「京都守護職」
という重職に、木下藤吉郎秀吉が抜擢《ばってき》されて就任したものの、長くは続かなかった。
藤吉郎はあくまでも軍人である。すくなくとも信長はそうみていた。
「猿《さる》めがおらぬと不便じゃ」
と、岐阜の根拠地で信長はおもうようになった。
(猿めに都へのぼらせて、公卿や将軍側近などと交わらせていても仕方がない)
不経済というものである。藤吉郎は戦場に置いてこそ朝《あした》に敵陣を破り、夕《ゆうべ》に敵城を降《くだ》す能力を発揮するであろう。
(京はむしろ光秀がよい)
これは最適任であった。
信長は、気がかわった。気がかわるとすぐ藤吉郎に召喚状を発した。
「京には光秀が残れ」
むろん明智光秀だけでなく、村井貞勝や朝山日乗《にちじょう》といった文官も残っている。藤吉郎は去り、この永禄十二年の夏から開始された信長の伊勢征伐に従軍した。
光秀は、京に残った。
という重職に、木下藤吉郎秀吉が抜擢《ばってき》されて就任したものの、長くは続かなかった。
藤吉郎はあくまでも軍人である。すくなくとも信長はそうみていた。
「猿《さる》めがおらぬと不便じゃ」
と、岐阜の根拠地で信長はおもうようになった。
(猿めに都へのぼらせて、公卿や将軍側近などと交わらせていても仕方がない)
不経済というものである。藤吉郎は戦場に置いてこそ朝《あした》に敵陣を破り、夕《ゆうべ》に敵城を降《くだ》す能力を発揮するであろう。
(京はむしろ光秀がよい)
これは最適任であった。
信長は、気がかわった。気がかわるとすぐ藤吉郎に召喚状を発した。
「京には光秀が残れ」
むろん明智光秀だけでなく、村井貞勝や朝山日乗《にちじょう》といった文官も残っている。藤吉郎は去り、この永禄十二年の夏から開始された信長の伊勢征伐に従軍した。
光秀は、京に残った。
……………………
「おれはな、信長が信じられぬ」
と、義昭が、かれがもっとも信頼している光秀に打ちあけたのは、室町館《やかた》の庭の楓《かえで》が血のように色づきはじめたころである。
光秀は、はっとした。義昭がいつかこの言葉を吐くであろうとひそかに怖れていたことであった。
「近う寄れ、そちと低声《こごえ》で話したい」
義昭は脇息《きょうそく》から身をのり出し、声をひそめていった。その義昭の声を、庭の日《ひ》溜《だま》りに群れている雀《すずめ》の躁《はしゃ》ぎ声が掻《か》き消した。
「雀めが、うるさいの」
義昭は庭をみて、癇《かん》を立てた。その義昭の顔が、どこか雀に似ていた。
「密談《はなし》もできぬ」
耳ざわりで神経が立つ。
「ははあ、雀が」
光秀は庭を見、そのうちの黄楊《つげ》の老樹に目をこらした。その黄楊の葉の茂みのなかに、雀が五、六羽、しきりともぐったり出たりしている。
「あの黄楊の樹《き》に」
と、光秀が笑った。
「黒い実が実っております。雀めはそれをよろこんでいるのでありましょう」
「追え」
「拙者が?」
「明智十兵衛光秀ともあろう者に雀を追わせるのは人の主の道ではないが、わしはそちを頼りにしている。一事が万事——たとえば雀であろうと鷲《わし》であろうと、そのそちの手で追ってくれることを望む」
(鷲であろうと?)
暗に信長を指しているらしいことが、光秀にもわかりそうな気がした。そのことに気づくと光秀はあわてて、
「鷲は手前には追えませぬ。雀なら追ってさしあげましょう」
わざとあわてた風を作って庭へとび出し、雀を追った。
「あっはははは」
義昭は、真面目《まじめ》くさった光秀のそのあわてぶりがよほどおかしかったらしく、光秀が席に戻《もど》ってからでも笑っていた。
「そちは小心者じゃな」
それほど「鷲」がこわいのか、謀《む》反《ほん》ができぬのか、ということをからかったのである。
「左様、主を持ちます侍の心はつねに小心なものでござります。主に対しては日夜こまかく心配りをしております」
「これこれ、わしもそちの主だぞ」
「いかにも、将軍《くぼう》様に対しては、心のかぎりをつくして御身の上に障《さわ》りの無きよう思いをめぐらして」
「おるか」
義昭は、さらに身をのりだした。
「わしは幕府をひらくつもりだ」
(あっ)
と光秀は思った。信長は義昭を将軍にし、館までつくったが、かれに幕府をひらかせようとする気配がない。
(たしかに信長には、その気はない)
義昭に幕府をひらかせてしまえば、天下は義昭のものになる。信長がなんのために大汗かいて京都を鎮定したか、意味がない。
(信長は信長自身が織田幕府をはじめようとしているのだ。それを樹立するまでの人心収《しゅう》攬《らん》の便法《べんぽう》として義昭を将軍にしているにすぎない。義昭は、将軍になったことに満足しているべきなのだ。たとえば小児が玩具《おもちゃ》をあたえられてよろこんでいるように)
義昭は、将軍にしてもらった。
かれが住む館さえ造営して貰《もら》っている。すべて当の義昭が懐《ふとこ》ろ手《で》をしているまに事が運んだ。
(それで満足すべきだ。この上、なお幕府をひらいて政権をもちたい、と言いだせば信長はがらりと態度を変えてくるにちがいない)
「虫が好すぎます」
と光秀はたしなめようとしたが、そこまでは言えず、ただ、
「いますこし、時期をお待ちあそばしますように」
といった。
光秀の煮えきらぬ態度をみて、義昭は、みるみる不快な顔をした。
「なにごとぞ光秀、そちは予を奈良一乗院から脱出せしめたとき、光秀草莽《そうもう》の士ながら幕府を再興して天下を鎮《しず》めとうござります——と申したではないか。あれはうそか」
「いえ」
光秀は、額に汗をにじませた。
「うそではござりませぬ。しかし、ものには自然々々とやってくる時運というものがござりまする」
(奈良一乗院からこの足利将軍の血をひく者を盗み出したときには、おれはまだ一介の素《す》牢人《ろうにん》にすぎなかった。責任もない、現実も知らぬ。しかし、いまは織田家の家臣である。現実から飛躍した、少年が夢を謳《うた》いあげているようなわけには参らぬ。義昭が幕府をひらくとなれば、いままで足利家の無二の忠臣だった信長は仏相をかなぐり捨てて魔王になるにちがいない)
光秀にはそれが、手にとるようにわかる。
「御無理をなさいませぬように」
「なにが無理だ」
義昭はむっとしたらしい。
「征《せい》夷《い》大将軍という官職は、どなたから宣《せん》下《げ》されていると思うか」
「おそれながら、九重《ここのえ》の内に在《ま》しますお方から」
「そのとおりである。そこまでわかっていて、なにを躊躇《ちゅうちょ》することやある。なにを遠慮することやある。将軍になった以上、わしは幕府をひらくぞ」
「…………」
光秀の立場はくるしい。将軍家の家来である一方、織田家の家来でもあるのだ。
「光秀、なぜだまっておる」
「それがしの立場としては、この場合、石のごとくだまっているほかござりませぬ」
「心得た」
義昭は、急にあかるい声を出した。義昭にすれば自分の幕府樹立活動を、織田家の京都代官である光秀が「黙認する」という意味にとったのである。
と、義昭が、かれがもっとも信頼している光秀に打ちあけたのは、室町館《やかた》の庭の楓《かえで》が血のように色づきはじめたころである。
光秀は、はっとした。義昭がいつかこの言葉を吐くであろうとひそかに怖れていたことであった。
「近う寄れ、そちと低声《こごえ》で話したい」
義昭は脇息《きょうそく》から身をのり出し、声をひそめていった。その義昭の声を、庭の日《ひ》溜《だま》りに群れている雀《すずめ》の躁《はしゃ》ぎ声が掻《か》き消した。
「雀めが、うるさいの」
義昭は庭をみて、癇《かん》を立てた。その義昭の顔が、どこか雀に似ていた。
「密談《はなし》もできぬ」
耳ざわりで神経が立つ。
「ははあ、雀が」
光秀は庭を見、そのうちの黄楊《つげ》の老樹に目をこらした。その黄楊の葉の茂みのなかに、雀が五、六羽、しきりともぐったり出たりしている。
「あの黄楊の樹《き》に」
と、光秀が笑った。
「黒い実が実っております。雀めはそれをよろこんでいるのでありましょう」
「追え」
「拙者が?」
「明智十兵衛光秀ともあろう者に雀を追わせるのは人の主の道ではないが、わしはそちを頼りにしている。一事が万事——たとえば雀であろうと鷲《わし》であろうと、そのそちの手で追ってくれることを望む」
(鷲であろうと?)
暗に信長を指しているらしいことが、光秀にもわかりそうな気がした。そのことに気づくと光秀はあわてて、
「鷲は手前には追えませぬ。雀なら追ってさしあげましょう」
わざとあわてた風を作って庭へとび出し、雀を追った。
「あっはははは」
義昭は、真面目《まじめ》くさった光秀のそのあわてぶりがよほどおかしかったらしく、光秀が席に戻《もど》ってからでも笑っていた。
「そちは小心者じゃな」
それほど「鷲」がこわいのか、謀《む》反《ほん》ができぬのか、ということをからかったのである。
「左様、主を持ちます侍の心はつねに小心なものでござります。主に対しては日夜こまかく心配りをしております」
「これこれ、わしもそちの主だぞ」
「いかにも、将軍《くぼう》様に対しては、心のかぎりをつくして御身の上に障《さわ》りの無きよう思いをめぐらして」
「おるか」
義昭は、さらに身をのりだした。
「わしは幕府をひらくつもりだ」
(あっ)
と光秀は思った。信長は義昭を将軍にし、館までつくったが、かれに幕府をひらかせようとする気配がない。
(たしかに信長には、その気はない)
義昭に幕府をひらかせてしまえば、天下は義昭のものになる。信長がなんのために大汗かいて京都を鎮定したか、意味がない。
(信長は信長自身が織田幕府をはじめようとしているのだ。それを樹立するまでの人心収《しゅう》攬《らん》の便法《べんぽう》として義昭を将軍にしているにすぎない。義昭は、将軍になったことに満足しているべきなのだ。たとえば小児が玩具《おもちゃ》をあたえられてよろこんでいるように)
義昭は、将軍にしてもらった。
かれが住む館さえ造営して貰《もら》っている。すべて当の義昭が懐《ふとこ》ろ手《で》をしているまに事が運んだ。
(それで満足すべきだ。この上、なお幕府をひらいて政権をもちたい、と言いだせば信長はがらりと態度を変えてくるにちがいない)
「虫が好すぎます」
と光秀はたしなめようとしたが、そこまでは言えず、ただ、
「いますこし、時期をお待ちあそばしますように」
といった。
光秀の煮えきらぬ態度をみて、義昭は、みるみる不快な顔をした。
「なにごとぞ光秀、そちは予を奈良一乗院から脱出せしめたとき、光秀草莽《そうもう》の士ながら幕府を再興して天下を鎮《しず》めとうござります——と申したではないか。あれはうそか」
「いえ」
光秀は、額に汗をにじませた。
「うそではござりませぬ。しかし、ものには自然々々とやってくる時運というものがござりまする」
(奈良一乗院からこの足利将軍の血をひく者を盗み出したときには、おれはまだ一介の素《す》牢人《ろうにん》にすぎなかった。責任もない、現実も知らぬ。しかし、いまは織田家の家臣である。現実から飛躍した、少年が夢を謳《うた》いあげているようなわけには参らぬ。義昭が幕府をひらくとなれば、いままで足利家の無二の忠臣だった信長は仏相をかなぐり捨てて魔王になるにちがいない)
光秀にはそれが、手にとるようにわかる。
「御無理をなさいませぬように」
「なにが無理だ」
義昭はむっとしたらしい。
「征《せい》夷《い》大将軍という官職は、どなたから宣《せん》下《げ》されていると思うか」
「おそれながら、九重《ここのえ》の内に在《ま》しますお方から」
「そのとおりである。そこまでわかっていて、なにを躊躇《ちゅうちょ》することやある。なにを遠慮することやある。将軍になった以上、わしは幕府をひらくぞ」
「…………」
光秀の立場はくるしい。将軍家の家来である一方、織田家の家来でもあるのだ。
「光秀、なぜだまっておる」
「それがしの立場としては、この場合、石のごとくだまっているほかござりませぬ」
「心得た」
義昭は、急にあかるい声を出した。義昭にすれば自分の幕府樹立活動を、織田家の京都代官である光秀が「黙認する」という意味にとったのである。
義昭の行動は活溌《かっぱつ》化した。
信長には無断で、しきりと諸国の強豪たちに「将軍御教書《みぎょうしょ》」といったものを発送しはじめたのである。
内容は要するに、
「乱をやめよ」
ということであった。もはや戦乱もひさしい、今後、他国と交戦しあうことをやめよということである。とくに元来、義昭に好意的な越後の上杉氏、豊《ぶん》後《ご》の大友氏、安芸《あき》の毛利氏には蜜《みつ》のごとく濃厚な態度で申し送った。
「不和があるなら私が調停する」
と言い送った。調停ぐらいではおさまらぬことは義昭は知っていたが、なににしてもこう天降《あまくだ》りの態度で出てゆくことによって、
「世に将軍あり」
ということを知らせたかったし、もはや事実上室町幕府は存在するぞ、ということを印象づけたかった。
義昭は、この「陰謀」に没頭した。大坂の本願寺や越前の朝倉氏とも渡りをつけた。みな旧権威に随喜する感性をもった家々であった。旧権威そのものの叡山《えいざん》とも結んだ。かれらはみな、
「信長はくさい」
とみている。
「信長が将軍を立てたのは天下を奪いとる狼《ろう》心《しん》を秘してのことだ」
そうみているし、さらに信長が義昭擁立を名目にいちはやく京都をおさえたことに嫉《しっ》妬《と》し、危険視し、あすはわが身があぶないと戦《せん》慄《りつ》し、
「こうとなれば、義昭将軍を信長から離間させねばならぬ」
と、一様に見て、一様に義昭に答礼の使者を送って親交を深めようとした。
ついには。——
義昭は大胆にも、幕府造営の費用を諸国の豪族に課したのである。越前の朝倉氏などはいちはやく、その費用を送りつけてきた。
すべて信長を、無視したままである。
(これは大変なことになる)
光秀は、信長の性格を知っている。
ある日、幕臣細川藤孝の屋敷にゆき、藤孝に会ってそのことを相談した。
「私も、こまっている」
藤孝はいった。
「何度も、お諫《いさ》め申した。しかし、どうやら御性格らしい。すこしのことで図にお乗りあそばす。その上、いつも炮烙《ほうろく》で炒《い》られている豆のようにお心に落ちつきがなく、小まめ《・・》に策を弄《ろう》しなさる」
「そのとおりだが、いまの御様子がこれ以上つづけば岐阜殿(信長)の大鉄槌《だいてつつい》が落ちてくるのは必至。なぜもっと貴殿がお諫めなさらぬ」
「だめだ」
藤孝はいった。
「すでにわしは煙たがられ、御前をなかば遠ざけられている」
この間も信長は、岐阜や伊勢の戦場から機会をみては風のように上洛《じょうらく》し、数日滞留しては去っている。
この年の十二月十一日、信長は伊勢平定の報告のために上洛し、義昭に拝謁《はいえつ》し、いきなり、
「自《じ》儘《まま》をなされるな」
と、苦言を呈した。
義昭はさすがにむっとした。
「なにが自儘ぞ。わしは征夷大将軍ではないか。その職に忠実なだけである」
そう言いかえした。
信長は、沈黙した。この男は、もともと弁口が達者ではない。むしろかれにとって沈黙こそもっとも恐るべき雄弁であった。
だまって、退出した。
(将軍何者ぞ)
という気持がむらむらとおこっている。信長は、あの義昭を樹《た》てた自分の失敗を思わざるを得ない。
馬上、寒風をついて妙覚寺の宿館へむかったが、馬を進めつつも、
(どうしてくれる)
という思いが胸中の炎になって燃えさかっている。
(失敗《しくじ》った)
という意味は、なぜ将軍などを擁立せずに天子を押し立てなかったか、ということであった。
(天子のほうがえらい)
という知識は、亡父の織田信秀が無類の天子好きだったため、少年のころから信長にはあった。信秀のような田舎の土豪がめずらしくそういう知識をもっていたのは、信秀が連歌好きで、都からくだってくる連歌師どもから仕入れたものであろう。
信長の少年のころ、父から、
「吉法師よ、日本国でたれが一番えらい」
ときかれ、即座に、
「将軍《くぼう》」
と答えたが、父は意外にもかぶりを振り、
「京の天子よ」
といった。
この知識は父信秀の自慢のひとつで、よく家臣にも同じ質問をしては、「天子よ」と得意げに教えていた。これほどのことを知っている者は、諸国の諸大名でも類がすくない。
「偉いという証拠があるか」
と信長は父にきいたことがある。信長はなにごとも実証がなければ信じない。
「官位をみろ。伊勢守とか弾正忠という官は、われら田舎の者が、金を将軍家に運んでくださるものだ。しかし、その将軍家も、左様か、されば武蔵守《むさしのかみ》という官位を呉《く》れてやる、というわけにはいかない。将軍家から天子に奏上してはじめて除《じ》目《もく》される。されば将軍家は天子の申次ぎ《・・・》にすぎぬ」
「天子は戦さが強いか」
と信長がきくと、
「天子は兵を用いられぬ。平素はただ神に仕えておられる」
(神主の大親玉か)
という程度に信長は理解していた。
ところが、こうして、都へのぼってくるたびに思うことは、都の者は、
「将軍よりも天子のほうがえらい」
ということを、ごく常識のようにしてもっていることである。これには信長も、思想を一変せざるを得ない。
配下の藤吉郎などはいちはやくこの間のことを察知し、
「将軍より天子のほうがはるかにお偉うございますぞ。都では花売り、土かつぎでさえそれを知っておりまする」
と献言していた。藤吉郎のいうところでは同じ担《かつ》ぐなら天子を担げ、ということであった。より偉いほうが、より利用価値が多い。
それに天子は、いかに担いでも、
——されば幕府をひらく。
とは言わないのである。その点、神のようなもので、地上の支配権は望まない。これほどありがたいものはなさそうであった。
ただ信長がおもうのは、
(果して天子が、日本統一の中核的存在になりうるかどうか)
であった。将軍ならば「武家の頭領」ということで大名はおそれかしこむ。しかし天子はどうであろう。「日本万民の宗家」というだけでは、人はおそれないのではないか。第一天子こそ偉い、という知識が、満天下の諸大名になければ天子の利用価値は薄い。
おもえば天子は、破れ築《つい》地《じ》の屋敷に住み、毎日の供御《くご》さえ事欠かれるありさまである。これでは世の軽侮をまねくのは当然であろう。
(むしろ将軍館よりも、天子の御所を立派にする必要がある。それだけで一目《いちもく》、世の者は天子の尊さを知る)
信長の発想はつねに具体的であった。
しかもその思ったことをすぐさま実行する力も、苛《か》烈《れつ》なばかりである。この男はすでに将軍館が竣工《しゅんこう》したこの四月、時をうつさずに一万貫の巨費を投じて御所を大修復しつつある。その完成にはおそらく来年いっぱいはかかるであろう。
信長は将軍館を辞し妙覚寺へむかう途次、不意に、
「御所へ」
と、行列を曲げさせた。工事現場を見るためであった。
やがて御所の工事現場をぐるぐるとまわったあと、かたわらの光秀に、
「天子はなぜ偉いか知っておるか」
といった。光秀がかしこまり、王者と覇《は》者《しゃ》のちがいを学問的にいおうとすると、
「よい。天子は偉いのだ。なぜならば、おれは将軍にはいつでも会えるが、いまだかつて天子を拝したことがない」
といった。信長はまだまだ位官がひくいため、昇殿する資格をもたないのである。
「わかったか」
信長は、横目で光秀を見た。その目は、光秀が将軍の家来でもあることを十分に意識している様子であった。
信長は、年を京で越した。
明けて正月の二十三日、信長は光秀ら京都の司政官をよび、
「将軍に申しあげよ」
といって義昭の行動を制約する断固たる方針をあきらかにした。信長は有無《うむ》をいわせることなく喋《しゃべ》り、光秀らはただひたすらに拝聴し、最後にはそれを条文にせざるをえなかった。
条文は五カ条より成っている。
「いままで諸国にくだされた命令書は、すべて破棄されよ」
「諸国へ御内書をくだされるときにはかならず信長に下相談をなされ、信長の添状《そえじょう》を付すること」
などであった。
光秀らはやむなく信長の意を体し、義昭の館に伺《し》候《こう》し、その旨《むね》を申しあげた。
「もしお聴きとどけなきときは、御《お》為《ため》よろしからずと思召されよ」
と、日蓮宗僧侶《にちれんしゅうそうりょ》で織田家の文官をしている朝山日乗はいった。光秀は面《おもて》を伏せたままひたすらに沈黙していた。
「聴く」
義昭は、蒼《あお》ざめ、むしろ日乗の機《き》嫌《げん》をとるように微笑し、
「父弾正忠(信長)によしなに取り繕ってくれよ」
と言いながら、書状の右肩にみずから印判をとって黒印を捺《お》した。
(幕府再興の望みも、去った)
光秀は顔を伏せながら思った。往年、幕府再興のためにあれほど奔走した自分が、いま皮肉にも「幕府を開くな」という誓約を義昭から取り付けている。
(すまじきものは宮仕えというが、まことに穿《うが》ち得たことばよ)
と思い、身の運を傷《いた》まざるをえない。