丹波は、現今《いま》、京都府と兵庫県に属している。面積およそ二百方里。
「山《やま》家《が》の猿《さる》」
と隣国の京童《きょうわらわ》からあざけられてきたように、山々谷々が複雑な地勢をつくり、その山々谷々ごとに小豪族が住みつき、しかもその小豪族どもの共通した性格は偏狭で頑《がん》固《こ》で外界の情勢にくらい。
(攻めづらい)
というのが、光秀の実感であった。光秀の感想では平野地方の敵は蠅《はえ》のようなもので、大軍をもっておしよせれば飛び散ってしまうが、山国の敵は毛のなかのしらみのようなもので、一つ一つ潰《つぶ》してゆかねばならない。しかしそういう作業をしていては五年が十年でも追っつかないであろう。
(工夫が要る)
光秀は慎重な性格をもっている。せっかちな軍事行動はひかえ、無数の諜者《ちょうじゃ》を送って山々谷々の小豪族どもの性格、能力、相互の利害関係、縁戚《えんせき》関係をしらべさせた。
その間、光秀は丹波には一度もあらわれず、織田家の各戦線を転々として一つ所に三月もとどまったことがない。
(信長は骨までしゃぶるわ)
と、使われる光秀自身が小気味よくなるほど信長は光秀の才能を酷使した。美濃に侵入した甲州の信玄の子武田勝頼《かつより》の軍と合戦するために美濃にやられたかと思うと大和に転出して多聞山城《たもんやまじょう》の防備を指《さし》図《ず》し、さらに河内《かわち》で転戦して三好党の城々を攻め、かと思うと大坂の本願寺攻めに参加し、その間京都の市政を担当するなど、その多忙は、言語に絶した。
もっとも、総大将の信長自身がそうであった。かれの駈《か》けまわりぶりは光秀以上で、
——織田殿は天《てん》狗《ぐ》か。
と京童に感嘆されているほどに神出鬼没であった。多方面化したどの戦線にも信長はあらわれ、直接指揮し、河内の城攻めのときなどは戦跡を見て前線に出、前線の足軽をみずから下知《げち》した。
何事も自分で手をくだすというのは信長の性格でもあろう。しかしそれだけではない。織田家で体力智力とももっともすぐれた者は信長自身であった。
そう信長は信じていたし、事実そうであろう。もっともすぐれた者を、すりきれるまで使うというのは、信長の方式であった。信長は自分自身をもっとも酷使し、ついで秀吉、光秀を酷使した。
信長が河内の陣にいるとき、光秀の丹波攻略の計画は成った。
(一度、御耳に入れておかねば)
と光秀は思い、陣中で拝謁《はいえつ》した。信長は光秀の説明をききおわると、
「よかろう」
と、満足した。それほど光秀が立案した計画はよくできていた。が、一つ足りない。
「兵部大輔(細川藤孝)を連れてゆけ」
と、信長はいった。
信長は理由をいわない。
いわなくても光秀はわかっていた。細川家は足利中期に出た頼元《よりもと》以後、数代にわたって丹波の守護大名であった。もっとも現地に居たことはなく、京に政庁を持って数代つづいたが、戦国初頭、土地で波多野氏が擡頭《たいとう》し、このため細川家は丹波とは縁が切れた。その細川家と、藤孝の細川家とは血脈こそつづいていないが、家号は相続している。藤孝が丹波へゆけば、美濃における土岐氏、尾張における斯波《しば》氏、三河における吉良《きら》氏のように、
「むかしの御館《おやかた》様」
ということで、大いに尊崇を受けるであろう。自然、政治工作がしやすい。
光秀もじつはそれを考えた。しかし信長の癖として部下に人事の口出しをされることを好まない。それに細川藤孝という足利家での旧同僚とあまりに濃い結びつきを持つと一見党派を結成するようで、信長がきらうであろうと思い、遠慮をしたのである。
が、信長から言いだした。
(油断のならぬお人だ)
光秀は思った。まず、丹波が半世紀以上も前に細川家の管轄国《かんかつこく》であったことを信長が知っていることにおどろいたのである。それに、部下の持ち味をしゃぶるようにして使う信長の巧みさは、光秀の目からみても天才としか思えない。
「兵部大輔をこれへよべ」
信長は、近習に命じた。藤孝はこのころすでに織田家に正式に仕え、南山城《やましろ》の勝竜寺城を居城としつつ、つねに信長の陣列にあり、光秀や秀吉などより一格下の部将として働きはじめている。
藤孝が参上すると信長はそのことを命じ、命じおわると、
「そのほうども、姻戚《いんせき》になれ」
といった。藤孝の子忠興《ただおき》はまだ十代の半ばだが、こんど初陣《ういじん》として父に従っており、骨《こつ》柄《がら》はなかなか逞《たくま》しい。光秀の娘は、お玉である。のちに洗礼名ガラシャといわれる。お玉は忠興よりも一歳上だが、その容色の美しさは織田家の家中でも評判であった。
(むかし、互いにそういう約束をしたことがある)
光秀と藤孝は顔を見あわせながら、志士奔走のころをふと思った。むろん互いに異存はない。
「ありがたき仕合せに存じまする」
と光秀はつつましげに御礼を言上しながら、信長の性格をふしぎに思った。信長は批判力がするどく、人のあら《・・》を観察するぶんには微細なきずも見のがさず、それを指摘するときは骨を刺すようにむごく、ときに、批判が高《こう》じてくると家臣の数十年の過去を言いたてて切腹させたり追放したりする。それほど容赦ない男だが、ただ一つの盲点は家臣のほうからは自分を裏切らぬという信念を持っているらしいことであった。でなければおなじ幕臣系の二人を縁組で結ばせようという発想はおこるまい。
やがて信長は東へ去った。
光秀は、京に残った。
京を策源地とし、丹波へ人を出しては大小の豪族を懐柔しつつあった時期——つまり天正三年五月の暮、光秀は一世を驚倒させる風聞をきいた。やがてその確報を得た。
信長が、三河の長篠《ながしの》で武田勝頼の大軍と合戦し、その日本最強といわれる故信玄の大軍団を完膚なきまでに破った、というしらせである。
(あの信長が。——)
光秀は胴のふるえるような、異常な衝撃におそわれた。よろこび、というようななまやさしい感情ではない。恐怖かもしれなかった。いままで光秀は信長の思想、性行を好まず、さらにその才能についても、
(自分のほうがすぐれている)
とひそかに思い、そう思うことによって信長から受けるたびたびの侮辱に堪えてきたのだが、長篠での一戦は光秀のその自信を根の底からゆるがせた。信長を、光秀ははじめて畏怖《いふ》した。
(あの男はひょっとすると、自分などの及びもつかぬ天才なのかもしれぬ)
この会戦地の長篠設楽原《しだらがはら》は東三河の山谷《さんこく》地帯にある小高原で、ここに展開した両軍の人数をいうと、
武田軍 一万二千
織田・徳川軍 三万八千
であった。
が、武田軍は故信玄の軍法ゆきとどき、その精強さは一騎で他国の四、五騎に相当するといわれた。兵の強弱でいえば織田家の母体である尾張兵はとりわけ弱いとされている。このため三倍の人数があっても、ようやく互角の戦い、というのが常識であった。
その証拠に、戦わぬ前から織田家の士卒は恐怖し、敵陣を窺《うかが》いに行った斥候《せっこう》たちは馳《は》せ帰るとことごとく武田軍の偉容を、戦慄《せんりつ》するような口ぶりで報告した。
その模様をあとできいたとき光秀も、
(さもあろう)
と思った。光秀でさえ武田軍の正々堂々の軍容とその鬼神も避けるような勇猛さを思うとき、ほのかな戦慄を覚えざるをえない。
が、現地の信長にはすでにこれを破砕する構想があった。かれは岐阜を進発するときから、すべての足軽に材木を一本、縄《なわ》を一《いち》把《わ》ずつ持たせ、現地につくとそれをもって予定戦場に長大な柵《さく》を構築し、ところどころに木戸さえつくった。
かつ、織田軍の執銃兵一万人のなかから射撃上手を三千人選び、それを柵内に入れ、千人ずつ三段に展開させ、武田軍のもっとも得意とする騎馬隊の猛襲を待った。ついに計略は図にあたり、柵にむかって怒《ど》濤《とう》のように突撃してくる騎馬集団は信長の考案した「一斉射撃」という世界史上最初の戦法の前にうそのように砕け去った。
(なんという男だ)
と、京で光秀はおもった。
光秀は鉄砲という、三十年前にこの国に渡来したあたらしい兵器については、その機械としての研究においても、その用兵法の研究においても日本第一という定評があり、当初、信長が光秀を抱えたのも、
火術家
という点で魅力を感じたからであった。
光秀には当然その戦法に自信があったが、その光秀でさえ信長が長篠で演出した「三段入れかわりの一斉射撃法」というのは思いもつかなかった。信長のやったその方法では、戦場の空間内で、千発の銃弾が間断なく飛びつづけていることになるのである。
(思いも、及ばなんだ)
光秀は、劣敗の思いをもった。筑前守秀吉のような男なら、この劣敗感はただちに信長への畏敬という質に転化し、無邪気に信長を学ぼうとの姿勢に移るであろう。しかし光秀にとっては自信のひたすらな敗北でしかない。その結果、光秀の場合、信長畏敬という気の楽な転化を遂げず——遂げればどれほど気が軽かったであろう——相手の金銅仏《こんどうぶつ》のように重々しい像に威圧され、あやうく自信を圧殺されそうになった。
「山《やま》家《が》の猿《さる》」
と隣国の京童《きょうわらわ》からあざけられてきたように、山々谷々が複雑な地勢をつくり、その山々谷々ごとに小豪族が住みつき、しかもその小豪族どもの共通した性格は偏狭で頑《がん》固《こ》で外界の情勢にくらい。
(攻めづらい)
というのが、光秀の実感であった。光秀の感想では平野地方の敵は蠅《はえ》のようなもので、大軍をもっておしよせれば飛び散ってしまうが、山国の敵は毛のなかのしらみのようなもので、一つ一つ潰《つぶ》してゆかねばならない。しかしそういう作業をしていては五年が十年でも追っつかないであろう。
(工夫が要る)
光秀は慎重な性格をもっている。せっかちな軍事行動はひかえ、無数の諜者《ちょうじゃ》を送って山々谷々の小豪族どもの性格、能力、相互の利害関係、縁戚《えんせき》関係をしらべさせた。
その間、光秀は丹波には一度もあらわれず、織田家の各戦線を転々として一つ所に三月もとどまったことがない。
(信長は骨までしゃぶるわ)
と、使われる光秀自身が小気味よくなるほど信長は光秀の才能を酷使した。美濃に侵入した甲州の信玄の子武田勝頼《かつより》の軍と合戦するために美濃にやられたかと思うと大和に転出して多聞山城《たもんやまじょう》の防備を指《さし》図《ず》し、さらに河内《かわち》で転戦して三好党の城々を攻め、かと思うと大坂の本願寺攻めに参加し、その間京都の市政を担当するなど、その多忙は、言語に絶した。
もっとも、総大将の信長自身がそうであった。かれの駈《か》けまわりぶりは光秀以上で、
——織田殿は天《てん》狗《ぐ》か。
と京童に感嘆されているほどに神出鬼没であった。多方面化したどの戦線にも信長はあらわれ、直接指揮し、河内の城攻めのときなどは戦跡を見て前線に出、前線の足軽をみずから下知《げち》した。
何事も自分で手をくだすというのは信長の性格でもあろう。しかしそれだけではない。織田家で体力智力とももっともすぐれた者は信長自身であった。
そう信長は信じていたし、事実そうであろう。もっともすぐれた者を、すりきれるまで使うというのは、信長の方式であった。信長は自分自身をもっとも酷使し、ついで秀吉、光秀を酷使した。
信長が河内の陣にいるとき、光秀の丹波攻略の計画は成った。
(一度、御耳に入れておかねば)
と光秀は思い、陣中で拝謁《はいえつ》した。信長は光秀の説明をききおわると、
「よかろう」
と、満足した。それほど光秀が立案した計画はよくできていた。が、一つ足りない。
「兵部大輔(細川藤孝)を連れてゆけ」
と、信長はいった。
信長は理由をいわない。
いわなくても光秀はわかっていた。細川家は足利中期に出た頼元《よりもと》以後、数代にわたって丹波の守護大名であった。もっとも現地に居たことはなく、京に政庁を持って数代つづいたが、戦国初頭、土地で波多野氏が擡頭《たいとう》し、このため細川家は丹波とは縁が切れた。その細川家と、藤孝の細川家とは血脈こそつづいていないが、家号は相続している。藤孝が丹波へゆけば、美濃における土岐氏、尾張における斯波《しば》氏、三河における吉良《きら》氏のように、
「むかしの御館《おやかた》様」
ということで、大いに尊崇を受けるであろう。自然、政治工作がしやすい。
光秀もじつはそれを考えた。しかし信長の癖として部下に人事の口出しをされることを好まない。それに細川藤孝という足利家での旧同僚とあまりに濃い結びつきを持つと一見党派を結成するようで、信長がきらうであろうと思い、遠慮をしたのである。
が、信長から言いだした。
(油断のならぬお人だ)
光秀は思った。まず、丹波が半世紀以上も前に細川家の管轄国《かんかつこく》であったことを信長が知っていることにおどろいたのである。それに、部下の持ち味をしゃぶるようにして使う信長の巧みさは、光秀の目からみても天才としか思えない。
「兵部大輔をこれへよべ」
信長は、近習に命じた。藤孝はこのころすでに織田家に正式に仕え、南山城《やましろ》の勝竜寺城を居城としつつ、つねに信長の陣列にあり、光秀や秀吉などより一格下の部将として働きはじめている。
藤孝が参上すると信長はそのことを命じ、命じおわると、
「そのほうども、姻戚《いんせき》になれ」
といった。藤孝の子忠興《ただおき》はまだ十代の半ばだが、こんど初陣《ういじん》として父に従っており、骨《こつ》柄《がら》はなかなか逞《たくま》しい。光秀の娘は、お玉である。のちに洗礼名ガラシャといわれる。お玉は忠興よりも一歳上だが、その容色の美しさは織田家の家中でも評判であった。
(むかし、互いにそういう約束をしたことがある)
光秀と藤孝は顔を見あわせながら、志士奔走のころをふと思った。むろん互いに異存はない。
「ありがたき仕合せに存じまする」
と光秀はつつましげに御礼を言上しながら、信長の性格をふしぎに思った。信長は批判力がするどく、人のあら《・・》を観察するぶんには微細なきずも見のがさず、それを指摘するときは骨を刺すようにむごく、ときに、批判が高《こう》じてくると家臣の数十年の過去を言いたてて切腹させたり追放したりする。それほど容赦ない男だが、ただ一つの盲点は家臣のほうからは自分を裏切らぬという信念を持っているらしいことであった。でなければおなじ幕臣系の二人を縁組で結ばせようという発想はおこるまい。
やがて信長は東へ去った。
光秀は、京に残った。
京を策源地とし、丹波へ人を出しては大小の豪族を懐柔しつつあった時期——つまり天正三年五月の暮、光秀は一世を驚倒させる風聞をきいた。やがてその確報を得た。
信長が、三河の長篠《ながしの》で武田勝頼の大軍と合戦し、その日本最強といわれる故信玄の大軍団を完膚なきまでに破った、というしらせである。
(あの信長が。——)
光秀は胴のふるえるような、異常な衝撃におそわれた。よろこび、というようななまやさしい感情ではない。恐怖かもしれなかった。いままで光秀は信長の思想、性行を好まず、さらにその才能についても、
(自分のほうがすぐれている)
とひそかに思い、そう思うことによって信長から受けるたびたびの侮辱に堪えてきたのだが、長篠での一戦は光秀のその自信を根の底からゆるがせた。信長を、光秀ははじめて畏怖《いふ》した。
(あの男はひょっとすると、自分などの及びもつかぬ天才なのかもしれぬ)
この会戦地の長篠設楽原《しだらがはら》は東三河の山谷《さんこく》地帯にある小高原で、ここに展開した両軍の人数をいうと、
武田軍 一万二千
織田・徳川軍 三万八千
であった。
が、武田軍は故信玄の軍法ゆきとどき、その精強さは一騎で他国の四、五騎に相当するといわれた。兵の強弱でいえば織田家の母体である尾張兵はとりわけ弱いとされている。このため三倍の人数があっても、ようやく互角の戦い、というのが常識であった。
その証拠に、戦わぬ前から織田家の士卒は恐怖し、敵陣を窺《うかが》いに行った斥候《せっこう》たちは馳《は》せ帰るとことごとく武田軍の偉容を、戦慄《せんりつ》するような口ぶりで報告した。
その模様をあとできいたとき光秀も、
(さもあろう)
と思った。光秀でさえ武田軍の正々堂々の軍容とその鬼神も避けるような勇猛さを思うとき、ほのかな戦慄を覚えざるをえない。
が、現地の信長にはすでにこれを破砕する構想があった。かれは岐阜を進発するときから、すべての足軽に材木を一本、縄《なわ》を一《いち》把《わ》ずつ持たせ、現地につくとそれをもって予定戦場に長大な柵《さく》を構築し、ところどころに木戸さえつくった。
かつ、織田軍の執銃兵一万人のなかから射撃上手を三千人選び、それを柵内に入れ、千人ずつ三段に展開させ、武田軍のもっとも得意とする騎馬隊の猛襲を待った。ついに計略は図にあたり、柵にむかって怒《ど》濤《とう》のように突撃してくる騎馬集団は信長の考案した「一斉射撃」という世界史上最初の戦法の前にうそのように砕け去った。
(なんという男だ)
と、京で光秀はおもった。
光秀は鉄砲という、三十年前にこの国に渡来したあたらしい兵器については、その機械としての研究においても、その用兵法の研究においても日本第一という定評があり、当初、信長が光秀を抱えたのも、
火術家
という点で魅力を感じたからであった。
光秀には当然その戦法に自信があったが、その光秀でさえ信長が長篠で演出した「三段入れかわりの一斉射撃法」というのは思いもつかなかった。信長のやったその方法では、戦場の空間内で、千発の銃弾が間断なく飛びつづけていることになるのである。
(思いも、及ばなんだ)
光秀は、劣敗の思いをもった。筑前守秀吉のような男なら、この劣敗感はただちに信長への畏敬という質に転化し、無邪気に信長を学ぼうとの姿勢に移るであろう。しかし光秀にとっては自信のひたすらな敗北でしかない。その結果、光秀の場合、信長畏敬という気の楽な転化を遂げず——遂げればどれほど気が軽かったであろう——相手の金銅仏《こんどうぶつ》のように重々しい像に威圧され、あやうく自信を圧殺されそうになった。
光秀と藤孝の丹波工作はすすみ、国中のほぼ半ばが織田方になびいたころ、光秀は兵三千をひきい洛西《らくせい》の桂《かつら》に集結した。藤孝も兵三百をもって来会し、ともに鞭《むち》をあげて丹波路にむかい、東丹波の亀山《かめやま》城をかこんだ(亀山、現今は改称し、亀岡)。
光秀は急攻方針をとり、三日三晩、火の出るように攻めたててついに陥し、降伏者を収容し、その戦勝を信長に報ずるとともに、ここを本拠として丹波攻略に乗り出した。
亀の尾の翠《みどり》も山の茂るかな
と細川藤孝は詠《よ》み、朋友《ほうゆう》と自分の成功を祝した。
このあと、織田家の威武、光秀の徳望、藤孝の家柄、という三つの要素が、この山国のひとびとを大いにゆさぶり、あらそって帰服した。
光秀は、外交に専念した。それが信長の方針で、信長の場合、その苛《か》烈《れつ》な戦闘も外交の一部といっていい。光秀は陰翳《いんえい》のちがいはあるとはいえ、いつのまにか信長の方法を忠実に踏襲しはじめていた。
それに信長の貪婪《どんらん》なほどの嗜《し》好《こう》は、人材に対する興味であった。信長は人材とみるとひっさらうようにその傘《さん》下《か》に入れたが、光秀もこの方式をとった。
丹波にも、人材は居た。早くから帰服していた者、途中多少反抗の色を立てた者、あくまで抗戦した者をふくめて光秀はこれはという男を見ると、
「わが家に仕えませぬか」
と、この男の口癖で相手を十分に尊重しつつ、降人をも招聘《しょうへい》のかたちで持ちかけた。その光秀の態度に感激し、
(このひとこそ)
と、よろこんで桔梗紋《ききょうもん》の軍旗の下に馳《は》せ参じた者は、
四《し》王天《おうてん》又兵衛、並河掃部助《かもんのすけ》、萩野彦兵衛、波々伯《ははか》部権頭《べごんのかみ》、中沢豊《ぶん》後《ご》、酒井孫左衛門、加《か》治《じ》石《いわ》見《み》などであった。
光秀はこれらをそれぞれ侍大将格に起用し、とくに四王天又兵衛を重用した。
四王天又兵衛は、正しい家名は四《し》方田《ほうでん》と書き、但馬守《たじまのかみ》とも称した。無類の戦さ上手で、以前から光秀の下にあった明智弥平次光春、斎藤内《く》蔵助利三《らのすけとしみつ》とともに、
「明智の槍神《やりがみ》」
といわれた。
むろんこれらの帰服者の採用についてはいちいち信長に伺いを立てた。信長は機《き》嫌《げん》よくゆるした。明智軍団の強化は信長の統一事業に好影響をもたらすのである。
余談ながら、右の「槍神」の一人の斎藤利三は、光秀と同郷の美濃の人である。
斎藤道三は、一時利政《としまさ》と名乗っていた。いかにも似た姓名だが、むしろ道三のほうが美濃の名家斎藤家の家号を奪《と》ったわけだから、この斎藤利三のほうが美濃斎藤のいわば正札《しょうふだ》といっていい。
かつては、美濃安八《あんぱち》郡で五、六万石を領していた曾根《そね》城の城主稲葉一鉄《いってつ》に仕え、その侍大将をつとめていた。一鉄の稲葉家と斎藤利三とはもともと同族で、利三はその娘をさえもらっていたのである。
一鉄は最初は土岐家に、ついで道三に仕え、さらにいまでは信長に仕えている。織田家の家中では頑《がん》固《こ》者《もの》のことを、
「一鉄」
という。これが諸国に流布し「一徹者」という言葉を日本語に加えたといわれているほどだから、稲葉一鉄の性格は推して知られるであろう。斎藤利三はこの同族で舅《しゅうと》で主人でもある一鉄をきらい、走っておなじ美濃出身の織田家の部将である光秀につかえた。光秀はこれを優遇し、明智家の中核的な司令官とし、つねに先鋒《せんぽう》をうけもたせた。
ところが斎藤利三に逃げられた一鉄は、おさまらない。例の性格で信長に訴えた。
信長は一鉄を敬遠しつつも、その頑固さを可笑《おか》しがるところがある。「承知した。光秀に言って返すようにしてやろう」と言い、光秀の顔をみるたびにそれを言った。
が、光秀も、斎藤利三ほどの才能を放したくないため、いい加減にその場をごまかし、信長のいうことをきかなかった。その間歳月が流れたが、稲葉一鉄はなおもあきらめず、信長のもとに伺《し》候《こう》するたびにそのことをいった。
信長はついにうるさくなった。一鉄の執拗《しつよう》さにも腹が立ったが、自分の言葉を用いぬ光秀にはより激しく腹が立った。
(あの仔《し》細顔《さいがお》め)
と思い、それを根にもった。
光秀が、進行中の丹波攻略の中間報告のため安《あ》土《ずち》城(すでに信長は、この琵琶湖東岸の地に南蛮風を加味した日本最大の巨城を築きつつあった)に行って信長に拝謁したとき、信長は情勢の進展については大いに上機嫌であった。丹波の諸士を新規に抱えたことについても大いに機嫌がよく、
「それはどんなやつだ」
と、顔つき、特技、性癖にいたるまで問いただし、大いにこの男の人間への興味を満足させたが、その直後、
「それほどおもしろい連中がそろった以上、内蔵助(斎藤利三)はもうよかろう。あいつを一鉄に返せ」
といった。
光秀はふたたび例の煮えきらぬ顔つきで、意味のないことをくどくど言いはじめた。
信長は、ついに激怒した。飛びあがるなり、
「十兵衛、汝《われ》は主《しゅう》の言うことがきけぬか」
と光秀の頭をつかみ、髻《もとどり》をとり、力まかせに突きとばした。光秀はあおむけざまにころび、しかしながら起きあがろうとした。そこを信長は脇差《わきざし》に手をかけて抜き打ちにしようとしたので、光秀は人に介添えされてその場を逃げた。
それでも光秀は、斎藤利三を放そうとはしなかった。
「生死は、汝とともにある。殺されてもそこもとを放さぬ」
と、利三にもいった。利三もこのことに感動し、光秀の言葉どおりの生涯《しょうがい》を終えた。
この光秀の家老斎藤利三の末娘が、徳川三代将軍の乳母《うば》として威福をふるった春日局《かすがのつぼね》であることは、以前に触れた。ちなみに稲葉正《まさ》則《のり》がかいた「春日局譜略」には、「春日局、幼名福。斎藤内蔵助利三の末女。母は稲葉刑《ぎょう》部少輔《ぶしょうゆう》通明の女也《むすめなり》」とある。
このあと、織田家の威武、光秀の徳望、藤孝の家柄、という三つの要素が、この山国のひとびとを大いにゆさぶり、あらそって帰服した。
光秀は、外交に専念した。それが信長の方針で、信長の場合、その苛《か》烈《れつ》な戦闘も外交の一部といっていい。光秀は陰翳《いんえい》のちがいはあるとはいえ、いつのまにか信長の方法を忠実に踏襲しはじめていた。
それに信長の貪婪《どんらん》なほどの嗜《し》好《こう》は、人材に対する興味であった。信長は人材とみるとひっさらうようにその傘《さん》下《か》に入れたが、光秀もこの方式をとった。
丹波にも、人材は居た。早くから帰服していた者、途中多少反抗の色を立てた者、あくまで抗戦した者をふくめて光秀はこれはという男を見ると、
「わが家に仕えませぬか」
と、この男の口癖で相手を十分に尊重しつつ、降人をも招聘《しょうへい》のかたちで持ちかけた。その光秀の態度に感激し、
(このひとこそ)
と、よろこんで桔梗紋《ききょうもん》の軍旗の下に馳《は》せ参じた者は、
四《し》王天《おうてん》又兵衛、並河掃部助《かもんのすけ》、萩野彦兵衛、波々伯《ははか》部権頭《べごんのかみ》、中沢豊《ぶん》後《ご》、酒井孫左衛門、加《か》治《じ》石《いわ》見《み》などであった。
光秀はこれらをそれぞれ侍大将格に起用し、とくに四王天又兵衛を重用した。
四王天又兵衛は、正しい家名は四《し》方田《ほうでん》と書き、但馬守《たじまのかみ》とも称した。無類の戦さ上手で、以前から光秀の下にあった明智弥平次光春、斎藤内《く》蔵助利三《らのすけとしみつ》とともに、
「明智の槍神《やりがみ》」
といわれた。
むろんこれらの帰服者の採用についてはいちいち信長に伺いを立てた。信長は機《き》嫌《げん》よくゆるした。明智軍団の強化は信長の統一事業に好影響をもたらすのである。
余談ながら、右の「槍神」の一人の斎藤利三は、光秀と同郷の美濃の人である。
斎藤道三は、一時利政《としまさ》と名乗っていた。いかにも似た姓名だが、むしろ道三のほうが美濃の名家斎藤家の家号を奪《と》ったわけだから、この斎藤利三のほうが美濃斎藤のいわば正札《しょうふだ》といっていい。
かつては、美濃安八《あんぱち》郡で五、六万石を領していた曾根《そね》城の城主稲葉一鉄《いってつ》に仕え、その侍大将をつとめていた。一鉄の稲葉家と斎藤利三とはもともと同族で、利三はその娘をさえもらっていたのである。
一鉄は最初は土岐家に、ついで道三に仕え、さらにいまでは信長に仕えている。織田家の家中では頑《がん》固《こ》者《もの》のことを、
「一鉄」
という。これが諸国に流布し「一徹者」という言葉を日本語に加えたといわれているほどだから、稲葉一鉄の性格は推して知られるであろう。斎藤利三はこの同族で舅《しゅうと》で主人でもある一鉄をきらい、走っておなじ美濃出身の織田家の部将である光秀につかえた。光秀はこれを優遇し、明智家の中核的な司令官とし、つねに先鋒《せんぽう》をうけもたせた。
ところが斎藤利三に逃げられた一鉄は、おさまらない。例の性格で信長に訴えた。
信長は一鉄を敬遠しつつも、その頑固さを可笑《おか》しがるところがある。「承知した。光秀に言って返すようにしてやろう」と言い、光秀の顔をみるたびにそれを言った。
が、光秀も、斎藤利三ほどの才能を放したくないため、いい加減にその場をごまかし、信長のいうことをきかなかった。その間歳月が流れたが、稲葉一鉄はなおもあきらめず、信長のもとに伺《し》候《こう》するたびにそのことをいった。
信長はついにうるさくなった。一鉄の執拗《しつよう》さにも腹が立ったが、自分の言葉を用いぬ光秀にはより激しく腹が立った。
(あの仔《し》細顔《さいがお》め)
と思い、それを根にもった。
光秀が、進行中の丹波攻略の中間報告のため安《あ》土《ずち》城(すでに信長は、この琵琶湖東岸の地に南蛮風を加味した日本最大の巨城を築きつつあった)に行って信長に拝謁したとき、信長は情勢の進展については大いに上機嫌であった。丹波の諸士を新規に抱えたことについても大いに機嫌がよく、
「それはどんなやつだ」
と、顔つき、特技、性癖にいたるまで問いただし、大いにこの男の人間への興味を満足させたが、その直後、
「それほどおもしろい連中がそろった以上、内蔵助(斎藤利三)はもうよかろう。あいつを一鉄に返せ」
といった。
光秀はふたたび例の煮えきらぬ顔つきで、意味のないことをくどくど言いはじめた。
信長は、ついに激怒した。飛びあがるなり、
「十兵衛、汝《われ》は主《しゅう》の言うことがきけぬか」
と光秀の頭をつかみ、髻《もとどり》をとり、力まかせに突きとばした。光秀はあおむけざまにころび、しかしながら起きあがろうとした。そこを信長は脇差《わきざし》に手をかけて抜き打ちにしようとしたので、光秀は人に介添えされてその場を逃げた。
それでも光秀は、斎藤利三を放そうとはしなかった。
「生死は、汝とともにある。殺されてもそこもとを放さぬ」
と、利三にもいった。利三もこのことに感動し、光秀の言葉どおりの生涯《しょうがい》を終えた。
この光秀の家老斎藤利三の末娘が、徳川三代将軍の乳母《うば》として威福をふるった春日局《かすがのつぼね》であることは、以前に触れた。ちなみに稲葉正《まさ》則《のり》がかいた「春日局譜略」には、「春日局、幼名福。斎藤内蔵助利三の末女。母は稲葉刑《ぎょう》部少輔《ぶしょうゆう》通明の女也《むすめなり》」とある。