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国盗り物語138

时间: 2020-05-25    进入日语论坛
核心提示:甲斐《かい》 その翌年の天正十年、光秀はすでに数えて五十五になる。織田家に仕えて十数年、兵《へい》馬《ば》倥偬《こうそう
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甲斐《かい》

 その翌年の天正十年、光秀はすでに数えて五十五になる。織田家に仕えて十数年、兵《へい》馬《ば》倥偬《こうそう》の間《かん》にあけくれて自分の齢《よわい》を思うひまさえなかったが、ちかごろ心気の衰えを感ずるにつけて、
(もう、そのような齢か)
と、わが身のことながらおどろかざるをえない。もともと、健康なほうでもなかった。天正四年五月には大坂石山本願寺攻めの陣中で病み、一時は重態におちいり、京へ後送されたこともある。このとき日本一の名医といわれる曲名瀬《まなせ》道三《どうさん》の治療を受け、あやうく一命をとりとめた。この年の暮、妻のお槙《まき》も病み、光秀の予後も思わしくなかったが、翌年春には病みあがりの身で、紀州攻めに参加している。その後、五、六年たつが、この大病のあとの養生のわるさと、なが年の野戦生活がたたったのか、このごろの衰えは尋常ともおもえない。
心気が衰えたためか、熟睡できたと思えることが一夜もなく、夜中、絶えず夢を見、声を発し、うつつ《・・・》とも知れない。
(そのせいか。——)
と思われる奇妙なことがあった。はじめは、夢のなかの出来事かと思った。
前《さきの》将軍義昭が、光秀の丹波亀山城に忍んできたのである。
その来訪を光秀の寝所まで取り次いだのは、弥平次光春であった。
「客殿へお迎え申せ」
光秀は床の上に起きあがり、そう命じた。そのまま再び倒れ、浅いねむりを続けた。朝、目が醒《さ》めてから激しく頭痛がし、昨夜の夢見をおもいだした。
(将軍《くぼう》様の夢をみた)
床の上で、ぼう然とした。天正元年、義昭が信長に追われ、将軍の地位からおちて以来ひと昔になる。義昭は、その後広島に奔《はし》り、毛利家に身をよせているが、なおも天下の夢がわすれられず、諸方に密使を出して反織田同盟結成に躍起となった。
が、そのせっかくの構想もつぎつぎとくずれた。武田信玄、上杉謙信が相ついで死に、本願寺は膝《ひざ》を屈して信長と和《わ》睦《ぼく》し、紀州雑《さい》賀《が》の地侍集団も力弱まり、いまや頼むは中国十州の王者というべき毛利家だけであった。
その毛利家には、覇気《はき》がない。創業者元就《もとなり》の遺言によって覇気を禁物としている家風でもある。
いま毛利家はその自衛上、信長の中国担当司令官である羽柴秀吉と播州《ばんしゅう》(兵庫県)で戦っているが、もともと天下を争う気がないため戦いぶりに伸びがなく、信長・秀吉の打つ手からみれば、後手《ごて》々々にまわっているかっこうであった。
義昭は、その毛利家の督戦者になっている。居候《いそうろう》ながらも城内に御殿をあたえられ、当主の輝元をよびつけ、ずけずけと命令をくだしていた。毛利家にしても名目もなしに防戦をつづけているよりも、「将軍の御教書を拝し、逆賊信長を討つ」というほうが幾分なりとも有利であり、戦士たちの精神的支柱にもなりえている。義昭はこの機微を察し、二十九歳の毛利家の当主輝元を、
「副将軍」
と称せしめていた。毛利家の将士にすれば、それは多少とも誇らかなことであったろう。
(お気の毒なお人だ)
と、光秀も、義昭のそういう近況をきくにつけ、そう思っていた。事に破れた以上、世を捨てて、もとの僧になればいいのに、義昭の執拗《しつよう》さは、もはや体質的なものであるらしい。
(あの方にとっては、休みなく陰謀をつづけるということが、生き甲斐なのかもしれない)
その点で、おもしろい人物だと思う。しかし光秀当人にすれば面白《おもしろ》がれる相手ではない。以前の主人であり、いまの主人信長の最も厄《やっ》介《かい》な敵なのである。信長にすれば足利義昭が山陽道の一角で陰謀活動をつづけているかぎり、主を放逐した罪の痛みは当然あってしかるべきであろう。
義昭をすてて信長に与《くみ》せざるをえなかった光秀の心の痛みも歳月とともに薄らぎはしたが、それでもできるだけ義昭のことを思い出さぬようにしていた。
が、夢には見る。
夢には容赦なく義昭は現われてきた。それも、齢をかさねるにつれて頻《しき》りと見るようになったのは、どういうことであろう。
「弥平次、将軍様がお出ましになった夢をみた」
と、光秀は居室でいった。
弥平次は、首をひねっている。実はそのことについて督促にやってきたのである。
「殿、お夢ではございませぬ。昨夜、将軍様のお使いが忍んで見えられ、その旨《むね》を殿に申しあげますると、客殿にお迎え申せ、とたしかにおおせられましてござりまする」
「わしが?」
光秀は信じられぬ様子であった。が、だんだん弥平次からそのときの様子をきくと、どうやら現実《うつつ》で、光秀は起きあがって指示したらしい。
「うつつ《・・・》か。わしは疲れているらしい」
「御休養こそ」
かんじんである、と弥平次は痛ましそうにいったが、光秀に休養のゆとりがありえようとは思えなかった。なぜならば、すでに信長から武田勝頼討滅のために甲州へ出兵する陣触れを受けており、あすにもこの丹波亀山を出発せねばならなかった。織田家の司令官であるかぎり、これからも酷使されつづけるだろう。
(この酷使の果てには、林通勝や佐久間信盛の場合のように放逐か、荒木村重の場合のような一族焚殺《ふんさつ》の運命が待っている)
体のせいか、思案もつい暗くなるのか、光秀もつい思わざるをえない。光秀だけでなく織田家の将はみなそうであろう。
「お使いとは、どなただ」
「弁観と申される僧でございます。安芸《あき》広島で将軍様に近侍している者であると申されます」
「安芸の人だな」
光秀には、記憶のない名前である。
「どうなされます」
「とは?」
光秀の顔が、青ざめはじめている。
「お会いなされますか」
弥平次は念を押したが、光秀の顔はもう先刻と一変していた。うなじを垂れ、だまりこくったまま沈思している。
(会えば、大変なことになる)
腹の底の凍るような恐怖とともに、いまあらためて事の重大さに気づいた。用件の想像はつく。謀《む》反《ほん》のすすめにちがいない。なにしろ義昭という人はたれかれなしに密使を送る癖のある人で、以前は徳川家康にさえ、
——予に忠ならんと思えば、信長を討て。
と御教書を送った人である。
まして光秀は義昭擁立の功臣であり、かつての幕臣であった。かつ、現在も光秀を頂点とする指揮組織には、信長の命によって旧幕臣系の諸将は、ことごとく組下に入れられている。いわば光秀は、織田家における旧幕閥の総帥《そうすい》のような存在であった。当然、義昭は光秀に密使を送ってきてもふしぎではない。
それにおなじ旧幕臣系でも、義昭は細川藤孝を憎んでいるが、光秀にはさほど悪意をもっている様子ではない。
(光秀は、頼みになる)
と、義昭がいかにも期待しそうであった。さらに光秀が温厚な徳人で、叡山《えいざん》焼き打ちなど、信長のふるい諸権威に対する容赦ない破壊行動に批判的である、という定評は、公卿《くげ》や門跡《もんぜき》のあいだで一般化しつつあった。
(こまる)
そのようになおも義昭から期待されては光秀は自滅せざるをえない。近い例に荒木村重がある。
「会わぬ」
光秀はいった。
「引きとって貰《もら》え。その僧がもし御教書のようなものを置こうとしたら、中身は見ず、その僧の目の前で灰にせよ」
弥平次は、その処置をした。
幸い、僧が義昭の密使であることを知る者は弥平次のほか一人もいない。
(おそらく洩《も》れることはあるまい。しかし洩れれば村重の二の舞になる)
お槙も、娘たちも猛火のなかで炙《あぶ》り殺されるだろう。光秀の子は、浅井長政の子息がそうであったように大《おお》火《ひ》箸《ばし》をもって串《くし》刺《ざ》しにされるはずであった。

光秀は、甲州征伐に参陣した。
甲州の勢力圏は武田信玄の死後十年、その子勝頼によって継承されてきたが、長篠《ながしの》の合戦で信長に破れて以来家勢はしだいに衰え、老臣、被官の心は離れている。
信長は、長篠ノ役《えき》であれほどの大勝をおさめたにもかかわらず、追撃を避け、兵をいっせいに西へひきあげてしまったのは、なお武田軍の強靱《きょうじん》さを恐れたがためであった。その後七年、手をつけていない。
信長は、無理押しを避けた。すでに勝頼が人心を失っていると信長は見ぬき、腐熟した柿《かき》の自然に落ちるのを待つように、武田軍の内部崩壊の進行を気長に待ちつづけた。この点、信長の緩急のみごとさは、光秀などの遠く及ぶところではなく、光秀自身信長の器量機略のおそるべき一面をあらためて知らされる思いがしている。
 信州諏訪《すわ》に、法《ほっ》華寺《けじ》という寺がある。織田軍が信州における武田方の属城を撃砕しつつ諏訪郡に入ったとき、信長はここを本営とした。
それまで諏訪郡は武田家の属領だったが、土地の地侍どもは勝頼を裏切って織田方につき、信長の本営に会釈《えしゃく》を賜わるべくぞくぞくと駈けあつまってきた。
「あれを御《ご》覧《ろう》ぜよ」
と、光秀はこの壮観を見、思わず傍《かたわ》らの同僚にいった。織田家の武威をこの光景ほど如実にあらわすものはないであろう。
(信長も、運がひらけたものよ)
と思わざるをえない。ここ十年、信長は何度も窮地に落ち、もはや武運も尽きたとおもわれる時期が年に数度もあったが、そのつど信長は神気をふるいおこし、智謀のかぎりをつくして脱出してきた。ここ一、二年来ようやく信長に曙光《しょこう》がひろがりはじめ、かつて武田家についていた信濃勢も、勝頼を見かぎって信長のもとに馳《は》せあつまろうとしている。
(一幅の絵ではないか)
ここまで漕《こ》ぎつけたのは、九割九分まで信長の非凡な力というほかない。光秀はそうは思うが、しかし同時にそうは思えない。こんにちの信長の開運は自分のような脇役《わきやく》の努力の結実とも思えるのである。
その自意識があるうえに、光秀自身ちかごろ心気の衰えのせいか多分に回顧的になっている。
つい、
「われらも多年、山野に起き伏し、智恵をしぼり、勇を振るった骨折りの甲斐、いまこそあったというものよ」
といった。
わるいことにこの光秀の述懐を信長がきいていた。やにわに立ちあがった。
「十兵衛ッ」
もう光秀のそばに来ている。信長のもっとも悪質な発作がはじまった。信長にすればもともと光秀のそういう賢《さかし》ら面《づら》がきらいであったし、それに虫の居どころも悪かった。信長は、佐久間、林、荒木といった多年の功臣をここ一、二年のあいだにつぎつぎと放逐したことについて内心豁然《かつぜん》とはしていない。それを光秀が皮肉っているのであろうとも受けとれた。
「もう一度言え。——おのれが」
と、光秀の首筋をつかんだ。
「おのれがいつ、どこにて骨を折り、武辺を働いたか。いえるなら、言え。骨を折ったのは誰《たれ》あろう、このおれのことぞ」
信長は光秀を押し倒し、高欄《こうらん》の欄干にぐわっとその頭を打ちつけ、さらに離しては打ちつづけた。
(殺されるか)
と思った。目がくらみ衣《え》紋《もん》がくずれたが、しかし耐えた。耐えられぬのは、衆人のなかでこれほどの目に遭わされる屈辱である。
(こ、こいつを、殺してやる)
この屈辱からかろうじて自分を支えてくれる思いはその一事しかない。光秀は耐えた。それを思いつつ懸命に耐え、やがて打撃から解放されたときはむしろ自分でも気づくほどに凄《すご》味《み》のある、静まりかえった表情に戻《もど》っている。
光秀は、さらに甲信の各地に転戦した。
ついに織田軍はこの年の三月十一日武田勝頼を追いつめて自害させ、永禄《えいろく》年間いらいあれほど信長を苦しめつづけてきた武田家は滅亡した。
信長は逃げ散った者のなかに、足利義昭の密使がまじっていることを知っている。その者こそ、義昭の反織田同盟の奔走者であり、信長を幾度か危地におとし入れてきた魔物ともいうべき存在であった。
通称を、佐々木次郎という。信長にほろぼされた南近江の旧守護職六角(本姓・佐々木)承禎《じょうてい》の子で、国ほろんでのちは義昭の帷《い》幕《ばく》に参じ、諸方に使いしてその敏腕を知られていた。その者のほかに光秀も知っている義昭側近の大和《やまと》淡路守《あわじのかみ》、僧上福院などがいる。
やがてそれらが、武田家の菩《ぼ》提《だい》寺《じ》である甲斐国山梨郡松里村の恵《え》林《りん》寺《じ》に逃げこんでいることがわかった。
恵林寺は夢《む》窓国《そうこく》師《し》を開山とし、寺領三百貫、雲水二百人が常住する臨済禅の大刹《たいさつ》である。
快川紹喜《かいせんしょうき》
という、国師号をもつ高名の禅僧がこの寺の長老になっている。故信玄が礼をつくして美濃の崇福寺から招聘《しょうへい》した僧で豪俊な禅風をもって知られ、信玄との間柄《あいだがら》はほとんど心友というにちかい。
この快川が、峻拒《しゅんきょ》した。
「渡せぬ」
というのである。織田家では三度まで使者を出したが快川の返答はかわらず、その間、右の三人を遁《にが》してしまった。
信長は怒り、
「寺も僧も、共に焼け」
と命じた。その執行者が選ばれた。織田九郎次郎、長谷川与次、関十郎右衛門、赤座七郎右衛門の四人である。彼等は足軽数百人を指揮し、一山僧侶《いっさんそうりょ》百五十余人を楼門の階上に追いあげ、階下に籠草《かごぐさ》をつみあげ、火を放ち、猛火《みょうか》を噴《ふ》きあげさせて生身《しょうじん》のまま炙《あぶ》った。
快川は、その首座にいる。曲�《きょくろく》にもたれかけ、足もとから火にあぶられながら、
安禅《あんぜん》かならずしも山水を須《もち》いず
心頭を滅却すれば火も亦《また》涼し
という、のちにこの事件を有名にした最《さい》期《ご》の偈《げ》をとなえたのは、このときである。
やがて楼門は焼け落ち、百五十余人の肉を焼く異臭があたりにただよい、この村から半里さきの光秀の陣中にまで漂った。
(なぜそこまでする必要があるのか)
光秀には余人以上の痛恨がある。快川紹喜は武家の出で、しかも美濃土岐氏であり、光秀とは同族にあたる。同族の肉が焼かれている臭気を、光秀はこれ以上嗅《か》がされつづけていることに堪えられない。光秀は幕を垂れて香《こう》を焚《た》き、かつ経を誦《ず》そうとしたが、そのことが信長に洩れることをおそれて思いとどまった。そういう自分の小心さにふと、
(それで、信長が殺せるか)
と自嘲《じちょう》し、殺す、という言葉を口中で数度つぶやいてみたが、しかしいずれの呟《つぶや》きもそらぞらしく、自分がそれほど飛躍を為《な》しうる人間だとはとうてい思えない。
翌月——。
光秀は信長とともに甲州を去り、安土を経て近江坂本城に帰り、信長から命ぜられたあたらしい任務を遂行するためにふたたび安土城下の明智屋敷に入った。あいかわらず忠実で勤勉な織田家きっての能吏、という以外、光秀は自分を見《み》出《いだ》すことができない。
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