秋が深まっている。
が、琵琶湖南岸の山々では滞陣がつづき、戦局は動かず、信長の没落はいまやたれの目からみてもあきらかになりつつあった。
(没落か。——)
と、陣中の光秀でさえおもった。天下は反織田同盟の動きでみちみちているのに、当の信長はこの叡山山麓《さんろく》に釘《くぎ》付《づ》けされたまま動きもとれないのである。
(このままでは亡《ほろ》びを待つばかりだ)
と光秀は思った。
浅井・朝倉の主力は、叡山の峰や谷々にこもって防塞《ぼうさい》を築き、堂塔を臨時の砦に仕立てて眼下の織田軍に対《たい》峙《じ》し、しかも要塞戦を覚悟して動かないのだ。
(かれらの利口なことよ)
光秀は、浅井・朝倉の将たちの戦略頭脳に驚嘆するおもいだった。いまの天下の情勢においては、叡山の浅井・朝倉は、
——動かぬ。
ということこそ、最良の戦略だった。織田家の大軍をこの近江の叡山山麓に釘付けにしておくことこそ、彼等の勝利への道だった。
いずれ、甲斐《かい》の武田信玄が日本最強の軍団をひきいて駿河《するが》路《じ》に出、織田家の本拠である尾張・美濃を衝《つ》くであろう。
さらに摂津では本願寺の支援によって、三好党がいよいよ戦場を拡大し、ついには信長の占領下にある京を衝くにちがいない。
「四面楚歌《そか》」
という古代中国の言葉を、光秀はおもいだした。信長の周囲は、敵軍の軍歌でみちみちている。信長には三河の徳川家康以外、天下に友軍とする大名は一人もいないのである。
(あの怜《れい》悧《り》な三河どのが、よくぞ裏切らずに付いていることよ)
と、光秀はむしろ感嘆する思いで、年若い家康のことをおもった。もともと家康は織田家の諸将のあいだで、
——徳川殿はお若いにもかかわらず、諸事律《りち》義《ぎ》におわす。
とほめられていたが、これはべつに深い意味があってのことではなかった。家康は年若ながら織田家の諸将に対してひどくいんぎんで、路上で出会っても鄭重《ていちょう》すぎるほどの会釈《えしゃく》をするところがあり、諸将はこの主家の同盟者の辞儀の深さにかえって恐縮し、それが人々の家康の人間評価のめど《・・》になっていた。
(辞儀が深いだけでなく、心根までが篤実《とくじつ》らしい)
こうとなっては、光秀もそうおもわざるを得なかった。
(翻《ひるがえ》って考えてみれば、三河の徳川殿は織田家とのつながりがここまで深間に入った以上、もはや一蓮托生《いちれんたくしょう》の運命を覚悟せねばならないのであろう。興亡ともに信長とともにする心底を、徳川殿は決めおおせているのにちがいない)
それにしても、当の信長である。
(信長は、どうするつもりか)
と、光秀はなかばこの現状を憂《うれ》え、なかば興味をもって、光秀自身がその秘《ひそ》かなる才能の競争相手としている信長の出方を見守っていた。
ところで。——
三日に一度は、光秀は自陣を離れ、信長の本陣に伺候してさまざまの下知《げち》を貰《もら》う。
そのつど、
(落ちついてはいない)
という印象を、光秀は信長から受けた。こういういわば絶体絶命の場合、伝説的な英雄ならば焦燥《しょうそう》をふかく蔵して外貌《がいぼう》は泰然自若《じじゃく》としているのであろう。が、信長はそうではなかった。
たえず、気ぜわしく動いていた。
「もっと、仕掛けよ」
と、つねにまわりを怒鳴りつけていた。仕掛ける、とは織田軍を山岳戦にひき入れた浅井・朝倉軍に対して絶えざる陣地攻撃を仕掛けよということである。
が、その仕掛けが、つねに無駄《むだ》におわっていた。どの山砦《さんさい》の敵も、栄螺《さざえ》が殻《から》を閉じたようにして挑発《ちょうはつ》に乗って来ないのである。
(もはや、だめか)
とは、信長は思わないらしく、しくじっても無駄でも、とにかくその芸のない物理的刺《し》戟《げき》法をくりかえさせていた。
が、それだけではない。
一方では、無駄とは知りつつも、考えられるかぎりの芸を、信長は試みていた。
たとえば、大時代な挑戦状である。
信長は秘書官の菅《すが》屋《や》九右衛門を使者として山頂の朝倉方の本陣へやらせ、
「このように滞陣していても、互いの士卒が疲れるのみでらち《・・》はあかぬ。よろしく山を降りられよ。広闊《こうかつ》な野で互いに陣を張り全軍を馳《は》せちがわせて雌雄を決しよう」
と申し入れさせた。
が、朝倉方の諸将は嘲笑《ちょうしょう》したのみである。
「信長は、あせりはじめている」
かれらはよろこび、前途に希望をもち、むろんのこと、信長の申し入れを一蹴《いっしゅう》した。
(——信長は)
と、このときも光秀は思った。
(愚策であろうが下策であろうが、とにかく打てるかぎりの手を、休みなく隙《すき》間《ま》なく打とうとしている)
その焦燥は気の毒なばかりである。光秀の思うのに、信長ほどの天才をもってしても、この八方ふさがりな現況を打開する手は思いつかないのであろう。
(信長は、石牢《いしろう》に入れられたと同然だな)
光秀は思った。むろん、光秀がもし信長の立場になったとしても、信長がいまやっているように、ただ虚《むな》しく石牢の石壁をこぶしで乱打する下策をくりかえすだけだろう。
(あの男の、運だめし、智恵だめしだな)
その信長は、彼がくりかえしている壁叩《かべたた》きの下策のひとつとして叡山延暦寺《えんりゃくじ》にも使者をのぼらせた。
「浅井・朝倉と手を切れ。彼らを山から追い出せ」
という要求を、寺側に申し入れた。
叡山延暦寺は、日本におけるもっとも強大な武装宗教団体として平安時代以来しばしば地上の権力と対抗し、ほとんど不敗の歴史を刻んできている。
「山法師」
という通称で知られているその僧兵は、僧にて僧にあらず、
「諸国の窃盗《せっとう》、強盗、山賊、海賊と同様、慾心非常にして死生知らずの奴原《やつばら》なり」
といわれてきた。
彼等の勢力も戦国期に入ってから、諸国の延暦寺領が所在の大名たちに横領されたため経済的に衰微してきているが、それでも山上に三千の僧俗が住み、十六の谷々にある三千の堂塔・僧房は依然として健在で、かれらの城塞になっている。
その山法師の暮らしは、
「魚鳥・女人まで上せ、恣《ほしいまま》の悪逆や」
と、信長の祐筆《ゆうひつ》だった太田牛一《うしかず》がその著「信長公記《しんちょうこうき》」で憎々しげに書いているとおり、僧形《そうぎょう》の無頼漢というべき存在であろう。
その叡山が、浅井・朝倉と同盟し、かれらにこの山岳を提供しているのである。
信長の使者に立ったのは、その家老の佐久間信盛であった。
「浅井・朝倉の人数を追い出すにおいては、多少の寺領も寄進してやろう。しかしながら申しつけをきかぬ場合は、三千の堂塔僧房をことごとく焼くが、よろしいか」
とおどしたが、寺側は驚きもせず、
「浅井・朝倉の両家は、わが延暦寺の大檀越《だいだんおつ》である。寺が檀家のためをはかるのになんの遠慮があろう。残念ながら貴意には添いがたい」
と突っぱねた。
(さもあろう)
と、古典主義者の光秀は叡山延暦寺の態度をむしろ自然とし、信長の要求を非常識だと思った。山門には山門の歴史的権威があり、王朝以来、帝王でさえ叡山の権威にはさからえず、さからおうともしなかった。古来、この国の権力者たちは、王法(地上の支配権)は仏法を侵犯すべからずという思想をもって伝統的に叡山を恐れ、ときにはひれ伏すような態度で遠慮してきている。
(物知らずにも、ほどがある)
と、光秀は思うのだ。叡山の権威にさからって成功した例は古今にない。
信長も、佐久間信盛の復命をうけたとき、
「そうか」
といったきり、あとは目をあげて宇佐山本陣の杉《すぎ》木《こ》立《だち》を見あげたまま、無口になった。信長がこのとき何を考えたか、側《そば》にいた光秀も窺《うかが》うすべがなかった。
信長は、なお滞陣をつづけた。おそるべき気長さというべきであろう。
十一月に入って天地が凍《こご》えはじめ、山上、山麓に雪が降り積もり、両軍の滞陣はいよいよ困難をきわめた。
「雪ぞ、雪ぞ」
と、このころになって毎日のように信長はつぶやきはじめた。
光秀も何度かこの呟《つぶや》きをきいた。積雪は戦場の交通を最悪の状態にし、とりわけ歩卒の労苦はなみたいていではない。
その雪を、信長のみがよろこび、この雪の季節の到来を待ちに待っていたかのごとくであった。事実、信長はこの雪をかれの持っている最大限の忍耐力をもって待ちに待っていた。雪こそ彼を、光秀のいう「石牢」から出してくれるであろう。
このころ、信長は、光秀をよんだ。
光秀は使いに接し、穴太《あのう》の自陣から宇佐山の信長本陣まで降りしきる雪をついて馬を駈《か》けさせた。
が、琵琶湖南岸の山々では滞陣がつづき、戦局は動かず、信長の没落はいまやたれの目からみてもあきらかになりつつあった。
(没落か。——)
と、陣中の光秀でさえおもった。天下は反織田同盟の動きでみちみちているのに、当の信長はこの叡山山麓《さんろく》に釘《くぎ》付《づ》けされたまま動きもとれないのである。
(このままでは亡《ほろ》びを待つばかりだ)
と光秀は思った。
浅井・朝倉の主力は、叡山の峰や谷々にこもって防塞《ぼうさい》を築き、堂塔を臨時の砦に仕立てて眼下の織田軍に対《たい》峙《じ》し、しかも要塞戦を覚悟して動かないのだ。
(かれらの利口なことよ)
光秀は、浅井・朝倉の将たちの戦略頭脳に驚嘆するおもいだった。いまの天下の情勢においては、叡山の浅井・朝倉は、
——動かぬ。
ということこそ、最良の戦略だった。織田家の大軍をこの近江の叡山山麓に釘付けにしておくことこそ、彼等の勝利への道だった。
いずれ、甲斐《かい》の武田信玄が日本最強の軍団をひきいて駿河《するが》路《じ》に出、織田家の本拠である尾張・美濃を衝《つ》くであろう。
さらに摂津では本願寺の支援によって、三好党がいよいよ戦場を拡大し、ついには信長の占領下にある京を衝くにちがいない。
「四面楚歌《そか》」
という古代中国の言葉を、光秀はおもいだした。信長の周囲は、敵軍の軍歌でみちみちている。信長には三河の徳川家康以外、天下に友軍とする大名は一人もいないのである。
(あの怜《れい》悧《り》な三河どのが、よくぞ裏切らずに付いていることよ)
と、光秀はむしろ感嘆する思いで、年若い家康のことをおもった。もともと家康は織田家の諸将のあいだで、
——徳川殿はお若いにもかかわらず、諸事律《りち》義《ぎ》におわす。
とほめられていたが、これはべつに深い意味があってのことではなかった。家康は年若ながら織田家の諸将に対してひどくいんぎんで、路上で出会っても鄭重《ていちょう》すぎるほどの会釈《えしゃく》をするところがあり、諸将はこの主家の同盟者の辞儀の深さにかえって恐縮し、それが人々の家康の人間評価のめど《・・》になっていた。
(辞儀が深いだけでなく、心根までが篤実《とくじつ》らしい)
こうとなっては、光秀もそうおもわざるを得なかった。
(翻《ひるがえ》って考えてみれば、三河の徳川殿は織田家とのつながりがここまで深間に入った以上、もはや一蓮托生《いちれんたくしょう》の運命を覚悟せねばならないのであろう。興亡ともに信長とともにする心底を、徳川殿は決めおおせているのにちがいない)
それにしても、当の信長である。
(信長は、どうするつもりか)
と、光秀はなかばこの現状を憂《うれ》え、なかば興味をもって、光秀自身がその秘《ひそ》かなる才能の競争相手としている信長の出方を見守っていた。
ところで。——
三日に一度は、光秀は自陣を離れ、信長の本陣に伺候してさまざまの下知《げち》を貰《もら》う。
そのつど、
(落ちついてはいない)
という印象を、光秀は信長から受けた。こういういわば絶体絶命の場合、伝説的な英雄ならば焦燥《しょうそう》をふかく蔵して外貌《がいぼう》は泰然自若《じじゃく》としているのであろう。が、信長はそうではなかった。
たえず、気ぜわしく動いていた。
「もっと、仕掛けよ」
と、つねにまわりを怒鳴りつけていた。仕掛ける、とは織田軍を山岳戦にひき入れた浅井・朝倉軍に対して絶えざる陣地攻撃を仕掛けよということである。
が、その仕掛けが、つねに無駄《むだ》におわっていた。どの山砦《さんさい》の敵も、栄螺《さざえ》が殻《から》を閉じたようにして挑発《ちょうはつ》に乗って来ないのである。
(もはや、だめか)
とは、信長は思わないらしく、しくじっても無駄でも、とにかくその芸のない物理的刺《し》戟《げき》法をくりかえさせていた。
が、それだけではない。
一方では、無駄とは知りつつも、考えられるかぎりの芸を、信長は試みていた。
たとえば、大時代な挑戦状である。
信長は秘書官の菅《すが》屋《や》九右衛門を使者として山頂の朝倉方の本陣へやらせ、
「このように滞陣していても、互いの士卒が疲れるのみでらち《・・》はあかぬ。よろしく山を降りられよ。広闊《こうかつ》な野で互いに陣を張り全軍を馳《は》せちがわせて雌雄を決しよう」
と申し入れさせた。
が、朝倉方の諸将は嘲笑《ちょうしょう》したのみである。
「信長は、あせりはじめている」
かれらはよろこび、前途に希望をもち、むろんのこと、信長の申し入れを一蹴《いっしゅう》した。
(——信長は)
と、このときも光秀は思った。
(愚策であろうが下策であろうが、とにかく打てるかぎりの手を、休みなく隙《すき》間《ま》なく打とうとしている)
その焦燥は気の毒なばかりである。光秀の思うのに、信長ほどの天才をもってしても、この八方ふさがりな現況を打開する手は思いつかないのであろう。
(信長は、石牢《いしろう》に入れられたと同然だな)
光秀は思った。むろん、光秀がもし信長の立場になったとしても、信長がいまやっているように、ただ虚《むな》しく石牢の石壁をこぶしで乱打する下策をくりかえすだけだろう。
(あの男の、運だめし、智恵だめしだな)
その信長は、彼がくりかえしている壁叩《かべたた》きの下策のひとつとして叡山延暦寺《えんりゃくじ》にも使者をのぼらせた。
「浅井・朝倉と手を切れ。彼らを山から追い出せ」
という要求を、寺側に申し入れた。
叡山延暦寺は、日本におけるもっとも強大な武装宗教団体として平安時代以来しばしば地上の権力と対抗し、ほとんど不敗の歴史を刻んできている。
「山法師」
という通称で知られているその僧兵は、僧にて僧にあらず、
「諸国の窃盗《せっとう》、強盗、山賊、海賊と同様、慾心非常にして死生知らずの奴原《やつばら》なり」
といわれてきた。
彼等の勢力も戦国期に入ってから、諸国の延暦寺領が所在の大名たちに横領されたため経済的に衰微してきているが、それでも山上に三千の僧俗が住み、十六の谷々にある三千の堂塔・僧房は依然として健在で、かれらの城塞になっている。
その山法師の暮らしは、
「魚鳥・女人まで上せ、恣《ほしいまま》の悪逆や」
と、信長の祐筆《ゆうひつ》だった太田牛一《うしかず》がその著「信長公記《しんちょうこうき》」で憎々しげに書いているとおり、僧形《そうぎょう》の無頼漢というべき存在であろう。
その叡山が、浅井・朝倉と同盟し、かれらにこの山岳を提供しているのである。
信長の使者に立ったのは、その家老の佐久間信盛であった。
「浅井・朝倉の人数を追い出すにおいては、多少の寺領も寄進してやろう。しかしながら申しつけをきかぬ場合は、三千の堂塔僧房をことごとく焼くが、よろしいか」
とおどしたが、寺側は驚きもせず、
「浅井・朝倉の両家は、わが延暦寺の大檀越《だいだんおつ》である。寺が檀家のためをはかるのになんの遠慮があろう。残念ながら貴意には添いがたい」
と突っぱねた。
(さもあろう)
と、古典主義者の光秀は叡山延暦寺の態度をむしろ自然とし、信長の要求を非常識だと思った。山門には山門の歴史的権威があり、王朝以来、帝王でさえ叡山の権威にはさからえず、さからおうともしなかった。古来、この国の権力者たちは、王法(地上の支配権)は仏法を侵犯すべからずという思想をもって伝統的に叡山を恐れ、ときにはひれ伏すような態度で遠慮してきている。
(物知らずにも、ほどがある)
と、光秀は思うのだ。叡山の権威にさからって成功した例は古今にない。
信長も、佐久間信盛の復命をうけたとき、
「そうか」
といったきり、あとは目をあげて宇佐山本陣の杉《すぎ》木《こ》立《だち》を見あげたまま、無口になった。信長がこのとき何を考えたか、側《そば》にいた光秀も窺《うかが》うすべがなかった。
信長は、なお滞陣をつづけた。おそるべき気長さというべきであろう。
十一月に入って天地が凍《こご》えはじめ、山上、山麓に雪が降り積もり、両軍の滞陣はいよいよ困難をきわめた。
「雪ぞ、雪ぞ」
と、このころになって毎日のように信長はつぶやきはじめた。
光秀も何度かこの呟《つぶや》きをきいた。積雪は戦場の交通を最悪の状態にし、とりわけ歩卒の労苦はなみたいていではない。
その雪を、信長のみがよろこび、この雪の季節の到来を待ちに待っていたかのごとくであった。事実、信長はこの雪をかれの持っている最大限の忍耐力をもって待ちに待っていた。雪こそ彼を、光秀のいう「石牢」から出してくれるであろう。
このころ、信長は、光秀をよんだ。
光秀は使いに接し、穴太《あのう》の自陣から宇佐山の信長本陣まで降りしきる雪をついて馬を駈《か》けさせた。
「十兵衛、すぐ京へゆけ」
と信長はひさしく見なかった上機嫌《じょうきげん》の表情であった。
「みろ、雪がふっている。そちのもっともらしい面《つら》が、役に立つときがきた」
(はて)
信長のいうことは、常に捕《ほ》捉《そく》しがたい。雪と光秀の面が、どうなのであろう。
ちなみに、
——もっともらしい面。
と信長はいったが、信長はなにがきらいだといっても、この種の面ほどきらいなものはない。
逆の変てこな人間は、好きなのである。
織田家に某という豪傑がいて、平素酔狂できこえていた。ある日、他の大名家から使者がきてもっともらしく座っている。
この某には使者のもっともらしさがおかしくてたまらなかったらしく、使者が待つ部屋の襖《ふすま》をそろりとあけて、
「これよ、これよ」
と、いきなり自分の睾丸《こうがん》をほうり出し、ぴしゃりぴしゃりとたたいてからかった。使者は大いに当惑した。
普通の大名家なら、この某の悪戯《いたずら》は切腹ものであろう。ところが信長は大ちがいで、あとでそれを聞き、ころげるほどに笑い、
「そうか、それで、かのもっともらしい奴《やつ》らはどんな面をしおった」
と、夢中になってその悪戯者にきいた。
信長は、年少のころ狂童といわれた男だが、長じてそれがおさまったかのごとくみえる。
が、根底にはその異風の物好みがいきいきと生きているらしく、京にはじめて入ってその占領司令官になったときなども、
「きょうからは、この織田信長が京の貴顕や庶民の保護者になるぞ。治安をみだす悪者は首を刎《は》ねてくれるゆえ、善人ばら《・・》は安《あん》堵《ど》せよ」
ということを宣布するつもりであろう、馬に乗って都大路を練ったときの扮装《ふんそう》こそ異様であった。刀の鞘《さや》に足半《あしなか》(草鞋《わらじ》の一種)をむすびつけ、腰には少年のころのように袋をぶらさげてある。もっともその袋も緞《どん》子《す》の打替《うちかえ》袋《ぶくろ》で、なかに米を入れてある。しかも別に焚《た》きたての飯を入れた袋も結びつけ、さらに自分の飯だけでなく鞍《くら》の後輪《しずわ》に馬の飼料袋をぶらさげるという風体《ふうてい》である。要するに、悪者をみつければ一散に駈けて行ってひっ捕えるぞ、という意志を姿形でみせているのだ。
こんな男が、つねに深沈とした表情をみせている光秀の行儀よさ、したり《・・・》顔を好むはずがない。
が、その異風は服装の好みだけでなく、言葉づかいにまで出るのは、家来にとって厄介《やっかい》だった。
いま光秀にいった言葉は、三段にわかれている。
すぐ京へゆけ。
みろ、雪がふっている。
そちのもっともらしい面が役だつときがきた。
(なんの意味だろう)
光秀は、いそがしく頭を回転させた。これがぐずぐずしているようでは、たちまち頭上から罵《ば》声《せい》をくらうのだ。この信長流の判じ物のような命令の解読にもっともすぐれた機智を働かせるのは木下藤吉郎であったが、光秀は藤吉郎ほどの機転はきかない。
が、解読できた。
(京へゆけ、というのは将軍義昭のもとにゆけということか。雪で、山上の朝倉軍は難渋している。朝倉軍の本国は越前である。すでに越前は大雪であろう。越前から琵琶湖西岸の山岳道路を利用して叡山の前線陣地に送られてくる兵糧《ひょうろう》、弾薬も、その補給路にふりつもる雪のために杜《と》絶《ぜつ》しているであろう。このさき冬にむかい、叡山の朝倉軍は自然に飢えてゆくにちがいない。結局、将軍義昭が調停に入るということになれば、朝倉軍も渡りに舟とばかりに本国へ帰るに相違ない。そこでおれの——もっともらしい《・・・・・・・》面を義昭将軍の前に出して、義昭にこの調停役をつとめさせよ、ということであろう)
光秀はそこまで解読しきると、
「承知つかまつりましてござりまする。さっそく発足し、京の室町館(義昭の城館)まで急行いたしまする」
と、さわやかに答えた。信長は満足し、
「ただし、当方の弱音は吐くな」
念を押した。
光秀はすぐ宇佐山城を降り、穴太の自陣の指揮は弥平次光春にまかせ、自分は軽騎数騎をひきつれて吹雪を衝《つ》き京へ駈けた。
京も、雪である。
光秀は大《おお》路《じ》の雪を蹴立《けた》てて将軍の館に伺候すると、さっそく内謁《ないえつ》をゆるされた。光秀は気ぜわしく義昭の御前にまかり進んだ。
「おお、光秀か」
と、まず義昭の声がきこえ、御簾《みす》があがった。義昭は、洟《はなみず》を垂らしそうな顔で、寒そうにすわっている。
「近江の戦陣も、さぞや雪景色であろうな」
と義昭は目で笑った。義昭の脳裏では雪中で四苦八苦している信長の様子がありありとみえるのであろう。この戦線の膠着《こうちゃく》がつづくかぎり信長の運命は没落しかない。
「上様」
光秀はそうと察して、声をはげました。声に自然な張りを籠《こ》めた。
「上様ごひいき《・・・》の朝倉も浅井も、もはや近江の雪の中で自滅いたしまするぞ」
「えっ」
義昭は、唇《くちびる》をあけた。他愛《たわい》がない。
「どういうわけだ。なぜ朝倉・浅井が雪でほろびる」
「兵糧の補給がつづきませぬ。春の雪どけまでに半数が死に、半数は降伏しましょう」
光秀は、義昭の利害の側に立って、この戦いの前途を解説した。朝倉の運命が絶望的だということを、光秀一流の明晰《めいせき》な論理で説き、
「いま、和《わ》睦《ぼく》を仲介なされませ。されば朝倉や浅井にも恩を売ることになります。信長にも将軍家の威権を示すことになりましょう」
さらにその「将軍威権論」をるる《・・》と説くと、義昭はついにその説に乗り、最後には腰を浮きあがらせるようにして、
「光秀、そちの申すとおりである」
と掌をたたくようにして賛同した。
光秀はその夜、将軍の御教書《みぎょうしょ》を二通起草し、翌日それに黒印を捺《お》させ、義昭のえらんだ使臣に携行させた。
朝倉への使臣は雲母《きらら》坂《ざか》から叡山にのぼり、信長への使臣の近江入りには光秀が同行した。
和睦は十二月十三日をもって成立し、信長はまず兵を撤し、ついで浅井・朝倉軍が叡山を去り、おのおの本国へ撤退した。
信長は和睦成立の三日後、大雪を冒して琵琶湖東岸の佐和山城に入り、ついで翌々十八日、岐阜へ帰った。信長は天候を戦略化することによってあやうく虎《こ》口《くう》を脱したというべきであろう。