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国盗り物語136

时间: 2020-05-25    进入日语论坛
核心提示:伊丹《いたみ》城 織田家の将領のなかで、荒木摂津守村重《せつつのかみむらしげ》という高官がいる。後世の用語でいえば方面軍
(单词翻译:双击或拖选)
伊丹《いたみ》城

 織田家の将領のなかで、
荒木摂津守村重《せつつのかみむらしげ》
という高官がいる。後世の用語でいえば方面軍司令官というべきであろう。このせつ、織田家の方面軍司令官といえば、北陸攻めの柴田勝家、中国攻めの羽柴秀吉、近畿を鎮《ちん》撫《ぶ》しつつ丹波を攻略する明智光秀、伊勢を鎮定しつつある滝川一益、大坂本願寺を囲む佐久間信盛、さらには摂津一国を担当する荒木村重、それに遊軍的存在の譜代の家老丹羽長秀などがいる。それぞれ信長から織田家直属の大小名を分けてもらい、それらを統轄《とうかつ》する高位置に立ち、いまやそれらの武名は天下を風《ふう》靡《び》しつつある。
素姓《すじょう》は、さまざまであった。
荒木村重も、
「一僕《いちぼく》の境涯《きょうがい》から取り立てられて」
と世間でいわれているほどだから、いわば夢のような出世を遂げている。
その荒木村重が謀《む》反《ほん》をくわだてている、という急報が信長のもとにきたのは、天正六年の秋、信長が北陸戦線を督励中のときであった。
「ふむ?」
上方《かみがた》からの急使の報告をききおわっても、平素反応の敏感な信長が、この一事にかぎって顔色も変えず、ただ小くびをひねりつづけている。
「なにかの間違いだろう。あの男がわしにむかってむほん《・・・》をおこすはずがない」
信長は信じかねている風《ふ》情《ぜい》だった。
とりあえず安土城に帰るべく北国街道を南下しているとき、近畿、山陽道担当にある諸将から村重の動静を知らせてきた。それらのいずれもが、
「謀反」
という結論であった。
(わからぬ。いったい、謀反をおこしそうな事情が村重にあるのか)
信長は、あれこれと考えてみた。が、よくわからない。あれほどよくしてやったのに謀反というのはどういうことであろう。事情がなっとくできぬとあれば、このするどすぎる感情のもちぬしにしてはめずらしく腹も立って来ないのである。
「何に不足があるのか、聞いてやれ」
と、丹波の戦線にいる光秀、京都の宮廷関係を担当している宮内卿《くないきょう》法印松井友閑《ゆうかん》に指令し、いそぎ荒木村重の居城伊丹城に信長名代として下《げ》向《こう》するように命じた。
その命を受けとった光秀は、いそぎ戦線をはなれ、京にゆき、松井友閑と連れ立って伊丹(兵庫県)へむかった。
「いったいどういう事情でござろう」
と松井友閑はいったが、光秀にもわからない。謀反をおこさねばならぬ材料は、荒木村重にはないのである。
たしかにわかっていることは、荒木村重は天文四年のうまれで生後四十三年になる。摂津の池田のあたりに住む牢人《ろうにん》の子だったと光秀はきいている。
摂津は、西国《さいごく》街道に面した名邑《めいゆう》である。この池田城主は遠い昔から地名を名乗る池田氏で、村重はこの家に仕え、二十代で頭角をあらわし、三十代で家老になり、みずから兵をひきいて近隣を切り取り、摂津茨木《いばらき》、摂津尼《あま》崎《がさき》の両城をうばい、この城の城主になり、勢いは主家を圧倒した。
足利義昭が信長の庇護《ひご》をうけた前後、池田家は在来足利将軍家と因縁がふかかったため、池田家の当主勝正は義昭をたすけ、その傘《さん》下《か》に入った。自然、荒木村重も義昭の系列に入り、幕臣になった。この点、村重は「新参の幕臣」という点で光秀と似ている。
信長は、池田・荒木の主従をみて家臣の荒木村重のほうがはるかに器量があると見、池田勝正の没後、その領地を村重にひきつがせ、京都から後援してその領土拡張を援《たす》けつつ、ついに摂津一国の宰領をさせるにいたった。この間《かん》、村重は信長の命により、旧主の遺族池田備後守《びんごのかみ》重成を麾下《きか》に組み入れている。
さらにこの間、村重は織田の援軍を借りて摂津伊丹城を攻め、伊丹氏を追い、この城下をもって摂津の首府とし、ここに居住した。
(たいそうな軍略家だ)
と、光秀は、旧幕臣系の同僚として村重をたのもしく思うようになっていた。
摂津における村重の家臣団には、高槻《たかつき》城主でクリスチャン名「ドン・ジュスト」で知られた高山右《う》近重友《こんしげとも》、槍《やり》の瀬兵衛として知られた茨木城主中川清秀など世にきこえた人材が多い。
(もしむほん《・・・》が確実とすれば、これはたいそうなことになる)
光秀は、織田家の戦略の立場から、この事態を心配した。
織田家は、多方面で作戦している。たとえば光秀が担当する丹波も、秀吉が担当する中国(さしあたっては播州)も佐久間信盛が担当する大坂本願寺も、摂津国(現在の大阪市、北摂地方、阪神間、神戸市の範囲)とそれぞれ境を接しており、あらゆる作戦に支障をきたすことになる。
かつ、積極的におびやかされる。
信長はこれより前に村重に命じて摂津花隈《はなくま》に海浜城を築かせ、大坂本願寺と播州の反織田勢力である三木氏との連絡を遮断《しゃだん》させたが、この花隈城が逆に織田戦略の脅威になってはねかえってくるであろう。
それだけではない。
「謀反」
というのは要するに、中国の毛利氏に寝返ることなのである。広島に本拠をもつこの山陰山陽の巨大な勢力は、播州の三木氏を最前線として織田氏と接触し、戦っている。いま摂津の荒木村重が寝返れば摂津が毛利氏の最前線となり、大坂の本願寺と連繋《れんけい》して毛利氏の戦力はとほうもなく巨大になるわけであった。
(毛利氏にはいい策士がいるらしい。荒木村重を寝返らせたというのは、あざやかすぎるほどの腕前だ)
光秀と松井友閑は、摂津伊丹の小さな城下町に入った。町の東に丘陵があり、土地の人は有岡山とよんでいる。城郭はその丘陵上にある。

「ご病気をなされたか」
光秀が思わず口走ったほど、この対面の座に出てきた荒木村重はやつれきっていた。
村重は元来戦さ上手な男だが、かといって粗豪な人物ではなく、茶道では利休七高足《しちこうそく》の一人に数えられるほどに堪能《たんのう》な男である。
「いや、病気はせぬ」
強《し》いて笑顔を作ろうとするのだが、それが微笑になりきらない。
(よほど、懊悩《おうのう》している)
とすれば、やはり謀反の風説はうそではなかったかもしれない。ちなみにこの風説の第一報を北陸の信長のもとに送ったのは、細川藤孝であった。
(謀反を思い立ったにしても、まだ決心がつかぬ段階らしい。決心がつけば、こうもやつれては居まい)
光秀はそう見、できれば思いとどまらせたかった。なぜかといえば、光秀の長女が、この荒木家の嫡男《ちゃくなん》新五郎村次のもとに昨年嫁《とつ》いでおり、姻戚《いんせき》関係にある。この荒木が寝返れば光秀は娘を敵として攻めなければならない。
「いろいろ風説が出ている」
光秀は、いった。
「しかし安土様(信長)は左様な風説はお信じもなされず、ご機《き》嫌《げん》もやわらかである。ただいちど見舞うてやれとおおせあったゆえ、このようにまかりこした。人の口の端《は》にのぼる不審の条々は一刻も早くお晴らしなさるがよい」
低い声で、じゅんじゅんと説いた。
「人の口の端にのぼる不審の条々」というのは、一つには村重の家来で、利をむさぼる者があり、兵糧《ひょうろう》にこまっている敵方の本願寺に米を売った者があること、それと、本願寺攻めの一角を村重が担当していながら、最近勝手にその陣を撤収してしまったことなどである。
「人の口には、戸が立てられぬ」
村重は苦笑していったが、実のところすでに毛利・本願寺方への加担を七分どおり心に決めかけている。
が、光秀は説いた。
たとえ謀反の風説が出たとて貴殿を信任しきっておられる安土様はなんとも思われぬ。以前、あれほどお気に入りの筑州(秀吉)でさえ御勘気をこうむったことがあり、そのときも謀反の風説が飛んだが、例の筑州流であ《・》っけらかん《・・・・・》とすごしていたために風説もやみ、安土様も御勘気を解かれた。その伝を用いられよ。
そのように説くと、まだ心がはげしく振幅している村重は、
(なるほどそうか)
とも思いはじめた。実のところ毛利方から密使がしきりと来ているが、いまならばもとの道へもどれそうである。信長がそういう機嫌なら戻《もど》ろうか、と思った。
ついに、
「身に覚えがございませぬ。逆心のお疑い、心外に存じまする、と、そのように申しあげてくれ」
といった。
光秀は吻《ほっ》とした。そのまま伊丹では一泊もせず、娘にも会わず、いそぎ城下を去り、途中、安土の信長まで急使を走らせた。
翌日、信長はその報告をうけとり、
「祝着《しゅうちゃく》」
と、左右にも笑顔をむけた。その笑顔が、やがては噂《うわさ》になって村重の耳に入ることを計算している。信長は北国で第一報を受けたときから、すでに一個の演技者であった。
(荒木村重はいずれは退治をする。しかしいま裏切らせてはすべての戦略が崩壊する。この時期、なんとしてでもつなぎとめなければならぬ)
例の激怒癖を発揮すれば、それが荒木の耳に伝わって彼は戦慄《せんりつ》し、彼をして一も二もなく敵へ走らせる結果になるであろう。
(そうはさせられぬ)
と、信長にすれば、この上機嫌は躍起の演技であった。この男の生涯《しょうがい》で天正六年秋の一時期ほど微笑をうかべつづけたことはなかったかもしれない。
信長が、その名代として光秀を伊丹城にやったことも、十分に計算しぬいた人選であった。光秀の性格は思慮ぶかく温和で小心である。そのうえ村重が姻戚とある以上、娘可愛さで必死にその謀反をとめようとするであろう。
「とにかく祝着である。疑いが晴れた以上、さっそくに安土へ参れ。物語などせよ。そう伝えよ」
と、伊丹の村重あて急使を差し立てた。さらに村重の母を人質として差し出せとも言いそえた。
その使いが伊丹へくだり、村重に口上を伝えると、村重は即座に、
「おおせのとおり、つかまつる」
と返事し、早速嫡子新五郎を連れて伊丹を出発し、途中茨木まできたとき、村重の家来茨木城主中川清秀が、
「それはどうでありましょうかな」
と、従弟《いとこ》の間柄《あいだがら》という心安さから機微に立ち入って忠告した。
「信長公の御性格は、人の非曲をあくまでもおゆるしにならぬ」
いったん謀反の疑いを持たれた以上、どのように陳弁しても無駄《むだ》である。安土へゆけば殺されるだけであろう。たとえいま殺されなくても、功を樹《た》て、用が済んだあと、昔の非曲をあばかれてついには殺されてしまう。
「こうなった以上、思いきって毛利氏に頼られよ」
そう言った。おりから茨木城にあつまっていた他の重臣の池田久左衛門、藤井加賀守、高山右近らも、清秀の意見に賛同した。
「なるほど」
村重はついに心を決し、そのまま伊丹城に帰り、籠城《ろうじょう》の支度をした。
そのとき、村重は嫡男の嫁である光秀の娘を離別し、人をつけて近江坂本の明智家まで送りかえしている。村重にすれば自分にあれほどの好意をみせてくれた光秀を、この謀逆《ぼうぎゃく》の巻きぞえにしたくなかったのである。
村重の叛《はん》意《い》は、あきらかになった。
(なぜ、あの男は織田家を裏切るのか)
と、光秀はなおもわからない。ただわかっていることは村重が顔つきに似あわず小心なことであった。風説に神経を労し、耐えきれなくなったのかもしれない。神経といえば、光秀同様織田家の外様である村重は、かねがね信長の性格に必要以上に気をつかい、ほとんど疲労しきっていたようにも思える。この点、子飼いの秀吉や柴田勝家は、信長の気質もよく知っており、甘えられるところは十分に甘えているようであるが、村重や光秀にはそれができない。
それにくらべると、中国の毛利家は、律《りち》義《ぎ》と大《たい》度《ど》をもって知られ、新参や降伏者に対しても、誠実で寛大であった。村重の疲労しきった神経では、つい毛利氏の寛闊《ひろやか》な家風に安らぎを覚える気持をおこしたのかもしれない……としか、傍観者の光秀には解釈の仕様がない。
一方、安土の信長は村重寝返りの報をきいても、なおも寛大さ《・・・》をつづけた。
播州姫路城にいる秀吉に対して、
「村重を慰留せよ」
と、指示した。秀吉はさっそく謀臣黒田官兵衛を伊丹城につかわしたが、すでに決心をかためている村重は翻心せず、かえって官兵衛を抑留し、城内の牢に投じた。
信長が兵をひきいて立ちあがったのは、第一報をきいた日から二カ月目の天正六年十一月の初旬であった。
が、なお兵力でこの「反乱」を解決することを避けた。織田家そのものが多方面作戦しているおりから、版図内での無用の戦火は外敵を利するだけであろう。
村重の幕下を、懐柔しようとした。高槻城主高山右近が無二の天主教徒であるところから、宣教師オルガンチノを派遣して説かせた。茨木城主の中川清秀に対しては、その親友たちを派遣して説得させた。
このため高山、中川のふたりは翻心して信長のもとに走り、村重は捨てられた。
このあと伊丹城は織田軍の重囲に落ち、やがて荒木村重のみは単身城を脱した。尼崎にゆき、さらに諸方を転々し、やがて中国の毛利氏のもとに奔《はし》った。主に捨てられた将士も、自然、城から消える者が多い。
光秀は一時期、この伊丹城包囲に参加していたが、途中信長の許しを得て丹波の戦線へ去り、この事変の後《ご》日譚《じつたん》を知ったのは、山々に雪が降りつもりはじめた翌年の十二月のことであった。
信長は、
「荒木村重の族類をみなごろしにせよ」
という命令によって、それまでおさえにおさえていた村重への憎しみをやっと表現した。
虐殺《ぎゃくさつ》の場所にえらばれたのは、摂津尼崎であった。その七松《ななまつ》という海浜に百以上の磔柱《はりつけばしら》を押し立てて臨時の刑場とし、その刑場へ伊丹城に籠《こも》っていた百二十二人の女房《にょうぼう》どもをひきだし、いっせいに磔柱にかけて刺殺した。
さらに彼女らが使用していた女奉公人三百八十八人、男奉公人百二十四人、計五百十二人を海岸の四軒の家に押しこめ、乾草を積みあげて焼き殺した。
(稀《き》代《だい》の悪王)
と、丹波高原の雪のなかにいる光秀はおもった。もし荒木村重があの娘を離別してくれなかったならば、娘もまた尼崎七松の浜で惨《ざん》殺《さつ》されていたことであろう。それを思うと、余人とはちがい、光秀には伊丹城の女どもの叫喚と怨《うら》みがそのままのなまなましさでひびきわたってくるようである。
同時にその加害者である信長の狂気を思うと、
(やりきれぬ)
という気持が募ってくる。荒木村重をしてあの不可解な謀反を思い立たせた言いようのない疲労が、光秀の心を滅入《めい》らせてくるようであった。
その夜、光秀は陣中に弥平次光春をよび、
「静を、どうであろう」
といった。静とは、荒木家に嫁《か》していた娘の名である。いま近江坂本にいるあの娘がこの事件をどう感じているか、光秀のいまの神経ではそれを臆測《おくそく》することに堪えられなかった。せめて静を、その幼少のころから知っているこの弥平次に嫁がせ、弥平次のいたわりのなかであとの半生を送らせたいと思うのみである。それを、光秀はむしろこの従弟《いとこ》に懇願するように頼んだ。
「殿の御《ぎょ》意《い》のままに」
弥平次は、自分のこの突然のよろこびをそのままに感ずるより、光秀と静御料人《ごりょうにん》の胸中を思う気持が先立つのか、顔をあげられずにいる。
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