信長が甲州から安土に帰ると、天はすでに夏になっている。
暑い。
例年にない酷暑であった。が、この暑気のなかを、人は相変らずいそがしい。天下はようやくあたらしい時代に動きはじめたようであった。
信長の天下統一の事業は、甲州平定後、にわかに新段階に入った。信長は一国を攻めとるごとに、かれの法律、経済の施策を布《し》いた。たとえば商業活動には座を撤廃し、庶民のなげきであった通行税を廃止していった。信長の征服事業が進むにつれて、ふるい室町体制は土塊《つちくれ》のように崩れてゆき、信長風の合理性に富んだ社会ができあがってゆくようであった。その革命の版《はん》図《と》は、すでに東海、近畿、北陸、甲信地方におよんだ。
つぎは、四国、関東、そしてここ数年交戦中の中国地方であった。信長は安土を大本営とし、すでに四方に軍勢を派遣している。
中国 羽柴秀吉
四国 織田信孝(副将・丹羽長秀)
関東 滝川一益
であった。すでに関東担当の滝川一益は上《こう》野《ずけ》に入っており、西のほう、四国遠征軍の織田信孝・丹羽長秀は、渡海作戦のために、軍勢を大坂に集結しつつあった。
光秀は、ひさしぶりに戦務から離れている。なぜならば近畿平定の担当官だった光秀は、近畿が落着したため、さしあたって兵馬を動かす場所がなかった。しかし信長はその光秀に休息をあたえなかった。
「三河殿(家康)の接待を奉行せよ」
と命じたのである。
東海の家康も武田氏の脅威が去り、ひさしぶりに戦争から解放されていた。信長はこの家康に駿河《するが》一国をあたえた。家康は自分で切り取った三河、遠江《とおとうみ》の両国に、いま一国が加わったのである。ながい歳月、織田家のために東方の防壁となり、武田氏の西進をささえ、幾度か滅亡の危機に見舞われつつも信長との盟約を裏切ることがなかった家康に対し、信長があたえた報礼はわずか一国であった。
(上様の出し吝《おし》みなさることよ)
人々は、心中おもった。信長の功業をたすけてきたふるい同盟者に対し、あまりにも謝礼が薄すぎるではないかというのだが、一面、信長にも内々理屈があるであろう。家康に大きな領国をあたえると、織田家をしのぐようになるかもしれない。信長の死後、織田家の子らは家康によって亡《ほろ》ぼされるかもしれず、その危険をふせぐために信長は家康を東海三国の領主にとどめておこうという肚《はら》であるようだった。
(信長公の御心情は複雑である)
と、このころになって見ぬいたのは、中国担当官の羽柴秀吉であった。信長にすれば天下平定のために、諸将に恩賞の希望をあたえつつ働かさねばならぬ。現実、天下を平定したとき、徳川家康、柴田勝家、丹波長秀、明智光秀、羽柴秀吉、滝川一益の六人の高官には、それぞれ数カ国を連ねる大領土をあたえねばなるまい。現に信長は日本国を分けあたえるような気前のいい話を洩《も》らすときさえある。が、それが現実化すれば、織田家の天下は成立しない。大大名が多すぎて将軍の手綱がきかなかった室町体制がいい例であった。自然、創業の功臣を罪におとし入れて、つぎつぎに殺してゆかねばならない。古代シナの漢帝国の成立のときも功臣潰《つぶ》しがおこなわれたし、彼《か》の地には「狩り場の兎《うさぎ》をとりつくしてしまうと猟犬が不必要になり、主人に食われてしまう。国の功業の臣の運命もこれとおなじだ」という意味の諺《ことわざ》さえあり、この間の真実をついている。すでに林通勝、佐久間信盛は整理されたが、とりようによってはこの事実こそ織田帝国の樹立後の功臣たちの運命を示唆《しさ》するものであろう。
(おれも、働きに働いたあげく、ついには殺されるだろう)
という慢性的な不安を、ちかごろ光秀も感ずることが多い。羽柴秀吉などは機敏にこれを感じとっている。このために子のないのを幸い、信長に乞《こ》うてその第四子の於《お》次丸《つぎまる》を養子にもらい、元服させて秀勝と名乗らせ、それを世《せい》嗣《し》としていた。信長にすれば、秀吉にいかほどの領地をあたえても結局は織田家の子が相続する。この点、秀吉はするどく信長の心情を見ぬいていた。
さらに秀吉は、いま進行中の中国征伐の戦場から安土城に連絡のため帰ったとき、
「自分には将来、朝鮮を下されとうござりまする」
と半分真顔でいって、恩賞としての領国をいっさい望まないことを言明した。もっともこの場合の秀吉の言い方は巧妙で、
やがて中国も片付きます。この征伐が完了すれば中国諸州は上様のお側衆の野々村、福富、矢部、森などに賜わりとうございます。自分はいっさい所望いたしませぬ。そのあと、九州の征伐をお申しつけ下さいませ。これを平らげれば一年間だけ九州を支配させていただきとうございます。その一年間で兵糧をたくわえ、軍船をつくり、九州は上様に返納し奉って朝鮮へ押し渡ります。その朝鮮を頂戴《ちょうだい》できればありがたき幸せに存じます。
ということであった。信長は大いに笑い、
「筑前は大《たい》気《き》者《もの》ぞ」
といった。
さて、家康の駿河一国拝領の件である。家康はこの薄賞を不満としない。信長の心情について肚深く考え、大いによろこぶふうを見せ、さっそく家臣を安土へのぼらせて、
「いそぎ浜松を発し、御礼に参上つかまつりまする」
と言上させた。この程度の恩賞でこれほど大げさによろこぶふうをみせたのは、家康の心術というべきであろう。このように躁《はしゃ》げば、
——存外、家康とは気の小さい、可愛《かわい》いやつである。
と信長は思うにちがいない。家康は信長にそう思われねば、今後、身の危険はかぎりない。いまたとえば嬉《うれ》しがりもせずにのっそり構えていれば、
——家康めは、不足なのか。
と信長は疑うであろう。となれば、信長は家康を慾深い野心家と見、今後そういう角度から家康を判断してついには除く算段を工夫するにちがいない。
この家康が、五月十五日に安土城に入ることになった。
光秀がその接待役に命ぜられたとき、信長は城をあげて歓待したい、そのつもりで準備をせよ、と命じた。信長にすれば一カ国しか家康にあたえなかったが、いかに織田家としては家康の多年の活動に感謝しているかということを、この接待をもってあらわしたい、というつもりであった。
接待の構想はすべて信長の発想で、それを執行官である光秀にいちいち指示した。
信長は、家康のために安土城であたらしい道路さえ作った。さらに家康が領国を出発したあと、毎夜泊りをかさねてゆく場所には付近の大名を伺《し》候《こう》させ、接待させた。
近江番《ばん》場《ば》の場合、信長は丹羽長秀を派遣し、その地に一夜だけの御殿を急造させて家康を泊めさせた。
安土の城内では四座の名手をそろえて能狂言があり、このほか丹《たん》波《ば》猿楽《さるがく》の梅若《うめわか》太《だ》夫《ゆう》にも能をさせた。この梅若太夫の芸がひどく見劣りしたので、
「おのれは、三河殿の前で恥をかかせたな」
と、信長は座から走りだしてこの能役者を家康の眼前にひきずってゆき、こぶしをあげてなぐりつけた。それほど懸命に信長は家康を饗応《きょうおう》した。
(あれは、狂気か正気か)
と、接待役の光秀は、この信長の大人とも思えぬふるまいを冷やかな目で見ていた。正気とすれば、信長の家康に対する異常なもてなしようはどうであろう。おそらく信長は、家康に対する駿河一国の薄賞を、彼自身、うしろめたく思っているからであろう。家康に対する感謝を、領地でなく接待の心づくしであらわそうと信長は思っているにちがいない。
(ずるいお人だ)
光秀は、もはや信長という男をそういう悪意でしか見られなくなっている。
それにしても信長の応接ぶりはすさまじいばかりで、二十日の(このときはすでに光秀は安土にいない)高雲寺殿での宴会のときは、信長みずから家康のための御《お》膳《ぜん》をはこんできたほどであった。
この家康の安土滞在中の十七日、備中在陣中の秀吉から信長のもとに急使がきた。
「上様の御出馬を乞い奉る」
というものであった。ここ数年、毛利方に対して戦闘と調略をかさねてきた羽柴秀吉が、ついに毛利本軍を備中にひき出し、雌雄を決する形にまで状況をもってきた、というのである。この上は拙者の手には及ばず、上様おんみずから御出馬くだされ、合戦をすみずみまで御《おん》下知《げち》(指揮)くださいますように、と秀吉は懇請してきているのである。
——拙者の手には及ばず。
などというのは、秀吉のうそであった。
秀吉の兵は三万、毛利の兵は三万、双方ほぼ同数であった。しかし秀吉はこの決戦までのあいだに、毛利方の備中高松城のまわりに二十六町に及ぶ長堤を築き、足《あ》守川《もりがわ》の水をおとし入れて水攻めにしつつあり、かつ秀吉方は地の利を占め、勢いにも乗っており、すべての点で有利であった。秀吉がその気になれば独力で勝てるであろう。
が、信長の性格を知りぬいている秀吉は独力で勝つことを怖《おそ》れた。一司令官の分際で毛利ほどの大敵を攻め潰すような巨功を樹《た》てれば、あとあと織田家での調和がまずくなり、信長がどのような想像をめぐらさぬともかぎらない。この場合、敵に潰滅《かいめつ》をあたえる功は、信長自身にたてさせるべきであろう。いままでの主要戦場では、つねに信長自身が指揮をとってきているのである。
「ぜひ」
と、秀吉の急使は懇願した。信長はこの急使を家康接待の席でうけとったのだが、
「おお、行かずばなるまい」
膝《ひざ》を、たたいた。信長の決断は早く、その場から堀久太郎を上使にして備中へくだらせ、
「不日、馬を出す」
と、秀吉に告げにやらせた。
一方、諸将に動員をくだした。まっさきに光秀に進発の令がくだった。家康が安土に入って三日目であった。光秀はこの間《かん》、家康の旅宿である大宝坊《だいほうぼう》に毎日顔を出し、その他、接待の指図で夜もねむられぬほどにいそがしかったのであるが、いまは戦場に立てという。が、信長の命にはいつの場合でも異を立てぬのが、織田家の家風であった。
それに、信長の本軍以外で織田家でいま遊んでいる司令官としては、光秀以外にはなかった。
光秀は、その組下大名である細川忠興《ただおき》、池田恒興、塩川吉大夫、高山右近、中川瀬兵衛に命じ、それぞれ城に帰って出陣の支度をするように指示した。
光秀自身、居城に帰って支度をせねばならない。即日安土を発《た》つつもりで、まず家康にあいさつし、ついで城下の装束屋敷にもどると、信長の上使がやってきた。
「申しきかせる」
というのである。下座で光秀がきいていると、驚くべき内容であった。
「そのほうに、出雲《いずも》・石《いわ》見《み》(島根県)の二国をあたえる。しかしながら、いまの近江と丹波の両国は召しあげる」
というのであった。光秀は、ぼう然とし、問いかえした。が、上使は「それだけでござる」と言い、さっさと辞去した。
丹波と近江の現在の領国については、民治のすきな光秀は、いま磨《みが》きあげるようにして統治に熱中している。それを取りあげるというのである。いや、すでに取りあげられてしまった。
その代替《かわり》として、
「あたえる」
と、信長がいっている出雲と石見は、敵の毛利家の領国ではないか。光秀がぼう然としたのは、むりもなかった。この男は事実上、無《む》禄《ろく》になった。光秀だけでなく、光秀の家臣団の知行地も、この一瞬で消え、彼等は無禄になってしまった。
信長にすれば、
「出雲と石見を斬《き》り取りにせよ」
ということであろう。しかし、その征服が完了するまで一年はかかる。その一年のあいだ、無禄の光秀は一万数千にのぼる家臣を食わせてゆくことができないし、弾薬の補充もできない。なるほど数日で山陰に進出し、数日で征服するなら飢えることもあるまいが、それは神業《かみわざ》でなければできない。
奇妙な処置であった。
信長の本音はどこにあるのか。
わからない。
なるほど近江・丹波という京をとりまく二つの国は、織田家としては直領《じきりょう》にするのが妥当であろう。しかしいまのいまになって召しあげるという魂胆がわからない。
取りあげて、敵地に襲いかからせる。光秀もその家臣も無禄の長びくのをおそれて火のように毛利軍に攻めかかるであろう。となれば信長の中国平定計画はそのぶんだけ早くなる。
(……その魂胆か)
それが理由とすれば、人間の尻《しり》に油火をかけて走らせるようなものではないか。
(人を、道具としてしか見ておらぬ)
光秀は思った。それが信長をこんにちまで仕立てあげた大いなる美点であった。信長は大工が鑿《のみ》を道具として愛し、鑿を厳選し、かつ鑿の機能に通暁《つうぎょう》し、それをみごとに使いきるようにして家臣をあつかってきた。そういう男であったればこそ、牢人《ろうにん》あがりの光秀やなんの門閥もない秀吉のような者を抜擢《ばってき》し、その才能のあらゆる角度を縦横無尽に使ってきた。光秀のこんにちあるのは信長のその偏執的なまでの道具好みのおかげではあるが、
(しかしおれという道具も、そろそろ邪魔になってきたのかもしれない)
光秀は、そう思った。信長は同盟者の家康にさえ分け前を駿河一国しかやらない男なのである。自分がひろいあげた光秀という道具に、国をやるのが惜しくなったのではないか。
毛利が片づけば、もはや織田家は苦闘時代の織田家ではない。光秀のような大きすぎる道具を必要としないであろう。すでに四、五十万という大軍を動かしうる織田家ともなれば、九州、奥州は、大軍のおどしをもって来降するはずであった。
(どうやら、狡《こう》兎《と》死シテ走《そう》狗烹《くに》ラルという古言のとおりになってきたらしい)
織田家譜代の宿将林通勝や佐久間信盛が消えたあと、光秀に同じ運命がまわってきたらしい。信長は、前記両人の追放の場合は、罪目にもならぬことをならべ立てて召し放ったが、光秀にはその手を用いず「敵国領をやる」ということで領国を召しあげてしまった。
(もはや、予言できる。織田家では、信長の子秀勝を養子にしている秀吉のみが、生き残るだろう)
十七日の夕、光秀は馬を馳《は》せて安土城下を去り、終夜駈《か》けとおしてその居城の琵琶湖南岸の城に帰った。
「備中へゆく」
お槙には、そういった。
備中、という地名以外の場所もすでに光秀の脳裏で明滅していたが、しかし心が定まらず、お槙にも言わなかった。
(もしお槙や子供達が)
という危惧《きぐ》だけが光秀の心をくるしめている。彼等が、荒木村重の一族が受けたようなあの業《ごう》苦《く》に遭いはしまいかという惧《おそ》れのみが、光秀の決心をにぶらせていた。
「どうなされたのでございますか」
と、お槙が声をひそめていったほど、光秀の顔に血の気がない。
「いや、なんでもない。わしは備中にゆく」
光秀は、なかば自分に言いきかせるようにうなずき、お槙を見た。
「備中へだ」
光秀はかすかにうなずき、語尾を呑《の》みこんだ。——行くつもりか、と自分に自問しているような、そんな声《こわ》音《ね》があった。
暑い。
例年にない酷暑であった。が、この暑気のなかを、人は相変らずいそがしい。天下はようやくあたらしい時代に動きはじめたようであった。
信長の天下統一の事業は、甲州平定後、にわかに新段階に入った。信長は一国を攻めとるごとに、かれの法律、経済の施策を布《し》いた。たとえば商業活動には座を撤廃し、庶民のなげきであった通行税を廃止していった。信長の征服事業が進むにつれて、ふるい室町体制は土塊《つちくれ》のように崩れてゆき、信長風の合理性に富んだ社会ができあがってゆくようであった。その革命の版《はん》図《と》は、すでに東海、近畿、北陸、甲信地方におよんだ。
つぎは、四国、関東、そしてここ数年交戦中の中国地方であった。信長は安土を大本営とし、すでに四方に軍勢を派遣している。
中国 羽柴秀吉
四国 織田信孝(副将・丹羽長秀)
関東 滝川一益
であった。すでに関東担当の滝川一益は上《こう》野《ずけ》に入っており、西のほう、四国遠征軍の織田信孝・丹羽長秀は、渡海作戦のために、軍勢を大坂に集結しつつあった。
光秀は、ひさしぶりに戦務から離れている。なぜならば近畿平定の担当官だった光秀は、近畿が落着したため、さしあたって兵馬を動かす場所がなかった。しかし信長はその光秀に休息をあたえなかった。
「三河殿(家康)の接待を奉行せよ」
と命じたのである。
東海の家康も武田氏の脅威が去り、ひさしぶりに戦争から解放されていた。信長はこの家康に駿河《するが》一国をあたえた。家康は自分で切り取った三河、遠江《とおとうみ》の両国に、いま一国が加わったのである。ながい歳月、織田家のために東方の防壁となり、武田氏の西進をささえ、幾度か滅亡の危機に見舞われつつも信長との盟約を裏切ることがなかった家康に対し、信長があたえた報礼はわずか一国であった。
(上様の出し吝《おし》みなさることよ)
人々は、心中おもった。信長の功業をたすけてきたふるい同盟者に対し、あまりにも謝礼が薄すぎるではないかというのだが、一面、信長にも内々理屈があるであろう。家康に大きな領国をあたえると、織田家をしのぐようになるかもしれない。信長の死後、織田家の子らは家康によって亡《ほろ》ぼされるかもしれず、その危険をふせぐために信長は家康を東海三国の領主にとどめておこうという肚《はら》であるようだった。
(信長公の御心情は複雑である)
と、このころになって見ぬいたのは、中国担当官の羽柴秀吉であった。信長にすれば天下平定のために、諸将に恩賞の希望をあたえつつ働かさねばならぬ。現実、天下を平定したとき、徳川家康、柴田勝家、丹波長秀、明智光秀、羽柴秀吉、滝川一益の六人の高官には、それぞれ数カ国を連ねる大領土をあたえねばなるまい。現に信長は日本国を分けあたえるような気前のいい話を洩《も》らすときさえある。が、それが現実化すれば、織田家の天下は成立しない。大大名が多すぎて将軍の手綱がきかなかった室町体制がいい例であった。自然、創業の功臣を罪におとし入れて、つぎつぎに殺してゆかねばならない。古代シナの漢帝国の成立のときも功臣潰《つぶ》しがおこなわれたし、彼《か》の地には「狩り場の兎《うさぎ》をとりつくしてしまうと猟犬が不必要になり、主人に食われてしまう。国の功業の臣の運命もこれとおなじだ」という意味の諺《ことわざ》さえあり、この間の真実をついている。すでに林通勝、佐久間信盛は整理されたが、とりようによってはこの事実こそ織田帝国の樹立後の功臣たちの運命を示唆《しさ》するものであろう。
(おれも、働きに働いたあげく、ついには殺されるだろう)
という慢性的な不安を、ちかごろ光秀も感ずることが多い。羽柴秀吉などは機敏にこれを感じとっている。このために子のないのを幸い、信長に乞《こ》うてその第四子の於《お》次丸《つぎまる》を養子にもらい、元服させて秀勝と名乗らせ、それを世《せい》嗣《し》としていた。信長にすれば、秀吉にいかほどの領地をあたえても結局は織田家の子が相続する。この点、秀吉はするどく信長の心情を見ぬいていた。
さらに秀吉は、いま進行中の中国征伐の戦場から安土城に連絡のため帰ったとき、
「自分には将来、朝鮮を下されとうござりまする」
と半分真顔でいって、恩賞としての領国をいっさい望まないことを言明した。もっともこの場合の秀吉の言い方は巧妙で、
やがて中国も片付きます。この征伐が完了すれば中国諸州は上様のお側衆の野々村、福富、矢部、森などに賜わりとうございます。自分はいっさい所望いたしませぬ。そのあと、九州の征伐をお申しつけ下さいませ。これを平らげれば一年間だけ九州を支配させていただきとうございます。その一年間で兵糧をたくわえ、軍船をつくり、九州は上様に返納し奉って朝鮮へ押し渡ります。その朝鮮を頂戴《ちょうだい》できればありがたき幸せに存じます。
ということであった。信長は大いに笑い、
「筑前は大《たい》気《き》者《もの》ぞ」
といった。
さて、家康の駿河一国拝領の件である。家康はこの薄賞を不満としない。信長の心情について肚深く考え、大いによろこぶふうを見せ、さっそく家臣を安土へのぼらせて、
「いそぎ浜松を発し、御礼に参上つかまつりまする」
と言上させた。この程度の恩賞でこれほど大げさによろこぶふうをみせたのは、家康の心術というべきであろう。このように躁《はしゃ》げば、
——存外、家康とは気の小さい、可愛《かわい》いやつである。
と信長は思うにちがいない。家康は信長にそう思われねば、今後、身の危険はかぎりない。いまたとえば嬉《うれ》しがりもせずにのっそり構えていれば、
——家康めは、不足なのか。
と信長は疑うであろう。となれば、信長は家康を慾深い野心家と見、今後そういう角度から家康を判断してついには除く算段を工夫するにちがいない。
この家康が、五月十五日に安土城に入ることになった。
光秀がその接待役に命ぜられたとき、信長は城をあげて歓待したい、そのつもりで準備をせよ、と命じた。信長にすれば一カ国しか家康にあたえなかったが、いかに織田家としては家康の多年の活動に感謝しているかということを、この接待をもってあらわしたい、というつもりであった。
接待の構想はすべて信長の発想で、それを執行官である光秀にいちいち指示した。
信長は、家康のために安土城であたらしい道路さえ作った。さらに家康が領国を出発したあと、毎夜泊りをかさねてゆく場所には付近の大名を伺《し》候《こう》させ、接待させた。
近江番《ばん》場《ば》の場合、信長は丹羽長秀を派遣し、その地に一夜だけの御殿を急造させて家康を泊めさせた。
安土の城内では四座の名手をそろえて能狂言があり、このほか丹《たん》波《ば》猿楽《さるがく》の梅若《うめわか》太《だ》夫《ゆう》にも能をさせた。この梅若太夫の芸がひどく見劣りしたので、
「おのれは、三河殿の前で恥をかかせたな」
と、信長は座から走りだしてこの能役者を家康の眼前にひきずってゆき、こぶしをあげてなぐりつけた。それほど懸命に信長は家康を饗応《きょうおう》した。
(あれは、狂気か正気か)
と、接待役の光秀は、この信長の大人とも思えぬふるまいを冷やかな目で見ていた。正気とすれば、信長の家康に対する異常なもてなしようはどうであろう。おそらく信長は、家康に対する駿河一国の薄賞を、彼自身、うしろめたく思っているからであろう。家康に対する感謝を、領地でなく接待の心づくしであらわそうと信長は思っているにちがいない。
(ずるいお人だ)
光秀は、もはや信長という男をそういう悪意でしか見られなくなっている。
それにしても信長の応接ぶりはすさまじいばかりで、二十日の(このときはすでに光秀は安土にいない)高雲寺殿での宴会のときは、信長みずから家康のための御《お》膳《ぜん》をはこんできたほどであった。
この家康の安土滞在中の十七日、備中在陣中の秀吉から信長のもとに急使がきた。
「上様の御出馬を乞い奉る」
というものであった。ここ数年、毛利方に対して戦闘と調略をかさねてきた羽柴秀吉が、ついに毛利本軍を備中にひき出し、雌雄を決する形にまで状況をもってきた、というのである。この上は拙者の手には及ばず、上様おんみずから御出馬くだされ、合戦をすみずみまで御《おん》下知《げち》(指揮)くださいますように、と秀吉は懇請してきているのである。
——拙者の手には及ばず。
などというのは、秀吉のうそであった。
秀吉の兵は三万、毛利の兵は三万、双方ほぼ同数であった。しかし秀吉はこの決戦までのあいだに、毛利方の備中高松城のまわりに二十六町に及ぶ長堤を築き、足《あ》守川《もりがわ》の水をおとし入れて水攻めにしつつあり、かつ秀吉方は地の利を占め、勢いにも乗っており、すべての点で有利であった。秀吉がその気になれば独力で勝てるであろう。
が、信長の性格を知りぬいている秀吉は独力で勝つことを怖《おそ》れた。一司令官の分際で毛利ほどの大敵を攻め潰すような巨功を樹《た》てれば、あとあと織田家での調和がまずくなり、信長がどのような想像をめぐらさぬともかぎらない。この場合、敵に潰滅《かいめつ》をあたえる功は、信長自身にたてさせるべきであろう。いままでの主要戦場では、つねに信長自身が指揮をとってきているのである。
「ぜひ」
と、秀吉の急使は懇願した。信長はこの急使を家康接待の席でうけとったのだが、
「おお、行かずばなるまい」
膝《ひざ》を、たたいた。信長の決断は早く、その場から堀久太郎を上使にして備中へくだらせ、
「不日、馬を出す」
と、秀吉に告げにやらせた。
一方、諸将に動員をくだした。まっさきに光秀に進発の令がくだった。家康が安土に入って三日目であった。光秀はこの間《かん》、家康の旅宿である大宝坊《だいほうぼう》に毎日顔を出し、その他、接待の指図で夜もねむられぬほどにいそがしかったのであるが、いまは戦場に立てという。が、信長の命にはいつの場合でも異を立てぬのが、織田家の家風であった。
それに、信長の本軍以外で織田家でいま遊んでいる司令官としては、光秀以外にはなかった。
光秀は、その組下大名である細川忠興《ただおき》、池田恒興、塩川吉大夫、高山右近、中川瀬兵衛に命じ、それぞれ城に帰って出陣の支度をするように指示した。
光秀自身、居城に帰って支度をせねばならない。即日安土を発《た》つつもりで、まず家康にあいさつし、ついで城下の装束屋敷にもどると、信長の上使がやってきた。
「申しきかせる」
というのである。下座で光秀がきいていると、驚くべき内容であった。
「そのほうに、出雲《いずも》・石《いわ》見《み》(島根県)の二国をあたえる。しかしながら、いまの近江と丹波の両国は召しあげる」
というのであった。光秀は、ぼう然とし、問いかえした。が、上使は「それだけでござる」と言い、さっさと辞去した。
丹波と近江の現在の領国については、民治のすきな光秀は、いま磨《みが》きあげるようにして統治に熱中している。それを取りあげるというのである。いや、すでに取りあげられてしまった。
その代替《かわり》として、
「あたえる」
と、信長がいっている出雲と石見は、敵の毛利家の領国ではないか。光秀がぼう然としたのは、むりもなかった。この男は事実上、無《む》禄《ろく》になった。光秀だけでなく、光秀の家臣団の知行地も、この一瞬で消え、彼等は無禄になってしまった。
信長にすれば、
「出雲と石見を斬《き》り取りにせよ」
ということであろう。しかし、その征服が完了するまで一年はかかる。その一年のあいだ、無禄の光秀は一万数千にのぼる家臣を食わせてゆくことができないし、弾薬の補充もできない。なるほど数日で山陰に進出し、数日で征服するなら飢えることもあるまいが、それは神業《かみわざ》でなければできない。
奇妙な処置であった。
信長の本音はどこにあるのか。
わからない。
なるほど近江・丹波という京をとりまく二つの国は、織田家としては直領《じきりょう》にするのが妥当であろう。しかしいまのいまになって召しあげるという魂胆がわからない。
取りあげて、敵地に襲いかからせる。光秀もその家臣も無禄の長びくのをおそれて火のように毛利軍に攻めかかるであろう。となれば信長の中国平定計画はそのぶんだけ早くなる。
(……その魂胆か)
それが理由とすれば、人間の尻《しり》に油火をかけて走らせるようなものではないか。
(人を、道具としてしか見ておらぬ)
光秀は思った。それが信長をこんにちまで仕立てあげた大いなる美点であった。信長は大工が鑿《のみ》を道具として愛し、鑿を厳選し、かつ鑿の機能に通暁《つうぎょう》し、それをみごとに使いきるようにして家臣をあつかってきた。そういう男であったればこそ、牢人《ろうにん》あがりの光秀やなんの門閥もない秀吉のような者を抜擢《ばってき》し、その才能のあらゆる角度を縦横無尽に使ってきた。光秀のこんにちあるのは信長のその偏執的なまでの道具好みのおかげではあるが、
(しかしおれという道具も、そろそろ邪魔になってきたのかもしれない)
光秀は、そう思った。信長は同盟者の家康にさえ分け前を駿河一国しかやらない男なのである。自分がひろいあげた光秀という道具に、国をやるのが惜しくなったのではないか。
毛利が片づけば、もはや織田家は苦闘時代の織田家ではない。光秀のような大きすぎる道具を必要としないであろう。すでに四、五十万という大軍を動かしうる織田家ともなれば、九州、奥州は、大軍のおどしをもって来降するはずであった。
(どうやら、狡《こう》兎《と》死シテ走《そう》狗烹《くに》ラルという古言のとおりになってきたらしい)
織田家譜代の宿将林通勝や佐久間信盛が消えたあと、光秀に同じ運命がまわってきたらしい。信長は、前記両人の追放の場合は、罪目にもならぬことをならべ立てて召し放ったが、光秀にはその手を用いず「敵国領をやる」ということで領国を召しあげてしまった。
(もはや、予言できる。織田家では、信長の子秀勝を養子にしている秀吉のみが、生き残るだろう)
十七日の夕、光秀は馬を馳《は》せて安土城下を去り、終夜駈《か》けとおしてその居城の琵琶湖南岸の城に帰った。
「備中へゆく」
お槙には、そういった。
備中、という地名以外の場所もすでに光秀の脳裏で明滅していたが、しかし心が定まらず、お槙にも言わなかった。
(もしお槙や子供達が)
という危惧《きぐ》だけが光秀の心をくるしめている。彼等が、荒木村重の一族が受けたようなあの業《ごう》苦《く》に遭いはしまいかという惧《おそ》れのみが、光秀の決心をにぶらせていた。
「どうなされたのでございますか」
と、お槙が声をひそめていったほど、光秀の顔に血の気がない。
「いや、なんでもない。わしは備中にゆく」
光秀は、なかば自分に言いきかせるようにうなずき、お槙を見た。
「備中へだ」
光秀はかすかにうなずき、語尾を呑《の》みこんだ。——行くつもりか、と自分に自問しているような、そんな声《こわ》音《ね》があった。