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国盗り物語134

时间: 2020-05-25    进入日语论坛
核心提示:日向守《ひゅうがのかみ》 それほど残忍で狂暴かとおもうと、意外な面もこの男にはある。信長は美濃と近江の国境は何度となく越
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日向守《ひゅうがのかみ》

 それほど残忍で狂暴かとおもうと、意外な面もこの男にはある。
信長は美濃と近江の国境は何度となく越えてきているが、そのあたりに、
山中
という中山道《なかせんどう》ぞいの山村がある。関ケ原の西方にあたり、今須峠《いますとうげ》という峠道に沿っている。信長はそこを通るたびに、いつも同じ場所にすわっている一人の乞《こ》食《じき》をみた。
(なんだろう)
好奇心のつよいこの男は、それが気になった。なぜならば乞食は元来放浪するもので一つ所にすわっているものではない。
——理にあわぬ。
ということが、信長のもっとも気になるところだった。なぜこの乞食が、その本性であるべき放浪をせずにここに根がはえたように何年もすわっているのか、信長は通るたびに気になっていた。あるとき、
「村の年寄りをよべ」
と、手綱をひき、馬をとめた。やがて年寄りがふるえながらやってくると、信長は馬上からこの乞食の奇妙な生態について質問を発した。
「あっ、それは」
年寄りは安《あん》堵《ど》し、乞食についての豊富な知識を披《ひ》瀝《れき》した。この土地では右の乞食を、
——山中の猿《さる》。
とよび、人間扱いにはせず、家に住むことも許さないのだという。なぜといえば乞食の先祖が源平争乱のころ常盤《ときわ》御《ご》前《ぜん》を殺し奉り、そのむくいで代々あの一つ所ですわらざるをえぬはめになっているのだという。
「常盤御前をな」
信長はうなずいた。むかし源家の棟梁源義《とうりょうみなもとのよし》朝《とも》の妾《めかけ》だった常盤は義経《よしつね》を生んだことで史上に名を残したが、べつに殺されもせず大病にもかからず他家に再婚して平凡な生涯《しょうがい》を送っている。しかし聞く信長も話す村の年寄りも、史家の教養などはない。
「仏家の申す因果応報でござりまする」
「そうか、因果応報か」
信長は、感心したように頭をふった。この男は、来世の霊魂の存在を信ぜず、迷信を憎み、祈《き》祷《とう》を嘲笑《ちょうしょう》し、病的なほどに合理主義を信条としているくせに、因果応報という思想だけは耳に快くひびくたちだった。悪にはかならず報いがくる、という思想である。信長はそれを信じはしないが、しかし他人の不正を見れば奥歯をきりきりと噛《か》み鳴らして憎《ぞう》悪《お》するこの男には、小気味のいい言葉だったといっていい。
が、いまの場合、この「山中の猿」に興味がある。元来、少年のころから城下の庶民に立ちまじって遊ぶことのすきだったこの男は、庶民への関心が、尋常の大将とはくらべものにならぬほどに強い。
「可哀《かわい》そうなやつだ」
信長は叫び、やがて鞭《むち》を鳴らして去った。敵に対しては、たとえば朝倉義景・浅井長政の頭蓋骨を細工して酒杯にこしらえさせるほどに憎悪の深いこの男が、自分が庇護《ひご》すべき庶民に対してはそれとおなじ奥深い場所で憐《あわ》れみを感ずるたちであるらしい。
つぎにこの山中村を通ったとき、信長は馬から降り、小人頭《こびとがしら》の荷駄《にだ》を自分で解き、岐阜で用意した木綿二十反を馬の背からとりおろし、あきれたことに自分でかかえて歩きだした。
「村の者、男女とも、よう聞け」
と、信長は抱え歩きながら叫んだ。
「この木綿のうち、十反はあの猿にやれ。あとの十反で猿のために小屋を作ってやれ」
ぱっと路上に投げだし、そのまま馬に乗って過ぎ去った。
この木綿二十反を「山中の猿」に呉れてやったときの上洛《じょうらく》は、信長の生涯《しょうがい》のなかで劃《かっ》期《き》的なことがはじまろうとしていた。
京で、公卿《くげ》になるのである。くげ《・・》とは武家との対比の場合、公家《くげ》という。公卿という場合は三《さん》位《み》以上の朝臣をさし、摂政《せっしょう》、関白、大臣、大《だい》納《な》言《ごん》、中納言、参議を言う。信長はこのたびの上洛で、
「参議」
になるのである。平家以来、武家の出身で公卿そのものになる例はない。武家が天下の政治をとる場合、源頼朝の先例によって征《せい》夷《い》大将軍になり、幕府をひらき、それに付属して大臣の官称を得たりするが、じかに廷臣に列し公卿になってしまう例は、平家以外にはなかった。
信長は自身の権力をそのようにして合理化しようとしている。
(巧妙だ)
と、このとき、近江坂本城から織田家の上洛軍にくわわった光秀はおもった。なぜならば信長は征夷大将軍足利義昭を追って幕府をつぶした以上、いまここで織田幕府を樹《た》てることは六十余州の大名どもがゆるすまい。それに信長はかつては藤原氏を称していたが、いまは気がかわって平氏を称している。宮中の先例主義によれば征夷大将軍は源氏の出の者にしか授けられない。平氏を称してしまった以上、信長にはその資格がなく、資格がある者といえば、信長の同盟者の徳川家康であった。家康はかつて、藤原氏を私称していたが、いまでは新《にっ》田《た》義貞《よしさだ》の子孫と称し、源氏を公称しているのである。家康でなければ、明智光秀である。光秀の場合は信長や家康の家系のようなあいまいなものではなく、美濃源氏の嫡流《ちゃくりゅう》土岐家の支流として、かれが源氏であることは天下にかくれもない事実であった。
それはいい。光秀が信長の智謀に感心するのは、足利将軍家の大名であることをやめて天皇家の公卿になったことであった。往古、この国の統治者であったという天皇家の神聖をいまふたたび天下に知らしめ、天皇の神聖を背景に日本統一の事業を信長は進めようとしているらしくおもわれる。
織田軍は、上洛した。
信長はすぐ旅宿の相国寺《しょうこくじ》に入り、任官受爵《じゅしゃく》の準備にとりかかった。

朝廷ではすでに信長除《じ》目《もく》の準備はできている。この三月十二日、天皇は飛鳥《あすか》井《い》雅教《まさのり》を勅使として信長を従三位に叙し、参議に任じた。だけでなく信長の三人の子(信忠《のぶただ》、信雄《のぶかつ》、信《のぶ》孝《たか》)をそれぞれ正五位上《しょうごいのじょう》に叙した。
その翌日、すでにうわさにも聞こえ、光秀なども耳にしていたが、光秀ら十八人の織田家の幕将に対しても、それぞれ任官の沙汰《さた》があり、位がさずけられた。みな一様に従五位上である。むろん、信長自身の奏請によるものであった。
織田家譜代の家老では、
柴田権六勝家が、修理亮《しゅりのすけ》
林新五郎通勝《みちかつ》が、佐渡守
佐久間信盛が、右《う》衛門尉《えもんのじょう》 
丹羽五郎左衛門長秀が、越前守
 ということになり、新参の出頭人としては近江甲賀郡の賤《せん》士《し》のあがりの滝川一益《かずます》が、左《さ》近将監《こんしょうげん》になった。
十八人の将たちは、信長が選びぬいてこの位置まで昇《のぼ》せた者だけに、それぞれ軍事・政治の練達者だが、乱世の田舎育ちだけに、無学の者も多く、
「わが官名はなんと訓《よ》むのじゃ」
とさわぎまわって公卿たちの失笑を買っている手合いもある。
織田家の出頭人第一の木下藤吉郎は、このたび浅井家敗亡のあとの北近江の大半——二十数万石を信長からもらい、すでに南近江の領主である光秀と伍《ご》して、すでに堂々たる大名になっていたが、この男は、
筑前守
をもらった。なににせよ、田舎豪族どもが何の守《かみ》、何の尉《じょう》、何の将監《しょうげん》などと勝手に称しているのとはちがい、織田家の場合は天子から正式に頂戴《ちょうだい》した官位だけに、その値うち陸離として光っている。藤吉郎のばあいはこれほどの官位のつく身になった以上、木下の姓では軽すぎると思い、織田家の譜代の老臣の姓である柴田氏と丹羽氏の一字ずつをとり、羽《は》柴《しば》と改姓した。羽柴筑前守秀吉である。
明智十兵衛光秀は、
日向守
をもらった。しかも光秀の場合、信長が朝廷に奏請して姓を変えさせた。
惟任《これとう》
である。「惟任日向守源光秀《これとうひゅうがのかみみなもとのみつひで》」が光秀の正式の呼称になった。惟任というのは九州の古い豪族の姓で、戦国のこんにちではすでに存在していないが、九州の者がきけば、
——さほどの由緒《ゆいしょ》あるお血筋のお方か。
と錯覚するであろう。信長は将来九州征服を考えていたために、あらかじめその配慮で光秀に惟任を名乗らせたのである。その配慮による改姓は光秀だけではなかった。丹羽長秀には惟住《これずみ》と名乗らせ、中条将監には山澄《やまずみ》、塙《はなわ》九郎兵衛には原田姓を名乗らせた。もっともこの改姓は平素実際に用いよというものではない。
信長はこの相国寺滞在中、光秀をひそかに別室によび、重大なことを洩《も》らした。
「改姓、気に入ったか」
と、まず問うた。相変らず刺すような声調子だが、べつに悪気はないのであろう。光秀ははっと平伏し、重ねて礼をのべた。
そのくどくどしい礼の言上など、信長はきいていない。光秀の言葉の腰を折り、
「その改姓を祝して、そちに丹《たん》波《ば》一国を呉れてやろう」
といった。へへッ、と光秀は平伏したが、呉れてやるといっても丹波は無人の国ではなく、一国を統《す》べる者としてはまず波多野《はたの》氏が不抜の勢力をもっており、その他大小の豪族が山々谷々に蟠踞《ばんきょ》して、抜くべき城の数でも二十以上はあろう。信長はそれを斬り取りにせよ、というのである。
「何年かかるか」
「まず五、六年はかかろうかと存じまする」
「ふむ」
信長は、可とも不可ともいわなかった。織田家の全力をあげた近江平定戦でもあれだけの手間ひまがかかったのである。丹波平定戦は光秀一手となればそれだけの年数はかかるであろう。
それに、織田家の人の使い方からいけば光秀を丹波攻略に専念させておくはずがなく、その間ひんぱんに他の戦線へ転じさせるにちがいないため、光秀のいうがごとく最小限五、六年は必要とするであろう。
「帰って、支度せよ。それまでは口外するな」
と、信長はいった。当然なことで、この新方面への作戦が丹波に洩《も》れれば外交や作戦に支障をきたすにちがいない。
「心得ましてござりまする」
「申しておくが」
と、信長はいった。
「筑州(藤吉郎)には播州《ばんしゅう》から討ち入って中国一円を切り取れと命じてある」
(ほう)
光秀は、秀吉がいまや織田家の事実上の筆頭大将になっていると思った。中国の毛利氏といえば、かつての朝倉・浅井などと違い、山陽山陰十カ国の大領主であり、宛然《えんぜん》西の帝王の観をなしている。それを攻略する担当官が秀吉であるとすれば、たかだか丹波一国を担当させられる光秀とのあいだに大きな差がつけられているといっていい。すでに信長の才能評価は、一に羽柴秀吉、二に明智光秀、三に柴田勝家、四に滝川一益というところであろう。
「猿《さる》めは」
と、信長はくすくす笑った。
「五、六年で中国十カ国を降《くだ》してみせますると申しおった」
(猿め)
と、光秀は胸中、うめきあげた、光秀の見積りは一国で五、六年、秀吉の見積りは十国で五、六年——法螺《ほら》もいいかげんにせぬかと叫びたい。
「あれは大《たい》気《き》者《もの》よ。そちのような陰気者ではない。おそらく五、六年で片づけるだろう」
「上様」
参議になって、信長の尊称がかわった。
「それがしは、間違いなきところを申しあげたばかりでござりまする。それに陰気はそれがしの生れつきにて、いまさら筑前守の大気の真似《まね》はできませぬ。——真似をすれば」
「真似をすれば?」
信長は、あごをむけた。どうもこの光秀の長《なが》口《く》説《ぜつ》が、信長の気に入らない。
「どうだというのだ」
「とほうもない踏み外しをせぬともかぎりませぬ」
光秀は泣くようにいった。光秀にすれば堅実と緻《ち》密《みつ》さが持ち味なのである。それをわすれて鵜《う》が鷺《さぎ》のまねをすれば、とんでもないことを仕出かしかねぬ、というのだ。だから御容赦ありたいと光秀は懇願している。
信長はもう聴いていない。信長にすれば、自分が卒《そつ》伍《ご》のなかからひろいあげた秀吉、光秀という天才を、いやがうえにも煽《あお》りたてて競争場裡《じょうり》に立たせたいと思うだけである。
光秀は退出した。
ほどなく軍勢をまとめて京を去り、居城の近江坂本城に帰った。
帰城したその夜、妻のお槙《まき》に京でのさまざまな出来事を話した。日向守に任官したこと、丹波を斬り取りにせよと命じられたことなどを話すと、お槙は涙をこぼした。
「どうしたのだ」
「うれしいのでございます。昔の苦しい暮らしを偲《しの》びますると、いまは夢のようにしか思えませぬ」
「なんの、これしきは小功ぞ。かようなことで嬉《うれ》し涙をながしていては明智十兵衛の妻とはいえまい」
光秀は、妻にだけは大気者であるらしい。
この夜、光秀は閨《ねや》でお槙と寝物語をするうちに、わが身の評価が次第に大きくなってきた。
「考えてもみよ」
と、光秀はいうのである。織田家十八将はそれぞれ天下の豪傑ではあるが、所詮《しょせん》は戦場を馳駆《ちく》するだけの才にすぎない。自分のみはちがっている。美濃を出て諸国を流《る》浪《ろう》しているころから、へんぺんたる大名豪族に仕えて食禄《しょくろく》を得ることなどを考えず、いちずに、
——天下をどうするか。
ということをのみ考えてきた。何ごとを考えるについても、発想はつねに天下であった。足利幕府を復興させようとしたこともそうであった。そのようなことを、柴田、佐久間、滝川、羽柴のともがら《・・・・》は考えたことがあるか。
「もし考えた者があるとすれば、織田家では信長以外にない」
と、光秀はほとんど昂奮《こうふん》しきっていた。
「お槙よ」
光秀はいうのである。食禄とは所詮は餌《えさ》にすぎぬ。食禄を得んとして汲々《きゅうきゅう》たる者は鳥獣とかわらない。世間の多くは鳥獣である。織田家の十八将のほとんどもそうである。ただし自分のみはちがう。英雄とはわが食禄を思わず、天下を思うものをいうのだ、と光秀は言いつづけた。
「お槙、そうではないか」
「そうでございますとも」
お槙はさからわずにうなずいた。この夫は外で心気を労しきるために、内でこのような大言壮語を吐いてかろうじて心の平静を保とうとしているのであろう。
(聴いてやらねばならない)
と思い、お槙は光秀のいうどの言葉にもふかぶかとあいづちを打った。
光秀は、誰《たれ》にも洩らせぬ信長への憤懣《ふんまん》もお槙にだけは掻《か》き口説くように訴えた。藤吉郎を大気者といい、自分を陰気者といった信長の言葉も、お槙に伝えた。
「筑州めは、例のあいつの人蕩《ひとたら》しの一手で、中国十州を五、六年で奪《と》ると言上しおった。信長にはそれが好《う》いやつにみえるらしい。このおれが正直なことをいうと陰気、という。それほど大気者が好きなら、おれも筑州のやりざまで」
とまでいったとき、お槙はちょっと顔をあげた。この光秀が、その性格で筑前守のような手をやりだせば、どういう過誤を犯すかわからない。
「それだけはおやめなされませ。人はわが身の生まれついた性分々々で芸をしてゆくしか仕方がございませぬ」
お槙は、光秀を見た。
淡い行燈《あんどん》のあかりに照らし出された光秀の相貌《そうぼう》に、隈《くま》どったような濃い翳《かげ》がある。
「なんだ、お槙」
急に隈どりが崩れ、光秀はもとのこの男の顔にもどって微笑《わら》った。
「いや、お槙のいうとおりだ。わかっている」
小さな声で、光秀はいった。
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