光秀は決意に時間がかかる。
が、いったん決意したとなると、そのあとのこの男の行動は、構図のたしかな絵師の筆のように、運筆が颯々《さつさつ》としている。
越前朝倉家を牢人《ろうにん》したあと、すぐあわただしく織田家へ走りこむというようなことはしなかった。
(あわてては、人間に、目減《めべ》りがするわ)
と思い、いったん朝倉家の首都一乗谷をひきはらったあとも、越前にいた。
居場所は、最初、越前に流れてきたときに足をとどめた越前長崎の称念寺《しょうねんじ》である。
ここで織田家からの使者猪子兵助に面接し織田家に奉公することを約束した。
「いずれ、支度のととのい次第、参る。上総介様にも濃姫様にもよしなに伝えてくれ」
と、この同郷の旧友にいった。
故道三の話も出た。
「道三殿については、こういうはなしがある」
と、兵助はいった。
「おれの若いころだ。濃姫様が織田家に輿《こし》入《い》れをなされたあと、道三殿が婿殿をみたいとおおせられて、国境いの聖徳寺を会見場所になされ、舅《しゅうと》、婿のおふたりがお会いあそばしたことがある。そのときおれも道三殿につき従ってあの聖徳寺に行っていた」
「有名な話じゃな」
光秀はいった。この劇的な会見譚《かいけんばなし》については、いまでは美濃・尾張あたりで知らぬ者がない。
この物語でもすでに述べた。
道三側の供の連中は、信長のたわけた服装や挙動にあきれ、
(このあほう《・・・》の君では、いずれは尾張も道三殿のものになる)
と、ことごとく思い、むしろ喜色をうかべて帰路についた。道三ひとりだけが、なにやら憂鬱《ゆううつ》げであった。その道三が、帰路、茜部《あかなべ》の里で休息したとき、そばにいた猪子兵助に、「あの若僧をどう思うた」ときいた。
このとき猪子兵助ほどの者でも、信長の印象を一笑で片づけ、
「なんともたわけ《・・・》の殿にござりまするな」
というと、道三は吐息をつき、
「たわけ《・・・》なものか。いずれおれの子供たちはあのたわけ《・・・》の門に馬を繋《つな》ぎ、この美濃は、信長への婿引出物《むこひきいでもの》になるだろう」
といった。
光秀も、この話はくわしく知っていたが、そのとき現場にいた猪子兵助の口からあらためて聞かされると、道三、信長の顔つき、口ぶりがいきいきと再現されて、はじめて聞くような新鮮さを覚えた。
「おそらく、百世ののちにも伝わってゆく話になるだろう」
「いやいや、まったくばかげた話よ」
と、兵助は苦笑した。自分の身にひきかえて皮肉な感想が湧《わ》きおこってきたらしい。
「この猪子兵助にとってはよい恥っ掻《か》きばなしだ。上総介殿への目がくるってたわけ《・・・》の殿といっていながら、いまはみよ、その殿の家来になっている。美濃も、道三殿の予言のとおり、引出物になってしまった。なにもかも道三殿の予言どおりになった」
「悔やむことはあるまい」
光秀は、ゆるやかに微笑《わら》いはじめた。
「人間がちがう、というだけの話さ」
光秀は、亡《な》き道三を師のように慕いつづけている。兵助ごときが道三の眼識に及ばなかったといま悔やんでも、それは、恥じることさえ不《ふ》遜《そん》なほどの当然事にすぎない。
兵助が帰ったあと、光秀は家財の整理にいそがしくなった。不用のものはことごとく金銀にかえた。
手持ちの金銀がふえた。
幸い、朝倉家では客分であったため、扶持《ふち》のわりには扶養する家来がすくなく、そのぶんだけを金銀にかえて貯《たくわ》えてある。
(北国に雪が来ぬうちに)
と、光秀はそれらを荷駄《にだ》に積み、一族郎党をひきいて越前長崎の称念寺を去ったのは、秋の暮、風のつよい日であった。
「敦賀へ」
と、光秀は行くさきを示した。なにはともあれ敦賀の金ケ崎城に行って義昭(義秋はこのころ、義昭と改名していた)に暇乞《いとまご》いするつもりであった。
途中、ところどころで寄り道をした。
織田家へのみやげを買うためである。
(できるだけ豪華なほうがいい)
と、光秀は思っていた。ただの牢人ならば献上品などはいらない。が、この自負心のつよい男はそういう姿で織田家に入ってゆきたくはなかった。信長夫人といとこ《・・・》である以上、織田家の姻戚《いんせき》のつもりであった。さらには「幕臣」という手前もある。かれは自分の織田家入りにできるだけの華美をかざりたいと思った。
いったん三国湊《みくにみなと》に出た。
ここは北陸路有数の名港で、日本海岸の物資の多くあつまるところだ。
ここで、葡《ぶ》萄《どう》の樽《たる》を五荷《か》、塩びき鮭《ざけ》の簀《す》巻《まき》を二十買った。信長へのみやげにするつもりであった。
余談ながら三国湊の付近の汐越《しおこし》という漁村で、光秀は有名な汐越の松原を見物した。どの松も磯《いそ》の潮風に堪えて根がたかだかとあがり、そのあがり根《・・・・》のむこうに白浪の立つ日本海がみえてみごとな眺望《ちょうぼう》をつくっていた。この「汐越の松」は、むかし 源義経《みなもとのよしつね》が奥州へ落ちてゆくときに観賞し去りがたい風《ふ》情《ぜい》を示した、という伝説が残っており、義経ずきの光秀はそれをきいてひとしおの感興をもち、王朝風の繊細な歌をつくっている。
が、いったん決意したとなると、そのあとのこの男の行動は、構図のたしかな絵師の筆のように、運筆が颯々《さつさつ》としている。
越前朝倉家を牢人《ろうにん》したあと、すぐあわただしく織田家へ走りこむというようなことはしなかった。
(あわてては、人間に、目減《めべ》りがするわ)
と思い、いったん朝倉家の首都一乗谷をひきはらったあとも、越前にいた。
居場所は、最初、越前に流れてきたときに足をとどめた越前長崎の称念寺《しょうねんじ》である。
ここで織田家からの使者猪子兵助に面接し織田家に奉公することを約束した。
「いずれ、支度のととのい次第、参る。上総介様にも濃姫様にもよしなに伝えてくれ」
と、この同郷の旧友にいった。
故道三の話も出た。
「道三殿については、こういうはなしがある」
と、兵助はいった。
「おれの若いころだ。濃姫様が織田家に輿《こし》入《い》れをなされたあと、道三殿が婿殿をみたいとおおせられて、国境いの聖徳寺を会見場所になされ、舅《しゅうと》、婿のおふたりがお会いあそばしたことがある。そのときおれも道三殿につき従ってあの聖徳寺に行っていた」
「有名な話じゃな」
光秀はいった。この劇的な会見譚《かいけんばなし》については、いまでは美濃・尾張あたりで知らぬ者がない。
この物語でもすでに述べた。
道三側の供の連中は、信長のたわけた服装や挙動にあきれ、
(このあほう《・・・》の君では、いずれは尾張も道三殿のものになる)
と、ことごとく思い、むしろ喜色をうかべて帰路についた。道三ひとりだけが、なにやら憂鬱《ゆううつ》げであった。その道三が、帰路、茜部《あかなべ》の里で休息したとき、そばにいた猪子兵助に、「あの若僧をどう思うた」ときいた。
このとき猪子兵助ほどの者でも、信長の印象を一笑で片づけ、
「なんともたわけ《・・・》の殿にござりまするな」
というと、道三は吐息をつき、
「たわけ《・・・》なものか。いずれおれの子供たちはあのたわけ《・・・》の門に馬を繋《つな》ぎ、この美濃は、信長への婿引出物《むこひきいでもの》になるだろう」
といった。
光秀も、この話はくわしく知っていたが、そのとき現場にいた猪子兵助の口からあらためて聞かされると、道三、信長の顔つき、口ぶりがいきいきと再現されて、はじめて聞くような新鮮さを覚えた。
「おそらく、百世ののちにも伝わってゆく話になるだろう」
「いやいや、まったくばかげた話よ」
と、兵助は苦笑した。自分の身にひきかえて皮肉な感想が湧《わ》きおこってきたらしい。
「この猪子兵助にとってはよい恥っ掻《か》きばなしだ。上総介殿への目がくるってたわけ《・・・》の殿といっていながら、いまはみよ、その殿の家来になっている。美濃も、道三殿の予言のとおり、引出物になってしまった。なにもかも道三殿の予言どおりになった」
「悔やむことはあるまい」
光秀は、ゆるやかに微笑《わら》いはじめた。
「人間がちがう、というだけの話さ」
光秀は、亡《な》き道三を師のように慕いつづけている。兵助ごときが道三の眼識に及ばなかったといま悔やんでも、それは、恥じることさえ不《ふ》遜《そん》なほどの当然事にすぎない。
兵助が帰ったあと、光秀は家財の整理にいそがしくなった。不用のものはことごとく金銀にかえた。
手持ちの金銀がふえた。
幸い、朝倉家では客分であったため、扶持《ふち》のわりには扶養する家来がすくなく、そのぶんだけを金銀にかえて貯《たくわ》えてある。
(北国に雪が来ぬうちに)
と、光秀はそれらを荷駄《にだ》に積み、一族郎党をひきいて越前長崎の称念寺を去ったのは、秋の暮、風のつよい日であった。
「敦賀へ」
と、光秀は行くさきを示した。なにはともあれ敦賀の金ケ崎城に行って義昭(義秋はこのころ、義昭と改名していた)に暇乞《いとまご》いするつもりであった。
途中、ところどころで寄り道をした。
織田家へのみやげを買うためである。
(できるだけ豪華なほうがいい)
と、光秀は思っていた。ただの牢人ならば献上品などはいらない。が、この自負心のつよい男はそういう姿で織田家に入ってゆきたくはなかった。信長夫人といとこ《・・・》である以上、織田家の姻戚《いんせき》のつもりであった。さらには「幕臣」という手前もある。かれは自分の織田家入りにできるだけの華美をかざりたいと思った。
いったん三国湊《みくにみなと》に出た。
ここは北陸路有数の名港で、日本海岸の物資の多くあつまるところだ。
ここで、葡《ぶ》萄《どう》の樽《たる》を五荷《か》、塩びき鮭《ざけ》の簀《す》巻《まき》を二十買った。信長へのみやげにするつもりであった。
余談ながら三国湊の付近の汐越《しおこし》という漁村で、光秀は有名な汐越の松原を見物した。どの松も磯《いそ》の潮風に堪えて根がたかだかとあがり、そのあがり根《・・・・》のむこうに白浪の立つ日本海がみえてみごとな眺望《ちょうぼう》をつくっていた。この「汐越の松」は、むかし 源義経《みなもとのよしつね》が奥州へ落ちてゆくときに観賞し去りがたい風《ふ》情《ぜい》を示した、という伝説が残っており、義経ずきの光秀はそれをきいてひとしおの感興をもち、王朝風の繊細な歌をつくっている。
満ち潮の
越してや洗ふ あらがねの
土もあらはに根あがりの松
越してや洗ふ あらがねの
土もあらはに根あがりの松
(みやげは濃姫様にも)
と思い、買物行脚《あんぎゃ》の道中をつづけた。
府中(福井県武《たけ》生《ふ》市)に出、ここで越前大滝の名産といわれる髪結紙《かみゆいがみ》を三十帖《じょう》、府中名物の雲紙千枚を買い、ついで戸口《とのくち》へ人を走らせて、戸口名産の網《あ》代組《じろぐみ》の硯箱《すずりばこ》、文《ふ》箱《ばこ》を買いにやらせ、ついで敦賀に出たとき、銀製の香炉を一つ買い、さらに雑品五十個ばかりを買った。ことごとく濃姫へ贈るためのものであった。
と思い、買物行脚《あんぎゃ》の道中をつづけた。
府中(福井県武《たけ》生《ふ》市)に出、ここで越前大滝の名産といわれる髪結紙《かみゆいがみ》を三十帖《じょう》、府中名物の雲紙千枚を買い、ついで戸口《とのくち》へ人を走らせて、戸口名産の網《あ》代組《じろぐみ》の硯箱《すずりばこ》、文《ふ》箱《ばこ》を買いにやらせ、ついで敦賀に出たとき、銀製の香炉を一つ買い、さらに雑品五十個ばかりを買った。ことごとく濃姫へ贈るためのものであった。
光秀は、岐阜城下に入った。
すぐ、猪子兵助に連絡すると、兵助は光秀一行のために宿舎をさがし、結局、この新興都市の町なか《・・》にある日蓮宗《にちれんしゅう》常在寺がそれにきまった。
「常在寺とは、懐《なつか》しや」
と、光秀はいった。
常在寺は、京の油屋「山崎屋庄九郎」といったころの故道三が、野望を秘めつつ美濃へ流れてきて最初にわらじをぬいだ寺である。
「兵助よ、おぬしと言い、常在寺といい、故道三殿の縁がかさなることよ」
「おそらくは道三殿のおひきあわせではあるまいか」
兵助は小さく笑った。
光秀はさっそく常在寺に入り、その門前に、
「明智十兵衛光秀宿」
との札をかけさせた。
自分の居間として書院を借り受け、住持にあいさつした。当代の住持は日《にち》威《い》といい、道三の友人だった開山日護上人《しょうにん》から三代目になっていた。
寺にも、道三についての言い伝えが多い。
「ごぞんじのごとく」
住持はいった。
「道三殿はお若いころ、京の妙覚寺本山にて僧となるべく修行され、僧名を法蓮房《ほうれんぽう》と申されました。智恵第一との評判がありましたそうな。そのころ当山の開山日護上人も妙覚寺本山で修行なされ、兄弟のようにお仲がよろしかったと申します。その後、道三殿は還俗《げんぞく》して本山を出奔なされ、牢人暮らしをしたり、奈良屋(のち山崎屋)に入婿をしたりしてなかなか忙しげでありましたが、野望おさえきれずこの美濃に、日護上人をたよって参られたのでございます。武士になりたいと申されるゆえ、日護上人はお実家《さと》の長井家に推挙したのが、道三殿の御立身のはじまり、と申すより美濃争乱の発端でござりましたな」
「まるで阿《あ》修《しゅ》羅《ら》のような生活であったな。あの人がこの常在寺にわらじをぬがなかったならば、美濃はおそらくいまとちがったものになっておりましたろう」
「つまり、いまなお美濃国主の土岐《とき》家がつづいていた、と申されるので」
「いやいや、道三殿が美濃にあらわれてこの国を作りなおしたればこそ、ながい歳月、他国に侵掠《おか》されることなく風雪に堪えたのでござるよ。道三殿がもし美濃にあらわれなんだら、この国は上総介殿の先代信秀殿のときに織田家のものになっていたでありましょう」
「なるほどの」
住持には、まだ道三僧が、魔か仏か、いずれに理解していいのかわからぬ風情だった。
しかし常在寺そのものについては、道三は何度も寺領を寄進して、かつて自分がわらじをぬいだころとは面目《めんぼく》をあらためるほどの大寺に仕立てあげた。自分の運をきりひらいてくれた日護上人への感謝のつもりであったらしい。
道三の死後、寺は一時おとろえたが、いまはその娘濃姫がしばしば侍女をこの寺に遣わし、道三の供養料をおさめているから、多少息はつけるようになっている。
信長は、尾張の小牧城にいた。光秀が岐阜に来ている旨《むね》の報《し》らせをうけると、
「あの男、越前から来たそうな」
と、濃姫にも教えてやった。
「わしは明後日、岐阜にゆかねばならぬことがある。そのとき、光秀にも会おう。そののち光秀をここに寄越すから、そなたも顔を見てやれ」
信長は、光秀に期待していた。公《く》方《ぼう》の側近である光秀を手もとにひきとることは、自分の天下への夢に、夢ならぬ現実の石をひとつ置いたことになる。
(どのような男か。軍陣のことから詩《しい》歌《か》管弦《かんげん》まであかるい人物ときいているが)
翌々日、信長は、竣工《しゅんこう》もま近い岐阜城に入った。
父の信秀のころから二代にわたってあこがれぬいた稲葉山城である。
(ついに獲《え》た)
という信長のよろこびが、あれこれと城の造作を変えさせた。
この濃尾平野をひと目で見おろす城を手に入れたとき、信長はつくづく道三の地《ち》相眼《そうがん》や築城のたくみさに驚嘆した。
長《なが》良《ら》川《がわ》を天然の外堀にし、稲葉山そのものをことごとく 城塞《じょうさい》化し、城門と城外の道路をたくみに結合させて守るにも押し出すにも絶妙の機能性を発揮できるようにつくられている。自然、この城塞そのものについては、信長がことさらに新工夫を加えるという点はほとんどない。
城塞は修築するだけにとどめ、むしろ山麓《さんろく》の居館の新築と、城下の構造変えに信長は意をつくした。
ところがこの城を得、この城にときどき泊まるようになってから、
(道三はさほどの人物ではなかったな)
と、信長は思うようになった。山上の城塞は不便すぎるのである。なるほど堅牢そのものだが、いざ住んでみると、堅牢すぎることが城主としての心の活動《はたらき》をにぶくするのではないかと思われた。
防衛にはいい。
そのよすぎることが、殻《から》の中にいるさざえ《・・・》のように清新溌剌《はつらつ》の気分を失《う》せさせ、心を鈍重にし、気持を退嬰《たいえい》させ、天下を取るという気象を後退させる。そのように思われた。
(蝮《まむし》めはこの城を作ったときから、守成《しゅせい》の立場にまわったのではないか)
逆にいえば道三の退嬰の気持が、この城を作らせたともいえなくはない。また同情的にみてやれば道三は、人生の半ばから風雲に身を投じ、その晩年にいたって、ようやく美濃一国を手に入れた。手に入れたときにはすでに自分の一生は暮れようとしていた。いきおい、守成にまわらざるをえなかったのであろう。
(おれは若い。若いおれが、これほどの金城湯池を持つ必要がない。持てば気持がおのずと殻にひっこむようになる。つねに他領に踏み出し踏み出しして戦う気持がなくなればもはや、おれはおれではない)
そのような気持をもった。
だから信長は、岐阜城改修にあたっては、城よりもむしろ住居に力を入れた。
壮麗な居館が出来あがりつつあった。宮殿は四階建てであった。
一階には二十の座敷があり、釘隠《くぎかく》しはことごとく黄金を用いさせてある。
二階は、濃姫の部屋を中心に侍女のための部屋がならび、座敷は金襴《きんらん》の布を張り、望台を作って、城下と稲葉山がみえるように工夫されている。三階は、茶事のために用い、四階は軍事上の望楼として用いられる。
「自分はポルトガル、印度《インド》、日本の各地を知っているが、これほどの精巧美麗な宮殿をみたことがない」
と、のちに岐阜城下にやってきた宣教師ルイス・フロイスがその書簡に書いている。
この「宮殿」は、ほぼ完成していた。信長は岐阜到着の夜、ここに泊まり、翌朝、一階の大広間で光秀を謁見した。
光秀は、下座で平伏していた。
(頭髪《あたま》のうすい男だな)
と、ひとの身体的特徴に過敏な信長は、最初にそう思った。
(金柑《きんかん》に似ている)
頭が小さくてさきがとがり、地《じ》肌《はだ》に赤味を帯びたつやがあって、みればみるほど金柑に似ていた。信長は好奇心に満ちた眼で、その光秀の頭だけをじっとみつめた。
少年の眼である。この信長のなかには、悪童のころのかれがつねに同居していた。
(あの頭に触りたい)
とさえ思った。十年前のかれなら容赦もなく降りて行って光秀をするすると撫《な》でたであろう。が、いまの信長はさすがにその衝動をおさえるまでに大人になっている。
「光秀、よう来た」
と、信長は叫んだ。
光秀は、作法どおりあっと肩を動かしていよいよ深く平伏した。むろん、この室町《むろまち》風の作法に長じた男は、信長の顔をぬすみ見るような不作法はしない。
(たいへんな声だ)
と、内心思った。樹間を走り渡る猿《さる》の声にどこか似ていた。大名の子だと思った。自分の声調子《こわぢょうし》を自分で抑制する必要を経験したことのない男の声である。
一見、たわけ《・・・》の声であった。しかし桶狭《おけはざ》間《ま》以後、信長がやってきたことはたわけ《・・・》ではない。
とにかく常人の声でないとすれば、
(やはり信長は天才かもしれぬ)
と、光秀は思おうとした。
「物を呉《く》れたな」
例の猿の叫びが飛んできた。
「奥にも呉れた。すべて佳《よ》きものだ。わしはよろこんでいる」
なま《・・》な言いかたをする男だと思った。木《き》樵《こり》が喋《しゃべ》っているようで、典雅とは程遠い。おそらく言葉のつかい方を知らないか、天性その能力を欠いた人物なのであろう。
「近う寄れやい」
光秀は一礼し、顔を俯《ふ》せたまま腰をわずかに立て、すこし進もうとした。しかし進むふりをして進みかねているという姿で、これが室町幕府の礼法なのであった。上《かみ》を畏《おそ》れて萎《い》縮《しゅく》しているという礼式上の演技である。
が、尾張の奉行職から成りあがった織田家にはそんな礼法などはない。
信長は光秀のその姿をめずらしそうに見つめていたが、ついに、
「そちゃ、足がわるいのか」
と、あふれるような好奇心でいった。
光秀は、汗が出てきた。
(このあほう《・・・》め)
と思うと、こういう京風《みやこふう》の礼儀作法をしている自分までがばかばかしくなり、「足萎《な》えではない」ということを示すために膝《ひざ》を立て、すらすらと進み、畳二枚進んだあたりで平伏した。
「面《おもて》をあげい」
信長は、命じた。光秀は、(もはやかまうまい)と思い、ぐっと顔をあげた。
(奥に似ている)
と、信長はおもった。
「あの男、越前から来たそうな」
と、濃姫にも教えてやった。
「わしは明後日、岐阜にゆかねばならぬことがある。そのとき、光秀にも会おう。そののち光秀をここに寄越すから、そなたも顔を見てやれ」
信長は、光秀に期待していた。公《く》方《ぼう》の側近である光秀を手もとにひきとることは、自分の天下への夢に、夢ならぬ現実の石をひとつ置いたことになる。
(どのような男か。軍陣のことから詩《しい》歌《か》管弦《かんげん》まであかるい人物ときいているが)
翌々日、信長は、竣工《しゅんこう》もま近い岐阜城に入った。
父の信秀のころから二代にわたってあこがれぬいた稲葉山城である。
(ついに獲《え》た)
という信長のよろこびが、あれこれと城の造作を変えさせた。
この濃尾平野をひと目で見おろす城を手に入れたとき、信長はつくづく道三の地《ち》相眼《そうがん》や築城のたくみさに驚嘆した。
長《なが》良《ら》川《がわ》を天然の外堀にし、稲葉山そのものをことごとく 城塞《じょうさい》化し、城門と城外の道路をたくみに結合させて守るにも押し出すにも絶妙の機能性を発揮できるようにつくられている。自然、この城塞そのものについては、信長がことさらに新工夫を加えるという点はほとんどない。
城塞は修築するだけにとどめ、むしろ山麓《さんろく》の居館の新築と、城下の構造変えに信長は意をつくした。
ところがこの城を得、この城にときどき泊まるようになってから、
(道三はさほどの人物ではなかったな)
と、信長は思うようになった。山上の城塞は不便すぎるのである。なるほど堅牢そのものだが、いざ住んでみると、堅牢すぎることが城主としての心の活動《はたらき》をにぶくするのではないかと思われた。
防衛にはいい。
そのよすぎることが、殻《から》の中にいるさざえ《・・・》のように清新溌剌《はつらつ》の気分を失《う》せさせ、心を鈍重にし、気持を退嬰《たいえい》させ、天下を取るという気象を後退させる。そのように思われた。
(蝮《まむし》めはこの城を作ったときから、守成《しゅせい》の立場にまわったのではないか)
逆にいえば道三の退嬰の気持が、この城を作らせたともいえなくはない。また同情的にみてやれば道三は、人生の半ばから風雲に身を投じ、その晩年にいたって、ようやく美濃一国を手に入れた。手に入れたときにはすでに自分の一生は暮れようとしていた。いきおい、守成にまわらざるをえなかったのであろう。
(おれは若い。若いおれが、これほどの金城湯池を持つ必要がない。持てば気持がおのずと殻にひっこむようになる。つねに他領に踏み出し踏み出しして戦う気持がなくなればもはや、おれはおれではない)
そのような気持をもった。
だから信長は、岐阜城改修にあたっては、城よりもむしろ住居に力を入れた。
壮麗な居館が出来あがりつつあった。宮殿は四階建てであった。
一階には二十の座敷があり、釘隠《くぎかく》しはことごとく黄金を用いさせてある。
二階は、濃姫の部屋を中心に侍女のための部屋がならび、座敷は金襴《きんらん》の布を張り、望台を作って、城下と稲葉山がみえるように工夫されている。三階は、茶事のために用い、四階は軍事上の望楼として用いられる。
「自分はポルトガル、印度《インド》、日本の各地を知っているが、これほどの精巧美麗な宮殿をみたことがない」
と、のちに岐阜城下にやってきた宣教師ルイス・フロイスがその書簡に書いている。
この「宮殿」は、ほぼ完成していた。信長は岐阜到着の夜、ここに泊まり、翌朝、一階の大広間で光秀を謁見した。
光秀は、下座で平伏していた。
(頭髪《あたま》のうすい男だな)
と、ひとの身体的特徴に過敏な信長は、最初にそう思った。
(金柑《きんかん》に似ている)
頭が小さくてさきがとがり、地《じ》肌《はだ》に赤味を帯びたつやがあって、みればみるほど金柑に似ていた。信長は好奇心に満ちた眼で、その光秀の頭だけをじっとみつめた。
少年の眼である。この信長のなかには、悪童のころのかれがつねに同居していた。
(あの頭に触りたい)
とさえ思った。十年前のかれなら容赦もなく降りて行って光秀をするすると撫《な》でたであろう。が、いまの信長はさすがにその衝動をおさえるまでに大人になっている。
「光秀、よう来た」
と、信長は叫んだ。
光秀は、作法どおりあっと肩を動かしていよいよ深く平伏した。むろん、この室町《むろまち》風の作法に長じた男は、信長の顔をぬすみ見るような不作法はしない。
(たいへんな声だ)
と、内心思った。樹間を走り渡る猿《さる》の声にどこか似ていた。大名の子だと思った。自分の声調子《こわぢょうし》を自分で抑制する必要を経験したことのない男の声である。
一見、たわけ《・・・》の声であった。しかし桶狭《おけはざ》間《ま》以後、信長がやってきたことはたわけ《・・・》ではない。
とにかく常人の声でないとすれば、
(やはり信長は天才かもしれぬ)
と、光秀は思おうとした。
「物を呉《く》れたな」
例の猿の叫びが飛んできた。
「奥にも呉れた。すべて佳《よ》きものだ。わしはよろこんでいる」
なま《・・》な言いかたをする男だと思った。木《き》樵《こり》が喋《しゃべ》っているようで、典雅とは程遠い。おそらく言葉のつかい方を知らないか、天性その能力を欠いた人物なのであろう。
「近う寄れやい」
光秀は一礼し、顔を俯《ふ》せたまま腰をわずかに立て、すこし進もうとした。しかし進むふりをして進みかねているという姿で、これが室町幕府の礼法なのであった。上《かみ》を畏《おそ》れて萎《い》縮《しゅく》しているという礼式上の演技である。
が、尾張の奉行職から成りあがった織田家にはそんな礼法などはない。
信長は光秀のその姿をめずらしそうに見つめていたが、ついに、
「そちゃ、足がわるいのか」
と、あふれるような好奇心でいった。
光秀は、汗が出てきた。
(このあほう《・・・》め)
と思うと、こういう京風《みやこふう》の礼儀作法をしている自分までがばかばかしくなり、「足萎《な》えではない」ということを示すために膝《ひざ》を立て、すらすらと進み、畳二枚進んだあたりで平伏した。
「面《おもて》をあげい」
信長は、命じた。光秀は、(もはやかまうまい)と思い、ぐっと顔をあげた。
(奥に似ている)
と、信長はおもった。