いつのほどか、安土城下に、
無辺
と称する山伏《やまぶし》が住みつき、寺を借り、あやしげな修《ず》法《ほう》をおこなって城下の男女を多数集めている。
無辺は超人であるらしい。目《ま》のあたりに奇跡も顕《げん》じてみせるし、盲人でさえ無辺にかかってたちどころに目があいた、という評判がある。その修法は「丑《うし》ノ時《とき》大事の秘法」と称して深夜にやるらしく、日没ごろから男女が門前に詰めかけて小屋掛けまでできるという騒ぎだった。
「そんなに不思議の男か」
信長は、うわさをきいて首をひねった。信長の思想には霊魂もなく神仏もなく、まして不思議、奇妙、霊験《れいげん》ということがない。
が、探求心のつよすぎるこの男は、その無辺という超人に興味をもった。
「その者を、城へよべ」
と命じた。
無辺は、石場寺という山伏寺に身を寄せている。院主の名は、栄《えい》螺《ら》坊《ぼう》といった。使者を受けた栄螺坊は無辺をつれて安土山にのぼった。
むろん両人には身分がないため座敷はあたえられず、厩《うまや》の前の広場で待たされた。
やがて信長が出てきた。無辺を見てそろそろと近づき、やがて、
「無辺か」
問い、首をひねった。「つくづく御《ご》覧《ろう》じ、御思案の様体なり」と記録者は書いている。
(普通《ただ》の人間ではないか)
信長にはそう思えた。神仏ならばすこしでも異なったところがあるだろうと思い、無辺の顔の道具、皮膚の色、肩まで垂れた髪などをじろじろ見たり、背後にまわって背中をながめたりしたが、べつだん変わったところはない。
「生国《しょうごく》はどこだ」
信長はいった。無辺はここが自分の存在の売りどころと思い、
「生国など、ござりませぬ」
尊大に答えた。なみな人間ではないということを思わせたいがためであった。
「不審《いぶか》しきことを申すものかな。人間の生国はこの日本国の者でなければ唐人、さもなければ天竺《てんじく》人、この三国のどの生れでもないとすると、御坊はばけものであるか」
信長は怒っているわけではなく、小首をひねり好奇心をもって質《たず》ねている。無辺は乗じやすいとおもったのであろう、
——左様。
といわんばかりに微笑した。信長はついに実験してみようと思い、
「それならば炙《あぶ》ってみよう」
とつぶやき、左右の者に火刑の支度を命じた。ばけものなら当然、焼死することはないであろうと思ったのである。
無辺は、信長の研究が不足であった。火あぶりにされるのはかなわないと思い、あわてて、
「生国はござりまする。出羽《でわ》の羽黒と申すところでござりまする」
と言い直した。
「なんだ、汝《うぬ》はただのまやかし者か」
信長はここではじめて怒りだした。この点でも無辺は信長を知らなすぎた。信長のなによりも嫌《きら》いなのは、まやかし《・・・・》である。しかもそのまやかしをひっぱがすことに強烈な正義感をもっていた。叡山《えいざん》を「偽の仏法である」として伽《が》藍《らん》を焼きはらい、その僧俗三千人を斬《き》り殺したのも、この精神の発作であった。
しかも、信長の心はいささかも傷つかず、後悔もしていない。なぜならばすべては正義の行動であり、その正義は信長のもっともすきな言葉である、
——天下万民のため。
という政治的理想に根ざしている。すくなくとも信長はそう信じていた。
無辺に対する行動は、そのささやかなあらわれであった。
「こいつが神仏でも化物でもない証拠を、万民に見せてやれ」
と、信長は命じた。その見せしめの企画を信長は即座に考えた。髪をイガグリにし、頭のところどころを剃《そ》り散らして瘡《かさ》(梅毒)のように仕立てることであった。
それが仕あがると、
「へっ」
と、信長は悪童のように笑った。
無辺はその頭のままはだかにされ、足軽に縄尻《なわじり》をとられて城下を引きまわされた。そのあと命だけは助けられて放逐された。
ところが、あとでわかったことに無辺の悪事はそれだけではなかった。例の「丑《うし》ノ時《とき》大事の秘法」で、相手が女の場合、
——臍《へそ》くらべ。
というふざけた行《ぎょう》をしていたことが信長の耳に入った。信長にはそういうふざけかたが堪えられない。
「草の根を分けても無辺をさがし、この安土へ曳《ひ》いて来い」
と、諸国攻略中の司令官に対し、いっせいに命令をくだした。光秀も当然、その命令を受けとった。
(たかが、売僧《まいす》いっぴきの事に)
この異常さはどうであろう。光秀には、信長のそういう悪への憎《ぞう》悪《お》や、追及の執拗《しつよう》さに、神経の病む思いがした。まだ無辺程度の乞《こ》食《じき》坊主ならよいが、この同じ精神が織田家の武将にも発動されるおそれが十分ある。
げんに去年、つまり天正八年七月、信長はそのおそるべき発動を、譜代の家老である林通勝《みちかつ》にくだしている。通勝は信長が少年のころ、家中《かちゅう》の重臣《おとな》どもと諜《しめ》しあわせて弟の織田信行《のぶゆき》を立てようとした老臣だが、その後信長はゆるし、部将として休みもなく追い使い、朝廷に奏請して佐渡守にも任官させてやった。覚えめでたいはずであるのに、信長は去年、にわかにその世間も忘れたはずの通勝の古傷をあばき立て、
「二十四年前の旧悪だが、おれはいままで堪《かん》忍《にん》していた。もはや我慢しかねるゆえ、今日かぎり当家を出てゆけ」
と、身一つで追放してしまった。これには織田家の諸将は一様に鳴りをひそめ、
(いつ、われらも)
と、首のすくむ思いがした。
思えば、去年の天正八年は織田家にとってひさしぶりに雪の融《と》けたような年であった。ながい歳月、信長の恐怖であった上杉謙信はその前々年に死に、その前年には光秀の丹波攻略が完了し、この天正八年の四月には信長のもっともうるさい敵であった大坂の本願寺が降伏し、近畿は隈《くま》なく平定した。
——もはや林通勝も要らぬ。
というところであったろう。
(信長にすれば、諸将は道具にすぎない。不用になれば捨ててしまう)
光秀は、この林通勝事件のときに思った。
「道具にすぎぬ」
という光秀の観察はあたっているというべきであろう。なぜなら、あの跡目相続のとき(思いだすのも古すぎる話だが)、林通勝とともに織田信行擁立運動をしたという点では、いま北陸攻略の司令官をつとめている柴田勝家もそうであった。勝家が同罪であるにもかかわらず勝家のみがゆるされているのは、ただ一つの理由しか考えられない。勝家が有能な道具であり、通勝が無能な道具であっただけのことである。勝家はこのあといよいよ使われつづけるであろう。しかしやがては使い道がなくなるときがくる。
(そのときは、勝家も捨てられる)
そう光秀は思わざるをえない。いや、そのことは柴田勝家自身がもっともよく知っているであろう。
この信長の天下征服戦がやや一段落した天正八年には、いま一つ椿《ちん》事《じ》がおこっている。
林通勝、柴田勝家とならんで織田家の譜代の老臣であった佐久間信盛もにわかに禄《ろく》を剥《は》がれ、陣中から高《こう》野《や》山《さん》へ追放されたことである。
——どういうことか。
と、佐久間信盛もぼう然としたらしい。
この老将も、信長から酷使されてきた。元《げん》亀《き》三年には織田軍をひきいて三《み》方《かた》ケ原《はら》で武田信玄と戦い、天正三年には長篠《ながしの》の戦さに参加して武田勝頼と戦い、その前後は大坂本願寺攻囲戦の主務者として城外の付城《つけじろ》に籠《こも》って攻城戦を指揮しつづけてきた。
その本願寺攻めも、ぶじ落着した。むろんその功は、信盛などよりもときどき攻城戦を手伝わされた秀吉や光秀のほうがはるかに大きかったかもしれないが、とにかく信盛は攻城の主務者である。当然、落城とともにその前後五カ年の戦塵《せんじん》の苦労をねぎらわれてもいいであろう。
が、信長は労《ねぎら》わず、かわりにみずから筆をとって長文の「折檻書《せっかんしょ》」を書き、それを信盛父子(子は正勝)にたたきつけた。
この折檻書の写しは、光秀も読み、信長が人間のどの部分を愛し、どの部分を憎むかを、ありありと知った。
信長の文章はのっけから、
「お前たち父子は、五カ年も付城に在城していながら、善悪の働き、これ無し」
とある。「善悪の働き」というのは成功もせず失敗もせず、要するになにもしなかったということであろう。事実、信盛には多少怠惰な性格があり、そのうえくだらぬ不満をぼやく癖があった。信長の好《こう》悪《お》からいえば、働き嫌いの愚痴屋ほどきらいなものはない。
信長は文中、
「光秀、秀吉をみよ」
と、信長のもっとも好む働き者の典型としてまずこの二人をあげている。
「光秀の丹波における働きは、天下に面目を施したものである。次に」
と、秀吉は二番目に書かれている。「藤吉郎は数カ国を相手にまわしての働き、比類がない」とつづく。
さらに池田恒興《つねおき》(勝入《しょうにゅう》)の花隈城《はなくまじょう》での功績をたたえ、柴田勝家の北陸攻略のめざましい活躍ぶりに触れている。
「しかるにお前はなにもせぬ。合戦が下手なら調略(謀略)という手もある。調略にはむろん工夫が必要だ。その工夫が思いつかねばおれのもとに来れば教えてやるのに、過去五カ年のあいだ、一度もそれを相談しにきたこともない」
この点、秀吉は早くから信長のこの気質を見ぬき、前線から大小となく相談を持ちかけてきている。佐久間信盛は織田家代々の老臣だけに信長をつい軽んじ、それをしなかったのであろう。
信長はさらに佐久間信盛の性格を攻撃した。けちんぼう《・・・・・》で金を愛する、というのである。
「悋《しわ》き貯《たくわ》えばかりを本《もと》とする」
と、信長は書いた。
なるほど信盛はその癖があった。信長が領地をふやしてやっても、侍を召し抱えない。抱えると、その分だけ信盛の減収になるからである。
信長は、いう。
「お前は吝嗇《りんしょく》なために古い家来に加増もしてやらぬ。そのため人もあつまって来ない。人数もそろい、有能な家来を多く持っておれば、少々お前が無能でもこれほどの落度もあるまいのに、貯えこむばかりが能なために天下の面目を失うた。こういうぶざまで、不名誉は、唐土、高麗《こうらい》、南蛮にも例がないであろう」
さらに信長は、信盛の息子の甚九郎正勝に対しても言及しているが、もはや筆もくたびれたのか「その愚行をいちいち書き並べてもよいが、もう筆にも墨にも及びがたい」書くのもめんどうである——というのであろう。
「大まわしに積り候《そうら》えば(大ざっぱにのベると)第一、慾深く気むさく、よき人をも抱えず」
と、息子に対しても親の信盛への言葉と似た批判をくだしている。
この判決が、
「父子とも、頭を剃って高野山へゆけ」
というのであった。この処置で信盛父子は高野山に追いあげられたが、信長の憎しみはさらに深くなり、
「高野山にも住んではならぬ。どこへとも足にまかせて逐電《ちくでん》せよ」
と、命令を変えた。信盛父子は草履一足をはいて熊《くま》野《の》の奥に逃げこんでいる。
無辺
と称する山伏《やまぶし》が住みつき、寺を借り、あやしげな修《ず》法《ほう》をおこなって城下の男女を多数集めている。
無辺は超人であるらしい。目《ま》のあたりに奇跡も顕《げん》じてみせるし、盲人でさえ無辺にかかってたちどころに目があいた、という評判がある。その修法は「丑《うし》ノ時《とき》大事の秘法」と称して深夜にやるらしく、日没ごろから男女が門前に詰めかけて小屋掛けまでできるという騒ぎだった。
「そんなに不思議の男か」
信長は、うわさをきいて首をひねった。信長の思想には霊魂もなく神仏もなく、まして不思議、奇妙、霊験《れいげん》ということがない。
が、探求心のつよすぎるこの男は、その無辺という超人に興味をもった。
「その者を、城へよべ」
と命じた。
無辺は、石場寺という山伏寺に身を寄せている。院主の名は、栄《えい》螺《ら》坊《ぼう》といった。使者を受けた栄螺坊は無辺をつれて安土山にのぼった。
むろん両人には身分がないため座敷はあたえられず、厩《うまや》の前の広場で待たされた。
やがて信長が出てきた。無辺を見てそろそろと近づき、やがて、
「無辺か」
問い、首をひねった。「つくづく御《ご》覧《ろう》じ、御思案の様体なり」と記録者は書いている。
(普通《ただ》の人間ではないか)
信長にはそう思えた。神仏ならばすこしでも異なったところがあるだろうと思い、無辺の顔の道具、皮膚の色、肩まで垂れた髪などをじろじろ見たり、背後にまわって背中をながめたりしたが、べつだん変わったところはない。
「生国《しょうごく》はどこだ」
信長はいった。無辺はここが自分の存在の売りどころと思い、
「生国など、ござりませぬ」
尊大に答えた。なみな人間ではないということを思わせたいがためであった。
「不審《いぶか》しきことを申すものかな。人間の生国はこの日本国の者でなければ唐人、さもなければ天竺《てんじく》人、この三国のどの生れでもないとすると、御坊はばけものであるか」
信長は怒っているわけではなく、小首をひねり好奇心をもって質《たず》ねている。無辺は乗じやすいとおもったのであろう、
——左様。
といわんばかりに微笑した。信長はついに実験してみようと思い、
「それならば炙《あぶ》ってみよう」
とつぶやき、左右の者に火刑の支度を命じた。ばけものなら当然、焼死することはないであろうと思ったのである。
無辺は、信長の研究が不足であった。火あぶりにされるのはかなわないと思い、あわてて、
「生国はござりまする。出羽《でわ》の羽黒と申すところでござりまする」
と言い直した。
「なんだ、汝《うぬ》はただのまやかし者か」
信長はここではじめて怒りだした。この点でも無辺は信長を知らなすぎた。信長のなによりも嫌《きら》いなのは、まやかし《・・・・》である。しかもそのまやかしをひっぱがすことに強烈な正義感をもっていた。叡山《えいざん》を「偽の仏法である」として伽《が》藍《らん》を焼きはらい、その僧俗三千人を斬《き》り殺したのも、この精神の発作であった。
しかも、信長の心はいささかも傷つかず、後悔もしていない。なぜならばすべては正義の行動であり、その正義は信長のもっともすきな言葉である、
——天下万民のため。
という政治的理想に根ざしている。すくなくとも信長はそう信じていた。
無辺に対する行動は、そのささやかなあらわれであった。
「こいつが神仏でも化物でもない証拠を、万民に見せてやれ」
と、信長は命じた。その見せしめの企画を信長は即座に考えた。髪をイガグリにし、頭のところどころを剃《そ》り散らして瘡《かさ》(梅毒)のように仕立てることであった。
それが仕あがると、
「へっ」
と、信長は悪童のように笑った。
無辺はその頭のままはだかにされ、足軽に縄尻《なわじり》をとられて城下を引きまわされた。そのあと命だけは助けられて放逐された。
ところが、あとでわかったことに無辺の悪事はそれだけではなかった。例の「丑《うし》ノ時《とき》大事の秘法」で、相手が女の場合、
——臍《へそ》くらべ。
というふざけた行《ぎょう》をしていたことが信長の耳に入った。信長にはそういうふざけかたが堪えられない。
「草の根を分けても無辺をさがし、この安土へ曳《ひ》いて来い」
と、諸国攻略中の司令官に対し、いっせいに命令をくだした。光秀も当然、その命令を受けとった。
(たかが、売僧《まいす》いっぴきの事に)
この異常さはどうであろう。光秀には、信長のそういう悪への憎《ぞう》悪《お》や、追及の執拗《しつよう》さに、神経の病む思いがした。まだ無辺程度の乞《こ》食《じき》坊主ならよいが、この同じ精神が織田家の武将にも発動されるおそれが十分ある。
げんに去年、つまり天正八年七月、信長はそのおそるべき発動を、譜代の家老である林通勝《みちかつ》にくだしている。通勝は信長が少年のころ、家中《かちゅう》の重臣《おとな》どもと諜《しめ》しあわせて弟の織田信行《のぶゆき》を立てようとした老臣だが、その後信長はゆるし、部将として休みもなく追い使い、朝廷に奏請して佐渡守にも任官させてやった。覚えめでたいはずであるのに、信長は去年、にわかにその世間も忘れたはずの通勝の古傷をあばき立て、
「二十四年前の旧悪だが、おれはいままで堪《かん》忍《にん》していた。もはや我慢しかねるゆえ、今日かぎり当家を出てゆけ」
と、身一つで追放してしまった。これには織田家の諸将は一様に鳴りをひそめ、
(いつ、われらも)
と、首のすくむ思いがした。
思えば、去年の天正八年は織田家にとってひさしぶりに雪の融《と》けたような年であった。ながい歳月、信長の恐怖であった上杉謙信はその前々年に死に、その前年には光秀の丹波攻略が完了し、この天正八年の四月には信長のもっともうるさい敵であった大坂の本願寺が降伏し、近畿は隈《くま》なく平定した。
——もはや林通勝も要らぬ。
というところであったろう。
(信長にすれば、諸将は道具にすぎない。不用になれば捨ててしまう)
光秀は、この林通勝事件のときに思った。
「道具にすぎぬ」
という光秀の観察はあたっているというべきであろう。なぜなら、あの跡目相続のとき(思いだすのも古すぎる話だが)、林通勝とともに織田信行擁立運動をしたという点では、いま北陸攻略の司令官をつとめている柴田勝家もそうであった。勝家が同罪であるにもかかわらず勝家のみがゆるされているのは、ただ一つの理由しか考えられない。勝家が有能な道具であり、通勝が無能な道具であっただけのことである。勝家はこのあといよいよ使われつづけるであろう。しかしやがては使い道がなくなるときがくる。
(そのときは、勝家も捨てられる)
そう光秀は思わざるをえない。いや、そのことは柴田勝家自身がもっともよく知っているであろう。
この信長の天下征服戦がやや一段落した天正八年には、いま一つ椿《ちん》事《じ》がおこっている。
林通勝、柴田勝家とならんで織田家の譜代の老臣であった佐久間信盛もにわかに禄《ろく》を剥《は》がれ、陣中から高《こう》野《や》山《さん》へ追放されたことである。
——どういうことか。
と、佐久間信盛もぼう然としたらしい。
この老将も、信長から酷使されてきた。元《げん》亀《き》三年には織田軍をひきいて三《み》方《かた》ケ原《はら》で武田信玄と戦い、天正三年には長篠《ながしの》の戦さに参加して武田勝頼と戦い、その前後は大坂本願寺攻囲戦の主務者として城外の付城《つけじろ》に籠《こも》って攻城戦を指揮しつづけてきた。
その本願寺攻めも、ぶじ落着した。むろんその功は、信盛などよりもときどき攻城戦を手伝わされた秀吉や光秀のほうがはるかに大きかったかもしれないが、とにかく信盛は攻城の主務者である。当然、落城とともにその前後五カ年の戦塵《せんじん》の苦労をねぎらわれてもいいであろう。
が、信長は労《ねぎら》わず、かわりにみずから筆をとって長文の「折檻書《せっかんしょ》」を書き、それを信盛父子(子は正勝)にたたきつけた。
この折檻書の写しは、光秀も読み、信長が人間のどの部分を愛し、どの部分を憎むかを、ありありと知った。
信長の文章はのっけから、
「お前たち父子は、五カ年も付城に在城していながら、善悪の働き、これ無し」
とある。「善悪の働き」というのは成功もせず失敗もせず、要するになにもしなかったということであろう。事実、信盛には多少怠惰な性格があり、そのうえくだらぬ不満をぼやく癖があった。信長の好《こう》悪《お》からいえば、働き嫌いの愚痴屋ほどきらいなものはない。
信長は文中、
「光秀、秀吉をみよ」
と、信長のもっとも好む働き者の典型としてまずこの二人をあげている。
「光秀の丹波における働きは、天下に面目を施したものである。次に」
と、秀吉は二番目に書かれている。「藤吉郎は数カ国を相手にまわしての働き、比類がない」とつづく。
さらに池田恒興《つねおき》(勝入《しょうにゅう》)の花隈城《はなくまじょう》での功績をたたえ、柴田勝家の北陸攻略のめざましい活躍ぶりに触れている。
「しかるにお前はなにもせぬ。合戦が下手なら調略(謀略)という手もある。調略にはむろん工夫が必要だ。その工夫が思いつかねばおれのもとに来れば教えてやるのに、過去五カ年のあいだ、一度もそれを相談しにきたこともない」
この点、秀吉は早くから信長のこの気質を見ぬき、前線から大小となく相談を持ちかけてきている。佐久間信盛は織田家代々の老臣だけに信長をつい軽んじ、それをしなかったのであろう。
信長はさらに佐久間信盛の性格を攻撃した。けちんぼう《・・・・・》で金を愛する、というのである。
「悋《しわ》き貯《たくわ》えばかりを本《もと》とする」
と、信長は書いた。
なるほど信盛はその癖があった。信長が領地をふやしてやっても、侍を召し抱えない。抱えると、その分だけ信盛の減収になるからである。
信長は、いう。
「お前は吝嗇《りんしょく》なために古い家来に加増もしてやらぬ。そのため人もあつまって来ない。人数もそろい、有能な家来を多く持っておれば、少々お前が無能でもこれほどの落度もあるまいのに、貯えこむばかりが能なために天下の面目を失うた。こういうぶざまで、不名誉は、唐土、高麗《こうらい》、南蛮にも例がないであろう」
さらに信長は、信盛の息子の甚九郎正勝に対しても言及しているが、もはや筆もくたびれたのか「その愚行をいちいち書き並べてもよいが、もう筆にも墨にも及びがたい」書くのもめんどうである——というのであろう。
「大まわしに積り候《そうら》えば(大ざっぱにのベると)第一、慾深く気むさく、よき人をも抱えず」
と、息子に対しても親の信盛への言葉と似た批判をくだしている。
この判決が、
「父子とも、頭を剃って高野山へゆけ」
というのであった。この処置で信盛父子は高野山に追いあげられたが、信長の憎しみはさらに深くなり、
「高野山にも住んではならぬ。どこへとも足にまかせて逐電《ちくでん》せよ」
と、命令を変えた。信盛父子は草履一足をはいて熊《くま》野《の》の奥に逃げこんでいる。
この信盛に対する処置も、乞食坊主の無辺に対する処置もおなじであった。
諸国在陣の諸将にさがさせ、ついに無辺を捕り搦《から》めて安土に送って来させた。
この愚にもつかぬ臍くらべの売僧《まいす》を信長みずからが取り調べ、面《めん》罵《ば》し、
「斬れ」
と命じ、首を刎《は》ねさせている。「天下万民の道徳をただす」というところに信長の気持があるにしても、そのしつこさは世の常とはいえない。
さらに。
と、光秀は思う。この天正九年三月におこった事件についてである。
信長は三月十日、急に思い立って小姓五、六騎を連れ、それだけの人数で安土城の城門を飛び出し、三十キロ北方の長浜にむかって騎走した。
この騎走こそ信長の少年のころからの娯楽であったが、満四十七になってもこの楽しみだけは衰えない。
長浜は秀吉の居城である。信長は城下に入るや、
「竹《ちく》生《ぶ》島《じま》に詣《まい》るゆえ、船を支度せよ」
と、城に命じた。城主秀吉は中国の陣に出征して不在であったが、その妻の寧々《ねね》が宰領して船を出した。
竹生島までは、湖上十二キロである。羽柴では信長の快速好きを心得ているため、とくに櫓《ろ》数《かず》の多い船を出し、選《え》りぬきの漕《こ》ぎ手に漕がせた。
信長は竹生島につくや、島内でほんのわずか休息し、再び船で長浜に戻《もど》った。
——長浜ではお城にお泊りであろう。
と思ったのは、安土城の信長付の女中たちである。彼女らはこの日を幸い、御殿を出て二ノ丸で遊んだり、城下の桑実《そうじつ》寺《じ》や薬師寺などに物詣《ものもう》でに出たりした。
当然であろう。安土から湖上の竹生島まで水陸あわせて往復八十余キロある。まさか信長が日帰りで帰城するとは思わなかった。
が、信長は長浜に上陸するや、ふたたび鞭《むち》をあげて南下し、陽《ひ》のあるうちに城門に駈《か》けこんだ。
が、女中たちは居ない。
「その懈《げ》怠《たい》、ゆるせぬ」
と、信長は幕下に命じ、無断で外出した女中のすべてを捕縛させようとした。この種のまやかし《・・・・》、暇盗みほど信長の好まざるところはない。
捕縛したことごとくを斬罪《ざんざい》に処したが、なお桑実寺に出かけた者たちは帰らず、寺の長老が彼女らのために詫《わ》びにやってきた。
「かような罪を詫びるなら、御坊も同罪である」
といって長老の首を刎ね、寺に籠《こも》る女中どもをひきださせ、同じく首を刎ねた。
諸国在陣の諸将にさがさせ、ついに無辺を捕り搦《から》めて安土に送って来させた。
この愚にもつかぬ臍くらべの売僧《まいす》を信長みずからが取り調べ、面《めん》罵《ば》し、
「斬れ」
と命じ、首を刎《は》ねさせている。「天下万民の道徳をただす」というところに信長の気持があるにしても、そのしつこさは世の常とはいえない。
さらに。
と、光秀は思う。この天正九年三月におこった事件についてである。
信長は三月十日、急に思い立って小姓五、六騎を連れ、それだけの人数で安土城の城門を飛び出し、三十キロ北方の長浜にむかって騎走した。
この騎走こそ信長の少年のころからの娯楽であったが、満四十七になってもこの楽しみだけは衰えない。
長浜は秀吉の居城である。信長は城下に入るや、
「竹《ちく》生《ぶ》島《じま》に詣《まい》るゆえ、船を支度せよ」
と、城に命じた。城主秀吉は中国の陣に出征して不在であったが、その妻の寧々《ねね》が宰領して船を出した。
竹生島までは、湖上十二キロである。羽柴では信長の快速好きを心得ているため、とくに櫓《ろ》数《かず》の多い船を出し、選《え》りぬきの漕《こ》ぎ手に漕がせた。
信長は竹生島につくや、島内でほんのわずか休息し、再び船で長浜に戻《もど》った。
——長浜ではお城にお泊りであろう。
と思ったのは、安土城の信長付の女中たちである。彼女らはこの日を幸い、御殿を出て二ノ丸で遊んだり、城下の桑実《そうじつ》寺《じ》や薬師寺などに物詣《ものもう》でに出たりした。
当然であろう。安土から湖上の竹生島まで水陸あわせて往復八十余キロある。まさか信長が日帰りで帰城するとは思わなかった。
が、信長は長浜に上陸するや、ふたたび鞭《むち》をあげて南下し、陽《ひ》のあるうちに城門に駈《か》けこんだ。
が、女中たちは居ない。
「その懈《げ》怠《たい》、ゆるせぬ」
と、信長は幕下に命じ、無断で外出した女中のすべてを捕縛させようとした。この種のまやかし《・・・・》、暇盗みほど信長の好まざるところはない。
捕縛したことごとくを斬罪《ざんざい》に処したが、なお桑実寺に出かけた者たちは帰らず、寺の長老が彼女らのために詫《わ》びにやってきた。
「かような罪を詫びるなら、御坊も同罪である」
といって長老の首を刎ね、寺に籠《こも》る女中どもをひきださせ、同じく首を刎ねた。
この変事を光秀がきいたのは、彼が細川藤孝に招かれて丹後(京都府北部)に遊びに出かけている旅先においてであった。
藤孝はこのころには信長から丹後を貰《もら》い、宮津城を居城としていた。
「丹後は名勝が多い。一度ゆるりとあそびに来られよ」
と藤孝はかねがね光秀を誘っていたが、この三月の京の馬揃《うまぞろ》え(観兵式)もぶじに済んだので、光秀は連歌師の里村紹巴《しょうは》をさそい、日本海岸に旅行したのである。
多年、諸国を駈けまわり戦場から戦場へ転々としてきた織田家の武将とすれば、このつかのまの遊《ゆ》山《さん》こそかつてない閑日月であった。
藤孝は光秀を宮津湾のなかの景勝天《あま》ノ橋立《はしだて》にさそい、そこで連歌の宴を催した。
宴なかばでその風聞をきいたのである。
そのあと、光秀は急に歌を詠《よ》みやめ、暗い表情で思案した。
「どうなされました」
宗匠の紹巴がいった。
「いや」
光秀は言葉を濁した。光秀がふとおそれたのは、このように居城を離れ、他人の領地で連歌などを作っている所行を信長に知られればどうなるであろうということであった。女中が信長の不在中、御殿をわずかに離れたというだけでも殺されるとすれば、光秀の罪はさらに大きい。
(信長は、どう言いがかりをつけてくるかわからぬ)
光秀の神経は、すでに病んでいる。
「急に用を思いだしたので」
と、ひどくおびえた表情で藤孝や紹巴に言いわけし、その夜のうちに発《た》って丹後・丹波百キロの山中を踏破しつつ、三日目に亀山《かめやま》に帰城した。
藤孝はこのころには信長から丹後を貰《もら》い、宮津城を居城としていた。
「丹後は名勝が多い。一度ゆるりとあそびに来られよ」
と藤孝はかねがね光秀を誘っていたが、この三月の京の馬揃《うまぞろ》え(観兵式)もぶじに済んだので、光秀は連歌師の里村紹巴《しょうは》をさそい、日本海岸に旅行したのである。
多年、諸国を駈けまわり戦場から戦場へ転々としてきた織田家の武将とすれば、このつかのまの遊《ゆ》山《さん》こそかつてない閑日月であった。
藤孝は光秀を宮津湾のなかの景勝天《あま》ノ橋立《はしだて》にさそい、そこで連歌の宴を催した。
宴なかばでその風聞をきいたのである。
そのあと、光秀は急に歌を詠《よ》みやめ、暗い表情で思案した。
「どうなされました」
宗匠の紹巴がいった。
「いや」
光秀は言葉を濁した。光秀がふとおそれたのは、このように居城を離れ、他人の領地で連歌などを作っている所行を信長に知られればどうなるであろうということであった。女中が信長の不在中、御殿をわずかに離れたというだけでも殺されるとすれば、光秀の罪はさらに大きい。
(信長は、どう言いがかりをつけてくるかわからぬ)
光秀の神経は、すでに病んでいる。
「急に用を思いだしたので」
と、ひどくおびえた表情で藤孝や紹巴に言いわけし、その夜のうちに発《た》って丹後・丹波百キロの山中を踏破しつつ、三日目に亀山《かめやま》に帰城した。