この年、永禄十一年。
京に冬をおもわせるような氷《ひ》雨《さめ》のふった十月十八日、流《る》浪《ろう》の武家貴族足利義昭は、信長の介添えによって将軍に任ぜられた。
御所でのその儀式の警固のために兵をひきいて堵《と》列《れつ》していた光秀は、
(わが半生にこれほどうれしい日がありえようとはおもわなかった)
と、涙がせきあげてきてとまらないのである。
(従《じゅ》四《し》位《いの》下《げ》に叙せられ、参議・左近衛権中将《さこんえごんのちゅうじょう》に任じ、征《せい》夷《い》大将軍に宣下さる、か)
光秀は、足利義昭があらたについた官位や官職を何度もつぶやき、つぶやくごとに感があらたにおこって、涙がにじんだ。
むこうから武装姿でやってきた織田家の高級将校木下藤吉郎秀吉が、
「おや、十兵衛殿」
と、光秀の顔をちょっとのぞきこみ、くすっと明るい微笑でわらった。
——なにを泣いてござる。
と、藤吉郎はからかいたかったのであろうが、光秀は藤吉郎のような当意即妙の諧謔《ユーモア》で応酬できるたちではなかったから、あわてて懐紙をとりだし、生まじめな顔で洟《はな》をかむ様子をした。このため藤吉郎は間がわるくなり、玉砂利をふんでむこうへ行ってしまった。
(あんな男にはわからぬ)
という気持が光秀にある。
(あの男には、志というものがない)
光秀はそのように藤吉郎をみていた。なるほどその場その時期での絶妙な才覚人であるにはちがいなかったが、人間としての遠大な志をもっている男とはみえなかった。
(人間としての値うちは、志を持っているかいないかにかかっている)
光秀はそのように思い、その点でみずからを大きく評価していた。
(おれはここ数年、牢人の境涯《きょうがい》ながら、足利幕府再興の大志をたて、諸国を歩き、風に梳《くしけず》り雨に浴《ゆあみ》し、ついにこんにち大願を成就し去った。この感慨は、きょうの盛儀を警固する織田家三万の軍兵《ぐんぴょう》のうち、おれだけが独り占めしているものだ。おれ以外にわかる者はいない)
京に冬をおもわせるような氷《ひ》雨《さめ》のふった十月十八日、流《る》浪《ろう》の武家貴族足利義昭は、信長の介添えによって将軍に任ぜられた。
御所でのその儀式の警固のために兵をひきいて堵《と》列《れつ》していた光秀は、
(わが半生にこれほどうれしい日がありえようとはおもわなかった)
と、涙がせきあげてきてとまらないのである。
(従《じゅ》四《し》位《いの》下《げ》に叙せられ、参議・左近衛権中将《さこんえごんのちゅうじょう》に任じ、征《せい》夷《い》大将軍に宣下さる、か)
光秀は、足利義昭があらたについた官位や官職を何度もつぶやき、つぶやくごとに感があらたにおこって、涙がにじんだ。
むこうから武装姿でやってきた織田家の高級将校木下藤吉郎秀吉が、
「おや、十兵衛殿」
と、光秀の顔をちょっとのぞきこみ、くすっと明るい微笑でわらった。
——なにを泣いてござる。
と、藤吉郎はからかいたかったのであろうが、光秀は藤吉郎のような当意即妙の諧謔《ユーモア》で応酬できるたちではなかったから、あわてて懐紙をとりだし、生まじめな顔で洟《はな》をかむ様子をした。このため藤吉郎は間がわるくなり、玉砂利をふんでむこうへ行ってしまった。
(あんな男にはわからぬ)
という気持が光秀にある。
(あの男には、志というものがない)
光秀はそのように藤吉郎をみていた。なるほどその場その時期での絶妙な才覚人であるにはちがいなかったが、人間としての遠大な志をもっている男とはみえなかった。
(人間としての値うちは、志を持っているかいないかにかかっている)
光秀はそのように思い、その点でみずからを大きく評価していた。
(おれはここ数年、牢人の境涯《きょうがい》ながら、足利幕府再興の大志をたて、諸国を歩き、風に梳《くしけず》り雨に浴《ゆあみ》し、ついにこんにち大願を成就し去った。この感慨は、きょうの盛儀を警固する織田家三万の軍兵《ぐんぴょう》のうち、おれだけが独り占めしているものだ。おれ以外にわかる者はいない)
一介の京都奉行としてこの盛儀を警戒している光秀などよりは、当の足利義昭のほうが、このよろこびは何倍か大きいことはたしかであった。
義昭は征夷大将軍になった以上、当然、頼朝以来の先例によって幕府をひらくことをゆるされる。義昭はそのつもりであったし、それがかれの夢でもあった。
この間、かれは仮御所を清水寺から本圀《ほんこく》寺《じ》に移していた。本圀寺は日蓮宗の京都における一本山である。
将軍宣下の翌日、義昭はその仮御所の本圀寺に信長をよび、うれしさのあまり、
「かように流寓《りゅうぐう》の身から征夷大将軍を相続できるようになったのは、すべてそのほうのおかげである。爾《じ》今《こん》、そのほうを父とよぶぞ」
といった。信長は義昭よりもわずか三つ上である。ほとんど同年配にちかい義昭から父とよばれることは、信長にすればどうも感覚的に奇妙な感じであった。
「これは恐れ入り奉る」
と、口ごもって迷惑そうにいった。信長にすれば義昭の有頂天なよろこびぶりについてゆけぬような気がする。
義昭は義昭で、自分のよろこびと感謝をどのように表現していいかわからなかった。考えたあげく、
「副将軍になってたもれ」
といった。
冗談ではなかった。信長にすれば、義昭のような素っ頓狂《とんきょう》な坊主あがりの小才子の家来になるために野戦攻城の苦労をかさねてきたわけではない。
(義昭は、かんちがいしている)
とおもわざるをえない。信長にすれば、天下の武家から尊崇されている義昭の「血」こそ尊重すべきであった。だからこそ苦心惨澹《さんたん》のあげくこの上洛を遂げ、義昭をしてその「血」にふさわしい征夷大将軍職につけたのである。
——されば幕府をひらく。
となると、これは別であった。幕府という古めかしい、中世の化けもののような統治機構をいま再現し、自分がその番頭になるというのは、なんともなっとくできない。
(義昭の血は大いに尊重し、利用もしたい。だからこそ将軍職にもつけた。しかし幕府はひらかせない。ひらくとすればそれはおれ自身だろう)
信長はばくぜんとそう思っている。この人物を動かしているものは、単なる権力慾や領土慾ではなく、中世的な混沌《こんとん》を打《だ》通《つう》してあたらしい統一国家をつくろうとする革命家的な慾望であった。革命家といえば信長の場合ほど明確な革命家があらわれた例は、日本史上、稀《まれ》といっていい。かれは、政治上の変革だけでなく、経済、宗教上の変革までばくぜんと意識していたし、そのある部分は着々と実現した。
が、義昭はちがう。
義昭は、中世的な最大の権威である「室町幕府の復興」ということのみに情熱をかけ、そのことにしか関心をもたない。この三十二歳の貴人はすでに生きながらの過去の亡霊であったが、信長は未来のみを考えている、しかもその考えはたれにも窺《うかが》えない一個の革命児であった。
思想があうはずがない。
が、いまのところ、たがいに利用価値があるという点で、握手が成立していた。そういう関係であることを、義昭はよろこびのあまり気づいていなかった。
(副将軍なら、躍りあがってよろこぶと思うたのに)
と、義昭は、信長の辞退の本意がわからなかった。よほど謙譲な男だろうとおもった。
「はて」
と、義昭は思案していたが、
「されば管領《かんれい》はどうじゃ」
弾んだ声でいった。管領というのは幕臣の最高の職である。のちの徳川幕府の職における大老とわずかに似ている。室町幕府の隆盛期にあっては、斯波《しば》、細川、畠山の三家が交替してこの職につくことになっていた。
「どうじゃ」
「いや、辞退し奉る」
と、信長は言上し、将軍側近の細川藤孝をさしまねいて、
「公《く》方《ぼう》はあのようにおおせられるが、信長には官職官位の野心はない。ただ天《あめ》が下《もと》、公方に仇《あだ》なす者を討ちたいらげることのみにわしの志はかかっている。公方に二度とそのようなお気遣いのないよう、とくと申しあげよ」
と、低声《こごえ》でいった。
藤孝は将軍の御座ちかくにすすみ寄り、信長のその意中をつたえた。
「なるほど」
義昭は感動し、大きくうなずいた。義昭は越前金ケ崎城で諸国の情勢をながめていたころ、信長のあまりにも策謀の多い性格に不安をもったことがあったが、聞くと見るとでは大ちがいであった。
(なんと謙虚なおとこだ)
と、おもった。
その日、信長が退出したあと、義昭は側近をよび、信長に対する優遇策を講じた。
「領土をあたえるか」
義昭は妙案のように叫んだ。このあたりが義昭のおかしなところであった。
(与えようにも、公方様には一尺の領地もないではないか)
と、側近筆頭の細川藤孝は、当惑するおもいでこの新将軍をあおぎ見た。
やはり中世の亡霊なのである。
むかしはなるほど将軍は天下の主《あるじ》であり、大名の配置転換もでき、また将軍家の直轄領《ちょっかつりょう》というものはあった。
が、それは百年まえのことだ。戦国乱世の世になってからは、諸国は強い者の斬《き》りとり次第になり、将軍領などというようなものは草の根をかきわけてさがしても、どこにもあろうはずがない。
(将軍になれば、そういう身分になったとおぼしめしている)
が、義昭はこの思いつきに有頂天になっていた。
「どうだ、よい案ではないか」
と言い、
「信長には京都付近の国を一国与えよう。近江、山城、摂津、和泉《いずみ》、河内、どれでもよいから望みの国を知行《ちぎょう》せよと申して参れ」
翌日、その使者に藤孝が立った。
(こまる)
と、このすぐれた常識家はおもうのである。
(こまったことだ。新公方様は幼少のころから僧院におられたゆえ、時勢というものがおわかりでないのではないか)
たとえば義昭のあげた国の一つを頂戴《ちょうだい》するにしても、義昭が斬りとるわけではない。信長が兵馬を動かして血みどろになって斬りとらねばならないのである。である以上、
——呉れてやる。
ということにはならない。
藤孝は、信長の宿館へゆき、その旨《むね》を言上した。
「国を?」
信長は、はたして妙な顔をした。藤孝はそれをみて、汗が出た。
「おそれ入り奉る」
と、柔和に藤孝は微笑した。
「公方様は、ながい僧房のお暮らしのすえ、俗世間にお出ましあそばされましたゆえ、いまひとつ、物事がおわかりあそばさぬところがございます」
「なるほど」
信長は、すばやくうなずいた。あまりの浮世ばなれしたお沙汰《さた》だから、さすがに怒りはしない。
「わかっている。そのお沙汰は御辞退申しあげたい、とそうお取次ぎ申せ」
「かしこまりましてござりまする」
「ところで」
と、信長はいった。
「それほどに、おおせくださるならば、無心申しあげたいことがある」
「とは?」
「堺《さかい》、大津、草津に代官を置くことをゆるされたい」
「それは」
お安い御用でござりまする、と藤孝はあやうく即答しかけたほどに、これは僅少《きんしょう》すぎる望みであった。
藤孝はさっそく公方仮御所にもどり、そのことを義昭に言上すると、義昭は小さな体を小刻みにゆすりながら、
「むろんそうさせるとも。それにしても彼《かれ》信長というのは、慾のすくない男よ」
と感心した。
義昭は征夷大将軍になった以上、当然、頼朝以来の先例によって幕府をひらくことをゆるされる。義昭はそのつもりであったし、それがかれの夢でもあった。
この間、かれは仮御所を清水寺から本圀《ほんこく》寺《じ》に移していた。本圀寺は日蓮宗の京都における一本山である。
将軍宣下の翌日、義昭はその仮御所の本圀寺に信長をよび、うれしさのあまり、
「かように流寓《りゅうぐう》の身から征夷大将軍を相続できるようになったのは、すべてそのほうのおかげである。爾《じ》今《こん》、そのほうを父とよぶぞ」
といった。信長は義昭よりもわずか三つ上である。ほとんど同年配にちかい義昭から父とよばれることは、信長にすればどうも感覚的に奇妙な感じであった。
「これは恐れ入り奉る」
と、口ごもって迷惑そうにいった。信長にすれば義昭の有頂天なよろこびぶりについてゆけぬような気がする。
義昭は義昭で、自分のよろこびと感謝をどのように表現していいかわからなかった。考えたあげく、
「副将軍になってたもれ」
といった。
冗談ではなかった。信長にすれば、義昭のような素っ頓狂《とんきょう》な坊主あがりの小才子の家来になるために野戦攻城の苦労をかさねてきたわけではない。
(義昭は、かんちがいしている)
とおもわざるをえない。信長にすれば、天下の武家から尊崇されている義昭の「血」こそ尊重すべきであった。だからこそ苦心惨澹《さんたん》のあげくこの上洛を遂げ、義昭をしてその「血」にふさわしい征夷大将軍職につけたのである。
——されば幕府をひらく。
となると、これは別であった。幕府という古めかしい、中世の化けもののような統治機構をいま再現し、自分がその番頭になるというのは、なんともなっとくできない。
(義昭の血は大いに尊重し、利用もしたい。だからこそ将軍職にもつけた。しかし幕府はひらかせない。ひらくとすればそれはおれ自身だろう)
信長はばくぜんとそう思っている。この人物を動かしているものは、単なる権力慾や領土慾ではなく、中世的な混沌《こんとん》を打《だ》通《つう》してあたらしい統一国家をつくろうとする革命家的な慾望であった。革命家といえば信長の場合ほど明確な革命家があらわれた例は、日本史上、稀《まれ》といっていい。かれは、政治上の変革だけでなく、経済、宗教上の変革までばくぜんと意識していたし、そのある部分は着々と実現した。
が、義昭はちがう。
義昭は、中世的な最大の権威である「室町幕府の復興」ということのみに情熱をかけ、そのことにしか関心をもたない。この三十二歳の貴人はすでに生きながらの過去の亡霊であったが、信長は未来のみを考えている、しかもその考えはたれにも窺《うかが》えない一個の革命児であった。
思想があうはずがない。
が、いまのところ、たがいに利用価値があるという点で、握手が成立していた。そういう関係であることを、義昭はよろこびのあまり気づいていなかった。
(副将軍なら、躍りあがってよろこぶと思うたのに)
と、義昭は、信長の辞退の本意がわからなかった。よほど謙譲な男だろうとおもった。
「はて」
と、義昭は思案していたが、
「されば管領《かんれい》はどうじゃ」
弾んだ声でいった。管領というのは幕臣の最高の職である。のちの徳川幕府の職における大老とわずかに似ている。室町幕府の隆盛期にあっては、斯波《しば》、細川、畠山の三家が交替してこの職につくことになっていた。
「どうじゃ」
「いや、辞退し奉る」
と、信長は言上し、将軍側近の細川藤孝をさしまねいて、
「公《く》方《ぼう》はあのようにおおせられるが、信長には官職官位の野心はない。ただ天《あめ》が下《もと》、公方に仇《あだ》なす者を討ちたいらげることのみにわしの志はかかっている。公方に二度とそのようなお気遣いのないよう、とくと申しあげよ」
と、低声《こごえ》でいった。
藤孝は将軍の御座ちかくにすすみ寄り、信長のその意中をつたえた。
「なるほど」
義昭は感動し、大きくうなずいた。義昭は越前金ケ崎城で諸国の情勢をながめていたころ、信長のあまりにも策謀の多い性格に不安をもったことがあったが、聞くと見るとでは大ちがいであった。
(なんと謙虚なおとこだ)
と、おもった。
その日、信長が退出したあと、義昭は側近をよび、信長に対する優遇策を講じた。
「領土をあたえるか」
義昭は妙案のように叫んだ。このあたりが義昭のおかしなところであった。
(与えようにも、公方様には一尺の領地もないではないか)
と、側近筆頭の細川藤孝は、当惑するおもいでこの新将軍をあおぎ見た。
やはり中世の亡霊なのである。
むかしはなるほど将軍は天下の主《あるじ》であり、大名の配置転換もでき、また将軍家の直轄領《ちょっかつりょう》というものはあった。
が、それは百年まえのことだ。戦国乱世の世になってからは、諸国は強い者の斬《き》りとり次第になり、将軍領などというようなものは草の根をかきわけてさがしても、どこにもあろうはずがない。
(将軍になれば、そういう身分になったとおぼしめしている)
が、義昭はこの思いつきに有頂天になっていた。
「どうだ、よい案ではないか」
と言い、
「信長には京都付近の国を一国与えよう。近江、山城、摂津、和泉《いずみ》、河内、どれでもよいから望みの国を知行《ちぎょう》せよと申して参れ」
翌日、その使者に藤孝が立った。
(こまる)
と、このすぐれた常識家はおもうのである。
(こまったことだ。新公方様は幼少のころから僧院におられたゆえ、時勢というものがおわかりでないのではないか)
たとえば義昭のあげた国の一つを頂戴《ちょうだい》するにしても、義昭が斬りとるわけではない。信長が兵馬を動かして血みどろになって斬りとらねばならないのである。である以上、
——呉れてやる。
ということにはならない。
藤孝は、信長の宿館へゆき、その旨《むね》を言上した。
「国を?」
信長は、はたして妙な顔をした。藤孝はそれをみて、汗が出た。
「おそれ入り奉る」
と、柔和に藤孝は微笑した。
「公方様は、ながい僧房のお暮らしのすえ、俗世間にお出ましあそばされましたゆえ、いまひとつ、物事がおわかりあそばさぬところがございます」
「なるほど」
信長は、すばやくうなずいた。あまりの浮世ばなれしたお沙汰《さた》だから、さすがに怒りはしない。
「わかっている。そのお沙汰は御辞退申しあげたい、とそうお取次ぎ申せ」
「かしこまりましてござりまする」
「ところで」
と、信長はいった。
「それほどに、おおせくださるならば、無心申しあげたいことがある」
「とは?」
「堺《さかい》、大津、草津に代官を置くことをゆるされたい」
「それは」
お安い御用でござりまする、と藤孝はあやうく即答しかけたほどに、これは僅少《きんしょう》すぎる望みであった。
藤孝はさっそく公方仮御所にもどり、そのことを義昭に言上すると、義昭は小さな体を小刻みにゆすりながら、
「むろんそうさせるとも。それにしても彼《かれ》信長というのは、慾のすくない男よ」
と感心した。
この夕、光秀は、本圀寺の塔頭《たっちゅう》にある細川藤孝の宿陣をたずねた。
「いや、用はありませぬ」
と、光秀は供にもたせた干し魚と酒をもちこみ、藤孝に部屋を一つ空けさせ、ふたり水いらずの小宴を張った。
「上洛以来、たがいに兵馬の間を駈《か》けまわっていると語りあうことがなかった」
というのが、この小宴の目的である。
二人のふるい同志は、まず将軍家復興という大願成就を祝しあった。
「むかし、朽《くつ》木《き》谷《だに》の一穂《いっすい》の燈火のもとで語りあったとき、まさかかようにはやく将軍家が復興するとはおもわざりしことよ」
藤孝は言い、光秀の手をとり、
「貴殿のおかげだ」
といった。光秀はあわててかぶりをふり、自分はなにも功はなかった、と言い、
「貴殿をはじめ幕臣の方々のご努力による。いやいや、なによりも新将軍の御果報によるものだ」
といった。
「弾正忠《だんじょうちゅう》(信長の新しい官名)殿のおかげであることは申すまでもない」
「左様、それは申すまでもない」
と、光秀もうなずいた。このたびの快挙は信長の天才的な軍略、政略のたまものであることは、ふたりとも、驚きの気持をもってそれを感じている。
「ところで」
と、藤孝は、きょう信長は国を所望せず、三つの都会の管理をすることを所望したはなしをした。
「三つとは?」
「草津、大津、堺です。いったい、弾正忠殿にはどういうご意図があるのであろう」
「草津は」
これはわかる。近江草津の宿《しゅく》は、中山道《なかせんどう》と東海道の分岐点にあたっており、ここに代官所を設置しておくことは、岐阜の信長が京都を遠距離支配する上において、軍事上必要な処置であった。これは藤孝にもわかる。
「大津は?」
と、藤孝は光秀に感想をもとめた。
光秀は首をひねってしばらく考えていた。この光秀という男は、藤孝がこの世に生をうけて以来見つづけてきた人間のなかで群をぬいて秀抜な頭脳をもった男だが、ただ直感力の点ですぐれず、ずいぶん思慮をかさねるくせがあった。
やがて顔をあげたとき、光秀の顔はほとんど桃色といっていいほどに紅潮していた。
「大津には、物と銭《ぜに》があつまる」
琵琶湖の極南にあたるこの宿場は、湖港として知られている。湖上交通の要衝で、近江だけでなく若狭、越前などの北国、美濃などの東国の物資も、いったんはこの湖にうかび、ついには大津の湖港にあつまる。
(なるほど運上金(商品税)をとるためか)
と、光秀は、信長の着眼のよさにうめくおもいであった。
これはほとんど、天才的な着眼といえた。いま諸国に覇《は》をとなえている上杉謙信や武田信玄、北条氏康などにしても、すべてその経済的見識は農業にとどまっている。信長のように商業に目をつけるような感覚のもちぬしは、たれひとりない。
(信長の生国《しょうごく》の尾張が、熱《あつ》田《た》のあたりを中心に早くから商いがさかんだったせいでもあろう。それとも、商人《あきんど》あがりだった道三の影響なのかどうか)
大津の疑問が解ければ、堺はなお容易である。堺という海港はすでに中国大陸や東南アジア、遠くはヨーロッパにまで知られた日本の代表的港市である。
(米でしか勘定のできぬ大名とちがい、信長は金銭というものを知っている)
光秀は以上のような感想をのべると、藤孝はなるほどとうなずいた。
「風変りなお人ではある」
藤孝はまだ、その程度の理解力しか示さなかった。
信長は、義昭の将軍宣下から四日目に、参《さん》内《だい》をゆるされた。
むろん官位が卑《ひく》いため昇殿はゆるされなかったが、とにかく、御簾《みす》のむこうに天子がいるという距離にまで接近しえた光栄は、武将としてはざらに持ちうる栄誉ではない。
その参内をおわっての午後、義昭は本圀寺の館に信長をまねき、信長のために祝賀の宴を張った。
「めでたや」
と、義昭は言い、きょうの祝宴の趣向を信長に告げた。観《かん》世《ぜ》大夫《たゆう》をよんで能興行をするというのである。
「慶事の興行には、十三番の能をするのが吉例になっている。ゆるりと観《み》よ」
と義昭がいうと、信長はにがい顔で、
「まだ天下を平定したわけではありませぬ。諸国に諸豪がきそい立っているこんにち、わずかにこの平安京(京都)をおさえ得たというだけでは、なんの安心のたねにもなりませぬ。それに三好衆はわれらに追われて阿波へ逃げかえったとはいえ、虎視《こし》眈々《たんたん》と京都回復の機をねらっております。かようなことでよろこんで十三番の能を興行するなどは児戯に類しましょう。ただの五番で結構でござる」
といったため、興行の模様はにわかに変更され、数は五番のみにとどまった。
さらに興行中、義昭は上機嫌《じょうきげん》で、
「弾正忠は、鼓《つづみ》の名手であるそうな。ひとつ所望したい」
といってきたが、信長はさすがに義昭の軽《けい》忽《こつ》さについてゆけぬ気がしたのか、ひどく不機嫌そうに手をふった。
「できませぬ」
と答えたが、義昭はしつこくすすめた。信長はついに腹を立て、光秀をよび、
「出来ぬものは出来ぬといってこい」
と、粗暴な尾張言葉で、とって投げるようにいった。
これが、二十二日である。
二十五日には信長は義昭を京に残し、岐阜へ帰るべく大軍をひきいて京をあとにしてしまった。信長の在京は、わずか一ト月たらずであった。
「弾正忠は予を捨てるのか」
と義昭は、信長のこの急な決定におどろいて掻《か》きくどくようにいったが、信長はいったんきめたこの方針を変えなかった。
ただ、多少の留守部隊をのこした。
その留守部隊の将領は、木下藤吉郎をはじめ、佐久間信盛《のぶもり》、村井貞勝《さだかつ》、丹羽《にわ》長秀などで、その兵は五千であった。
光秀の身分は、これらの将領よりやや下に属する。光秀も残された。光秀に命ぜられた任務は、義昭の宿館本圀寺の直接警備であった。
——信長の留守を三好党が襲うのでは?
という不安が、たれの胸にもあったが、わずか二カ月足らずで、その疑惧《ぎぐ》が事実になってあらわれた。
正月五日、三好党がざっと一万の兵をもって、にわかに京に入り、本圀寺の義昭の館《やかた》を包囲したのである。
守備隊長の光秀は死守を決し、勇戦を開始した。
むろん官位が卑《ひく》いため昇殿はゆるされなかったが、とにかく、御簾《みす》のむこうに天子がいるという距離にまで接近しえた光栄は、武将としてはざらに持ちうる栄誉ではない。
その参内をおわっての午後、義昭は本圀寺の館に信長をまねき、信長のために祝賀の宴を張った。
「めでたや」
と、義昭は言い、きょうの祝宴の趣向を信長に告げた。観《かん》世《ぜ》大夫《たゆう》をよんで能興行をするというのである。
「慶事の興行には、十三番の能をするのが吉例になっている。ゆるりと観《み》よ」
と義昭がいうと、信長はにがい顔で、
「まだ天下を平定したわけではありませぬ。諸国に諸豪がきそい立っているこんにち、わずかにこの平安京(京都)をおさえ得たというだけでは、なんの安心のたねにもなりませぬ。それに三好衆はわれらに追われて阿波へ逃げかえったとはいえ、虎視《こし》眈々《たんたん》と京都回復の機をねらっております。かようなことでよろこんで十三番の能を興行するなどは児戯に類しましょう。ただの五番で結構でござる」
といったため、興行の模様はにわかに変更され、数は五番のみにとどまった。
さらに興行中、義昭は上機嫌《じょうきげん》で、
「弾正忠は、鼓《つづみ》の名手であるそうな。ひとつ所望したい」
といってきたが、信長はさすがに義昭の軽《けい》忽《こつ》さについてゆけぬ気がしたのか、ひどく不機嫌そうに手をふった。
「できませぬ」
と答えたが、義昭はしつこくすすめた。信長はついに腹を立て、光秀をよび、
「出来ぬものは出来ぬといってこい」
と、粗暴な尾張言葉で、とって投げるようにいった。
これが、二十二日である。
二十五日には信長は義昭を京に残し、岐阜へ帰るべく大軍をひきいて京をあとにしてしまった。信長の在京は、わずか一ト月たらずであった。
「弾正忠は予を捨てるのか」
と義昭は、信長のこの急な決定におどろいて掻《か》きくどくようにいったが、信長はいったんきめたこの方針を変えなかった。
ただ、多少の留守部隊をのこした。
その留守部隊の将領は、木下藤吉郎をはじめ、佐久間信盛《のぶもり》、村井貞勝《さだかつ》、丹羽《にわ》長秀などで、その兵は五千であった。
光秀の身分は、これらの将領よりやや下に属する。光秀も残された。光秀に命ぜられた任務は、義昭の宿館本圀寺の直接警備であった。
——信長の留守を三好党が襲うのでは?
という不安が、たれの胸にもあったが、わずか二カ月足らずで、その疑惧《ぎぐ》が事実になってあらわれた。
正月五日、三好党がざっと一万の兵をもって、にわかに京に入り、本圀寺の義昭の館《やかた》を包囲したのである。
守備隊長の光秀は死守を決し、勇戦を開始した。