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国盗り物語141

时间: 2020-05-25    进入日语论坛
核心提示:時は今 その翌日、京都側の登り口から、連歌師の里村紹巴《しょうは》、同昌叱《しょうしつ》らの一行がのぼってきた。光秀がき
(单词翻译:双击或拖选)
時は今

 その翌日、京都側の登り口から、連歌師の里村紹巴《しょうは》、同昌叱《しょうしつ》らの一行がのぼってきた。
光秀がきのう、京の紹巴のもとに急使を出し、
「愛《あた》宕《ご》山《さん》の西坊にて連歌を興行したい」
という旨《むね》を申し入れてあったのである。紹巴、昌叱はほかならぬ光秀のことだからということでとるものもとりあえず清滝口《きよたきぐち》から山へのぼってきた。
その宗匠一行が午後に到着し、夕刻から西坊の書院で連歌の百韻興行をとりおこなった。
連歌の歴史はふるい。とくに室町時代になってこの京都貴族の文芸あそびは地方大名にまで普及したが、ちかごろはやや衰えはじめた。茶にとってかわられはじめたのである。連歌も茶もおなじくサロンのあそびだが、連歌は文芸的で茶は美術的というべきであろう。
信長は、連歌より茶を好んだ。文芸より美術趣味がつよかったともいえるであろう。織田家では先代の信秀が京からわざわざ連歌師の宗《そう》祇《ぎ》をまねいたりしてなかなかの凝りようであったが、信長は父のその趣味の系譜は積極的には継がなかった。
信長の茶道好みは、体質的なものであろう。たとえば絵師の永楽《えいらく》を発掘してその保護者になったり、異国の異風な服飾をこのんだり、安土城のような前代未《み》聞《もん》の大建築をつくりあげたりする好みとおなじ基盤のものらしい。
その茶道好きは、道三の系譜をひいているというべきであった。道三のもとから濃姫が嫁いできたとき、織田家の家庭にはじめて茶道がもちこまれたといっていい。
信長の好みが、時代に反映した。茶道は京と堺を中心に空前の盛況を示しつつある。
が、一方、連歌は衰えはじめた。信長は茶会を主催しても連歌の興行をあまり主催したがらないからであった。信長の武将たちも多くは茶の席に出ることを好んで連歌には見むきもしない。
光秀と、細川藤孝ぐらいのものであった。自然、宗匠の里村紹巴も、光秀をこの世界の二なき保護者とたのんでいる。
紹巴は、信長にひどい目にあっている。かつて信長が美濃侵略に熱中していたころ、尾張の小牧に城をつくった。そのころ紹巴は京からくだってこの新城落成の祝賀をのべている。そのとき信長から、
「なんぞ一句祝え」
と求められ、即座に、
  あさ戸《と》あけ 麓《ふもと》は柳桜《やなぎざくら》かな
 そう詠《よ》みあげると、信長は大いに怒り、
「武門の新城を、開けるとは何ごとぞ」
と手討にしかねまじい見幕だったので、紹巴はほうほうのてい《・・》で京に逃げもどったことがあった。それ以来、紹巴は信長がにが手であった。
「これはまた、突如なるお思い立ちで、いかがあそばしました」
と、紹巴は光秀にたずねた。
「左様さ」
光秀は、どう説明したものだろうとおもった。突如、京と丹波の国境の山で連歌興行をもよおすなど、異常といえば異常であった。
「このたび上様から備中の陣へ参る旨《むね》、おおせつかった。征《ゆ》けば数年になるかもしれぬと思い、京の名残《なご》りに連歌をもよおしたくなった。——もっとも」
光秀は、憂《うれ》い顔でいった。
「足下《そこもと》に会い、ぜひぜひお頼みしたいこともござってな」
「手前などに——」
頼むとはどういうことか。
光秀はそれについてなにも語らない。紹巴は沈みきった光秀の顔色をみて、次第に不安になってきた。
里村紹巴は連歌師であると同時に、政界人でもある。連歌の席を通じて、親王、公卿《くげ》、大名などと交友がふかく、自然、政界の情報通であった。ときにはその顔を見込まれて打診役をたのまれたり、伝達役をたのまれたりすることが多い。
(日向守《ひゅうがのかみ》は、なにを頼もうとするのか)
そうおもいつつ光秀の顔色をうかがうのだが、そのあせりと不安は読みとれるにしても、なにがその背景になっているかがわからない。
やがて酒肴《しゅこう》がならべられ、筆硯《ひっけん》が一人ずつの膝《ひざ》のまえにくばられた。
「まず、日向守様から発《ほっ》句《く》を」
と、紹巴はいった。
居ならぶ連衆《れんしゅう》は七、八人はいるであろう。専門文士側は、紹巴のほかに養子の昌叱が次席である。ついで兼如《けんにょ》、心前《しんぜん》など、光秀にはおなじみの連中であった。ほかにこの西坊威徳院の院主行祐《ぎょうゆう》、上坊大善院の院主宥源《ゆうげん》などである。
発句をいうべき光秀は、苦吟した。連歌のばあい、うたい出しの発句の出来がよければ、その興行は成功するといわれている。
席は、
光秀
威徳院行祐
紹巴
大善院宥源
昌叱
という順でならんでいる。第三席の紹巴は、光秀の苦吟の様子をみて、
(妙だな)
とおもった。光秀の目の据《す》わりようが異様で、たかが発句の詩想をもとめて苦しんでいるにしては凄《すご》味《み》がありすぎた。
やがて、光秀は、自作をよみあげた。
  時は今 天《あめ》が下《した》しる五月《さつき》哉《かな》
(あっ)
と、紹巴は目をあげた。あげると同時に、光秀は紹巴の視線を避けるようにうつむいた。そのために作者の表情が窺《うかが》い知れない。が、文意は十分に紹巴に理解できる。
「時は今」
ということは、決起の決意をあらわす言葉であろう。しかも光秀の巧《こう》緻《ち》さは、それに、
土岐《とき》は今
という裏の意味をかけている。光秀の明智氏は、美濃の土岐源氏であった。その筋目を誇るがごとく光秀の胸間にあでやかに染めぬかれている定紋は、土岐の桔梗紋《ききょうもん》であった。
天が下しる
とは、五月の雨がふる、ということより、天下を治《し》る、統治するという寓《ぐう》意《い》をふくんでいるとしかおもえない。
(さては、ご謀《む》反《ほん》か)
耳のそばで巨大な戦鼓が鳴ったような思いがし、紹巴の持つ筆のさきが、めだつほどにふるえてきた。
が、それを紹巴のように理解したのは紹巴ひとりで、他はすべていまの季節の五月雨《さみだれ》を詠んだものとしか思っていない。五月雨をよんだ句としても平凡の出来映えではなかった。言葉のひとつひとつが響きを発するような、そういう気おいだちがある。
受けたのは、威徳院行祐であった。この僧は発句を素直に解釈し、おだやかに受けた。
  水上《みなかみ》まさる庭の夏山
 というものであった。五月雨がまさに到来しようという季節、すでに川の源あたりで水量がふえ、庭の夏山にも新緑があざやかである、という意味になるであろう。
「おみごと」
紹巴は、宗匠として職業的な嘆声をあげ、ついで自分の第三句をよみあげた。
  花落つる流れの末をせきとめて
 というものであった。紹巴にすれば、光秀の反逆の決意をはばむ、という意味を託している。この会話《・・》は、光秀にだけ通じた。
光秀は目をあげて、自分の風流の友である紹巴の顔をじっと見つめている。
紹巴は、目をそらせた。
「おつぎを」
と、かれは言わでもの言葉を、第四句をつけるべき大善院宥源にかけた。
「さん候《そうろう》」
宥源は言い「風はかすみを吹き送る暮」と、平凡に受け流した。

そのあと、光秀は紹巴のみを部屋に召し、思春期の少年のようなことをいった。
頃来《けいらい》、淋《さび》しさに堪えかねている。この参《さん》籠《ろう》をさいわい、今夜、語りあかしの相手をつとめてくれぬか。
というのであった。紹巴は、そういう光秀があわれでたまらない。自分のような者でもおよろしければ、とひくい声で答えた。
二人の前に、酒が置かれている。肴《さかな》はするめと煎《い》り豆だけであった。
「先刻の発句の寓意、わかってくれたか」
と、光秀はしずかにいった。しかし紹巴は答えなかった。
「足下を、友として話している。いまからなにを喋《しゃべ》りだすかわからないが、ここだけの話にしておいて貰《もら》いたい」
「それはもう」
紹巴は、やむなくうなずいた。紹巴にしても度胸の要ることであった。もし光秀が反逆に失敗すれば自分も同罪とみられて焚殺《ふんさつ》されてしまうであろう。
「ここ数日後に、天下は一転する。平氏から源氏にうつる」
光秀はいった。信長は、平氏を称している。光秀は美濃の土岐源氏の歴然たる家系である。信長を斃《たお》して天下をとる、という意味である。
「左様な、おそろしきことを」
紹巴は、両手で耳をふさぎたいようなそぶりを示した。
光秀は、そういう紹巴を気の毒だと思ったが、しかし光秀にも理由はあった。この紹巴に自分の内心をうちあけることによって自分自身を決心へ踏みきりたかったのである。
紹巴は、サロンの游泳家であった。この男に打ちあけることは全世界に放送してしまったことと同然であった。いったん口外した以上、光秀はもはやあとにはひけない。そういう立場に、自分を追いこもうとした。
「拙者が平氏を倒したと聞けば」
と、光秀はいった。
「朝廷のほうぼうに吹聴《ふいちょう》してくだされ。拙者は源氏である以上、征《せい》夷《い》大将軍に宣《せん》下《げ》していただきたい。将軍の名によって残る敵を討滅し、天下を平定したあと、政権を朝廷にもどし、律令《りつりょう》の世におかえし申したい。それが光秀の素志であるとお告げくだされよ」
「心得ましてござりまする」
と紹巴はうなずいたが、光秀のいうことの稚《おさな》さには内心おどろいている。信長をたおして政権をうばったあと、朝廷におかえし申すというのである。かえされても朝廷はすでに政治担当能力はなく、有難迷惑《ありがためいわく》というだけのことではないか。
(それが人心収攬《しゅうらん》の手か)
とも、紹巴はおもう。手にしても、あまりにも芸がなさすぎるのである。日本の政治を律令のむかしにかえすなどは、ほとんど感傷的な幻想にすぎない。信長は室町体制をうちやぶって現実に適《あ》うあたらしい政治経済体制をつくりだそうとしているが、その信長をたおす光秀には政治の理想像というほどのものはなく、あるのは懐古趣味的な幻想のみである、というのはどういうことであろう。
(——要するに)
と、紹巴はおもった。光秀にはそれほど烈々たる政権慾はないのかもしれない。政権をうばうよりは信長にうらみをむくいるというのが、第一目的であろう。信長が斃れれば当然ころがりこんでくる政権は、光秀の心象のなかではごく副次的なものとしてあつかわれているにすぎないのではないか。
なににしても、紹巴はこの話題にはあまりかかわりあいたくない。ほどを見はからって寝所にひきあげてしまった。
そのあと光秀も寝床に入ったが、容易にねむれず、ついに一睡もせずに朝をむかえた。
連歌はこの日もひきつづき興行された。つぎつぎと句をつけられてゆくなかで、光秀のみが筆先を遊ばせ、ぼう然としている。
付句がうかびようもないほどの寝不足であった。その疲れきったあたまのなかに明滅しているのは、本能寺の白塗り塀《べい》に銀色のいら《・・》か《・》であった。
「殿のお順番でござりまする」
と、昌叱が声をかけた。
光秀は、はっと目が覚めた。このとき思案のなかにある事柄《ことがら》が、あとさきもなく口を衝《つ》いて出てしまった。
「本能寺の堀の深さは」
という、後世、頼山陽《らいさんよう》の詩で有名になった情景を、光秀は劇中の人のように演じねばならなかった。呟《つぶや》いた言葉は、本能寺の堀のふかさはどのくらいあるのだろう、ということであった。
そのとき紹巴が、
「あら、もったいなや」
と声をはげまして叫ばなかったならば、光秀はどこまでたわごとをつづけていたかわからない。
連歌はつぎつぎと進み、
「色も香も、酔をすすむる花の下」
と昌叱がつけたあと、紹巴がすかさず、
「国はなほ長閑《のどか》なるとき」
と揚《あげ》句《く》をつけ、これで百句の満座になった。
おわって寺僧が盆を持ってあらわれ、
「寺の名物でござる」
といって、笹粽《ささちまき》をすすめた。まず上座の光秀のまえにおいた。
「これは馳《ち》走《そう》にあずかります」
と光秀はこの男らしく丁寧に一礼したが、しかし頭のなかでは別なことを考えていた。手だけが動き、盆に盛られた笹粽をとりあげた。
盆は、つぎへまわる。
光秀はそれを口中に入れた。一同、唖《あ》然《ぜん》として光秀をみつめた。光秀は粽をむ《・》かず、笹のままを噛《か》んでいるのである。
やがて光秀は気づき、粽をすてた。
(どういうことであろう)
紹巴は、光秀をあやうんだ。この放心は心の繊弱なゆえであろう。この繊弱さで、はたして天下がとれるのだろうか。
午後になった。
光秀は、山上に黄金を持ってきていた。それを気前よく分与した。
愛宕権現《ごんげん》には黄金三十枚と鳥目《ちょうもく》五百貫を、参籠《さんろう》した西坊威徳院には五百両を、紹巴以下の連歌師にそれぞれ五十両ずつを分けあたえた。
光秀は下山した。
すぐ丹波亀山城に戻り、その夜は夢もみずにねむった。
翌二十八日、城下に人馬のざわめきがやかましくなった。さきごろの動員令によって、国中の知行所にもどっている家来、被官が城下に集まってきているのである。
「いま、何人いる」
光秀は、ひどくいらだちながら、その人数をきいた。二千、五千、七千、と刻々人数はふえた。あと一日か二日で明智家の全動員人数である一万余に達するであろう。
光秀は、なお思案をつづけていた。起《た》つか起たぬかということを、である。この期《ご》におよんでも嫋々《じょうじょう》として光秀の心はさだまらない。
その翌夜、光秀は意を決し、自分の寝所に左馬助光春と斎藤内蔵助利三をよびよせた。
かれらが来ると、
「これへ、はいれ」
と、自分が入っている蚊帳《かや》へかれらをまねきよせた。この一事だけで、両人は光秀がいまからうちあけようとしている事柄が容易なものではないことを察した。
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