裸城同然の姿になった。
が、天下の堅城である。それでもなお力攻めでは陥《お》ちない。
信長は、城をとりまいて城外に二重・三重の鹿垣《ししかぎ》をつくり、敵の援軍の来襲をふせぎつつ、持久戦にとりかかり、稲葉山城を兵糧攻めにして干しあげようとした。
滞陣十四日目のことだ。
秀吉はその間、配下の野ぶしをつかい、
「本丸への間道《かんどう》はないか」
と、稲葉山周辺の地理を探索させていたが、ある日、一人の猟師をとらえた。堀尾茂助という若者である。
人間の運命とは妙なものだ。この稲葉山住いの若い猟師が、このあと秀吉の家来になり、累進して豊臣家の中老職をつとめ、遠州浜松十二万石の大名になるにいたる。
この茂助が、
「この山麓《さんろく》の一角に、達目洞《だちぼくどう》という小さな山ひだ《・・》がございます。そこから崖登《がけのぼ》りすればわけなく二ノ丸に登りつけます」
といった。この一言が、稲葉山城の運命を変えた。秀吉はこの茂助を道案内とし、新規にかかえた野ぶしあがりの蜂須賀小六ほか五人をつれて夜陰、崖のぼりし、二ノ丸に忍びこんで兵糧蔵に放火し、ついで自分の弟(秀長)に指揮させている本隊七百人をよび入れ、さらに間道を進んで天守閣の石垣にとりつき、陥落の糸口をつくった。
その翌日、竜興は降伏し、信長によって助命され、近江へ逃げた。
城は陥ちた。
信長は、ここを居城にしようとした。
が、美濃の戦後情勢がなお不穏であったことと、城の修築のため城番を置いて、みずからは尾張にしりぞき、あいかわらず小牧山城を指揮所として美濃の戦後経営にあたった。
とにかく信長はこの占領した稲葉山城には居住していない。このため諸国で、
——美濃稲葉山城はまだ陥ちていない。
という風聞がおこなわれ、その点がひどくあいまいな流《る》説《せつ》になっていた。
(はたしてどうか)
と、それを確かめるために明智光秀が尾張に入ってきたのは、そのころである。
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