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国盗り物語142

时间: 2020-05-25    进入日语论坛
核心提示:叛《はん》旗《き》 亀山城における光秀の寝所は、廊下と杉《すぎ》戸《ど》をもって仕切られ、なかは八畳と六畳二間しかない。
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叛《はん》旗《き》

 亀山城における光秀の寝所は、廊下と杉《すぎ》戸《ど》をもって仕切られ、なかは八畳と六畳二間しかない。諸事質素なのはこの時代の風であった。大名が華美なくらしをするようになるのは、万事派手ずきの秀吉が天下をとっていわゆる桃山時代の建築景気をおこしてからのことである。
光秀はいつもこの八畳の間に青蚊帳を吊《つ》り、そのなかで寝ている。
「蚊帳のなかに入れ」
といったのは、この蚊帳のなかであった。四畳敷ほどの蚊帳で、そのなかに寝具がないのは、光秀が自分の手で片づけたのである。
燭台《しょくだい》が三基、蚊帳のそとで小さく燃えている。その灯《ほ》明《あか》りが暗いかげをつくってゆれつつ、かろうじて青染めの麻地をとおして蚊帳のなかに光をもちこんでいた。
明智左馬助(弥平次)光春
斎藤内蔵助利三
このふたりの顔が、青黒く染められたこのひかりのなかで浮かんでいる。
弥平次光春は、このところ相貌《そうぼう》の痩《や》せがめだっている。
斎藤利三は、初老の域をこえている。よくふとった赫《あか》ら顔で顔も頭も油光りにひかっている点、いかにも帷《い》幕《ばく》での思索よりも実戦の指揮にむく能動的な性格をよくあらわしている。
「かようなところによんだのは、自分の気持がそうなったからである。いまから打ちあけることを、家来の立場として聴かず、この光秀と同体のつもりできいてくれ。いやさ、上下の会釈《えしゃく》遠慮などは無用である。めいめい自分を日向守光秀であると思い、そのつもりで聴き、かつ喋《しゃべ》ってくれ」
言いおわると、光秀は口をつぐんだ。ながい沈黙がつづき、蚊帳のなかで光秀の息づかいのみがあおあおとつづいたが、光秀はなにもいわない。
やがて、光秀は顔をあげた。
「言えぬ」
口に出して言うことがおそろしくもあり、自分の気持を言いあらわす適当な言葉を見つけかねてもいた。光秀はやむなく硯《すずり》をひきよせ、短冊《たんざく》に歌をかいた。いまの自分の胸中を論理でもって明かすことは不可能だと気づいたのである。詩をもって相手の詩情に訴える以外には手がなかった。それしかない。光秀がくわだてていることの十中八九は、自分の家臣とその家族を煉獄《れんごく》のなかにたたきこむことになるであろう。それを強《し》いる権利は、いかに主人といえども持ってはいない。
詩によるしかなかった。光秀は詩想したが、いざ詩想してみれば逆に散文的なことばのみが脳裏にうかび、歌にならない。
ついに、筆をおろした。
  心知らぬ人は何とも言はば言へ
身をも惜しまじ名をも惜しまじ
 光秀にしては、拙《つたな》すぎるほどの歌である。が、光秀にすれば自分の意思をかれらにさとらせれば事は足りる。
弥平次は、それを受けとり、読みくだしたあと、だまって斎藤利三にまわした。利三はそれをよみ、ちょっと首をかしげたが、やがて光秀には返さず、自分の襟《えり》のあいだへはさみこんだ。
「承りましてござりまする」
と、利三はいった。これだけですべてわかったというのは、かれらがそれとなく察していた証拠であろう。
「わかっていたのか」
と光秀は愚にもつかぬ質問を発した。
「お主《しゅう》のお胸のうちが察しられいで、家来はつとまりませぬ。……が」
「が?」
「まさかと存じ」
弥平次光春はうなだれた。弥平次にせよ斎藤利三にせよ、この一挙は光秀のために賛成しがたく思われる。
政略論からみても失敗の公算のほうがつよい。なるほど信長を本能寺に襲えばそれを殺すことは容易であろう。京を占領しさえすれば公卿衆は光秀になびき、征夷大将軍の宣下も容易かもしれない。しかし織田家の諸豪は光秀になびくか。なびかぬであろう。羽柴秀吉は備中で毛利軍と交戦中のため足がぬけぬとしても、北陸の柴田勝家はただちに南下し、天下に檄《げき》をとばす。勝家は織田家の筆頭家老であり、光秀は新参にすぎないために、双方にあつまる大名の数はむこうのほうが圧倒的に多いにちがいない。光秀にはせいぜい細川藤孝と筒井順慶《じゅんけい》が、年来の友《ゆう》誼《ぎ》と姻戚《いんせき》関係ということで参加してくれる程度だとおもわれる。
大坂で兵を集結中の信長の第三子織田信孝も強力な反撃勢力になるであろうし、織田家の年来の同盟者徳川家康も、いま堺見物中ながらも、もし命あればその本国に逃げかえり、弔《とむらい》合戦の名目で諸大名を勧誘する。どの連中も光秀を斃《たお》せば天下がとれるという、強烈な希望と利慾に燃え、天下の四方八方から競争で京へ攻めのぼり、大働きに働くであろう。光秀はそれを一手でふせがねばならぬ。人間の業《わざ》としてできることではない。
ついで、世間の評判である。
これはよくないにちがいない。たとえば家康が反乱をおこすとすればこれは政略であり世間は是認する。なぜならば徳川家は織田家と大小の差こそあれ、もともと同盟者の間柄《あいだがら》である。源頼朝が平家を制して天下をとったとおなじ次元で論ぜられる。しかし光秀が信長を制するのは反乱ではなく謀《む》反《ほん》であった。なぜならば光秀はもとからの大名ではなく、はだか身で織田家につかえ、信長によってとりたてられた、いわば家ノ子の出身に属する。世間は当然、この行動を政略として見ず、道徳上の問題としてみるであろう。これは光秀に不利であった。むろん光秀を打倒して天下を得ようとする連中も、それを進軍の陣頭にかかげ、世間の同感を惹《ひ》き、それによって小身大名をかきあつめようとするにちがいない。
(利は、かれらが得る。殿は信長を斃したがためにかれらの餌《え》食《じき》になるだけだ)
弥平次光春はおもった。
が、光春はだまっていた。その程度のことは光秀も考えぬいたあとであろうとおもったからである。
斎藤利三は、反対した。理由は、光春のそれとおなじであった。声をひくめ、しかし語気するどく反対した。
「なりませぬ」
と、最後にいった。
光秀は、青蚊帳のむこうの燭台の焔《ほのお》をながめながらだまりつづけている。やがて、
「それもこれも、考えた。考えぬいたすえの覚悟である。もはや、どうにもならぬ。もし不賛成なら、いますぐわしの首を討て」
「御首を?」
「わしを殺せ。要らぬ、遠慮は」
光秀は、脇差《わきざし》を鞘《さや》ぐるみとって、かれらの膝《ひざ》もとに押しやった。それが、光秀がかれらに話したかった用件の主要内容の一つである。
じつのところ、理屈ではもはや、かれらに対抗できるだけのものを光秀はもっていない。光秀自身、かれらの反対論に同感であった。頭ではなるほどそのとおりであろう。しかし気持はどうにもならない。
「わしを討たぬというなら、そこもとたちの命をわしにくれ」
その二つに一つしかない、と光秀は、むしろ哀願するようにして彼等にいった。
弥平次光春は、ながい吐息をついた。自分の命は光秀とともにある、と叫ぼうとしたが、横に斎藤利三がいる。利三にまず言わせるべきであった。利三は途中から随身した男で、主従の感情は弥平次とはまたちがうであろう。
「殿」
斎藤内蔵助利三は、声をひそめた。
「そのおん《・・》胸のうち、われら二人のほかにたれかにお洩《も》らしなされましたか」
「洩らした」
光秀は、言いづらそうにいった。京の宮廷工作をさせるためと、自分自身を覚悟の底へ追いこむために連歌師の里村紹巴《しょうは》にそれとなく洩らした、とうちあけた。
「——されば」
利三は、大息した。
「やむをえませぬ。いまたとえ殿を諫《いさ》め奉り、殿が翻心なされたところで人の舌は駟馬《しば》(四頭立ての馬車)も及ばず、ということがござりまする。噂《うわさ》はかけめぐって安土殿の御耳に入りましょう。とあらば殿の運命《さだめ》は摂州殿(荒木村重)の二の舞、こうとなればかえって拙者の心もさだまりました。殿の先手を駈《か》けてたとえ地獄にでも討って出ましょうず」
「よう申してくれた」
光秀は小さく頭をさげ、ついで弥平次を見た。弥平次はうなずき、
「内蔵助殿と同心でござりまする」
と、小さな声でいった。
光秀は安《あん》堵《ど》し、しばらく目をつぶっていたが、多少惑乱したのか、
「内蔵助は先刻、世間への悪評のことを申したが、自分には私心はないのだ」
と、妙なことを言いだし、前《さきの》将軍義昭のことに触れた。流亡の義昭はいま中国にあり、毛利軍の精神的支柱として対織田戦の名目上の元帥《げんすい》になっている。義昭の執念はあくまでも足利幕府の再興にかかっていた。
その義昭のために働く、と光秀は言いだしたのである。光秀は年少客気のころをおもいだしつつ、
「自分の前半生は足利幕府の再興のためにささげつくしたようなものであった。その後世が変転し、心ならずも別途を歩んだが、いまとなっては青春のころの気持に立ちかえり、天下を信長から奪ったあとは中国に在《ま》す義昭様にお返し申したい」
というのである。光秀のいうことは転々としていた。前日、愛宕山上で里村紹巴に掻《か》きくどいたときは朝廷に返上し、日本の政道を律令のむかしにもどす、といったかとおもえば、いまは足利家にもどすといっている。そのいずれもが光秀の感情を反映していることは、愛宕山上でも、この青蚊帳のなかでも、光秀は語りつつ涙をにじませていることでわかる。要するに光秀はこの一挙をなんとか正当づけ、弑逆《しいぎゃく》による悪名から自分をのがれさせたい一念なのであろう。
それを、斎藤利三は察した。目を据《す》え、下《した》唇《くちびる》を縮め、
「ご無用でござろう」
と、語気あらくいった。
「男子の行動は明快であらねばなりませぬ。左様に遅疑《ちぎ》し逡巡《しゅんじゅん》し、かつ小刀細工を用いて人目を小ぎたなくお飾りなさるよりも、いさぎよく天下をお取りあそばせ。殿は源氏におわす。征夷大将軍は当然宣《せん》下《げ》相成ります。弑逆であれ簒奪《さんだつ》であれ、堂々天下のぬしになり、民を慰撫《いぶ》し、泰平をひらかるべきでありましょう。御思案のあいだならば、左右前後のことをお考えあそばすのは当然なれど、いったんお覚悟あそばされたる以上、物にお怯《おび》えなさるべきではござりませぬ」
(天下を取る。——)
光秀はあらためてその概念を、自分の感情のなかで自分のものとして考えてみた。自然、泡《あわ》立《だ》つような思いが血のなかに溢《あふ》れ、善悪成否の思いを超えた感動が湧《わ》きあがってきた。
「それが男だな」
光秀はつぶやき、自分に言いきかせようとした。同時に、自分の少年期から思春期にかけてあれほど可愛がってくれた斎藤道三のすさまじいばかりの生涯《しょうがい》をおもいだした。
(道三山城入道こそ、風雲の化《け》身《しん》のようなものだった。道三は自分と信長を愛し、その衣《い》鉢《はつ》を継がせようとし、すくなくとも芸の師匠のごとき気持をもってくれていた。その山城入道の相弟子同士が、やがて本能寺で見《まみ》えることになる。これもあれも、宿命というほかない)
道三一代の風雲の悪業《あくごう》をおもえば、いま自分が信長を討滅して天下をうばうなどのことは感傷にも値いしない。
道三はそれ以上のことをやり、しかも数えきれないほどにやってのけている。そのすべては、美濃の国を外敵からまもり、中世の迷《めい》妄《もう》と無用の権威をこわして近代化するという美名のもとでおこなわれた。道三はその理想をかかげて、そのつどそのつど悪業を浄化してゆき、美濃人の批判をねむらせた。
(できれば道三山城入道のごとくありたい)
と光秀はおもい、そう思うことによって自分を鼓舞しようとした。しかし、光秀は聡明《そうめい》すぎた。自分が道三とは柄《がら》合《あ》いがちがうことを知っているし、時代もちがうことを知っている。道三の時代ならば道三の生涯は成り立ち得た。しかしいまは乱世の色が年々褪《あ》せ、あざやかな色合いをもって世が統一にむかいつつある。世が統一にむかいつつあるときは人は秩序を思い、秩序をおもうときにはそれを維持する道徳を思いこがれる。光秀はそれがわかっている。指弾されるのではないかという怯えが、つねに光秀の脳裏にあり、光秀の思考に弾みをあたえない。
光秀は、ふたりをさがらせた。

翌朝、城内表書院に出た光秀は、すでに有能な指揮官である自分を取りもどしていた。光秀は荷駄《にだ》のみを、西国の戦場にむけて先発させた。
荷駄は、百荷ほどもある。おもに兵糧《ひょうろう》、馬《ば》糧《りょう》、鉄砲の玉薬《たまぐすり》などであった。これらの輜重《しちょう》部隊は、信長に命ぜられたとおりの備中の戦場にゆく。されば家臣たちも世間も、光秀が当然備中へゆくことを疑いもしないであろう。
同時に光秀は京都方面にさぐりを入れ、信長の本能寺宿営がまちがいないことを確かめようとした。
かれの頭脳は機能的に働きはじめたが、しかしやらなかった準備行動もあった。当然、光秀のもとに馳《は》せ参じてくれるであろう丹後宮津城の細川藤孝や、大和の筒井順慶に手紙を書かなかったことである。彼等の参軍を確実にするため、よほど密計を予告しておこうとおもったが、しかし思い決してそれをやめた。予告することによって洩れては、せっかくの計画もくずれ去るからである。あくまでも光秀は共助者をつくらず、単独に決行しようとした。
いよいよ亀山城を出発する日がきた。天正十年六月一日であった。
むろん、斎藤利三、明智弥平次のほか、たれもこの発向《はっこう》の日が巨大な運命の坂をのぼることになろうとは気づかない。
「夜中、出発する。夜なかの何刻《なんどき》になるか、まだわからない。されば陣触れの貝を、聞きもらすな」
という旨《むね》を、朝から通達しておいた。こういう事務的次第も、平素の出陣の場合とかわらない。
暗くなって、光秀は最初の行動を開始した。城内の広間に物頭《ものがしら》(諸隊長)をあつめたのである。
「京の森蘭丸《らんまる》(信長の側近)のもとから、ただいま飛脚が参った。そのため予定がすこしかわるゆえ、ゆめ手違いのないように」
といった。予定の一部変更というのは、出陣の支度ができれば信長がそれを検閲する、そのため直接備中にゆかず、京に立ち寄るように、ということであった。
物頭たちは、承知した。
やがて陣触れの貝が鳴り、兵が動き、城外の野で集結した。
その数、一万三千である。光秀はこの人数を三段にわけた。第一段の隊将は明智左馬助光春であった。これに四王天但馬《たじま》、村上和泉《いずみ》、妻木主計《かずえ》、三《み》宅《やけ》式部など名うての勇将を付属させた。
この夜、月はない。夜半、この軍の中軍に、明智家の象徴である水色桔梗《みずいろききょう》の旗九本がひるがえり、松明《たいまつ》に映えた。
やがて——織田家のなかでもっとも秩序があるといわれているこの一軍が動きだした。
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