「五月二十一日、濃州岐《のうしゅうぎ》阜《ふ》へ御帰陣」
とは「信長公記《しんちょうこうき》」の簡潔な文章である。
千種越での危難も、信長にあっては別段のことはなく、忘れたようにこの男は岐阜へ帰った。
「お濃よ、帰ったぞよ」
と、奥の入り口でむかえた濃姫のほお《・・》に手をのばし、
ぴちっ
と指でその頬《ほお》をはねた。
(痛いっ——)
とおもったが、濃姫は堪えなければならない。どうせ信長なりの愛情の表現なのであろう。
その夜、
「お濃、こちらに泊まりゃれ」
と信長が廊下まで出、廊下のはしまでとどろくほどの大声でいった。部屋にいた濃姫はさすがに侍女たちにはずかしかったが、すぐ座を立ち、信長の言いつけに従った。
寝て、物語をした。
「近江の千種越とやらにて」
と、濃姫があの危難の一件をくわしくきこうとすると、信長は遮《さえぎ》った。
「おもしろくもない話だ」
普通ならこれほどの話題はないのに、信長にとっては何の面白味もない。もともとそうであった。信長は、わが身の過ぎにし事をふりかえってあれこれと物語る趣味は皆無であった。つねにこの男は、次におこるべき事象に夢中になっている。
「お濃も」
と、信長はいった。
「つまらぬ事をいう女子になりはてた」
「はてた《・・・》とは驚き入ります」
濃姫は不足そうにいった。彼女は信長とは一つちがいだから満で三十五である。はてた《・・・》とはひどかろうと思った。
「せっかく気《き》遣《づこ》うて参らせておりましたのに」
「わからぬおなごだ」
「なぜ」
「あっての人間だ」
と、信長はいった。例によって短かすぎる言葉だから意味はよくわからないが、人間の一生にはいろんなことがある、それがあって《・・・》の人間《・・・》だという意味であろう。
「それが五十年の楽しみよ」
と信長はいった。人生を一場の夢のようにみているこの男は、このつぎ何事がおこるかということが、新作の狂言を期待するようにおもしろいのであろう。その意味らしい。
「近江といえば」
信長はむき《・・》をかえて濃姫のくびすじに息をあてた。濃姫は静かに息づいている。
「寝物語ノ里という村があるな」
「村の名でございますか」
「そうよ」
信長は笑わずにうなずいた。
美濃(岐阜県)から近江(滋賀県)へ入るには美濃関ケ原を通って山間を抜けながら越えてゆく。その国境の近江側の小さな村落が寝物語ノ里というのだ。
「なんと艶々《つやつや》しい」
と濃姫はいった。
余談ながら、信長よりもやや後年《のち》になって千家の三代目だったかの宗匠が、茶杓《ちゃしゃく》をつくって評判になった。
その銘が、
——寝物語
というのである。事実、茶杓にはめずらしく二本一組になっており、それを竹の筒におさめてある。茶杓が二つ、一つ筒で仲よく寝ているためにこの銘をつけた、とひとは想像したが、そうではない。それだと茶には「艶々し」すぎるであろう。銘をつけた洒《しゃ》落《れ》はもっとこみ入っている。
その筒の裏に銘をつけた理由が刻まれてあり、
とは「信長公記《しんちょうこうき》」の簡潔な文章である。
千種越での危難も、信長にあっては別段のことはなく、忘れたようにこの男は岐阜へ帰った。
「お濃よ、帰ったぞよ」
と、奥の入り口でむかえた濃姫のほお《・・》に手をのばし、
ぴちっ
と指でその頬《ほお》をはねた。
(痛いっ——)
とおもったが、濃姫は堪えなければならない。どうせ信長なりの愛情の表現なのであろう。
その夜、
「お濃、こちらに泊まりゃれ」
と信長が廊下まで出、廊下のはしまでとどろくほどの大声でいった。部屋にいた濃姫はさすがに侍女たちにはずかしかったが、すぐ座を立ち、信長の言いつけに従った。
寝て、物語をした。
「近江の千種越とやらにて」
と、濃姫があの危難の一件をくわしくきこうとすると、信長は遮《さえぎ》った。
「おもしろくもない話だ」
普通ならこれほどの話題はないのに、信長にとっては何の面白味もない。もともとそうであった。信長は、わが身の過ぎにし事をふりかえってあれこれと物語る趣味は皆無であった。つねにこの男は、次におこるべき事象に夢中になっている。
「お濃も」
と、信長はいった。
「つまらぬ事をいう女子になりはてた」
「はてた《・・・》とは驚き入ります」
濃姫は不足そうにいった。彼女は信長とは一つちがいだから満で三十五である。はてた《・・・》とはひどかろうと思った。
「せっかく気《き》遣《づこ》うて参らせておりましたのに」
「わからぬおなごだ」
「なぜ」
「あっての人間だ」
と、信長はいった。例によって短かすぎる言葉だから意味はよくわからないが、人間の一生にはいろんなことがある、それがあって《・・・》の人間《・・・》だという意味であろう。
「それが五十年の楽しみよ」
と信長はいった。人生を一場の夢のようにみているこの男は、このつぎ何事がおこるかということが、新作の狂言を期待するようにおもしろいのであろう。その意味らしい。
「近江といえば」
信長はむき《・・》をかえて濃姫のくびすじに息をあてた。濃姫は静かに息づいている。
「寝物語ノ里という村があるな」
「村の名でございますか」
「そうよ」
信長は笑わずにうなずいた。
美濃(岐阜県)から近江(滋賀県)へ入るには美濃関ケ原を通って山間を抜けながら越えてゆく。その国境の近江側の小さな村落が寝物語ノ里というのだ。
「なんと艶々《つやつや》しい」
と濃姫はいった。
余談ながら、信長よりもやや後年《のち》になって千家の三代目だったかの宗匠が、茶杓《ちゃしゃく》をつくって評判になった。
その銘が、
——寝物語
というのである。事実、茶杓にはめずらしく二本一組になっており、それを竹の筒におさめてある。茶杓が二つ、一つ筒で仲よく寝ているためにこの銘をつけた、とひとは想像したが、そうではない。それだと茶には「艶々し」すぎるであろう。銘をつけた洒《しゃ》落《れ》はもっとこみ入っている。
その筒の裏に銘をつけた理由が刻まれてあり、
近江と美濃の竹で作りしなれば
とある。これが落ち《・・》である。一本を近江の竹でつくり、他の一本を美濃の竹でつくった。その国境の村が「寝物語ノ里」である。
が、濃姫のころにはこの洒落はない。
なぜこのような奇妙な村名がついたのかという事のおこりは、べつに色っぽいものではなさそうだった。
その村の民家には長屋が多い。壁一つで隣家と仕切られている。だから隣人同士が互いに寝ながら物語ができた、ということであるらしい。
この村は、いま一つの村名をもっている。その村名も風変りだった。
が、濃姫のころにはこの洒落はない。
なぜこのような奇妙な村名がついたのかという事のおこりは、べつに色っぽいものではなさそうだった。
その村の民家には長屋が多い。壁一つで隣家と仕切られている。だから隣人同士が互いに寝ながら物語ができた、ということであるらしい。
この村は、いま一つの村名をもっている。その村名も風変りだった。
たけくらべ
というのである。文字を長競《たけくらべ》とかく。長競村といった。その名のおこりもやや洒落めいていて、旅人がゆく。
美濃からゆく。近江へ越えてゆく。この国境の村にさしかかると、街道の左右の山の高さがおなじ程度になる。
——どちらの山が高いか。
と、道中、退屈のあまり見くらべながら歩いてゆくために「たけくらべ」ともいうのである。
が、信長の頭脳にはそんな悠暢《ゆうちょう》な字義の詮《せん》索《さく》はない。信長は対浅井氏作戦をのみ考えている。
長競村とその付近の刈安村《かりやすむら》の二つの山に、近江の浅井氏がにわかに城を築いたのである。厳密には砦《とりで》の規模だが、とにかく軍兵《ぐんぴょう》を入れ、鉄砲を多数配置し、眼下の街道を通って近江へ入る信長の軍勢をここで制圧しようとしていた。要するに長競砦・刈安砦は、浅井氏の国境陣地というべきであろう。
(この二つの砦が邪魔だな)
というのが、信長の寝物語だった。濃姫にはむろんそこまではわからない。
(弓矢で奪《と》ろうとすれば、失敗する)
と信長は思った。この国境の狭隘部《きょうあいぶ》に多数の軍兵を入れて街道にひしめきあわせれば、浅井・朝倉の連合軍はえたりかしこしと突撃してくるであろう。狭い路上の戦闘で兵は当然一対一の戦いになる。
(一対一になれば、尾張兵は負けるかもしれぬ)
と信長は思った。兵は文明の段階が進んで、しかも土地の豊かな尾張よりも、北国の朝倉や北近江の浅井の兵のほうがつよいにきまっている。織田軍がつよいのは、いつに総帥《そうすい》の信長と信長が採用し養成した各級指揮官のすぐれていることによるものだ。それを信長は痛いほど知っているのである。
(調略で奪ってやろう)
と、当然ながら信長の思案はそうきまったが、さてそれを担当する人物である。
(藤吉郎がいい)
即座にそうきめた。藤吉郎の才覚ならばあの二つの砦の守将を、たくみにこちらへ寝返らせていざという場合に使いものにならなくしてしまうだろう。
「寝物語ノ里のお話はいかが相成りました」
「あれか」
信長は沈黙から醒《さ》めた。
「調略で奪る」
「まあ、調略で」
濃姫は笑いだした。なにがなんであるかよくわからなかったが、男女の寝物語を調略でぬすみとるというのは、古来、歌人も茶人も考えたことのない発想である。
「おもしろうございますこと」
「あたりまえだ」
美濃からゆく。近江へ越えてゆく。この国境の村にさしかかると、街道の左右の山の高さがおなじ程度になる。
——どちらの山が高いか。
と、道中、退屈のあまり見くらべながら歩いてゆくために「たけくらべ」ともいうのである。
が、信長の頭脳にはそんな悠暢《ゆうちょう》な字義の詮《せん》索《さく》はない。信長は対浅井氏作戦をのみ考えている。
長競村とその付近の刈安村《かりやすむら》の二つの山に、近江の浅井氏がにわかに城を築いたのである。厳密には砦《とりで》の規模だが、とにかく軍兵《ぐんぴょう》を入れ、鉄砲を多数配置し、眼下の街道を通って近江へ入る信長の軍勢をここで制圧しようとしていた。要するに長競砦・刈安砦は、浅井氏の国境陣地というべきであろう。
(この二つの砦が邪魔だな)
というのが、信長の寝物語だった。濃姫にはむろんそこまではわからない。
(弓矢で奪《と》ろうとすれば、失敗する)
と信長は思った。この国境の狭隘部《きょうあいぶ》に多数の軍兵を入れて街道にひしめきあわせれば、浅井・朝倉の連合軍はえたりかしこしと突撃してくるであろう。狭い路上の戦闘で兵は当然一対一の戦いになる。
(一対一になれば、尾張兵は負けるかもしれぬ)
と信長は思った。兵は文明の段階が進んで、しかも土地の豊かな尾張よりも、北国の朝倉や北近江の浅井の兵のほうがつよいにきまっている。織田軍がつよいのは、いつに総帥《そうすい》の信長と信長が採用し養成した各級指揮官のすぐれていることによるものだ。それを信長は痛いほど知っているのである。
(調略で奪ってやろう)
と、当然ながら信長の思案はそうきまったが、さてそれを担当する人物である。
(藤吉郎がいい)
即座にそうきめた。藤吉郎の才覚ならばあの二つの砦の守将を、たくみにこちらへ寝返らせていざという場合に使いものにならなくしてしまうだろう。
「寝物語ノ里のお話はいかが相成りました」
「あれか」
信長は沈黙から醒《さ》めた。
「調略で奪る」
「まあ、調略で」
濃姫は笑いだした。なにがなんであるかよくわからなかったが、男女の寝物語を調略でぬすみとるというのは、古来、歌人も茶人も考えたことのない発想である。
「おもしろうございますこと」
「あたりまえだ」
翌日、信長は木下藤吉郎をよび、その旨《むね》を命じた。この二つの砦は浅井家の被官堀氏、樋《ひ》口《ぐち》氏がまもっている。口説け、というのである。
「承知つかまつりましてござりまする」
藤吉郎は、まるで掌をたたくような陽気さで返答した。この男の返事はいつもながら頼もしげであった。
「すぐ発《た》つか」
「早速に」
と、藤吉郎は去った。
そのあと、信長は、長競・刈安砦のことについてはいっさい考えなくなった。たとえわすれていても藤吉郎はうまくやってのけてくれるであろう。
そのあと、戦場のことを考えた。浅井氏の本拠小谷城を中心とした北近江の山河が主決戦場になるはずだが、信長の脳《のう》裡《り》にはすでに鮮かな戦略・戦術の地図ができあがっていた。その地図は戦場ではなく大城小城に旗や幟《のぼり》がひるがえり、城壁の上には人数が動き、その人数の概略の数まで書きこまれている。それらはことごとく光秀の頭脳を通してできあがった地図であった。その地図を基盤に信長は思案を構築してゆく。
(藤吉郎と光秀だな、所詮《しょせん》。——)
と普通の男ならこう述懐するところであろう。——が、信長にはつねにその種の閑人《ひまじん》の述懐めいた無用の感想はない。呼吸するとき二つの鼻の孔《あな》の有難《ありがた》味《み》を人は意識しないように信長はこの二人の有難味を意識しない。ただ工匠の手斧《ちょうな》のようにいよいよ彼等の能力を砥《と》ぎ、柄《え》を手あか《・・・》で磨《みが》きこみ、ますます使えるように使いこなしてゆくだけであった。
この岐阜城での日常、挿《そう》話《わ》がある。
合戦のことではない。
……………………
信長の身辺にあって秘書のような役をしている男に菅《すが》屋《や》九右衛門という男がいる。じつに庶務の処理に長《た》けた人物で、信長はこの人物をも手あか《・・・》で磨くほど使っている。
余談ながら菅屋は、織田家の一門織田信辰《のぶたつ》の子で、いわば当家中の名族の子だが、かといって信長は他の大名のように、菅屋を大将として使おうとはしない。
秘書としてしか、使わない。菅屋は庶務なら何事もこなせるが合戦のことになると、からっきし能がないからである。菅屋九右衛門はのちに本能寺の火のなかで死ぬ。
その菅屋に、ある日、信長とその家族の食事を担当する御賄頭《おまかないがしら》の市原五右衛門という男がやってきて、
「おそれながら話をお聞きねがえませぬか」
という。相談したい、というのである。
「何事ぞ」
「坪内石斎のことでござりまする」
と御賄頭がいったが、菅屋はすぐに石斎が何者であるかが思いだせなかった。
「思い出せぬ」
「御牢《ろう》に入っている京の石斎でござりまするよ、料理では京随一といわれた。……」
とまでいわれて、菅屋はアアと言い、あの石斎はまだ生きておるか、といった。
「左様、生きておりまする。御牢に入れられて四年目に相成りまするが、病いひとつつかまつりませぬ」
「人間、保《も》つものだな」
菅屋は感心した。
坪内石斎は罪があったわけではない。この男は京の前時代の支配者であった三好家の御賄頭をつとめた男で、織田軍が京から三好衆を駆逐したとき、不幸にも捕虜になった。かといって料理人のことだから殺すまでのことはない。それを岐阜に送って、城内の牢に入れておいたのである。信長もおそらくそのことを忘れているのであろう。
御賄頭の市原にいわせれば、石斎ほどの料理人を牢に入れておくのはもったいないというのである。
「石斎は日本国の宝でござりまするよ」
京料理に長じ、とくに武家の頭領である将軍家の料理作法にあかるく、室町風の鶴《つる》・鯉《こい》の料理はいうにおよばず、七五三饗《きょう》の膳《ぜん》などどういう庖丁《ほうちょう》でもこなせる男である。
「いかがでありましょう。牢から出し、あらためて御当家に召し出され、織田家の御賄方としてお使いなされては」
「もっとも」
と菅屋も思ったので、さっそく信長に言上した。信長はうなずき、
「旨《うま》ければ使ってやる」
といった。日本第一の京料理の名人といっても、信長は驚きもせず、ありがたがりもしなかった。
早速、石斎は牢から出され、すずやかな装束をあたえられ、台所に立たされた。この料理をしくじれば再び牢に逆もどりするのである。自然、台所方の者まで、石斎のために緊張した。
やがて膳は出来た。
それを係々《かかりかかり》がささげて信長のもとにもってゆく。信長は箸《はし》をとった。
吸物をぐっと呑《の》んで妙な顔をした。やがて焼き魚を食い、煮魚を食い、野菜を食い、ことごとく平らげた。
そのあと菅屋が入ってきて、いかがでござりました——ときくと、信長は大喝《だいかつ》し、
「あんなものが食えるか。よくぞ石斎めは食わせおったものよ。料理人にて料理悪《あ》しきは世に在る理由なし、——殺せ」
といった。
菅屋も、仕方なくひきさがり、その旨を石斎に伝えた。
石斎は大きな坊主頭をもった、とびきり小《こ》柄《がら》な老人である。ゆっくりとうなずき、動ずる風もない。
「どうした、石斎」
「いや、相わかりましてござりまする。しかしながらいま一度だけ、御料理をさしあげさせて頂けませぬか。それにて御まずうござりましたならば、これは石斎の不器量、いさぎよく頭を刎《は》ねてくださりませ」
といったから、菅屋ももっともと思い、その旨を信長に取り次いだ。
信長も、強《し》いてはしりぞけない。
「されば明朝の膳も作れ」
と、わずかに折れて出た。
明朝になり、信長は石斎の料理にむかった。吸物をひと口すすると、首をかしげた。
「これは石斎か」
「左様にござりまする」
と、給仕の児小姓が指をついた。信長はさらに食った。もともと大食漢だけに膳の上の物はことごとく平らげ、箸を置き、
「石斎をゆるし、市原五右衛門同様賄頭として召し出してやる。滅法、旨かった」
と、機《き》嫌《げん》がなおった。料理のうまさもさることながら、人の有能なところを見るのが信長の最も好むところなのである。
菅屋は、そのとおり石斎に伝えた。石斎はおどろきもせず、
「左様でござりましたか。御沙汰《ごさた》ありがたき仕合せに存じ奉りまする」
と通りいっぺんの会釈《えしゃく》をし、退《さが》った。
あとで台所役人たちが疑問に思った。なぜ最初の料理があれほどまずかったか、ということである。
「石斎殿にも似気《にげ》のないことだ」
と囁《ささや》いたが、やがて石斎が他の者にこう語ったという噂《うわさ》がきこえてきた。
「最初の膳こそ、わが腕により《・・》をかけ料理参らせた京の味よ」
だから薄味であった。なるべく材料そのものの味を生かし、塩、醤《ひしお》などの調味料で殺さない。すらりとした風味をこそ、都の貴顕紳士は好むのである。
ところが、二度目に信長のお気に召した料理こそ、厚化粧をしたような濃味で、塩や醤や甘味料をたっぷり加え、芋なども色が変わるほどに煮しめてある。
「田舎風に仕立てたのよ」
と、石斎はいった。所詮は信長は尾張の土豪出身の田舎者にすぎぬということを、石斎は暗に言いたかったのである。
この噂が、まわりまわって信長の耳にとどいた。
意外に信長は怒らなかった。
「あたりまえだ」
と、信長はいった。
この男は、都の味を知らずに言ったわけではなく、将軍《くぼう》の義昭や公卿《くげ》、医師、茶人などにつきあってかれらの馳《ち》走《そう》にもあずかり、その経験でよく知っている。知っているだけでなくそのばかばかしいほどの薄味を、信長は憎《ぞう》悪《お》していた。
だからこそ石斎の薄味を舌にのせたとき、
(あいつもこうか)
と腹を立て、殺せといった。理由は無能だというのである。いかに京洛《けいらく》随一の料理人でも、信長の役に立たねば無能でしかない。
「おれの料理人ではないか」
信長の舌を悦《よろこ》ばせ、信長の食慾をそそり、その血肉を作るに役立ってこそ信長の料理人として有能なのである。
「翌朝、味を変えた。それでこそ石斎はおれのもとで働きうる」
信長はいった。
この有能、無能の評価の仕方は、他の武官、文官についてもいえるであろう。
藤吉郎は有能であった。
光秀もまた信長にとって、有能であった。しかし石斎の変転の器用さは同時に藤吉郎の持味でもあったが、光秀にもその臨機の転換ができるかどうかまでは、まだわからない。
余談ながら菅屋は、織田家の一門織田信辰《のぶたつ》の子で、いわば当家中の名族の子だが、かといって信長は他の大名のように、菅屋を大将として使おうとはしない。
秘書としてしか、使わない。菅屋は庶務なら何事もこなせるが合戦のことになると、からっきし能がないからである。菅屋九右衛門はのちに本能寺の火のなかで死ぬ。
その菅屋に、ある日、信長とその家族の食事を担当する御賄頭《おまかないがしら》の市原五右衛門という男がやってきて、
「おそれながら話をお聞きねがえませぬか」
という。相談したい、というのである。
「何事ぞ」
「坪内石斎のことでござりまする」
と御賄頭がいったが、菅屋はすぐに石斎が何者であるかが思いだせなかった。
「思い出せぬ」
「御牢《ろう》に入っている京の石斎でござりまするよ、料理では京随一といわれた。……」
とまでいわれて、菅屋はアアと言い、あの石斎はまだ生きておるか、といった。
「左様、生きておりまする。御牢に入れられて四年目に相成りまするが、病いひとつつかまつりませぬ」
「人間、保《も》つものだな」
菅屋は感心した。
坪内石斎は罪があったわけではない。この男は京の前時代の支配者であった三好家の御賄頭をつとめた男で、織田軍が京から三好衆を駆逐したとき、不幸にも捕虜になった。かといって料理人のことだから殺すまでのことはない。それを岐阜に送って、城内の牢に入れておいたのである。信長もおそらくそのことを忘れているのであろう。
御賄頭の市原にいわせれば、石斎ほどの料理人を牢に入れておくのはもったいないというのである。
「石斎は日本国の宝でござりまするよ」
京料理に長じ、とくに武家の頭領である将軍家の料理作法にあかるく、室町風の鶴《つる》・鯉《こい》の料理はいうにおよばず、七五三饗《きょう》の膳《ぜん》などどういう庖丁《ほうちょう》でもこなせる男である。
「いかがでありましょう。牢から出し、あらためて御当家に召し出され、織田家の御賄方としてお使いなされては」
「もっとも」
と菅屋も思ったので、さっそく信長に言上した。信長はうなずき、
「旨《うま》ければ使ってやる」
といった。日本第一の京料理の名人といっても、信長は驚きもせず、ありがたがりもしなかった。
早速、石斎は牢から出され、すずやかな装束をあたえられ、台所に立たされた。この料理をしくじれば再び牢に逆もどりするのである。自然、台所方の者まで、石斎のために緊張した。
やがて膳は出来た。
それを係々《かかりかかり》がささげて信長のもとにもってゆく。信長は箸《はし》をとった。
吸物をぐっと呑《の》んで妙な顔をした。やがて焼き魚を食い、煮魚を食い、野菜を食い、ことごとく平らげた。
そのあと菅屋が入ってきて、いかがでござりました——ときくと、信長は大喝《だいかつ》し、
「あんなものが食えるか。よくぞ石斎めは食わせおったものよ。料理人にて料理悪《あ》しきは世に在る理由なし、——殺せ」
といった。
菅屋も、仕方なくひきさがり、その旨を石斎に伝えた。
石斎は大きな坊主頭をもった、とびきり小《こ》柄《がら》な老人である。ゆっくりとうなずき、動ずる風もない。
「どうした、石斎」
「いや、相わかりましてござりまする。しかしながらいま一度だけ、御料理をさしあげさせて頂けませぬか。それにて御まずうござりましたならば、これは石斎の不器量、いさぎよく頭を刎《は》ねてくださりませ」
といったから、菅屋ももっともと思い、その旨を信長に取り次いだ。
信長も、強《し》いてはしりぞけない。
「されば明朝の膳も作れ」
と、わずかに折れて出た。
明朝になり、信長は石斎の料理にむかった。吸物をひと口すすると、首をかしげた。
「これは石斎か」
「左様にござりまする」
と、給仕の児小姓が指をついた。信長はさらに食った。もともと大食漢だけに膳の上の物はことごとく平らげ、箸を置き、
「石斎をゆるし、市原五右衛門同様賄頭として召し出してやる。滅法、旨かった」
と、機《き》嫌《げん》がなおった。料理のうまさもさることながら、人の有能なところを見るのが信長の最も好むところなのである。
菅屋は、そのとおり石斎に伝えた。石斎はおどろきもせず、
「左様でござりましたか。御沙汰《ごさた》ありがたき仕合せに存じ奉りまする」
と通りいっぺんの会釈《えしゃく》をし、退《さが》った。
あとで台所役人たちが疑問に思った。なぜ最初の料理があれほどまずかったか、ということである。
「石斎殿にも似気《にげ》のないことだ」
と囁《ささや》いたが、やがて石斎が他の者にこう語ったという噂《うわさ》がきこえてきた。
「最初の膳こそ、わが腕により《・・》をかけ料理参らせた京の味よ」
だから薄味であった。なるべく材料そのものの味を生かし、塩、醤《ひしお》などの調味料で殺さない。すらりとした風味をこそ、都の貴顕紳士は好むのである。
ところが、二度目に信長のお気に召した料理こそ、厚化粧をしたような濃味で、塩や醤や甘味料をたっぷり加え、芋なども色が変わるほどに煮しめてある。
「田舎風に仕立てたのよ」
と、石斎はいった。所詮は信長は尾張の土豪出身の田舎者にすぎぬということを、石斎は暗に言いたかったのである。
この噂が、まわりまわって信長の耳にとどいた。
意外に信長は怒らなかった。
「あたりまえだ」
と、信長はいった。
この男は、都の味を知らずに言ったわけではなく、将軍《くぼう》の義昭や公卿《くげ》、医師、茶人などにつきあってかれらの馳《ち》走《そう》にもあずかり、その経験でよく知っている。知っているだけでなくそのばかばかしいほどの薄味を、信長は憎《ぞう》悪《お》していた。
だからこそ石斎の薄味を舌にのせたとき、
(あいつもこうか)
と腹を立て、殺せといった。理由は無能だというのである。いかに京洛《けいらく》随一の料理人でも、信長の役に立たねば無能でしかない。
「おれの料理人ではないか」
信長の舌を悦《よろこ》ばせ、信長の食慾をそそり、その血肉を作るに役立ってこそ信長の料理人として有能なのである。
「翌朝、味を変えた。それでこそ石斎はおれのもとで働きうる」
信長はいった。
この有能、無能の評価の仕方は、他の武官、文官についてもいえるであろう。
藤吉郎は有能であった。
光秀もまた信長にとって、有能であった。しかし石斎の変転の器用さは同時に藤吉郎の持味でもあったが、光秀にもその臨機の転換ができるかどうかまでは、まだわからない。