光秀は、尾張の国内をひそかに視察し、信長の美濃《みの》稲葉山城《いなばやまじょう》奪取が事実であることを知った。
(あのたわけ《・・・》殿め、たわけ《・・・》にしてはやったものよ)
光秀は、不快ながらも信長への認識をすこしずつあらためざるを得なかった。
(桶狭《おけはざ》間《ま》の奇襲成功はまぐれとしても、こんどの稲葉山城奪取はまぐれではない)
道三《どうさん》がその才と財をかたむけ、屈強の天嶮《てんけん》をたのんで築きあげた天下の名城である。それをまぐれで陥《おと》せるとは光秀も考えていなかった。信長はその器量で陥したといっていい。
(どのようにして陥したか)
軍事専門家としての光秀の興味あるところである。それを跡づけてゆけば、信長という、光秀にとって疑問の人物の能力のほどがわかるのではあるまいか。
美濃に入った。
光秀にとって故郷の地である。尾張領河《こう》渡《ど》の渡しから舟に乗って美濃領に入り、稲葉山城下に入ったとき、この多感な男は、涙があふれてくるのをどうすることもできなかった。
(……国破れて山河あり城春にして草木深し、とはこういう感傷をいうのであろう)
光秀は城下の辻《つじ》にたたずみ、夕映えのなかで編笠《あみがさ》をあげ、すでに織田家のものになりはてている稲葉山城を仰ぎみた。
(道三殿の栄華もいまは夢か。あの城頭に道三殿自慢の二《に》頭波頭《とうなみがしら》の旗がひるがえっていたのはきのうのことのように思えるが)
町の名称も、陥落後、信長によって、
岐阜《ぎふ》
とあらためられた。城の名もすでに稲葉山城ではなく岐阜城であった。
(岐阜か)
美濃の名族の家にうまれた光秀にとっては旧名の稲葉山城のほうがどれだけよいかわからない。岐阜、などという唐音《とうおん》の名称ではなにやらよその土地のように思えるのである。
(信長は、改称によって美濃の人心を一新しようとしているのにちがいない。それにしても岐阜とはつけもつけたるものよ)
光秀が途々《みちみち》きいたところでは、古代中国を統一した王朝である周帝国のそもそもの発祥は、陝西省《せんせいしょう》の岐《き》山《ざん》であった。信長はその岐山の岐《・》をとり、岐阜という文字をえらんだ。むろん信長自身がそういう典拠を知っていたわけではない。沢彦《たくげん》という禅僧をよび、その僧に新しい地名の案をいくつか出させ、「岐《ぎ》」の縁起をきき、
「ソウカ、左様ナ意デアルカ」
と即座に岐阜の名をえらんだ。
(信長は、周王朝をおこす気か)
その壮大な野望を、この地名に託したとしかおもえない。天下に英雄豪傑が雲のごとくむらがり出ているとはいえ、信長ほど端的で率直に天下統一の野望をもっている男はあるいはいないかもしれない。
(痴《こけ》の一念というか。あほう《・・・》だけに、志には夢中だ。余念がないのであろう)
光秀は、悪意をこめてそう思った。
岐阜《・・》城下を、光秀はさまよいあるいた。
以前はこの城下の町名を「井ノ口」といったのだが、岐阜と改まって以来、城下の景色までが一変したような気がする。
(どこもかしこも、普《ふ》請《しん》中だ)
単なる復興工事ではない。信長はあたらしい町割り(都市計画)をもって岐阜という町をあらたに生みあげようとしているようである。
光秀が聞いたところでは、信長は城を陥したあと、すぐ尾張へ帰った。あれほどほしがったこの城に入ろうとはしない。
この信長の行動は奇妙であった。
(なぜか)
ということを、光秀は、尾張・美濃の現地でさぐろうとした。
現地で、ようやくわかった。信長は城を陥したあと、城内の片づけを前田利家《としいえ》に命じ、さらに城下の行政と建設指揮を家老の柴《しば》田《た》勝《かつ》家《いえ》・林通勝《みちかつ》のふたりに命じた。
(どうやら)
と、光秀はおもった。計画的な城下町の建設に、信長は乗り出したようである。その完成まで二、三年はかかると信長は見、みずからは身をひいて尾張にすわりつづけているのであろう。
(岐阜という名をつけたことと言い、この大規模な町普請の様子といい、信長は将来ここを根拠地として勢力を四方に伸ばそうとしているのにちがいない)
岐阜を織田家の首都にするつもりであろうと光秀はみた。
それにしても、町はすさまじいばかりの混雑ぶりである。美濃・尾張の各地から大工、左官、人夫が数千人も入りこみ、織田家の侍の指揮に従ってあらゆる現場で働いていた。
道路も道三当時よりもひろくしつつあることは、両側の溝《みぞ》切《き》りの間隔でも察せられた。
それに、大小の武家屋敷が、軒をならべて新築されつつあり、この様子からみれば全織田軍をこの城下に集中しようとしていることはたしかだった。
さらに光秀は辻々を歩いた。
この男がもっともおどろいたのは、山麓《さんろく》で普請をすすめられている御殿を見たときだった。
(これは将来信長が入るべき居館か)
と、光秀は作《さく》事場《じば》に近づいて行った。敷地は、道三の居館のあとである。道三がその好みで設計し、名匠岡部又右衛門に建てさせた居館は、戦火で焼失していまはあとかたもない。
その道三居館の焼けあとはきれいに整地され、その上にすでにあたらしい建築の骨組みがつくられつつある。
(世は動いてゆく)
と、思わざるを得ない。
「ちと、ものをききたいが」
と、光秀は、路上に休息している石運びの人夫の群れに近づき、物やわらかに話しかけた。
「この作事場は、どなたが棟梁《とうりょう》かね」
「へえ」
人夫は、促音《そくおん》の多い三《み》河《かわ》言葉で喋《しゃべ》りはじめた。光秀にはひどく聞きとりにくい。
まず、人夫が三河者だということが、光秀にひとつの感銘をあたえた。三河は、信長より八つ年下の徳川家康の領国である。数年前、信長と同盟し、その結束は当節めずらしく固いという評判が世上行なわれている。
(事実だ)
と、光秀は人夫を見ておもった。家康は信長の都市建設のために人夫を自国から出しているのである。この結束の固さは、織田家の実力を測定する上で重要な要素になるであろう。
光秀は何度もききかえして、一つの名前を聞き取った。岡部又右衛門である。
(なるほど、岡部にやらせているのか)
岡部又右衛門は、道三が発見し、道三がひきたてて城郭建築の巨匠に仕立てて行った棟梁で、以前この敷地にあった道三館《やかた》も、この人物の手で建てられたものであった。
「それは名匠だ」
と、光秀は人夫にお世辞をいいつつ、作事場の光景を見た。
(どういう館が出来あがるのか)
信長には信長の好みがあるにちがいない。それはまだこの作事場からは窺《うかが》い知ることはできない。
かつての道三の建築と造園というものは東山風のしぶいもので城主の教養の深さを十分にしのぶことができた。
「どのような御殿ができるのかね」
「さあね、そいつは、われわれ風《ふ》情《ぜい》にわかるこっちゃねえが、棟梁の岡部様が大そうおこまりだというこった」
「ほう、なにを」
「南蛮風というのかね、そういうめずらしい御殿ができるってこった」
聞けば、信長は、道三風の閑寂な美をすて建物は三階建てとし、黄金、朱漆《しゅうるし》、黒漆などをふんだんに使え、と岡部に命じ、岡部はそのために頭を痛めているという。
(なんたる無智)
光秀は、この現地にきてはじめて信長の軽《けい》蔑《べつ》すべき欠陥を見たような気がした。
(やはり、たわけ《・・・》殿はたわけ《・・・》殿にすぎぬ)
光秀は、うれしくなった。合戦《かっせん》には強くても無教養はおおうべくもない、と思った。南蛮風の建物をつくれ、とはなんという突飛さであろう。
(あの男は、数年前は、しばしば微行して堺《さかい》にゆき、南蛮の文物を見てきている。ああいう華麗なものにあこがれるというのは、所詮《しょせん》は田舎者にすぎぬからだ)
光秀は、教養主義者である。粗野で無教養な男というものを頭から軽侮する癖をもっている。信長を、その軽侮の対象として見た。
(所詮は、出来《でき》星《ぼし》大名か)
としか思えない。
(あの男は、道三殿の娘を室にしている。道三殿に愛されもした。しかし所詮は道三殿の衣《い》鉢《はつ》を継げぬ男であるらしい)
この場合、光秀が考えている「道三殿の衣鉢」というのは、道三がもっていた東山文化風な洗練された趣味と教養である。それのない信長は、光秀にはなにやら野蛮国の王のようにおもえた。
(あのたわけ《・・・》殿め、たわけ《・・・》にしてはやったものよ)
光秀は、不快ながらも信長への認識をすこしずつあらためざるを得なかった。
(桶狭《おけはざ》間《ま》の奇襲成功はまぐれとしても、こんどの稲葉山城奪取はまぐれではない)
道三《どうさん》がその才と財をかたむけ、屈強の天嶮《てんけん》をたのんで築きあげた天下の名城である。それをまぐれで陥《おと》せるとは光秀も考えていなかった。信長はその器量で陥したといっていい。
(どのようにして陥したか)
軍事専門家としての光秀の興味あるところである。それを跡づけてゆけば、信長という、光秀にとって疑問の人物の能力のほどがわかるのではあるまいか。
美濃に入った。
光秀にとって故郷の地である。尾張領河《こう》渡《ど》の渡しから舟に乗って美濃領に入り、稲葉山城下に入ったとき、この多感な男は、涙があふれてくるのをどうすることもできなかった。
(……国破れて山河あり城春にして草木深し、とはこういう感傷をいうのであろう)
光秀は城下の辻《つじ》にたたずみ、夕映えのなかで編笠《あみがさ》をあげ、すでに織田家のものになりはてている稲葉山城を仰ぎみた。
(道三殿の栄華もいまは夢か。あの城頭に道三殿自慢の二《に》頭波頭《とうなみがしら》の旗がひるがえっていたのはきのうのことのように思えるが)
町の名称も、陥落後、信長によって、
岐阜《ぎふ》
とあらためられた。城の名もすでに稲葉山城ではなく岐阜城であった。
(岐阜か)
美濃の名族の家にうまれた光秀にとっては旧名の稲葉山城のほうがどれだけよいかわからない。岐阜、などという唐音《とうおん》の名称ではなにやらよその土地のように思えるのである。
(信長は、改称によって美濃の人心を一新しようとしているのにちがいない。それにしても岐阜とはつけもつけたるものよ)
光秀が途々《みちみち》きいたところでは、古代中国を統一した王朝である周帝国のそもそもの発祥は、陝西省《せんせいしょう》の岐《き》山《ざん》であった。信長はその岐山の岐《・》をとり、岐阜という文字をえらんだ。むろん信長自身がそういう典拠を知っていたわけではない。沢彦《たくげん》という禅僧をよび、その僧に新しい地名の案をいくつか出させ、「岐《ぎ》」の縁起をきき、
「ソウカ、左様ナ意デアルカ」
と即座に岐阜の名をえらんだ。
(信長は、周王朝をおこす気か)
その壮大な野望を、この地名に託したとしかおもえない。天下に英雄豪傑が雲のごとくむらがり出ているとはいえ、信長ほど端的で率直に天下統一の野望をもっている男はあるいはいないかもしれない。
(痴《こけ》の一念というか。あほう《・・・》だけに、志には夢中だ。余念がないのであろう)
光秀は、悪意をこめてそう思った。
岐阜《・・》城下を、光秀はさまよいあるいた。
以前はこの城下の町名を「井ノ口」といったのだが、岐阜と改まって以来、城下の景色までが一変したような気がする。
(どこもかしこも、普《ふ》請《しん》中だ)
単なる復興工事ではない。信長はあたらしい町割り(都市計画)をもって岐阜という町をあらたに生みあげようとしているようである。
光秀が聞いたところでは、信長は城を陥したあと、すぐ尾張へ帰った。あれほどほしがったこの城に入ろうとはしない。
この信長の行動は奇妙であった。
(なぜか)
ということを、光秀は、尾張・美濃の現地でさぐろうとした。
現地で、ようやくわかった。信長は城を陥したあと、城内の片づけを前田利家《としいえ》に命じ、さらに城下の行政と建設指揮を家老の柴《しば》田《た》勝《かつ》家《いえ》・林通勝《みちかつ》のふたりに命じた。
(どうやら)
と、光秀はおもった。計画的な城下町の建設に、信長は乗り出したようである。その完成まで二、三年はかかると信長は見、みずからは身をひいて尾張にすわりつづけているのであろう。
(岐阜という名をつけたことと言い、この大規模な町普請の様子といい、信長は将来ここを根拠地として勢力を四方に伸ばそうとしているのにちがいない)
岐阜を織田家の首都にするつもりであろうと光秀はみた。
それにしても、町はすさまじいばかりの混雑ぶりである。美濃・尾張の各地から大工、左官、人夫が数千人も入りこみ、織田家の侍の指揮に従ってあらゆる現場で働いていた。
道路も道三当時よりもひろくしつつあることは、両側の溝《みぞ》切《き》りの間隔でも察せられた。
それに、大小の武家屋敷が、軒をならべて新築されつつあり、この様子からみれば全織田軍をこの城下に集中しようとしていることはたしかだった。
さらに光秀は辻々を歩いた。
この男がもっともおどろいたのは、山麓《さんろく》で普請をすすめられている御殿を見たときだった。
(これは将来信長が入るべき居館か)
と、光秀は作《さく》事場《じば》に近づいて行った。敷地は、道三の居館のあとである。道三がその好みで設計し、名匠岡部又右衛門に建てさせた居館は、戦火で焼失していまはあとかたもない。
その道三居館の焼けあとはきれいに整地され、その上にすでにあたらしい建築の骨組みがつくられつつある。
(世は動いてゆく)
と、思わざるを得ない。
「ちと、ものをききたいが」
と、光秀は、路上に休息している石運びの人夫の群れに近づき、物やわらかに話しかけた。
「この作事場は、どなたが棟梁《とうりょう》かね」
「へえ」
人夫は、促音《そくおん》の多い三《み》河《かわ》言葉で喋《しゃべ》りはじめた。光秀にはひどく聞きとりにくい。
まず、人夫が三河者だということが、光秀にひとつの感銘をあたえた。三河は、信長より八つ年下の徳川家康の領国である。数年前、信長と同盟し、その結束は当節めずらしく固いという評判が世上行なわれている。
(事実だ)
と、光秀は人夫を見ておもった。家康は信長の都市建設のために人夫を自国から出しているのである。この結束の固さは、織田家の実力を測定する上で重要な要素になるであろう。
光秀は何度もききかえして、一つの名前を聞き取った。岡部又右衛門である。
(なるほど、岡部にやらせているのか)
岡部又右衛門は、道三が発見し、道三がひきたてて城郭建築の巨匠に仕立てて行った棟梁で、以前この敷地にあった道三館《やかた》も、この人物の手で建てられたものであった。
「それは名匠だ」
と、光秀は人夫にお世辞をいいつつ、作事場の光景を見た。
(どういう館が出来あがるのか)
信長には信長の好みがあるにちがいない。それはまだこの作事場からは窺《うかが》い知ることはできない。
かつての道三の建築と造園というものは東山風のしぶいもので城主の教養の深さを十分にしのぶことができた。
「どのような御殿ができるのかね」
「さあね、そいつは、われわれ風《ふ》情《ぜい》にわかるこっちゃねえが、棟梁の岡部様が大そうおこまりだというこった」
「ほう、なにを」
「南蛮風というのかね、そういうめずらしい御殿ができるってこった」
聞けば、信長は、道三風の閑寂な美をすて建物は三階建てとし、黄金、朱漆《しゅうるし》、黒漆などをふんだんに使え、と岡部に命じ、岡部はそのために頭を痛めているという。
(なんたる無智)
光秀は、この現地にきてはじめて信長の軽《けい》蔑《べつ》すべき欠陥を見たような気がした。
(やはり、たわけ《・・・》殿はたわけ《・・・》殿にすぎぬ)
光秀は、うれしくなった。合戦《かっせん》には強くても無教養はおおうべくもない、と思った。南蛮風の建物をつくれ、とはなんという突飛さであろう。
(あの男は、数年前は、しばしば微行して堺《さかい》にゆき、南蛮の文物を見てきている。ああいう華麗なものにあこがれるというのは、所詮《しょせん》は田舎者にすぎぬからだ)
光秀は、教養主義者である。粗野で無教養な男というものを頭から軽侮する癖をもっている。信長を、その軽侮の対象として見た。
(所詮は、出来《でき》星《ぼし》大名か)
としか思えない。
(あの男は、道三殿の娘を室にしている。道三殿に愛されもした。しかし所詮は道三殿の衣《い》鉢《はつ》を継げぬ男であるらしい)
この場合、光秀が考えている「道三殿の衣鉢」というのは、道三がもっていた東山文化風な洗練された趣味と教養である。それのない信長は、光秀にはなにやら野蛮国の王のようにおもえた。
光秀は、さらに美濃の国内を歩いた。うまれ故郷であるだけに、勝手は知っている。親類縁者や旧知も多い。
それらの土豪の屋敷にとめてもらい、土地の事情や美濃の国情をきいてまわった。
とくに西美濃最大の土豪のひとりである安藤伊《い》賀守守就《がのかみもりなり》を訪問したことは、光秀にとって大きな収穫があった。
安藤伊賀守という人物は、この編で先刻登場した。繰りかえしていうと、竹中半兵衛の舅《しゅうと》で、半兵衛とともに織田方に寝返った人物である。
生来、叛骨《はんこつ》がある。そのうえに不平家で、策士で、つねに小さな地方的策謀のなかで生きている男だ。織田方に寝返ったものの、織田家の処遇が期待したほどでもないことに、あたらしい不満を覚えている。
「明《あけ》智《ち》の十兵衛ではないか」
と、ひょっこり訪ねてきた光秀をみて、安藤伊賀守はおどろき、かつ懐《なつか》しがった。
「おじ上も、おつつがなきご様子、祝着《しゅうちゃく》に存じます」
と、光秀は、多少の血のつながりがあるためことさらに、おじ上、と敬称でよんだ。
「十兵衛、幽霊かと思うたぞ。弘治二年の明智城の落城のとき、そなたは死んだという説があった、京をめざして落ちのびたという説もあった。そうか、生きていたのか」
策謀好きな男にしては、精力がのど《・・》からほとばしり出ているように声が大きい。
「いまなにをしている」
と、安藤は、光秀の風体《ふうてい》を見た。柿色《かきいろ》染めの袖無《そでなし》羽《ば》織《おり》がところどころ破れ、大小の柄巻《つかまき》もすり切れて、さほどよい暮らしをしているとはおもわれない。
光秀は、自分の境遇を恥じた。
「牢人《ろうにん》同然の境涯《きょうがい》です。越前朝倉家にて扶持《ふち》を頂戴《ちょうだい》し、客分の処遇は受けておりますが」
「そうか、そなたほどの才のある者がのう。才といえばわしの娘婿《むこ》の竹中半兵衛も若いがなかなかの男じゃ。しかし公平にみて、明智十兵衛にはおよぶまい」
「おそれ入ります」
「して、織田家に仕官の希望があって参ったのか」
「いやいや」
光秀は、わざと一笑に付した。風体こそ貧しいがそうは安手に見てもらうまい、という気位《きぐらい》の高さが、笑顔に出ている。
「そうではありませぬ」
と光秀は言い、「じつはそれがし、あすにも将軍家をお継ぎあそばされるはずのさきの一乗院門跡《もんぜき》覚慶様のご信任を得ております関係上、織田家には仕官できませぬ」と、それとなく自分の現在の地位のようなものをほのめかせた。
「ほう」
安藤はその一言に興味を示した。
「いま一度、くわしく言ってくれ。そなた、将軍家に縁故のある身じゃと?」
「そのことはいずれ世上にわかりましょう。いまは残念ながら申せませぬ」
「これこれ水くさい。左様に言わずと、いまの話、もう一度聞かせてくれい」
安藤伊賀守づれのこの里の地侍にそういう雲の上の情報など無用の沙汰《さた》だが、情報好きのこの男は、性癖としてそんなはなしが好きなのである。
「ただ申せることは」
と、光秀はいった。
「覚慶御門跡はいま足利義秋《あしかがよしあき》(義昭)と名乗りをあらためられ、さる田舎にて雌《し》伏《ふく》しておられます。ほしいのは保護者でござる。義秋様を守《も》り立てて将軍の位についていただくには、義もあり力もある後援者が必要であります。さればこの十兵衛」
未来の将軍の密命を受け、諸国を歩き、それにふさわしい大名を物色している、と光秀は言葉さわやかにいった。
「当地に参ったのは」
と、光秀はいう。
「織田殿はどうかと、その下調べに参ったわけでありますが、さて当国の形勢は」
「悪いのう」
と、安藤伊賀守はいった。
「悪い悪い。わしが骨折って工作し、この西美濃の諸豪を抱きこんで織田方に寝返ってやったが、信長め、そのあとのやり方がまずい」
「しかし稲葉山城は織田家がおさえたではありませぬか」
「それだけよ。わしが信長ならばすぐ稲葉山城を居城とし、美濃の経営に乗り出している。ところが信長は臆病《おくびょう》にも美濃には来ぬ」
「それはまた、なぜ」
「臆病だからよ」
「はい、臆病はわかっております。なぜ信長はすぐ稲葉山城にすわって美濃の鎮定をやりませぬ」
「美濃国内がまだ動揺しているからよ」
そのとおりである。西美濃は寝返ったが、東美濃はなお信長に対して抗戦をつづけている。その代表的な者は、刀鍛《かたなか》冶《じ》で有名な関に城をもつ長井隼人佐《はやとのすけ》、加茂郡の坂祝《さかほぎ》に「猿《さる》ばみ城」という山城をもつ多治見修《しゅ》理《り》、堂洞城の岸勘解由《かげゆ》、加治田城の佐藤紀伊守らで、それぞれ山野に出没して頑強《がんきょう》な抵抗をつづけている。
「うかうかすると、情勢はまたくつがえるかもしれぬ。せっかくわしが信長に勝たせてやったのに、この調子ではどうにもならぬ。信長は所詮は愚将だな」
(この老人、織田家の恩賞に不満があるな)
と、光秀は見たが、さりげなく、
「おじ上が信長なら、どうなされます」
「稲葉山城で軍配をとる」
つまりは臆病なのだ、と安藤はいった。
(いや、その臆病がこわい)
と、光秀は逆の感想をもった。
(性格からいえば信長は、その軍を行《や》ること電光石火で、なにごとにつけ激しい男だ。桶狭間の急襲がそれを証拠だてている。しかしその面だけではない。この美濃攻めの事前工作についても、自重に自重をかさね、十分すぎるほどの裏工作をしてから、風雨をついて稲葉山城下に入っている。しかも短兵急《たんぺいきゅう》に力攻めにすることなく、城下の町に放火してまる裸にし、城外を柵《さく》でかこって持久態勢をとり、あたかも熟柿《じゅくし》が枝から落ちるがごとくにして自然に落してしまった。いわば臆病すぎるほどの理詰めの攻略法である)
あの苛《か》烈《れつ》火のごとき信長にこういう反面があるとは、光秀にとって意外であった。信長は待つことも知っている。屈することも知っている。むしろ桶狭間で冒険的成功をおさめた信長は、それに味をしめず、逆に冒険とば《・》くち《・・》のひどくきらいな男になったようであった。
(桶狭間のような成功は、人生に二度とない)
と、信長は決めこんでいるかのごとくである。
(とすれば、容易ならぬ男だ)
とも、光秀には思える。安藤伊賀守程度の田舎策士の目からみれば臆病にみえる信長のいまの態度が、むしろ信長の器量の複雑さと巨大さを証拠だてるものではないか。その証拠に、東美濃が抗戦しているというのに、信長は数年もかかるような「岐阜」の建設に乗り出しているのである。
(わからぬ男だ)
と、光秀は思い、あわてて首をふった。
(さしたることはない)
そう思いこもうとした。信長の欠点に対する手きびしい批評家でありつづけてきた光秀は、いまさら信長の長所に拡大鏡をあてようとは思わない。
「いやさ」
と、安藤はいう。
「将軍の保護者になるほど、将来のある男ではない」
そう断定した安藤伊賀守の結論に光秀も感情的に同調し、その夜はこの屋敷に一泊し、翌日、美濃関ケ原へ出、北国街道を北にとってかれの妻子のいる越前一乗谷《えちぜんいちじょうだに》にむかった。
(結局は、越前朝倉家を説いて義秋公の保護者たらしめるほかはない)
これはおそらく成功するであろう。なぜならば朝倉家は名家意識がつよく、次期将軍を保護し奉る、という光栄を無邪気によろこぶであろうからである。
光秀は、北国街道を夜を日についで北上しつづけた。すでに北陸の山風が、この男の旅《たび》衣《ごろも》に冷たい。
秋は、光秀が山を越えかさねて北に征《ゆ》くほど深くなりまさるようであった。