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国盗り物語111

时间: 2020-05-25    进入日语论坛
核心提示:洛中合戦《らくちゅうかっせん》「三好党の来襲」という報をきいたとき、光秀は、本圀寺の境内の子院で臥《ふ》せていた。寝床を
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洛中合戦《らくちゅうかっせん》

「三好党の来襲」
という報をきいたとき、光秀は、本圀寺の境内の子院で臥《ふ》せていた。
寝床を蹴《け》って跳ねおきるなり、床の間の具足にむかって突進した。
(わが軍才をあらわすべきときだ)
という気負いこみが、光秀の手足、指のさきまで、ぴちぴちと支配している。
「男子の功業は、その手はじめが大事ぞ。みな死力をつくせ」
と、廊下に居ならぶ弥平次光春ら諸隊長に言い、それに的確な指示をあたえると、すぐ駈《か》け出させた。
織田軍にとって、不幸な時期にあたっている。信長はすでに主力軍をひきいて岐阜に帰ってしまっているし、京都警備のために残留した諸将も、堺、大津、山城勝竜寺、摂津芥《あくた》川《がわ》などの新占領地に散り、京都警備は光秀とその支配下にある二千の軍兵だけになっている。
しかしそれだけに、光秀の軍事的才能を発揮する絶好の機会といってよかった。もっとも負ければ死があるのみであろう。
光秀は大《おお》梯子《ばしご》を本堂に懸けさせ、するすると大屋根にのぼった。
満天に星がかがやいている。
その星数よりもおびただしいたいまつ《・・・・》が、寺のまわりに満ちみち、その後方ははるか桂《かつら》川《がわ》のあたりにおよんでいた。
(一万。——)
と光秀はみた。その一万の大軍に、すでに包囲されてしまっている。この包囲陣がちぢまって先方の攻撃が開始されるのはおそらく一時間後であろう。
そうみた。
(三好党もばかにならぬ)
いったん信長に京を追われたとはいえ、地から湧《わ》きあがったようにこうも隠密《おんみつ》裏《り》に京都南部を包囲するとはなみなみならぬ作戦指導者がいる証拠であろう。そのあまりのみごとさに、
「敵軍は松永弾正(久秀)によって指導されている」
といううわさが一時飛んだほどであった。が、これは訛《か》伝《でん》にすぎなかった。松永久秀は信長に降《くだ》ったあと、いまのところはおとなしく大和平定事業に従事している。そのほうが自分にとって得策である、と、この札つきの食わせ者は思っているようであった。
あとでわかったことだが、敵軍の指揮者は戦さ上手で知られた三好長閑《ちょうかん》であり、そのほかに三好日向守《ひゅうがのかみ》、三好下野守《しもつけのかみ》、篠原玄《しのはらげん》蕃《ぱ》、奈良左近といったこの当時天下にひびいた三好党の豪傑たちが指揮官として参加していた。
(目的は、義昭将軍を弑《しい》し奉らんという一事であろう)
と光秀はみた。敵の作戦の第一目標は全力をあげて義昭の居館であるこの本圀寺に突撃することにちがいない。義昭を殺してから京の占領作戦にかかるというのが、第二段階の行動であろう。
光秀は屋根から降り、大方丈の義昭の座所の濡《ぬ》れ縁に膝《ひざ》をついた。
膝をすすめて座敷に入ると、義昭はいらだって言った。
「光秀、どうなる」
「ご安心ありますように。あすいっぱいには撃退してお目にかけまする」
「二千の兵でか」
と義昭は、ゆとりのない声でいった。光秀は落ちついてうなずき、
「勝敗は兵の多寡《たか》にあらず」
「何にある」
「将の能力にあります」
と光秀がいつにない高調子で言いきると、義昭はさすがに安《あん》堵《ど》したらしく、
「さすが、光秀だ」
と、自分を奈良一乗院からすくい出してくれて以来の光秀のあざやかな働きぶりを思い出して、そういった。
光秀は、義昭の座所の濡れ縁を指揮所とし、つぎつぎに命令をくだした。
四《し》半刻《はんとき》ほどして捜索兵がぞくぞくともどってきて敵情の報告をした。
密使も、四方に走らせてある。まず、岐阜の信長のもとに。さらには近畿の各地に散在している織田軍の諸将にも……。
(後詰《ごづ》めはある)
ということが、光秀の作戦を樹《た》てやすくしていた。兵は五分の一とはいえ、この点だけが敵よりも有利であろう。
さて、作戦である。
——籠城《ろうじょう》策をとる。
というのが、この場合、ふつうにとられる戦術であった。この本圀寺の塀《へい》一枚、堀一《ひと》重《え》を防壁にしてふせぎにふせぐうちに近畿の各地から味方があつまってくる。
が、光秀はそれをとらなかった。この男の戦術は、常識を飛躍した。
(ぜひわが一手で武功をたてたい)
という躍起の気持のあらわれである。光秀は防戦側でありながら攻撃性をも加味しようとした。
二千の兵を三手に分け、本隊は自分が掌握して本圀寺の防衛につかう。他の二隊は外部にはなち、一隊は敵正面を攻撃し、一隊は迂《う》回《かい》して敵の背後をつかせようとするものであった。
背後を攻撃する遊撃隊の隊長は、弥平次光春である。この弥平次には、同時に山城勝竜寺城から救援にかけつけてくるであろう細川藤孝の軍との連絡の使命を負わしめた。
すでに、兵は動いた。
敵の銃撃戦がはじまったのは、夜明け前である。敵の一隊は壁ぎわ百メートルのところまでせまっていた。

光秀は、指揮所を、山門わきに組みあげられた急造の高櫓《たかやぐら》の上に移した。
「みな、振え」
と、何度か櫓の上からどなった。すさまじい声であった。この男の声は、顔に似あわず大きいらしい。
光秀のいる櫓の上には、明智家代々の陣のシルシである源氏の白地に土岐《とき》桔梗《ききょう》を染めた旗が暁闇《ぎょうあん》の風にひるがえっている。
寄せ手の連中は、
「やあ大将はあれにあるぞ」
と、あまりにも露呈しすぎている指揮官の位置になかばあきれつつ、弓、鉄砲の組をつぎつぎと進出させ、射撃を集中させた。
弾が、光秀の身辺に集中しはじめたが、この男はよほど豪胆にできているようだった。凝然として動かない。
「奥へおさがりあれ」
と、家来の者や与《よ》力《りき》の士が何度かどなったが、光秀はそれらに微笑で会釈《えしゃく》するだけだった。所沢《ところざわ》三助という者が、ついに光秀の具足の草摺《くさずり》をつかんで姿勢をひくくさせようとしたが、光秀はふりはらって、
「思うところがあるのだ。懸《け》念《ねん》するな」
といった。
光秀の思うところというのは、自分がこの門脇《もんわき》の高櫓にいるのはみずからをオトリにして敵の主力をここに集中させようとしているのである。敵の主力が集中すれば、そのなかには名ある部将級も当然いるであろう。それらを、光秀自身の射撃の腕をもって射《う》ちとり、将をうしなって崩れるところを開門して突きあげようというのが、かれの考えている構想だった。
「弾は、わしを避けてゆく。わしには弾も矢もあたらぬ」
と、所沢三助にいった。
(あたるかもしれぬ)
とも、光秀は内心おもっている。光秀は自分の天運というものを、この矢《や》弾《だま》のなかで考えようとしていた。
(おれには天運があるかないか)
天運というものほど大事なものはないであろう。光秀の願望は、この乱世のなかで自分を英雄として育ててゆくことであった。
はたして英雄になれるかどうか。英雄には当然ながら器量才幹が要る。それは自分に備わっていると光秀は信じている。しかし器量才幹だけでは英雄にはならぬものだ。運のよさが必要であった。天運が憑《つ》いているかどうか、ということでついにきまるものであると光秀は信じている。
であるのに、
(これしきの矢弾のなかに身を置いただけであたるようでは、この明智十兵衛光秀にもともと天運がない証拠である。その程度の自分ならばこの櫓の上で亡《ほろ》びよ)
とおもっていた。
さて、この門。
寺では唐門《とうもん》と称し、西に面して寺ではもっとも重要な門になっている。柱は巨材をつかい、門《もん》扉《ぴ》はあつく、このまま城門につかってもかまわぬほどの豪壮な建造物である。
ついでながら本圀寺は、日蓮宗の四大本山のひとつで、東西二町、南北六町、京でも有数の大寺である。おもな建造物だけでも、本堂、唐門、出仕門《しゅっしもん》、高麗門《こうらいもん》、庫裡《くり》、居間、対面所、書院、玄関、五重塔などあり、このまま平城として使えるほどのものであった。
さらに余談ながら、足利家の縁はふかい。足利尊氏《たかうじ》の叔父にあたる日静《にちじょう》が、尊氏の後援を得て建てたということになっており、その後、貿易ずきな足利義満《よしみつ》が高価な代償をもって朝鮮から買い入れた一切経《いっさいきょう》をこの寺に奉納している。当代義昭が、この本圀寺を臨時の居館としているのは、そういう因縁によるものだった。
(明けたな)
と光秀は、正面の西山連峰が藍色《あいいろ》の大気のなかに浮かびあがりはじめたのをみた。
本圀寺の南隣りは七条道場といわれる空《くう》也《や》念仏道場になっている。その塀ぎわまで敵が押し寄せてきたとき、光秀は無造作に鉄砲をかまえた。
この時代、士分一般はむろんのこと、一手の大将みずからが鉄砲をとるなどはありえぬことだが、光秀の場合は日本一の鉄砲の名手ということになっていたため、たれもそれを奇異にはおもわなかった。
(恰好《かっこう》な騎馬武者はおらぬか)
と光秀は眼下に展開している敵の隊列を見まわしたが、やがて銃をかまえると、さりげなく撃発した。
轟然《ごうぜん》と爆発音がおこり、白煙が光秀の体をつつんだ。弾は強薬《つよぐすり》に送られ、六十間を飛びわたって、敵の鉄砲足軽の大将をたおした。
「つぎ」
と、光秀は白煙のなかで手をのばした。かたわらではすでに装填《そうてん》をおわった銃をささげている者がある。光秀はそれをとった。
轟発し、つぎつぎに轟発しては敵の騎馬武者をたおした。
その間、門がひらかれ、光秀の旗本隊が槍《やり》の穂をそろえて突撃を開始した。
敵は崩れ立った。
そのとき、さきに光秀が放《はな》っておいた遊撃隊が敵の中軍の側面を突きくずしはじめた。
(やったり)
と光秀が胸中で叫んだとき、はるか敵の後方で砂《さ》塵《じん》があがり、弥平次光春の遊撃隊が敵に突入してゆくのが望見できた。
(弥平次は若いが、いくさはうまい)
とおもったのは、弥平次の隊のはるか背後に濛々《もうもう》たる砂塵があがっているのを光秀はみたからだ。勝竜寺からかけつけてきた細川藤孝の援軍にちがいなかった。弥平次は藤孝の援軍とうまく連繋《れんけい》をたもちつつその到着寸前に敵陣へ突入したのだろう。
やがて藤孝の隊も戦場に参加した。兵四百にすぎなかった。
相手は一万の大軍である。光秀、藤孝の隊がいかに駈けまわったところで、敵を混乱せしめても潰滅《かいめつ》させることはできない。
「半鐘《はんしょう》を打て」
と、光秀はいった。かねてうちあわせ済みの合図で、光秀が半鐘を打てば敵中にある遊撃隊は藤孝の隊もろとも本圀寺にひきあげることになっていた。
光秀の隊は、高櫓の上の光秀の合図どおりに動いた。敵中にありながら、水ぎわだった進退ぶりだった。その進退を光秀はじっと観察しながら、
(どうやら、わしのやり方が成功した)
とおもった。
兵の訓練のことである。この男は、この時代の指揮官としてはめずらしく兵の訓練に力をそそぎ、指揮のままに動くように士卒をしつけてきた。それがみごとに成功した。
(やがて明智の兵は強い、という評価を得るようになるだろう)
と光秀は眼下の戦場で整然と進退する明智隊をみながら将来に大きな希望をもった。
やがて光秀は諸隊を本圀寺に収容しおわったあと、櫓をおりた。
細川藤孝が、本堂の縁側でカブトをぬいで汗をぬぐっている。
「やあ、藤孝殿」
と光秀は、あゆみ寄った。
藤孝は微笑し、光秀のために、縁のほこりをはらった。
「痛み入る」
と、光秀は腰をおろし、すぐ作戦のうちあわせにとりかかった。光秀の見通しでは、正午までに味方は五千人にふえるだろうということであった。それら諸将が参集し次第、攻勢に出て敵を一挙に桂川へ追い落してしまいたいと光秀はいった。
「できるかな」
大男の藤孝はくびをひねった。
そのうち、北野天神から村井吉兵衛貞勝が兵五百をひきいて駈けつけ、摂津芥川城から和田惟政が兵四百をひきいて本圀寺に入った。
それら諸将が将軍義昭の御前にあつまり、作戦会議をひらいた。
「詮《せん》議《ぎ》の前に」
と、義昭は意外なことをいった。
「信長が来着するまでのあいだ、仮に光秀を大将とせよ」
みなおどろいた。当の光秀自身が唖《あ》然《ぜん》としたくらいであった。
(たれの細工か)
顔を見わたすと、義昭の側《そば》ちかくにいる細川藤孝の表情だけが冷静であった。
(なるほど、藤孝の智恵か)
光秀は察した。
藤孝が将軍にそう入れ智恵したのは適切だったといっていい。いま敵を迎えて諸将が無統制に行動したばあい、敗北は必至であろう。
(それにしてもこのわしを、仮の大将にえらぶとは)
光秀は、むしろ諸将の末席といってよかった。それを藤孝は将軍の権威を藉《か》りて軍令の中核にすえてくれたのである。
(持つべきは友だな)
と光秀はおもった。同時に、物事の調整者としての藤孝の才能を高く評価した。
光秀はすぐ作戦をたて、諸将を配置につかせ、機が熟するとともに攻勢に出て日没までに敵を桂川に押しつめ、大津方面から駈けつけた丹羽長秀の援軍を得て一挙に潰走させてしまった。
 この変報を岐阜できいた信長がいそぎ京に入ったのは、事変発生後五日目の永禄十二年正月十日であった。
すぐ残敵を掃蕩《そうとう》し、乱しずまるや、論功行賞をおこない、光秀の武功を第一等とした。
光秀の織田家における位置は、この一戦をさかいに飛躍的に重くなったといっていい。
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