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国盗り物語128

时间: 2020-05-25    进入日语论坛
核心提示:猛炎 信長がふたたび大軍をひきいて近江にあらわれたのは、翌元亀二年八月であった。去年の暮、大雪をおかして岐阜へ帰って以来
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猛炎

 信長がふたたび大軍をひきいて近江にあらわれたのは、翌元亀二年八月であった。
去年の暮、大雪をおかして岐阜へ帰って以来、信長は多忙をきわめた。伊勢に兵を出し、長島地方に籠《こも》る本願寺一《いっ》揆《き》を討伐して失敗したり、また、木下藤吉郎らにまかせてある近江の対浅井の持久戦を岐阜から指導したり、さらにこの間、松永久秀にそむかれたりして、どの一事をとっても、この期間の信長にとって惨澹《さんたん》たる事実でないものはない。
が、この男はどういう神経でできあがっているのか、つねにおなじ表情のしゃっ《・・・》面《つら》をぶらさげていっこうに動じた様子もなかった。
しかも彼の運命の破滅をにおわせるような風説が、事実の彩色を濃くしはじめていた。
——武田信玄の西上。
である。東海道から甲州にかけてばらまかれている織田家の密偵《みってい》の報告は、岐阜の信長の手に入るごとに現実性のつよいものになっていた。
東海道のおさえは、もはや家康にまかせるほかない。このため家康はこの五月から三河の防衛に専念し、すすんで駿河《するが》に兵を出し、信玄の遊撃部隊としばしば接触しつつある。
信長は、逆に西にむかった。
元亀二年八月十八日、五万の兵をもって近江路に入り、浅井軍をその本拠の小《お》谷《だに》城に釘《くぎ》付《づ》けしつつ国中の小城をつぎつぎと屠《ほふ》り、九月十一日、琵琶湖南岸まですすみ、山岡玉林という地に野戦本陣を据《す》えた。
「単に掃蕩戦《そうとうせん》だったのか」
と、京の噂《うわさ》好きの者たちもおもい、織田家の将士もおもった。このたびの近江入りの敵は、ことごとく小部隊、小城、一揆にすぎなかったからである。
「例によって岐阜にお帰りあそばす」
と、将士はみな思った。信長はほとんどの場合、自分の意中をたれにも明かさない。
翌十二日、出立。
陣貝《かい》が鳴り、先発部隊が動いた。本陣はなお動かない。
(いよいよ、御帰国か)
と、軍中にある光秀もおもった。光秀も岐阜にいる妻のお槙《まき》にひさしぶりで会えるであろう。
ところが行軍を開始したとたん、信長の本陣からの母衣武《ほむろ》者《しゃ》(伝令将校)の群れが飛び、その一騎が光秀のもとにも来た。
「明智殿は、坂本へゆき、日吉《ひえ》大社を包囲されよ」
光秀は、がく然とした。方角がちがうではないか。
「敵は何者である」
「追って沙汰《さた》す、とおおせらる」
母衣武者は去った。光秀は隊頭を転じて叡《えい》山麓《ざんふもと》の坂本にむかう途中、ふたたび母衣武者が駈けてきて、
「敵は叡山である」
といった。光秀の包囲部署が坂本であるように、諸将はそれぞれ部署をもらい、それらをつなぎあわせれば蟻《あり》の這《は》い出るすきまもないほどの叡山包囲陣ができあがる。
「して?」
「堂塔《どうとう》伽《が》藍《らん》のことごとくを灰にせよ、人という人は僧侶《そうりょ》男女をえらばず生ける者を無からしめよ。そういうおおせでござる。明智殿、おぬかりありまするな」
「待った」
「何でござる」
「それだけか」
光秀は手綱をひいて母衣武者を見た。
「それだけでござる」
「………!」
光秀は、あやうく鞍壺《くらつぼ》から落ちそうになった。叡山は王城鎮護の至高至尊の巨刹《きょさつ》ではないか。日本国にあっては千年このかた、王法は天子に仏法は叡山に、ということになっており、歴代の天子がどれほど叡山を尊崇し、同時に畏怖《いふ》してきたかわからない。遠く王朝の世で、もっとも我意の強烈な法皇であるといわれた白河法皇でさえ、「朕《ちん》の意のままにならぬのは鴨川《かもがわ》の流れと山法師」と嘆いたという。
(信長は、叡山の歴史、伝統、権威というものを知らないのだ)
光秀はおもった。
叡山の権威は単に日本の精神界の支配者というだけではなく、桓《かん》武《む》天皇以来歴代の天子の霊位をそこに祀《まつ》り、それらこの世を去った霊の群れが極楽に常住することを保証し、かつ生身《しょうじん》の天子や貴族の身にわざわいがおこらぬよう日夜不断に祈《き》祷《とう》している霊場である。その霊場を焚《た》き、僧を殺すということはどういうことであろう。
「諫《かん》止《し》してくる」
光秀は弥平次光春に言いのこし、単騎、馬頭を旋《めぐ》らせて行軍方角と逆行しはじめた。
(あってよいことか)
鞍の上の光秀は、胴の慄《ふる》うような思いで、そうおもった。光秀のような尚古《しょうこ》趣味の持ちぬしからみれば、信長のなすことと考えることは、野蛮人の所行としか思えない。
光秀が信長の隊列に近づくと、運よく信長は隊列から離れ、道路わきの田のあぜに腰をおろして大あぐらをかき、餅《もち》をつかんでは食っているところであった。
背後、左右に近習《きんじゅう》の士、使番《つかいばん》、児《こ》小姓《ごしょう》などが神妙な顔で居ならび、児小姓の一人が朱の柄《え》長傘《なががさ》をさしかけて信長の頭上の烈日を防いでいる。
(なんと。——)
あきれる思いでその光景をみた。信長の左右の美々しさからみれば、なるほど絢爛《けんらん》たる王侯のたたずまいだったが、餅を食っている当の信長のなまなましさは、どうみても蛮人としか思えない。
「なんぞ」
信長は、目の前に膝《ひざ》をついた光秀をみて眉《まゆ》をしかめた。この慧敏《けいびん》な男は、すでに光秀が何を言いにきたのか察していた。
いきなり、
「わかりきったことなら、言うな」
と叫んだ。光秀の戦争と行政技能の卓抜さはたれよりも認めている信長だったが、一面、わかりきったことをもったいぶってくどくど口説したがる光秀の癖が、殺したいほどにやりきれない。
「言え」
「叡山延暦寺の焼き打ちのことでござりまする」
「言うな」
「いいえ、申しあげねばなりませぬ。そもそも叡山延暦寺とは七百年のむかし、伝教《でんぎょう》大師が天台の顕密を伝えんがため勅命をもってひらかれし山にて、爾《じ》来《らい》朝廷の尊崇があつく」
「十兵衛、汝《なんじ》は坊主か」
信長のほうが、あきれ顔で光秀をみた。
「いいえ、僧ではござりませぬ」
「それとも悪人に加担する気か」
「悪人とは」
「叡山の坊主どもよ」
そう言われると、光秀は一言もない。現実の叡山の僧というのは槍《やり》・刀をたずさえて殺《せっ》生《しょう》を好み、魚鳥を食い、女人を近づけ、学問はせず、寺の本尊をおがまず、仏の宝前に供《く》花《げ》燈明《とうみょう》さえあげずに破戒三昧《ざんまい》の暮らしをしているということは京都あたりの常識になっている。さらに近頃《ちかごろ》では山麓の坂本で僧が女と同居したり、公設の浴場に女をひき入れて俗人でさえ顔を赤らめるほど悪ふざけをしていることもよく知られていた。
「そういう奴らが国家を鎮護し、王法を冥護《みょうご》し、かつは天子の玉体の御無事を祈《き》祷《とう》したところで験《げん》のあるはずがないわ」
「しかしながら」
光秀は汗をかいていた。
「法師どもがいかに淫乱《いんらん》破戒なりとは申せ、叡山《やま》には三千の仏がまします。仏には罪がございますまい」
「罪がある。左様な無頼の坊主どもを眼前に見ていながら仏罰も当てずに七百年このかた過ごしてきたというのは、仏どもの怠慢ではないか。わしはその仏どもに大鉄槌《だいてつつい》をくだしてやるのだ」
「しかし」
光秀は、素養のかぎりをつくして叡山の仏のために弁じた。信長はそういう光秀を、ふしぎな動物をでも見るように見ていたが、ふとのぞきこんで、
「十兵衛、そちゃ、本気で仏を信じているのか」
「信じる信ぜぬというより、他人の尊ぶものを尊べということがございます」
「そちは知らぬと見えるな、あれは」
と、さらにふかぶかと光秀をのぞきこみ、
「金属《かね》と木で造ったものぞな」
真顔でいった。
「木とかね《・・》で造ったものなれども」
「木は木、かね《・・》はかね《・・》じゃ。木や金属でつくったものを仏なりと世をうそぶきだましたやつがまず第一等の悪人よ。つぎにその仏をかつぎまわって世々の天子以下をだましつづけてきたやつらが第二等の悪人じゃ」
「しかしなにぶん古き世より伝わりきたりしものでござりますれば」
「十兵衛、血迷うたか。汝《うぬ》がことごとに好みたがる古きばけものどもを叩《たた》きこわし摺《す》り潰《つぶ》して新しい世を招きよせることこそ、この弾正忠(信長)の大仕事である。そのためには仏も死ね」
言葉短かな信長にしては、常にない長広舌《ちょうこうぜつ》であった。光秀はやむなくうなずき、
「しかし世の御評判が悪《あ》しゅう悪しゅうに相成りましょう。このたびの一件、光秀におまかせくださりませ」
「どうする」
「堂塔も焼かず僧も殺さず、かれらを叡山から追うのみで事を片づけまする」
「金柑頭《きんかんあたま》」
信長は、この次元のちがう会話をくりかえしているのが面倒になったのだろう。やにわに光秀の頭の天辺をつかんでふりまわした。
(うっ)
と、光秀は堪《こら》えた。
「汝《うぬ》にわからせるのは、これしかない」
「殿」
「百年、汝と話していても結着はつくまい」
信長にとって、光秀の頭を掴《つか》み砕きたいほどにやりきれないのは、光秀が平俗きわまりない次元の住人のくせに、言葉を装飾し、容儀にもったいを付け、文字のあることを誇りに、賢《さかし》らにも自分を説きたがるところである。
「阿《あ》呆《ほう》っ」
信長は光秀の頭をつかんだまま、力まかせにころがした。これが、信長の「言葉」であった。信長は、つねに言葉をもたない。
が、この場合、信長の精神は卓犖《たくらく》として光秀より高々とした次元にいた。信長は、もし雄弁ならば彼が抱懐するこの国の思想史上最初の無神論を光秀にむかって展開し、光秀がもっている因循《いんじゅん》な教養主義を嘲笑《ちょうしょう》すべきであったろう。あわせて、無益有害な中世の魑魅《ちみ》魍魎《もうりょう》どもを退治して信長の好きな理に適《あ》う世を招来する革命思想をも、光秀に対して説くべきであった。
が。——
信長は、論破すべきこの論敵を穫《と》り入れの済んだ田の土にころがしたにすぎない。光秀は大ころびにころび、髷《まげ》の元結《もとゆい》まで泥《どろ》まみれになった。

叡山の虐殺《ぎゃくさつ》は、酸《さん》鼻《び》をきわめた。
織田軍五万が山上、山腹、谷々に跳梁《ちょうりょう》し、手あたり次第に堂塔伽藍を焼き、走り出る僧をつかまえては殺し、死体を火中に投じた。黒煙は山を蔽《おお》い、天に冲《ちゅう》し、肉の焦《こ》げるにおいが十里四方にひろがった。
「摺《す》りつぶせ」
と信長は命じた。一人も生かすことをゆるさなかった。もともと非合理というものを病的なほどに憎む信長にとって、坊主どもは手足のついた怪物としかみえなかった。
「この者どもを人と思うな。ばけものであるぞ。神仏どもは怠慢にして彼等を地獄に堕《おと》すことをおこたった。神仏・坊主、ともに殺せ。信長がかわって地獄がどういうものかを見せてやらんず」
といった。
信長の命令はつねに具体的で、虐殺の進行中、「山には洞窟《どうくつ》があろう。一穴々々、くまなくさがせ」といった。なるほど洞窟に逃げこんだ者も多かった。それらは一人のこらずひき出され、首を刎《は》ねられた。
光秀も、この指揮のために煙のなかを歩いている。根本中堂《こんぽんちゅうどう》をはじめ四百幾つの建物の炎上するこの奇妙な戦場では、あちこちで噴《ふ》きあがる猛煙のためにときには呼吸することさえ困難であった。
戦場といえばたしかにこの虐殺は信長にとって戦さであったろう。信長はその果断すぎる性格をもって、いま歴史の過去《・・》との戦いを挑《いど》み、その過去《・・》を掃蕩《そうとう》し去ろうとしていた。
光秀にはその理由がわからない。ただ信長の忠実な軍事官僚として、他の諸将とともにこの虐殺の業務を遂行しつつある。
「女は、どう仕りまする」
と、信長のもとにききにくる部将がある。
「殺せ」
女は、この聖域に居てはならぬはずだのに現実にはいちいち数えきれぬほどに出てきた。それらはことごとく首をきられた。
光秀は、目を蔽わざるをえない。
それに光秀にとって無量の思いをもったのは、この叡山で、智者・上人《しょうにん》、といわれている高僧たちだった。そのなかには、光秀も名や顔を知っている名僧もいるが、彼等が、いわゆる悪僧たちの類《たぐい》ではないことを光秀はたれよりもよく知っている。
そうしたなかで光秀が現場を歩いていたとき、部卒にひき据《す》えられている一人の老僧が光秀を見つけ、悲鳴をあげて助命を乞《こ》うた。
「湛空《たんくう》でござるよ、かねてお見知りの湛空でござるよ」
と、僧は絶叫した。知っている段ではなく、湛空上人といえば天子の師で、光秀も近《この》衛《え》家の屋敷で会い、その学風を敬慕していた。
光秀は顔をそむけ、きこえぬふりをしていそぎ通りすぎた。頼まれても光秀の力ではどうすることもできないのである。光秀は十数歩行き、しかしふりかえった。が、そのときには、いままで叫んでいた湛空の首が、地の苔《こけ》にまみれてころがっている。
(信長は、魔神か。——)
と、この瞬間ほど光秀は信長を憎んだことはなかった。
その信長は本陣に居つづけ、この大規模な虐殺業務が水ももらさずに行なわれるよう、周到な指示をあたえつづけていた。ときに現場から将領格の男が駈けつけてきて、
「何某は当代きっての学匠でありまするゆえ、助け置きの段、嘆願つかまつりまする」
と頼むことがあっても、信長は顔色も変えず、
「玉石ともに砕く」
といった。むしろ信長にいわせれば、この悪徳の府を助長してきたのは、そういう道心堅固な名僧、高僧のたぐいであった。かれらの名声が、腐敗者流の不評判を防衛してきたともいえるのである。
ついにこの元亀二年九月十二日のわずか一日で叡山は一堂をのこすこともなく焼きはらわれ、僧俗男女三千人が殺し尽された。
「折りからこの日は聖《セイント》ミッセルの祭日であった」
と、この仏教僧侶の虐殺をよろこんだ滞日中の南蛮僧が、躍るような文章で本国にむかって報告しているが、むろん信長の知るところではない。
この虐殺の直後、光秀は信長から意外な地歩を与えられた。
「坂本城主になれ」
というのである。坂本というのは叡山の近江側の山麓にあり、延暦寺が地上にあった数日前までは数百年来、叡山のいわば宗門行政府として栄えてきた町であった。信長は光秀をしてこの坂本に城を築かしめ、旧叡山領を管理する一方、南近江と京の鎮守の将たらしめようとした。
そのためには、領地も要る。信長は光秀に南近江の滋賀郡をあたえた。石高にしておそらく十万石以上はあるであろう。
異数の抜擢《ばってき》といっていい。
このころ、信長がもっとも寵用《ちょうよう》している木下藤吉郎秀吉でさえ、自分が統治すべき所領はもたされていない。なるほど藤吉郎は北近江の横山城の城将であったが、これは野戦用の要塞《ようさい》で浅井氏に対する野戦司令官として在城しているにすぎなかった。
(一体、どういうことか)
光秀自身が、織田家の古参重臣よりも優遇される自分の立場にとまどった。
(そこが、信長の信長たるところかもしれない)
と、光秀はおもった。信長はあきらかに自分を厭《いと》いつつも、しかしながら明智十兵衛光秀という一個の才能の評価についてはむしろ冷酷、といっていいほどの態度で量りきっていた。
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