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国盗り物語126

时间: 2020-05-25    进入日语论坛
核心提示:変報 信長の生涯《しょうがい》には、休息がない。なかでももっとも多忙をきわめたのは、この時期であろう。姉川で浅井・朝倉の
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変報

 信長の生涯《しょうがい》には、休息がない。
なかでももっとも多忙をきわめたのは、この時期であろう。
姉川で浅井・朝倉の連合軍を破って岐阜に帰着するや、摂津石山(大阪)の本願寺が反信長の戦旗をひるがえしたことを知った。
「坊主まで——か」
急報をきいたとき、とっさにそう叫んだが声は湿っていない。
かれはただちに軍令を発し、兵三万をひきい、岐阜を出発した。
琵琶湖畔を通って三日目に京に入り、本能寺の宿館に一泊した。
「京の三人をよべ」
と、すぐ命じた。京の三人とは、京都の市政をあずかる明智光秀、村井貞勝、朝山日乗《にちじょう》である。日乗のみが、僧であった。出雲《いずも》のうまれで、信長の珍重する文官の一人である。
三人が伺《し》候《こう》すると、
「室町の小蕪《こかぶら》殿にかわったことはないか」
といった。小蕪とは、将軍義昭のことだ。なるほど顔がどことなく貧相な蕪に似ているから、信長はそうつけたのであろう。
信長は、人にあだなをつけることに絶妙の才があり、藤吉郎秀吉に対しては、
「禿《はげ》ねずみ」
とよんでいる。猿《さる》とも呼ぶ。しかし、禿ねずみのほうがはるかに藤吉郎の風�《ふうぼう》を活写している。
光秀には、
「金柑頭《きんかんあたま》っ」
と叫ぶ。藤吉郎も光秀も髪の質のやわらかすぎるたちで、両人ともすでに髪が薄くなっていたが、その薄くなりかたがひどくちがう。藤吉郎は髪が擦《す》りきれたようにまばらに薄くなり、その点、禿ねずみとは言い得て妙であろう。
光秀の若禿(もはや若くもないが)はその点、頭のてっぺんがほとんど地《じ》肌《はだ》をみせ、月《さか》代《やき》を剃《す》らずにすむほどである。その地肌が赤く艶《つや》めいて、その色といい形といい、金柑にそっくりであった。
さて、義昭将軍は、小蕪である。
「日乗、どうだ」
と、信長は、この日蓮宗《にちれんしゅう》の僧にいった。わざと光秀を無視したのは、光秀が幕臣でもあることを顧慮したからである。
日乗が、義昭の日常についてさしさわりのないことを言上すると、
「もっと、悪口を言え。いまききたいのは、小蕪殿がいかに食えぬ男かということだ」
信長は、不審だったのだ。
いまや、反織田同盟は本願寺、三好、叡山《えいざん》、浅井、朝倉、武田とみごとに出来あがり、信長が琵琶湖畔の姉川で浅井・朝倉を叩《たた》いたかと思うと、すかさず阿波《あわ》から三好党の者が大坂湾に上陸し、ついで本願寺が戦旗をひるがえし、同時に東方では武田信玄の動きがおかしくなる、といったぐあいで、信長を袋叩きにしようとするその動きがいかにも組織的で機能性にみちている。
(小蕪めが、あやしい)
と、信長はおもわざるをえない。義昭が四方八方に密使を出していればこそ、このように機能的な活躍ができるのであろう。
(そうとみた)
とおもえばこそ、信長はなにか確証をつかみたかったのである。
「さればお許しを頂き」
「もったいぶらずに、早くいえ」
「申しあげまする」
日乗は義昭に関する二、三の行跡をあげ、信長とおなじ観測をした。
村井貞勝も、それに和した。
「十兵衛はどうだ」
とは信長は光秀にきかず、話頭を一転して、
「小蕪殿は、承知したか」
ときいた。言葉がみじかすぎるためその内容を推測しなければならないが、要するに「承知」とは「織田軍の陣頭に立つことを義昭将軍は承知したか」という意味であろう。
「はっ」
光秀が平伏すると、信長は、
「余計な口《く》説《ぜつ》は要らぬぞ。承知したか、せなんだかを言え」
「承知、なされましてござりまする」
「さればこのわしは明朝摂津へ出発する。ともどもに出陣なされよ、と伝えよ」
(明朝。——)
これはまた急なことだ。いまから出陣支度をしてはたして間にあうかどうか。
「手前、いまから室町御所へ」
飛んで行ってその旨《むね》を伝えたい、というと信長はわずかにあご《・・》をひいた。
光秀は退出し、門前から馬にとびのると、西へ駈《か》け出した。
やがて室町の将軍館へゆき、取次ぎの上野中務少輔清信をよびだし、信長の要求を伝えた。
「な、ならぬわ」
と、上野清信は事の意外さに惑乱し、居丈《いたけ》高《だか》になった。
「ならぬ、とは、どういう意味でござる」
光秀は冷やかにいった。光秀はこの上野清信という、娘を貢物《みつぎもの》にして義昭の寵《ちょう》を一身にあつめている小男がなんとしても好きになれなかった。
「問われるまでもない」
清信は、声高《こわだか》にいった。
「いまから御支度をなされてあす御出陣、とは何事ぞ。将軍を田《でん》夫野《ぷや》人《じん》と御心得あるか。いったい、将軍をどのようにお心得ある。将軍御出陣となれば、内裏に参内して御報告申しあげねばならず、時と場合によっては節刀《せっとう》を頂かねばならず、さらには将軍御出陣の故実を調べ、故実による御道具、人数をととのえねばならぬ」
「愚かなことだ」
光秀もつい、信長の威権を藉《か》りる態度になった。
「いまは乱世ではないか。もし仮に、たったいまこの御所に敵勢が押し寄せ奉ったりとされよ。それでもなお、故実を調べてから御出陣なさるか」
「現に、敵はどこにいる」
「摂津」
「京より十三里の南じゃ。その敵が京に押し寄せてきたわけではあるまい。時間に十分のゆとりがある。当然、将軍は儀容をととのえられねばならぬ」
「どのくらい、お待ち申し上げればよい」
「まず、十日」
と、上野清信が口辺に薄ら笑いをうかべていったから、さすが温厚で通った光秀も嚇《かつ》となった。
「中務、とくとく取り次ぐべし。明朝の御出陣、半刻《はんとき》なりとも遅れれば貴殿の首はそのままにしておかぬぞ」
と言うなり、一尺五寸はある脇差《わきざし》をすぱりと抜いた。
仰天したのは、上野清信である。「十兵衛光秀、ら、乱心しおったか、ここをどこと心得るぞ。殿中であるぞ」とわめいたから、
「うろたえるなっ」
と、光秀は抜いた脇差の白刃の中どころをつかみ、ぴしっとへし折った。
「竹の銀箔《きんぱく》ぞ」
光秀は脇差を捨て、さらに清信に詰め寄ったから、清信もたまりかねて奥へ駈けこんだ。
そのまま義昭の御座所に入り、この旨をいそぎ言上すると、義昭のほうがむしろ慄《ふる》えあがった。
「光秀が血相を変えおったか」
義昭が感じとっている光秀とは、温和で思慮ぶかい紳士なのである。それが殿中で刀を抜いて将軍側近を脅迫するとは、どういうことであろう。
義昭にすれば、織田家というのは信長以下虎《こ》狼《ろう》のあつまりのようなものだ。光秀のみが物わかりがよくおだやかな君子であると思っていたのに、
(その光秀までが)
という意外さが、驚きになり、衝撃になり、ついには織田家のおそろしさを義昭の皮膚にまで感じさせる結果に戦慄《せんりつ》したのであろう。
「かの光秀を、死罪になされませ。殿中で抜刀したること、ゆゆしき罪でござりまする」
「刃《やいば》は、銀《ぎん》箔《ぬ》りの竹べらというではないか」
「いかにも左様で」
「考えてみよ。竹べらで死罪にできるか。光秀というのは、そういう周到な男だ」
結局、出陣支度をすることになり、将軍館はそのため大騒ぎになった。

将軍義昭が軍をひきいて京を出発した日は、元《げん》亀《き》元年八月三十日である。その日は、細川藤孝の居城である京都南郊の勝竜寺城に一泊し、翌日摂津に入った。
摂津における織田軍の要塞《ようさい》のひとつは、中ノ島城であった。城は、右の細川藤孝が守っている。
義昭は、この城に入った。城頭に、足利家の二《ふた》ツ引両《びきりょう》の定紋《じょうもん》を染めた源氏の白旗がたかだかとあがると、戦場に微妙な変化がおこった。
「将軍の御親征じゃ」
ということで織田軍の将士の士気にわかにあがり、遠くこれを聞き伝えた紀州根《ね》来《ごろ》の僧兵団が、
——将軍の御親征なれば。
ということで従軍を申し入れてきた。彼等は信長の名による誘い状だけではとうてい参戦しなかったであろう。
(さすがは、将軍家。御威光は衰えぬ)
と、古典的権威のすきな光秀は、中ノ島城にひるがえる白旗をみてほとんど涙のにじむ思いさえした。
信長は、本願寺の巨郭と淀川《よどがわ》一筋をへだてて向かいあう天満宮の森を本陣として、活溌な戦闘活動を開始した。
この戦場では、光秀はすでに柴田、佐久間、丹羽《にわ》、木下といった織田家の師団長格と肩をならべて一手の大将に抜擢《ばってき》されている。
すでに信長は光秀を、
(使える)
と見ぬいていた。その戦場における卓抜な指揮能力は、南近江攻め、北国攻め、姉川の合戦で十分に実証し得ていた。
織田家の家中でも、
「鉄砲組のあつかいのうまさと城攻め法にかけては、明智殿は日本一ではあるまいか」
という評判も高かった。このころ、戦場の主役になりつつある鉄砲については、その効果的な使い方を知らぬ者が多い。その点、光秀の火力使用法というのは、信長でさえ内心畏怖《いふ》を覚えるほどにすぐれていた。
(あの男には、気に入らぬところが多い。しかし使える)
と、信長は思っていた。信長は徹頭徹尾、人間を機能的に見ようとしている男で、その信長の思想こそこんにちの日本一の織田軍団をつくりあげているといっていいであろう。
光秀にとっても、悲しいことではない。織田家にきてわずか数年にしかならぬのに、抜擢につぐ抜擢をうけて、往年の牢人《ろうにん》の境涯からみれば夢のような立身をとげている。自分の才能・技術が高く評価されるほど人生での幸福はないであろう。
(働かねばならぬ)
と思っていた。事実、この摂津平野における戦場では、光秀は懸命に働き、その存在はつねに敵味方に輝ける印象をあたえた。
「ただ、多少身をかばう傾向がある」
と、後年、光秀の娘婿《むすめむこ》になった細川忠興《ただおき》は岳《がく》父《ふ》光秀について語っている。戦略戦術および戦闘指揮に名人芸を発揮するものの、兵をひきいて乱軍に突入するとき、他の織田家の部将のような猪突《ちょとつ》さがない。
「多少、身をかばう」
のである。知的に計算しぬいた指揮には長《た》けているが、自分の死を多少おそれるところがあるという印象を、わずかに人に与えた。
そのうち、北方で異変がおこった。
「浅井・朝倉が、ふたたび戦闘活動を開始した」
という急報が、天満宮の森にいる信長のもとに入ったのである。
近江の姉川であれほどの打撃をうけた浅井・朝倉軍だが、しかし潰滅《かいめつ》はしておらず、いまその傷を癒《いや》し、ようやく軍を動かせるまでになり、信長が摂津(大阪)で三好党と本願寺に釘《くぎ》付《づ》けになっているのを幸い、南下して信長の後方をおびやかそうとする模様だった。信長にとって、これほどの危機はないであろう。
さらに信長にとって不快だったのは、情報があいまいでそれ以上のことがわからないことだった。
(たれに、偵察《ていさつ》せしめるか)
と考えたとき、とっさに光秀の名がうかんだ。光秀か木下藤吉郎以外に、戦略偵察のできる者はいないと信長はみていた。
「十兵衛をよべ」
と、信長は命じた。
光秀は、摂津の野田方面の前線にいたが、すぐ本営にもどってきた。
「近江でまた、死にぞこないが蠢《うごめ》いている」
「浅井・朝倉でございますか」
と、光秀が念を押したが、信長はそれには返事をせず、
「すぐ行け」
と命じた。
信長の斬新《ざんしん》な戦術といってよかった。この偵察行は、単に偵察将校として光秀個人を出発させるのではなく、光秀に一軍をひきいさせ、敵地に強行侵入させてその情況を肉眼で見て来させるのである。後世の西洋戦術でいう威力偵察というべきもので、信長の天才的創意というべきであった。
「されば」
と、光秀は退出し、野田方面の陣をただちに撤収し、兵二千をひきい、そのまま京にむかった。
(浅井・朝倉は、信長の留守を幸い、京を占領するつもりに相違ない)
と、光秀は敵の意図をそうにらみ、この想定に沿って敵情を観察しようとしていた。
翌日、光秀は京に入った。
都大路を駈けぬけながら、
(意外に静かだな)
と安心したが、すでに先行させてあった偵察員たちの報告によると、市民の動揺は相当深刻で、今日明日にも財貨をまとめて逃げようとしている者が多いという。
(織田軍への信用が薄れつつあるな)
と見た。以前の織田軍の信用は非常なもので、京を窺《うかが》う他の勢力が出てきても、
——織田弾正忠様にはかなうまい。
と見て、家財をかかえて逃げ出そうというような空気はなかった。ところが織田軍の敵が東西南北に蜂《ほう》起《き》してしまったこんにち、もはや評価が一変した。あすにも信長の没落があると見ているのではないか。
さらに市中の流言は、
「くぼうさま《・・・・・》も、信長を見かぎってござるげな」
ということであった。当のくぼうさま《・・・・・》である義昭は、摂津の戦場からすでに京へ帰っている。信長自身、義昭の出馬が政略として成功したとみて戦場からひきさがらせたのである。
(あるいはその流言、義昭様みずからが放った言葉かもしれぬ)
そうと思ったが、それらにかかずらわっている余裕が光秀にはない。京を抜けて逢坂《おうさか》越《ご》えから大津へ出、そこでいったん軍をとどめたとき、街道を敗兵が潰走してきた。
光秀は、驚いた。
敗兵はことごとく、近江守備の織田兵である。
聞けば、近江一帯で跳梁《ちょうりょう》しはじめた浅井・朝倉の兵は二万八千という大軍で、織田軍の占領地をつぎつぎに攻め崩し、ついに宇佐《うさ》山《やま》城(滋賀郡)を攻め、これを陥《おと》したという。
宇佐山城の守備隊長は、信長の実弟の織田信治《のぶはる》と森可成《よしなり》のふたりである。その二人が、落城とともに戦死したというのである。
(これは、よほどの事態だな)
と、光秀は見た。
とりあえず、その敗兵をひきとめ、自軍のなかに加えた。彼等が京に入ってまたまた流言のたね《・・》になることを光秀はおそれたのである。
光秀は翌日、敵の大軍との接触を注意ぶかく避けつつさらに近江国内深く侵入して様子をみるに、浅井・朝倉軍は、琵琶湖周辺の八王子、比《ひ》叡辻《えのつじ》、堅《かた》田《た》、和爾《わに》などの織田軍拠点を占領し、一隊ははるかに南下して山城《やましろ》にまであらわれ、醍《だい》醐《ご》や山科《やましな》の部落を焼きはらって退散したりしていることがわかった。
光秀は、十分に偵察した。
これ以上近江に駐《とどま》ることを避け、いそぎ南下し、摂津にもどり、信長に報告した。
光秀は、つぶさに述べた。
信長はじっと光秀を見つめ、反問せず、うなずかず聴き入っていたが、やがて聴きおわると、
「デアルカ」
と、この男の奇妙な口癖言葉を発し、すぐ前線諸将をあつめ、
「兵を旋《めぐ》らせて近江の敵を討つ」
とあたらしい決心をのべ、軍議し、新局面への部署を編成しなおした。
そのあと、信長は電光のような疾《はや》さで京にあらわれ、近江に入り、叡山の琵琶湖側のふもとにある坂本城に布陣し、浅井・朝倉に対する戦闘行動を開始した。
が、浅井・朝倉側は信長の来着をみておそれ、織田軍との決戦を避け、本営を叡山の山上にすえた。
戦況は、山岳戦を予想させるにいたったが、浅井・朝倉軍はあくまでも決戦を避けて各地に小部隊を出しては放火し、織田軍をその奔命に疲れさせようとしている。
信長は全軍の部署を変えて、叡山そのものを包囲し、諸方に砦《とりで》をきずき、信長自身は宇佐山城に入り、ここを本営として叡山の高峻《こうしゅん》を望んだ。
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