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国盗り物語123

时间: 2020-05-25    进入日语论坛
核心提示:姉川 信長は、鞭《むち》をあげて岐阜城を出、西のかた近江にむかった。元《げん》亀《き》元年六月十九日である。率いる兵は三
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姉川

 信長は、鞭《むち》をあげて岐阜城を出、西のかた近江にむかった。
元《げん》亀《き》元年六月十九日である。率いる兵は三万であった。
信長は城門を出るなり使番《つかいばん》を馬側によび、
「今日の泊りは寝物語ノ里ぞ」
と叫び、その用意を命じた。寝物語ノ里は別名長競《たけくらべ》村。いわれは前章の情景のなかで、すでに書いた。この奇妙な名をもつ国境の村の城砦《じょうさい》は、すでに織田方に寝返っている。
予定どおりこの日、寝物語ノ里で宿営し、翌二十日、電撃的に敵領内に侵入した。
浅井方は、動かない。銃発すらせず、小部隊の兵をも出さない。全軍城々にこもり、沈黙し、ただ飄風《ひょうふう》のなかに旗のみを弄《なぶ》らせている。この日、近江の天は晴れわたり、風のみが湖と野に吹き荒れていた。
「浅井は動かぬな」
信長は何度かつぶやいた。
敵の動かぬなかを、三万の織田軍が地を這《は》う巨竜のように国中を練りまわった。
全軍による威力偵察というべきであろう。敵国への侵入戦の形態としてはめずらしいかたちになった。侵入されている浅井方は亀《かめ》のように首をすくめ、ひたすらに敵が領内見物するままにまかせている。
もっとも手をつかねていたわけではない。
主城小谷城にあっては、信長の岐阜出発をきくや、同盟国の越前朝倉にむかって急使を発した。伝騎は十九日夕、小谷城の城門を電光のように駈《か》け出し、北国街道をひた走りに走った。朝倉家の援軍を乞《こ》うためであった。
「朝倉勢が来着するまで動くな」
というのが、浅井方の方針であった。若い将校たちはあせったが、首脳部は一発の銃弾もうたせない。
一方、信長は浅井方の第二城ともいうべき横山城の山麓《さんろく》をゆるゆると偵察し、十分に眺《なが》めおわったあとここに抑えの部隊をのこし、さらに北方に進み、敵の主城である小谷城にせまった。
小谷城は山の一峰に本丸を据《す》え、峰々に出丸などをつくり、尾根で連繋《れんけい》して全山を要塞《ようさい》化し、不落というべき城であった。
「麓《ふもと》を焼いてみろ」
と、信長は命じた。麓の武家屋敷街を焼きはらえばあるいは城兵が駈けおりてくるかもしれない。信長は試した。
が、敵は動かない。
「堅固なことよ」
と、信長は虎《とら》御前《ごぜ》山《やま》の山頂の陣でつぶやいた。この虎御前山は小谷城とナナメにむかいあい、標高は二一九メートルである。かつて光秀がこの敵地を偵察したとき、
——御陣は虎御前山にお据えあそばすのが恰好《かっこう》かと存じまする。しかし、小谷城は急攻あそばすと、手ひどい御損がございましょう。
と、報告した山であった。小谷城に対しては直線距離一二○○メートルほどにすぎず、遠目のきく男が望めば敵城の城塁上の人の動きまでがわかるほどであった。
「どうするか」
と、信長は軍議を召集した。諸将があつまった。秀吉、光秀もこの群れのなかにあつまっていた。
重臣の佐久間信盛が進み出、
「殿は小谷城を急攻あそばしますか」
ときいた。
信長は無表情で沈黙している。この点、家来としては物の言いにくい男であった。
が、佐久間は織田家譜代の重臣だから、そこは光秀などとちがって物は言いやすい。
信長は、やっと口をひらいた。
「遊ばしますか、とはなんだ」
「それならば当を得ませぬ。いま急に城を抜こうとなされば、わが兵の三分の一をうしないましょう。しかもその攻城中に、越前から朝倉の大軍が押しかけ、わが軍の背後から襲いかかれば、いよいよ難戦に陥ります」
「早く言え」
信長は無表情にいった。そんな解説をきかされなくとも信長は百もわかっている。どうする、という結論だけ聞けば信長にとって十分だった。
「いそぎ、この虎御前山から撤退し、敵の小谷城から遠ざかり、十分に距離を置いて敵の動きを見るにしかず」
というのが、佐久間信盛の結論の要旨だった。信長はうなずき、
「おれの意見と同じだ」
といった。信長の軍議の仕方はつねにこうであった。諸将に意見を出させ、自分の最も気に入った意見が出ると、
——おれの思いと同じだ。
とうなずき、すぐ採用し、ただちに会議を散会させてしまう。やはりこの男は天才なのであろう。
翌二十二日、信長は虎御前山を降り、行軍序列をきめ、小谷城から遠ざかり、ほとんど国境近くの弥高村までひきさがった。
この信長の退陣を小谷城から見おろしていた浅井方の若い将校たちは、
「いま出戦すべし」
と騒ぎだした。敵は背をむけて引きあげてゆくのである。追尾して討てば、討《う》ち得《どく》の追撃戦になることはたしかだった。
が、老臣たちは、
「いやいや、御自重、御自重。すべては朝倉勢が来援してからのことでござる」
と主張し、ゆずらない。
若い当主の浅井長政はさすがに怒気を発し、
「追うべきではないか」
と板敷をたたいて叫んだが、老臣たちは頑《がん》として自重説をゆずらない。浅井家の不幸は、老臣たちが当主の長政を、
——御若年
とみてその能力を信用せず、かといって先代の当主久政を愚物とみて隠居させ、すべての方針は重臣の群議によって立ててゆくというところにあった。しかも重臣に英才の者がなく、すべて経験主義者ばかりで、出てくる意見に閃《ひらめ》きのあるものがない。凡庸な経験説ばかりが群議を占め、しかも決定までに時間がかかった。到底、合戦の急場には間にあわない。
「群臣《みな》の申すとおりだ。長政、自重せよ」
と、隠居の久政までが凡庸な重臣たちにまじって口を出し、長政の気負い立ちをおさえた。
長政は、あきらめざるを得ない。
が、少壮血気の麾下《きか》の士は、それだけではおさまらなかった。かれらは首脳部の能力を信用せず、従ってつねに軍令に不信をいだいている。
「ちっ、臆病《おくびょう》な」
と沸騰《ふっとう》した。若い連中はもはや軍令をきかず、自分の手まわりの者をかきあつめて山を駈け降りはじめた。抜け駈けで戦おうとするのである。
五百人ばかり山を降り、街道を疾駆して織田軍のあとを追った。
織田軍の殿《しんがり》(後衛部隊)は、梁《やな》田《だ》政辰《まさたつ》、中条季長《すえなが》、佐《さつ》々《さ》成政《なりまさ》の三将である。
ちなみに梁田政辰は、もともと尾張沓掛《くつかけ》の庄屋程度の家の者だが、父政綱が信長の開運のもとになった桶狭《おけはざ》間《ま》の一戦に従軍し、途中かれが放った斥候《せっこう》によって、
——今川義元は田楽《でんがく》狭間に休息して昼の小宴をひらいている。
という情報を得、信長に報告し、報告しおわって、
——いま急襲なされば如何《いかに》。
と意見をのべた。信長は勇躍して田楽狭間に殺到して義元の首をあげた。
「彼こそ、功名第一である」
と戦後、信長は梁田政綱に沓掛城と三千貫の知行《ちぎょう》をあたえた。政辰はその子である。信長は縁起をかつがぬ男ではあったが、この梁田家だけは大事にしていた。
浅井兵が、追尾してきた。梁田の兵はさんざんに戦ったが、浅井兵のほうがはるかにつよい。またたくまに混乱した。
他の中条、佐々の二将も部隊を旋回させて追撃兵と戦い、ようやく午後になって彼等をふりきって信長の本隊に合した。

その翌二十三日、信長は竜《たつ》ケ鼻《はな》という丘陵上に本営を移し、敵の第二城である横山城をおとすべく全力をあげて包囲した。
が、陥ちない。
(横山城は、敵のオトリではあるまいか)
と、攻撃軍に属している光秀はふと疑念をもった。敵の戦術は、横山城の山麓に織田軍を集めておき、朝倉軍の来援とともに織田軍の背後を大きく包囲しようと考えているのではないか、と思った。
「そうではあるまいか」
と、たまたま光秀の陣の前を通った木下藤吉郎に話しかけた。
藤吉郎はうなずき、
「まことにもってそのとおりだ」
と、毒にも薬にもならぬ返事をして立ち去った。
(利口ぶるやつだ)
と、藤吉郎はおもった。藤吉郎はつねにそのように光秀を見ていた。
信長がその程度のことに気づかぬはずはない、と藤吉郎は見ている。戦さとはつねに絹糸一筋をもって石をぶらさげているようなものだ。風で石が動くたびに絹糸は切れそうになる。当然である。藤吉郎にすれば光秀の言葉はその当然を言っているだけのことだ。戦さとはその切れるか切れぬかの際《きわ》どい切所《せっしょ》でどれだけの仕事をするかにかかっている。信長は危険を賭《か》けつつ、その切所で横山城攻めの仕事をいそいでいるのにすぎない。藤吉郎はそうみている。
が、光秀の心配は的中した。
二十七日夜半過ぎになって、織田軍の背後におびただしい松明《たいまつ》があらわれたのである。
ただし遠い。
光秀のいる場所から、二キロないし三キロの北方の丘陵の麓にあらわれている。麓一帯は火の海のようであった。
(ついに朝倉勢が来着したな)
と思った。
察するところ、朝倉軍の来援とともに小谷城の浅井軍は城を降りて合体し、野に動き、野戦活動を開始したものであろう。しかも夜間に動いているところをみると、あす夜明け前に織田軍の背後を襲おうとする企図に相違ない。
(信長はどうするか)
と、光秀は批評者の心でそれを思った。
同刻、竜ケ鼻の山上の本営にいた信長も当然、その火を望見した。だけでなく斥候がつぎつぎと帰ってきて、それを報じた。
「五万」
という者もあれば、一万、という者もある。五万、というのは浅井・朝倉の動員能力からみて過大すぎるが、かといって一万は過少すぎるであろう。
「この横山城が陥ちぬ間に、早やばやと来おったか」
と、信長はつぶやいた。絹糸は切れたということになるであろう。傍《かたわ》らに、柴田権六勝《しばたごんろくかつ》家《いえ》、木下藤吉郎秀吉などがいる。
「おれはどうやら敵の術策に陥ったようだ。あの敵は明朝、川(姉川)を渡って襲ってくる」
ここで動かずに滞陣しているかぎり、自滅だった。信長は構想を一変させてあたらしい運をひらかねばならなかった。
「逆に襲うまでよ」
と決心し、母衣武《ほろむ》者《しゃ》をあつめた。
母衣武者とは伝令将校のことである。信長の手まわりには十九人いた。いずれも選びぬかれた名誉の者で、武勇だけでなく軍略の才がなければこの役はつとまらない。
その母衣武者は、二組に分けられていた。一組は背に黒母衣を掛け、他の一組は背に赤母衣を掛けている。
「諸陣に伝えよ」
と、信長はいった。その一声のあと柴田勝家が代わって信長の命令をこまごまと取り次いだ。
諸陣の陣替えをするのである。攻城用の態勢から、野戦用の態勢に切りかえねばならなかった。この夜間、この切りかえはほとんど至難といっていい仕事だった。
母衣武者が、それぞれ大松明をかかげ、四方に飛んだ。
信長は横山城抑えの兵を五千人残し、他の織田軍二万三千を六隊に分け、その六人の将にそれぞれ三千人から五千人の兵を授けた。他は信長の直衛隊とした。
その六将のなかに、木下藤吉郎が入っている。すでに柴田勝家、佐久間信盛など織田家の家老と同格の指揮官になっていた。が光秀は入っていない。それよりも下級の指揮官である。
さらに織田軍には、一つ幸運なことがあった。この日の昼間、三《み》河《かわ》の徳川家康が兵五千をひきいて、戦場に参加したのである。この年、家康は数えて二十九歳でしかない。
信長が野戦用の部署を考えているとき、家康は進み出て、
「私は、どの部署をうけもちましょう。御指図くだされ」
ときくと、信長は、
「もう決めた」
と無愛想にいった。部署はすでにきまったあとで徳川軍の受けもつ場所がない、というのである。
「されば」
と信長はいう。予備軍になれ、と命じたのである。予備軍とは後方に仕置《しお》きし、戦況が進んできてさらに新《あら》手《て》を必要としたときに投入されるもので、家康としては名誉なことではない。
「それは迷惑つかまつります。せっかくはるばる三河から駈けつけましたのに、そのようなことでは弓矢の瑕瑾《きず》に相成ります」
と、家康は懇願した。
信長は、この三河の若い働き者の性格をよく知っている。予備軍を命ずればかならず気負い立ってくるであろうことを見ぬいていた。
「されば御《ご》辺《へん》は、朝倉勢に当たられよ」
と、信長は意外なことをいった。左右で聞く者、ひそかに驚いた。敵は浅井・朝倉連合軍とはいえ、朝倉軍のほうが人数が多いのである。それに個々の兵も朝倉のほうが強いであろう。
家康がこれにあたる、となればすくなくとも一万、二万の兵数を必要としたが、家康の三河兵は五千人しかいない。
信長の左右の者は、家康がことわるか、とみたが、家康はむしろ喜色をうかべ、
「ありがたき御指図に存じまする」
と即座に承知した。このあたりが、この丸顔の若者が信長に見せつづけてきた誠実さというものであろう。
「しかし敵は多い」
と、信長はいった。
「欲しいだけの人数を申されよ。将の名を名ざしされよ」
「——左様」
家康は考え、しばらくして美濃出身の織田家の侍大将稲葉良通《よしみち》ただ一人を指名した。稲葉は千人の将にすぎない。家康はわずかに五千の手持ちから六千にふえたにすぎないのである。
「それだけでよろしいのか」
信長は、さすがに意外そうにいった。家康は実体《じってい》に頭をさげ、
「それだけでよろしゅうございます。私は小国の者で小《こ》勢《ぜい》をのみ使いなれております。大軍をお貸しくだされても使いこなせませぬ」
といった。家康は若年ながら、信長という気むずかしい同盟者に対する仕え方を十分に心得ていた。
それに三河兵は強い。この戦場では越前、近江、尾張、美濃、三河の五カ国の兵が相戦うが、三河兵はおそらく最強であろう。それを家康は知っていた。
「たとえ越前朝倉の勢が何名あろうとも、それがし手持ちの人数で討ち破って見参《げんざん》に入れ奉るでありましょう」
と、家康はいった。
「頼もしや」
信長は一言いったのみでそれ以上はいわなかった。
時が移った。午前三時、信長はふたたび母衣武者を放ち、諸隊の進撃を命じた。
織田軍は、北へむかった。
北には、姉川が西にむかって堤を横たえている。
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