義昭の暮らしを、多少のべたい。
信長に擁立されて将軍になったころ、かれの最大の関心事のひとつは、女であった。
「よき女《め》を得たい。どこぞにおらぬか」
と、近臣に命じて漁《あさ》らせた。将軍になったというこのすばらしい現実は、衣冠束帯のおもおもしさだけでは、いまひとつ実感が充実しない。
女だ、と義昭はおもった。佳《よ》き女を自由自在に得られることこそ、人臣最高の権威である将軍の地位についたこの実感を自分自身に納得させ、堪能《たんのう》させ、歓喜させるもっとも現実的な方法であろう。
じつをいえば、義昭は、覚慶《かくけい》といっていた奈良一乗院門跡当時には男色家であった。僧《そう》侶《りょ》が女色をもてあそぶわけにはいかないからである。
その覚慶のころ、義昭は「善王」という呼び名の稚児《ちご》を寵愛《ちょうあい》していた。義昭は溺《おぼ》れやすい性格で、善王を寵愛すること、日夜の区別がない。
その後、一乗院を脱走し、天下を流《る》浪《ろう》し、ついに信長に拾われ、信長に擁せられて足利十五代の将軍職を継いだとき、
「善王はどこにいる。さがし出せ」
と、近臣に命じた。将軍になった自分のよろこびと幸福を、かつての寵童にも分けあたえてやりたかったのであろう。
善王は、身分ある者の子ではない。
山城《やましろ》の駒《こま》野《の》という在所の百姓の子である。しかし美《び》貌《ぼう》というのはかならずしも貴族だけの独占物ではない。
稚児当時の善王の美しさ、嫋《たお》やかさは、女人にも類がなかろうと義昭はおもっていた。
やがて近臣が、その後、在所に逃げもどっていた善王をさがし出してきた。
善王は身分がないから、将軍の公的な謁見の場所である表書院《おもてしょいん》では対面できない。夜、奥の寝所で対面した。
善王は、次ノ間で平伏した。
「おお、善王か。なつかしや、疾《と》くとく、面《おもて》をあげよ」
義昭がせきこんでいうと、善王もむかしの狎《な》れ馴染《なじ》んだ関係をおもいだしたのであろう、つい嬌態《しな》をつくって面をあげた。
(なんじゃ、こいつ月代《さかやき》を剃《そ》りおったか)
すでに唐《から》輪《わ》の稚児まげ《・・》でもなく、児《こ》小姓《ごしょう》風の可《か》憐《れん》な前髪でもない。あおあおと月代を剃りあげた立派な壮漢である。頸《くび》もふとく肩の骨格もがっしりと成長し、どこを見てもむかしの善王の面影《おもかげ》がない。
「そ、そちは、まことに善王か」
「はい、善王でござりまする。おなつかしゅう存じあげ奉りまする」
その声のふとぶとしさ、義昭は両掌《りょうて》で耳をおおいたいほどであった。
(なるほど、人は成長するわい)
義昭が奈良一乗院を脱出してから足掛け五年になるのである。義昭自身、あのときは数えて二十九歳、いまは三十四歳であった。善王のみ齢《とし》をとらずにいるわけにはいかない。
「あれから、どうしたか」
「はい、門跡《もんぜき》さまが」
「これこれ、上様とよべ。いまは足利家第十五世の将軍であるぞ」
「はい、上様が奈良一乗院をお脱けあそばしたあと、手前は置き捨てられました」
「あのとき、なにぶん事は秘計を要するゆえ、余儀ないことであった。しかしふびん《・・・》なことをしたとあとあとまで後悔した。ゆるせ」
「お恨み申しあげております」
と微笑したが、しかし昔のような婉然《えんぜん》たる嬌態《きょうたい》にはなりにくい。
「これこれ、あやまっておる。申すな。それからどうしたか」
「門跡さまのござらっしゃらぬ一乗院にしばらくおりましたが、人の心は頼りにならぬものでござります」
「なぜだ」
「御侍僧であった常海どのが、上様のござらっしゃらぬのを幸い、しつこく言い寄り……」
「常海め、左様なことをしおったか」
義昭は、身を揉《も》むようにいった。
「手籠《てご》めにされかかったこともございましたが、従いませなんだ。たまりかねて寺を逃げ出したのでござります。逃げると申しましても、上様をうしなった手前は、止り木をうしなった鳥も同然、あてど《・・・》はござりませぬ。やむなくうまれ在所の山城駒野にもどり、そこではずかしながら山仕事、田仕事をいたしております」
むろん、とっくに元服を済ませ、いまは堀孫八郎と名乗っているという。
「ふびんなことをした。こちらへ寄れ」
と手をあげ、さしまねいた。このあたりが義昭の情もろいところであろう。すでに善王のかわり果てた姿をみて興を醒《さ》ましているものの、かといってすげなくしてやる気になれないのである。
「ありがたき仕合せに存じまする」
堀孫八郎も善王のむかしを思い出し、昔どおりの立《たち》居《い》振舞で義昭に接近した。
義昭は、手をまわし、肩を抱いてやった。なんと、岩を抱いているようであった。
「そちゃ、チト田仕事をしすぎたの」
それでも気の弱い義昭は「さがれ」とはいえず、なおもこの壮漢を抱こうとしたが、これでは義昭が抱かれたほうが似つかわしいようであった。
(衆道《しゅうどう》は、やめたわ)
と、義昭はこのときほとんど衝撃的にその決意をした。衆道とは男色のことである。すでに寺門の僧ではない義昭が、なにを不自由して衆道に義理を立てる必要があろう。義昭はそろそろと堀孫八郎を放し、
「わしはかように」
と、自分のまげ《・・》を指さし、
「髪を得ている。このためすでにこの道を断ってひさしい。しかし孫八郎、そちを捨てはせぬ。一人前の男にしてやるゆえ、しばらくこの館《やかた》に住んでおれ」
「お取り立てくだされまするか」
孫八郎にしても、伽《とぎ》をさせられるよりもそのほうがいい。
「しかし、かといって、わしは信長に押し立てられた飾り物ゆえ、いますぐそちに知行地を呉《く》れてやる力がない。すこし時期を待て」
「待ちまするとも」
「ところで孫八郎、聞くが」
と、義昭は身を乗り出してきた。
「そちに妹はいるか、妹がいなければ従妹《いとこ》でもよいぞ」
そこが義昭の虫のいいところだった。さすがに孫八郎も不快な顔をして、
「おりませぬ」
といった。事実いなかった。
「そうか、それは残念な」
孫八郎の妹か従妹ならあるいは美しかろうと思ったのである。
信長に擁立されて将軍になったころ、かれの最大の関心事のひとつは、女であった。
「よき女《め》を得たい。どこぞにおらぬか」
と、近臣に命じて漁《あさ》らせた。将軍になったというこのすばらしい現実は、衣冠束帯のおもおもしさだけでは、いまひとつ実感が充実しない。
女だ、と義昭はおもった。佳《よ》き女を自由自在に得られることこそ、人臣最高の権威である将軍の地位についたこの実感を自分自身に納得させ、堪能《たんのう》させ、歓喜させるもっとも現実的な方法であろう。
じつをいえば、義昭は、覚慶《かくけい》といっていた奈良一乗院門跡当時には男色家であった。僧《そう》侶《りょ》が女色をもてあそぶわけにはいかないからである。
その覚慶のころ、義昭は「善王」という呼び名の稚児《ちご》を寵愛《ちょうあい》していた。義昭は溺《おぼ》れやすい性格で、善王を寵愛すること、日夜の区別がない。
その後、一乗院を脱走し、天下を流《る》浪《ろう》し、ついに信長に拾われ、信長に擁せられて足利十五代の将軍職を継いだとき、
「善王はどこにいる。さがし出せ」
と、近臣に命じた。将軍になった自分のよろこびと幸福を、かつての寵童にも分けあたえてやりたかったのであろう。
善王は、身分ある者の子ではない。
山城《やましろ》の駒《こま》野《の》という在所の百姓の子である。しかし美《び》貌《ぼう》というのはかならずしも貴族だけの独占物ではない。
稚児当時の善王の美しさ、嫋《たお》やかさは、女人にも類がなかろうと義昭はおもっていた。
やがて近臣が、その後、在所に逃げもどっていた善王をさがし出してきた。
善王は身分がないから、将軍の公的な謁見の場所である表書院《おもてしょいん》では対面できない。夜、奥の寝所で対面した。
善王は、次ノ間で平伏した。
「おお、善王か。なつかしや、疾《と》くとく、面《おもて》をあげよ」
義昭がせきこんでいうと、善王もむかしの狎《な》れ馴染《なじ》んだ関係をおもいだしたのであろう、つい嬌態《しな》をつくって面をあげた。
(なんじゃ、こいつ月代《さかやき》を剃《そ》りおったか)
すでに唐《から》輪《わ》の稚児まげ《・・》でもなく、児《こ》小姓《ごしょう》風の可《か》憐《れん》な前髪でもない。あおあおと月代を剃りあげた立派な壮漢である。頸《くび》もふとく肩の骨格もがっしりと成長し、どこを見てもむかしの善王の面影《おもかげ》がない。
「そ、そちは、まことに善王か」
「はい、善王でござりまする。おなつかしゅう存じあげ奉りまする」
その声のふとぶとしさ、義昭は両掌《りょうて》で耳をおおいたいほどであった。
(なるほど、人は成長するわい)
義昭が奈良一乗院を脱出してから足掛け五年になるのである。義昭自身、あのときは数えて二十九歳、いまは三十四歳であった。善王のみ齢《とし》をとらずにいるわけにはいかない。
「あれから、どうしたか」
「はい、門跡《もんぜき》さまが」
「これこれ、上様とよべ。いまは足利家第十五世の将軍であるぞ」
「はい、上様が奈良一乗院をお脱けあそばしたあと、手前は置き捨てられました」
「あのとき、なにぶん事は秘計を要するゆえ、余儀ないことであった。しかしふびん《・・・》なことをしたとあとあとまで後悔した。ゆるせ」
「お恨み申しあげております」
と微笑したが、しかし昔のような婉然《えんぜん》たる嬌態《きょうたい》にはなりにくい。
「これこれ、あやまっておる。申すな。それからどうしたか」
「門跡さまのござらっしゃらぬ一乗院にしばらくおりましたが、人の心は頼りにならぬものでござります」
「なぜだ」
「御侍僧であった常海どのが、上様のござらっしゃらぬのを幸い、しつこく言い寄り……」
「常海め、左様なことをしおったか」
義昭は、身を揉《も》むようにいった。
「手籠《てご》めにされかかったこともございましたが、従いませなんだ。たまりかねて寺を逃げ出したのでござります。逃げると申しましても、上様をうしなった手前は、止り木をうしなった鳥も同然、あてど《・・・》はござりませぬ。やむなくうまれ在所の山城駒野にもどり、そこではずかしながら山仕事、田仕事をいたしております」
むろん、とっくに元服を済ませ、いまは堀孫八郎と名乗っているという。
「ふびんなことをした。こちらへ寄れ」
と手をあげ、さしまねいた。このあたりが義昭の情もろいところであろう。すでに善王のかわり果てた姿をみて興を醒《さ》ましているものの、かといってすげなくしてやる気になれないのである。
「ありがたき仕合せに存じまする」
堀孫八郎も善王のむかしを思い出し、昔どおりの立《たち》居《い》振舞で義昭に接近した。
義昭は、手をまわし、肩を抱いてやった。なんと、岩を抱いているようであった。
「そちゃ、チト田仕事をしすぎたの」
それでも気の弱い義昭は「さがれ」とはいえず、なおもこの壮漢を抱こうとしたが、これでは義昭が抱かれたほうが似つかわしいようであった。
(衆道《しゅうどう》は、やめたわ)
と、義昭はこのときほとんど衝撃的にその決意をした。衆道とは男色のことである。すでに寺門の僧ではない義昭が、なにを不自由して衆道に義理を立てる必要があろう。義昭はそろそろと堀孫八郎を放し、
「わしはかように」
と、自分のまげ《・・》を指さし、
「髪を得ている。このためすでにこの道を断ってひさしい。しかし孫八郎、そちを捨てはせぬ。一人前の男にしてやるゆえ、しばらくこの館《やかた》に住んでおれ」
「お取り立てくだされまするか」
孫八郎にしても、伽《とぎ》をさせられるよりもそのほうがいい。
「しかし、かといって、わしは信長に押し立てられた飾り物ゆえ、いますぐそちに知行地を呉《く》れてやる力がない。すこし時期を待て」
「待ちまするとも」
「ところで孫八郎、聞くが」
と、義昭は身を乗り出してきた。
「そちに妹はいるか、妹がいなければ従妹《いとこ》でもよいぞ」
そこが義昭の虫のいいところだった。さすがに孫八郎も不快な顔をして、
「おりませぬ」
といった。事実いなかった。
「そうか、それは残念な」
孫八郎の妹か従妹ならあるいは美しかろうと思ったのである。
その後、ずいぶんと女を得た。しかし女に飽きやすい義昭はその満足を持続させるほどの女をまだ得ていない。
「どこぞ、よい女はおらぬか」
義昭はおなじ質問を、細川藤孝にも光秀にも発したことがある。
「手前ども、その道は昏《くろ》うござる」
藤孝も光秀も、同じ言葉で拒絶した。彼等は、武将としての技能的な誇りと自信があるから、女の世話をして将軍の機《き》嫌《げん》を取り結ぼうとはおもわなかった。
(こまったお人ではある)
と、この点でも光秀は思っている。義昭は二十九歳までは僧房に居て女を知らなかったために、女とはよほどすぐれた悦楽をもたらしてくれる生きものであろうと過大におもい憬《こが》れている。このため自分が手に入れた女につぎつぎと失望し、
——このようなはずはない。世にはもっとよい女が居よう。
と歯ぎしりするような思いで望みをかけ、しかもその望みにとめど《・・・》がなくなっている。
細川藤孝はいつか、
「女とは、さほどのものではありませぬ」
と諫《いさ》めたことがある。藤孝は光秀にたのまれたのである。
実際、京都守護職の光秀にとっては、たまらなかった。光秀は同役の村井貞勝とともに足利家の家計の帳簿を監査しているが、後房の費用がだんだん大きくなってゆくことにある種の怖《おそ》れを抱いていた。
「藤孝殿、実は将軍《くぼう》様の女色のことだが。いやいやこう申しても女色は人の癖ゆえ、女色そのものをとやかく申そうとは思うておらぬ。しかし将軍様の場合、あれは女色ではない」
「なるほど、たしかに。——」
藤孝は、光秀のいう意味がわかった。義昭の場合は女に惑溺《わくでき》するわけでなく、衣装道楽の者が衣装をつぎつぎと変えるように女を変えているにすぎない。しかも仮にも将軍家だから気に入らなくなった女を捨てるわけにはいかず、そのまま後房で養わねばならぬ。後房はそのような女が、溜《た》まりに溜まってゆく一方である。
「将軍家の経費は、織田家が提供した二万貫の土地からあがる収益でまかなっている。ところがいまの調子では」
破産をするしかない、と光秀はいうのだ。
その経済的逼迫《ひっぱく》は義昭も十分感じていて、光秀の顔をみるたびに、
「将軍家の料を、もそっとふやしてもらうわけにはいかぬか」
とねだるのである。虫がよすぎるというものであろう。いまの将軍家御料は、岐阜の信長が各地の戦場で大はたらきに働いてその分から提供している。信長自身べつに天下をとったわけではなく、その版《はん》図《と》も、尾張、美濃に近畿諸国をやっと加えた程度の一大名にすぎない。
が、義昭はうまれついての貴族である。物は下にねだれば呉れるものと思っていた。
「光秀、いまの料では、将軍としての体面がととのえられぬ。信長やそちに忠義の心映《こころば》えがあれば、なんとかして呉りゃれ」
といった。——後房の御人数が多すぎまする、と光秀は言おうとするのだが、譜《ふ》代《だい》の臣ではないから、そこまでは立ち入れない。
このためこの諫言方《かんげんがた》を細川藤孝にたのんだのである。
それを藤孝にたのむとき、
「将軍様にはつねに逼迫の心をお持ちだ。自分は不自由しているという不足感をつねにお持ちになっている。この御気持が、結局は織田家を捨てて他を頼もうという御謀《ごむ》反心《ほんしん》を大きくしてゆく。単に女の問題ではなくなるのだ」
それが、義昭の漁色について光秀がいだいている恐怖である。単なる漁色には終わらないというのだ。
藤孝は、頼まれた以上、何度も義昭に諫言したが、義昭はあらためない。
ついに、
「兵部《ひょうぶ》大輔《だゆう》(藤孝)のあの分別くさい顔をみるのもいやだ」
と言い出し、藤孝が参上しても辞をかまえて会わぬようになった。
そのうち、義昭の漁色がやんだ。義昭は堪能するに足る女を得たのである。
意外に近くにいた。
義昭には、上野中務少輔清信《なかつかさしょうゆうきよのぶ》という寵臣がいる。上野家も、代々の幕臣である。その祖は武蔵の住人上野太郎頼遠《よりとお》と言い、足利幕府の創業者尊氏《たかうじ》の近臣だった。代々幕府につかえ、いまの清信にいたっている。清信は、義昭の意を迎えるほか何の能もない男だ。
——女をさがせ。
といわれてほうぼう心あたりをさがしているうちに、ふと自分の娘を差しあげてみた。
痩《や》せた小《こ》柄《がら》な女で、さほど美人ではないが、これが意外に義昭の気に入ったのである。
後房では、
「少輔ノ局《つぼね》」
といわれ、義昭の寵を一身にあつめた。義昭は漁色をやめた。
(わからぬものよ)
と、光秀は、足利御所のそとにあってひそかにこの異変《・・》に目をみはっていたが、異常はそれだけではおわらなかった。例の孫八郎である。
義昭は、この往年の寵童をすてておけるような情のこわさがない。
「のう、中務よ」
と、ある日、上野中務少輔清信にいった。
「相談じゃ」
「はっ、何事でもおおせつけられまするように」
清信は、娘をさしあげてから義昭の寵愛第一の者となり、義昭から事の公私となく大小となく、相談される立場になっている。
「そちには嫡男《ちゃくなん》がなかったな」
「ござりませぬ」
「そこでじゃ。あの堀孫八郎をそちの養子にせぬかよ」
清信は驚いたが、しかし将軍のかつての寵童を養子にすることは自分の栄達の道であろうと思い、つらくはあったが承知した。
が、孫八郎は百姓の子である。そのままでは足利幕下の名家の婿養《むこよう》子《し》になるわけにはいかない。このため義昭は孫八郎をまず幕臣の一色《いっしき》家の養子とし、しかるのちに義昭自身の、
猶《ゆう》子《し》
ということにした。猶《なお》、子ノゴトシ、という意味である。猶子は養子よりははるかに軽い関係だが、足利将軍の猶子ともなれば大したものだ。その猶子ということで、上野中務少輔清信のもとに孫八郎を縁付けた。
孫八郎は、上野政信になった。
それだけでなく、義昭は宮中に乞《こ》うて官位も貰《もら》ってやった。
従《じゅ》五《ご》位《いの》下《げ》 大和守
である。
まるで義昭にとって政治は遊びであった。
都下の者も、さすがにこのばかばかしさには驚き、
意外に近くにいた。
義昭には、上野中務少輔清信《なかつかさしょうゆうきよのぶ》という寵臣がいる。上野家も、代々の幕臣である。その祖は武蔵の住人上野太郎頼遠《よりとお》と言い、足利幕府の創業者尊氏《たかうじ》の近臣だった。代々幕府につかえ、いまの清信にいたっている。清信は、義昭の意を迎えるほか何の能もない男だ。
——女をさがせ。
といわれてほうぼう心あたりをさがしているうちに、ふと自分の娘を差しあげてみた。
痩《や》せた小《こ》柄《がら》な女で、さほど美人ではないが、これが意外に義昭の気に入ったのである。
後房では、
「少輔ノ局《つぼね》」
といわれ、義昭の寵を一身にあつめた。義昭は漁色をやめた。
(わからぬものよ)
と、光秀は、足利御所のそとにあってひそかにこの異変《・・》に目をみはっていたが、異常はそれだけではおわらなかった。例の孫八郎である。
義昭は、この往年の寵童をすてておけるような情のこわさがない。
「のう、中務よ」
と、ある日、上野中務少輔清信にいった。
「相談じゃ」
「はっ、何事でもおおせつけられまするように」
清信は、娘をさしあげてから義昭の寵愛第一の者となり、義昭から事の公私となく大小となく、相談される立場になっている。
「そちには嫡男《ちゃくなん》がなかったな」
「ござりませぬ」
「そこでじゃ。あの堀孫八郎をそちの養子にせぬかよ」
清信は驚いたが、しかし将軍のかつての寵童を養子にすることは自分の栄達の道であろうと思い、つらくはあったが承知した。
が、孫八郎は百姓の子である。そのままでは足利幕下の名家の婿養《むこよう》子《し》になるわけにはいかない。このため義昭は孫八郎をまず幕臣の一色《いっしき》家の養子とし、しかるのちに義昭自身の、
猶《ゆう》子《し》
ということにした。猶《なお》、子ノゴトシ、という意味である。猶子は養子よりははるかに軽い関係だが、足利将軍の猶子ともなれば大したものだ。その猶子ということで、上野中務少輔清信のもとに孫八郎を縁付けた。
孫八郎は、上野政信になった。
それだけでなく、義昭は宮中に乞《こ》うて官位も貰《もら》ってやった。
従《じゅ》五《ご》位《いの》下《げ》 大和守
である。
まるで義昭にとって政治は遊びであった。
都下の者も、さすがにこのばかばかしさには驚き、
山城の
駒野あたりの瓜《うり》つくり
上野になりて
ぶらつきにけり
駒野あたりの瓜《うり》つくり
上野になりて
ぶらつきにけり
という落首《らくしゅ》が、将軍館《やかた》のそばの松の木にかかげられた。
「駒野あたりの瓜つくり」というのは、孫八郎が駒野で瓜をつくっていたからである。
そこで、上野中務少輔清信の位置はいよいよ重くなった。
義昭の例の、ほとんど病気といっていいほどの陰謀好きの片棒をになったのは、この上野中務少輔清信であった。
清信は、義昭の手紙を運搬する担当者となった。清信自身は旅に出られないが、自分の家来を四方にやって諸国の大名に使いさせたのである。こんなことで、反織田同盟は次第に活溌《かっぱつ》になってきた。
前章で、光秀が信長の言葉であるとして、
「近く、摂津で蠢動《しゅんどう》している三好党を退治するつもりであるが、ついては上様みずから御馬を進めていただきたい」
との旨《むね》を、義昭に言上した。親征といっても義昭は形ばかり戦陣に馬を立てるだけだが、それにしても敵の三好党の背後にあってひそかに糸をひいているのは義昭自身なのである。その義昭が三好征伐の陣頭に立つとなればどうであろう。
それが、信長の皮肉だった。
——やむを得ぬ。
ということで、義昭は承知した。
光秀が退出したあと、上野中務少輔清信がひそかに拝謁《はいえつ》して、
「上様、およろこびくださりますよう。甲斐《かい》の武田信玄がちかぢか、その麾下《きか》の軍をこぞり、大挙西上し、京に旗を樹《た》て奉らんと申して参りましたぞ。信玄来《きた》らば、信長ごときはたちどころに粉砕されましょう。いましばしの御辛抱でござりまする」
といった。
実は、武田信玄からの密書は、一ト月前にも義昭の手もとにとどいている。
容易ならぬ文面だった。
一、来年には、京にのぼりたい。のぼり次第、一万疋《びき》の御料をさしあげたい。
二、愚息に、四郎勝頼に、御名前の一字と官を頂戴《ちょうだい》したい。
三、なお、信長という男は諸国に手紙を出す場合、将軍《くぼう》の命による、と称しているようだが、どうせうそであろう。将軍様にあっては重々お気をつけていただきたい。
というのが、およその文章だった。それについての詳細な手紙が、いま上野中務少輔清信のもとに送られてきたのである。
「そうか、信玄の西上準備はそれほどにすすんでいるか」
義昭は頬《ほお》をみるみる紅《あか》くした。先刻、光秀と対面したときの陰鬱《いんうつ》さとは、まるで別人のようであった。
事実、義昭を喜悦させるに足るものだった。武田信玄の軍事能力は、信長のそれを数段上廻るものであろうことは、義昭だけでなく世間が認めている。
「駒野あたりの瓜つくり」というのは、孫八郎が駒野で瓜をつくっていたからである。
そこで、上野中務少輔清信の位置はいよいよ重くなった。
義昭の例の、ほとんど病気といっていいほどの陰謀好きの片棒をになったのは、この上野中務少輔清信であった。
清信は、義昭の手紙を運搬する担当者となった。清信自身は旅に出られないが、自分の家来を四方にやって諸国の大名に使いさせたのである。こんなことで、反織田同盟は次第に活溌《かっぱつ》になってきた。
前章で、光秀が信長の言葉であるとして、
「近く、摂津で蠢動《しゅんどう》している三好党を退治するつもりであるが、ついては上様みずから御馬を進めていただきたい」
との旨《むね》を、義昭に言上した。親征といっても義昭は形ばかり戦陣に馬を立てるだけだが、それにしても敵の三好党の背後にあってひそかに糸をひいているのは義昭自身なのである。その義昭が三好征伐の陣頭に立つとなればどうであろう。
それが、信長の皮肉だった。
——やむを得ぬ。
ということで、義昭は承知した。
光秀が退出したあと、上野中務少輔清信がひそかに拝謁《はいえつ》して、
「上様、およろこびくださりますよう。甲斐《かい》の武田信玄がちかぢか、その麾下《きか》の軍をこぞり、大挙西上し、京に旗を樹《た》て奉らんと申して参りましたぞ。信玄来《きた》らば、信長ごときはたちどころに粉砕されましょう。いましばしの御辛抱でござりまする」
といった。
実は、武田信玄からの密書は、一ト月前にも義昭の手もとにとどいている。
容易ならぬ文面だった。
一、来年には、京にのぼりたい。のぼり次第、一万疋《びき》の御料をさしあげたい。
二、愚息に、四郎勝頼に、御名前の一字と官を頂戴《ちょうだい》したい。
三、なお、信長という男は諸国に手紙を出す場合、将軍《くぼう》の命による、と称しているようだが、どうせうそであろう。将軍様にあっては重々お気をつけていただきたい。
というのが、およその文章だった。それについての詳細な手紙が、いま上野中務少輔清信のもとに送られてきたのである。
「そうか、信玄の西上準備はそれほどにすすんでいるか」
義昭は頬《ほお》をみるみる紅《あか》くした。先刻、光秀と対面したときの陰鬱《いんうつ》さとは、まるで別人のようであった。
事実、義昭を喜悦させるに足るものだった。武田信玄の軍事能力は、信長のそれを数段上廻るものであろうことは、義昭だけでなく世間が認めている。