ここに、一大事がある。
光秀は、信長が京を去る数日前、
(お留守中の京都守護職には自分が任命されるのであろうな)
という期待が、脳裏を去来していた。
(なりたい)
とおもう念が、光秀にはつよい。
当然でもあった。光秀の名はすでに京で知らぬ者はなく、公卿や将軍、それをとりまく京の貴人たちは、
「明智殿ほどこころよいお人はない。武人に似あわず、典礼にあかるく文雅に深く、物腰は閑雅で、まるで京育ちのようである。田舎武士の織田の家中としては貴重な存在であろう」
と、評判は鳴るようによかった。評判のよいことは、ながい不遇のなかにあった光秀にとってうれしからぬことではない。
せっせと公卿、幕臣とのあいだの社交につとめ、信長の勢力が自然にこの王城の土壌に根をおろすよう努力しつづけていた。京都の社交界における織田家のもっとも華麗な外交官のつもりで光秀はふるまった。
(おかしなやつだ)
と、敏感な信長はそういう光秀の動きを、じっとみていたが、口には出さない。
(あれはあれでいい)
ともおもっている。儀礼社会への外交官のつもりで光秀を召しかかえたわけであったし、その能力と軍事的才能を買って抜擢《ばってき》につぐ抜擢を信長はこころみてきた。が、信長はどうも、光秀のそういう動きを、
——でかした。
と膝《ひざ》をたたいて賞《ほ》めあげる気もしないのである。
(ああいう手の男は好かぬ)
という感情が、どこか心の奥底にある。信長の好きな型は、からりとして性格の粗野ながらも実直で律《りち》義《ぎ》な武《ぶ》辺者肌《へんしゃはだ》の男なのである。
もともと世の儀礼や教養に反抗し、腰のまわりに礫《つぶて》を詰めた袋などをいっぱいぶらさげて歩いていた信長である。長じても、その種の型の人間が好きになるはずがない。
——いやなやつだ。
とまでは光秀を思わなかったが、しかし光秀のいかにも教養ありげな顔だち、言葉つき、物腰をみると、さほど愉快ではなかった。
さて、京都守護職の件である。
「当然、光秀殿がなられるのであろう」
と公卿や幕臣たちはうわさしていた。
かれら京都人は不安でもあった。信長が留守中、また何がおこるかもしれない。
光秀なら軍事能力は卓抜だし、それに気心もわかっていてつきあいやすくもある。
「ぜひ、光秀殿に」
と祈るようにそれを望んでいたし、光秀自身にも、
「貴殿がなられるわけでありますな」
と、露骨に念をおす者もあった。
「いやいやすべて弾正忠様のご意中に存すること」
光秀はとりあわなかったが、こうまで期待されてしまうと、もし任命されなかった場合いちじるしく男を下げることにもなる。
(どうすべきか)
光秀はずいぶん考えたが、これはもう、売りこむ以外にないと思った。
まだ信長在洛《ざいらく》中のある日、将軍義昭に内謁《ないえつ》を乞《こ》い、
「余の儀ではござりませぬが」
と、その京都守護職人選の一件をきり出した。義昭の口を通して信長に言ってもらおうとおもったのである。
猟官運動ともいうべきものだが、この時代の武士にはそれほどの意識はなく、
「自分こそその職にふさわしい。だから任命されるのは当然である」
という、比較的からりとした習慣がある。
「いや、どうせそちを信長は任命するであろう」
義昭も、ごく自然にいった。しかし、光秀はなおも、
「ぜひお一言、お口添えを賜わりますれば」
と押したので義昭もその気になり、信長が新館に登営《とうえい》した日、
「あとの留守のことだが」
と、信長にきりだした。
「ぜひ、最高官を一人選んでもらいたい。それには武骨一辺の男ではこまる。文武兼備の男こそのぞましい。とすれば、明智光秀こそ然《しか》るかとおもうが、どうであろう」
「…………」
信長は、沈黙した。自分の家の人事に介入されたくないという気持がある。まして「飾り物」であるべき将軍に、そういう権能をもたせ、そういう前例をつくってしまえば、あとあと始末にこまることがでてくる。
「それは、しかるべく」
——考慮したい、という言葉はのど《・・》奥に呑《の》みこみ、信長は多少不機《ふき》嫌《げん》そうに御前を退出した。
じつは、このことは、昨日、朝廷からも久《く》我《が》大《だい》納《な》言《ごん》を通して、
「王城守護の任に堪えうる者を留《とど》めよ」
という勅諚《ちょくじょう》をもらっている。信長はそれを考慮しつづけていた。
(光秀はなるほど適材である)
と、信長もおもっている。信長は、人間の才能を見ぬく点では、ほとんど神にちかいほどの能力をもっていた。
(光秀を残せば、将軍や公家《くげ》はよろこぶであろう)
とも思っていた。しかし信長にすれば、かれらを単に悦《よろこ》ばせるために京都守護職をおくのではないとも思っている。織田家の威武、威権をかれらに示さなければならない。
(それには、光秀はふさわしくない)
なぜならば、あまりにも彼は京都人士に密着し愛されすぎているからである。愛されすぎては、
「威権」
ということが立たない。
場合によっては、京都に可愛《かわい》がられすぎる存在は、信長にとって危険であった。鎌倉幕府をひらいた頼朝《よりとも》が、京都に駐留している弟義経《よしつね》があまりにも朝廷に愛されすぎ、朝廷に密着しすぎたことを嫉《しっ》妬《と》し、猜《さい》疑《ぎ》し、
(ひょっとすると、京都の権威のとりこになって謀《む》反《ほん》をおこすのではないか)
と観察し、ついに断定して義経を駆逐する決意をもった。この場合、頼朝の立場と、信長の立場はおなじである。
(京都には、いっそ木強漢《ぼっきょうかん》を置く必要がある)
と信長は考えた。
かといって、柴田勝家、佐久間信盛、丹羽長秀といった連中はふさわしくない。みな織田家譜代の重臣で、戦場では猛勇果敢な軍人どもだが、かれらが京で軍政をやれば事ごとに京都人士の反感を買い、ついには人心は織田家を離れてしまうであろう。
(剛と柔を兼ねそなえた者といえば)
至難な人選であるが、ただひとり適任の者はいる。その名はすでに信長の意中にある。
光秀は、信長が京を去る数日前、
(お留守中の京都守護職には自分が任命されるのであろうな)
という期待が、脳裏を去来していた。
(なりたい)
とおもう念が、光秀にはつよい。
当然でもあった。光秀の名はすでに京で知らぬ者はなく、公卿や将軍、それをとりまく京の貴人たちは、
「明智殿ほどこころよいお人はない。武人に似あわず、典礼にあかるく文雅に深く、物腰は閑雅で、まるで京育ちのようである。田舎武士の織田の家中としては貴重な存在であろう」
と、評判は鳴るようによかった。評判のよいことは、ながい不遇のなかにあった光秀にとってうれしからぬことではない。
せっせと公卿、幕臣とのあいだの社交につとめ、信長の勢力が自然にこの王城の土壌に根をおろすよう努力しつづけていた。京都の社交界における織田家のもっとも華麗な外交官のつもりで光秀はふるまった。
(おかしなやつだ)
と、敏感な信長はそういう光秀の動きを、じっとみていたが、口には出さない。
(あれはあれでいい)
ともおもっている。儀礼社会への外交官のつもりで光秀を召しかかえたわけであったし、その能力と軍事的才能を買って抜擢《ばってき》につぐ抜擢を信長はこころみてきた。が、信長はどうも、光秀のそういう動きを、
——でかした。
と膝《ひざ》をたたいて賞《ほ》めあげる気もしないのである。
(ああいう手の男は好かぬ)
という感情が、どこか心の奥底にある。信長の好きな型は、からりとして性格の粗野ながらも実直で律《りち》義《ぎ》な武《ぶ》辺者肌《へんしゃはだ》の男なのである。
もともと世の儀礼や教養に反抗し、腰のまわりに礫《つぶて》を詰めた袋などをいっぱいぶらさげて歩いていた信長である。長じても、その種の型の人間が好きになるはずがない。
——いやなやつだ。
とまでは光秀を思わなかったが、しかし光秀のいかにも教養ありげな顔だち、言葉つき、物腰をみると、さほど愉快ではなかった。
さて、京都守護職の件である。
「当然、光秀殿がなられるのであろう」
と公卿や幕臣たちはうわさしていた。
かれら京都人は不安でもあった。信長が留守中、また何がおこるかもしれない。
光秀なら軍事能力は卓抜だし、それに気心もわかっていてつきあいやすくもある。
「ぜひ、光秀殿に」
と祈るようにそれを望んでいたし、光秀自身にも、
「貴殿がなられるわけでありますな」
と、露骨に念をおす者もあった。
「いやいやすべて弾正忠様のご意中に存すること」
光秀はとりあわなかったが、こうまで期待されてしまうと、もし任命されなかった場合いちじるしく男を下げることにもなる。
(どうすべきか)
光秀はずいぶん考えたが、これはもう、売りこむ以外にないと思った。
まだ信長在洛《ざいらく》中のある日、将軍義昭に内謁《ないえつ》を乞《こ》い、
「余の儀ではござりませぬが」
と、その京都守護職人選の一件をきり出した。義昭の口を通して信長に言ってもらおうとおもったのである。
猟官運動ともいうべきものだが、この時代の武士にはそれほどの意識はなく、
「自分こそその職にふさわしい。だから任命されるのは当然である」
という、比較的からりとした習慣がある。
「いや、どうせそちを信長は任命するであろう」
義昭も、ごく自然にいった。しかし、光秀はなおも、
「ぜひお一言、お口添えを賜わりますれば」
と押したので義昭もその気になり、信長が新館に登営《とうえい》した日、
「あとの留守のことだが」
と、信長にきりだした。
「ぜひ、最高官を一人選んでもらいたい。それには武骨一辺の男ではこまる。文武兼備の男こそのぞましい。とすれば、明智光秀こそ然《しか》るかとおもうが、どうであろう」
「…………」
信長は、沈黙した。自分の家の人事に介入されたくないという気持がある。まして「飾り物」であるべき将軍に、そういう権能をもたせ、そういう前例をつくってしまえば、あとあと始末にこまることがでてくる。
「それは、しかるべく」
——考慮したい、という言葉はのど《・・》奥に呑《の》みこみ、信長は多少不機《ふき》嫌《げん》そうに御前を退出した。
じつは、このことは、昨日、朝廷からも久《く》我《が》大《だい》納《な》言《ごん》を通して、
「王城守護の任に堪えうる者を留《とど》めよ」
という勅諚《ちょくじょう》をもらっている。信長はそれを考慮しつづけていた。
(光秀はなるほど適材である)
と、信長もおもっている。信長は、人間の才能を見ぬく点では、ほとんど神にちかいほどの能力をもっていた。
(光秀を残せば、将軍や公家《くげ》はよろこぶであろう)
とも思っていた。しかし信長にすれば、かれらを単に悦《よろこ》ばせるために京都守護職をおくのではないとも思っている。織田家の威武、威権をかれらに示さなければならない。
(それには、光秀はふさわしくない)
なぜならば、あまりにも彼は京都人士に密着し愛されすぎているからである。愛されすぎては、
「威権」
ということが立たない。
場合によっては、京都に可愛《かわい》がられすぎる存在は、信長にとって危険であった。鎌倉幕府をひらいた頼朝《よりとも》が、京都に駐留している弟義経《よしつね》があまりにも朝廷に愛されすぎ、朝廷に密着しすぎたことを嫉《しっ》妬《と》し、猜《さい》疑《ぎ》し、
(ひょっとすると、京都の権威のとりこになって謀《む》反《ほん》をおこすのではないか)
と観察し、ついに断定して義経を駆逐する決意をもった。この場合、頼朝の立場と、信長の立場はおなじである。
(京都には、いっそ木強漢《ぼっきょうかん》を置く必要がある)
と信長は考えた。
かといって、柴田勝家、佐久間信盛、丹羽長秀といった連中はふさわしくない。みな織田家譜代の重臣で、戦場では猛勇果敢な軍人どもだが、かれらが京で軍政をやれば事ごとに京都人士の反感を買い、ついには人心は織田家を離れてしまうであろう。
(剛と柔を兼ねそなえた者といえば)
至難な人選であるが、ただひとり適任の者はいる。その名はすでに信長の意中にある。
信長は京都を離れる二日前「その名」を久我大納言を経て禁《きん》裡《り》に言上《ごんじょう》し、さらに信長みずから将軍館に伺《し》候《こう》して義昭に拝謁《はいえつ》し、
「それがしの代官を、相決めました」
といった。義昭は身を乗りだした。
「たれじゃ」
「木下藤吉郎秀吉と申す者でござる」
義昭はあっという表情をみせ、
「これは意外な。きくところによれば木下藤吉郎秀吉というそちの侍大将は氏も素姓《すじょう》もなく、卒《そつ》伍《ご》のなかよりあがった無学な武士であるという。左様な人物が、京都守護とは意外な」
「ご不服でござるか」
「いや」
義昭は、酢をのんだような顔で沈黙している。自分や天子の身辺をまもるべき役目に、まるで見当もつかぬ男がつくというのは、不愉快でもあり、気味がわるくもあった。
「木下藤吉郎の腕前は、この信長、シカと存じておる」
信長は敬語を用いず、ぴしゃりといった。自分の人事権に介入するな、という語気が、言外にある。
「さればこそ命じ申した。以後、藤吉郎京都に在《あ》るは、なおこの信長の京都にあるがごとし。左様お心得召されよ」
そのまま、退出してしまっている。
光秀はこの座に陪席して、この意外な発表を信長そのひとの声できいた。
(藤吉郎か)
思いもよらぬ人選である。
織田家の譜代家老である柴田、丹羽、林、佐久間のいずれかならば光秀は、
(やはり門閥か)
と、人選の理由をなっとくしたであろう。
しかし信長というのは門閥主義でなく人材主義の男である。そこが光秀が信長に感じつづけている魅力であったし、現に、そういう新気風の織田家であればこそ、新参者の光秀や草履取りあがりの秀吉でさえ、ときには家老職なみの重い役目につかされてきている。
(藤吉郎とはのう)
光秀は、信長がなにを考えているのか、わからなくなった。
光秀は、藤吉郎の軍才、機略は卓抜なものとしてみとめている。しかし、それでも自分以上だとは思っていない。
(まして儀典のことはなにも知るまい)
そのうえ、光秀は、藤吉郎の性格を、あまり好もしいものとは思っていなかった。
道や殿中ですれちがっても、藤吉郎は顔いっぱいで笑い、持ち前の大声で、
「やあ十兵衛殿、よい天気じゃな」
と闊達《かったつ》に声をかけてくるが、光秀はいつも物静かに会釈《えしゃく》をかえすだけで済ませている。
(闊達は無智のせいだ)
無教養な男ほどおそろしいものはないと光秀はおもっていた。藤吉郎が、主人信長の意を迎えることの機敏さ、ぬけめなさ、さらにはぬけぬけとしたお追従《ついしょう》、それらも、無教養な者のみがもっている強さというものであろう。光秀にはとても真似《まね》はできない。
(あの男が)
やはり信長ほどの男でも追従ということは必要か、と光秀はおもった。
この日、宿陣にもどってから弥平次光春をよび、酒の相手をさせた。
「不快なことがあった」
と、この話をした。秀吉が京都守護の最高官で、光秀と村井貞勝が、その補佐ということになった、というのである。
「お槙《まき》をよびたいな」
光秀は、別なことをいった。妻女のお槙は岐阜の城下にいる。
「わしはすこし疲れた」
光秀は、虚《こ》空《くう》に目をやった。京都に入って以来、軍事に市政に日夜奔走し、神経を休め得た日というのがない。
そのうえ、光秀は他の武将のようにその地その地で女を得るということができないたちであった。かつて諸国遊行《ゆぎょう》中近江《おうみ》の朽《くつ》木《き》谷《だに》で村の娘と一夜を共にしたという一事をのぞいては、お槙のほかにほとんど女というものを知らない。
「よびたい」
と光秀は杯を唇許《くちもと》にあてながら呟《つぶや》いた。
お槙の肌、においまでが、光秀の脳裏にうかんでくるようである。
「左様なご無理をおおせられますな」
弥平次はいった。武将にとって、妻子を主家の城下に置くのは一種の法習慣である。反逆はせぬ、という誓いのしるしであり、その人質という意味でもある。
「殿は、お固くるしい」
弥平次は、若々しい顔をほころばせ、ことさらに高声をたてて笑った。光秀の気分を、なんとか晴らそうというのであろう。
「女は、京にもおるではありませぬか」
「遊女が、か」
「左様、遊女でござりまする。家中の諸将、物頭《ものがしら》は、陣所陣所に浮《う》かれ女《め》をよび、ずいぶんに面白《おもしろ》おかしそうでござりまするぞ」
「遊女は、いやだ」
「時にとって薬でございます。お疲れもほぐれ、お気持も晴れましょう」
そういえば、光秀のこの陰気さや神経の高ぶりは、久しく女に接していないことにもよるのであろう。
このため、光秀の家来たちも気詰りであった。主人が女遊びをしないため、物頭格の者まで遠慮し、さらに下々にまで及んで、どことなく常に重苦しい。
「桔梗紋《ききょうもん》(光秀の紋)の陣屋は、戦さには強いが、平素、陣屋の前を通ってもどことなく暗い」
といわれていた。からっと躁《はしゃ》ぐところがないのである。このせいか、ときに足軽同士が剣をぬきあってすさまじい大喧《おおげん》嘩《か》をするのもきまって「桔梗紋の陣屋」であった。
「殿、わたくしがよき女《もの》をお連れして参りましょうか」
と弥平次はこの機会にすすめた。弥平次は明智家の気分を一新させるのは、光秀が気軽に女遊びをしてくれるほかにないと思っている。
「いかがでございましょう」
「結構だが、またのことにする」
光秀は、酔ってきた。深く酔えば、お槙を恋う気持もすこしはまぎれることを光秀は知っている。
その翌々日、信長は京を去った。
信長が京を去ると同時に、その留守居の代官である木下藤吉郎の職務がはじまる。
藤吉郎は、信長の隊列を粟田口まで見送ったあと、京へひきかえし、
(さて、室町殿へゆくか)
と馬を二条へすすめた。室町殿とは将軍館の通称である。
藤吉郎はあらたに就任した、
京都守護職
の資格で登営し、将軍家執事の上野中務少《うえのなかつかさしょう》輔《ゆう》をよび出し、
「将軍様に拝謁したい」
と申し出た。藤吉郎一個が、一個の資格で拝謁するのはこれが最初である。この拝謁ねがいは、ひとつには京都守護職という職のうれしさを味わってみたかったのであろう。
「しばらく」
と、幕臣上野中務少輔は藤吉郎を待たせておき、義昭に内意をきいた。
「ならぬ」
義昭は、光秀が選ばれなかったこの人事に不愉快であった。素姓も知れぬ木下藤吉郎などに、いま会いたくもない。
それに藤吉郎にもの《・・》を教えてやるつもりでもあった。
「あの下郎あがりは、将軍のなんたるかを知らぬのであろう。将軍の拝謁には先例格式があり、だしぬけの拝謁はできぬものだ。そのようにとくと教えてやれ」
と、義昭は執事にいった。
執事上野中務少輔は藤吉郎のもとにもどり、そのとおりのことを言い、
「追って日を定めて、なにぶんのお沙汰《さた》があるであろう」
と、いった。
それをきくなり、藤吉郎はすかさずいった。
「そのお言葉は、中務殿のご意見か、それとも将軍家のお言葉であるのか」
とほうもない大声である。
「申されよ、仔《し》細《さい》によってはこの藤吉郎、そのままではおきませぬぞ」
藤吉郎は、智恵ぶかい男だ。京都に残された自分を将軍や公卿がどうみるかも予知していたし、また彼等に対する信長の意中もよく見ぬいている。
(円転滑脱のなかに、よく威権を維持せよ)
というのが信長の自分に対する期待であろうと思い、就任のその日に、わざわざこの喧嘩を吹っかけたのである。
それも、両眼から火を発するようなすさまじい顔つきで、執事をどなりつけた。将軍家執事といえば「中務少輔」という大名格の官位をもっているが、藤吉郎は無位無官の分際にすぎない。
「如何《いかに》」
と問いつめると、執事はふるえあがり、
「むろん、将軍家の御諚《ごじょう》でござる」
といった。
「それはけしからぬ。将軍家のおおせられる先例格式とは何事でござるか。この藤吉郎は信長の代官として京都守護をつとめる身。となれば、将軍家は信長に対し格式よばわりをなさるか。信長が京を離れればさっそくその恩をお忘れなされたか」
膝《ひざ》を立て、相手を斬《き》りかねまじい勢いでいったから、上野中務少輔は動転し、廊下をころぶように走ってその旨《むね》を義昭に言上した。
「そう申したか」
義昭も、ふるえあがってしまった。
すぐ鄭重《ていちょう》に藤吉郎を通し、義昭はあたふたと上段の間にあらわれてすわった。
「先刻は、執事が無礼を働いたらしいが」
と義昭がいうと、藤吉郎はかぶりをふり、
「物には思いちがいが多いものでござりまする」
と、忘れたような顔をした。
このあと義昭は酒をくだして座をやわらげると、藤吉郎は戦場の滑稽譚《こっけいたん》などや市井の女ばなしなどを持ち出して大いに義昭を笑わせ、二時間ほど歓談して退出した。
この最初の拝謁に陪席した義昭の近侍までが、この藤吉郎の評判でもちきりになった。
義昭も、藤吉郎が退出したあと、何度もうなり、むしろ怖《おそ》れるように、
「信長は、容易ならぬ家臣をもっている」
とつぶやいた。自然、光秀との対比が、何度も義昭の脳裏に去来したことであろう。