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国盗り物語143

时间: 2020-05-25    进入日语论坛
核心提示:本能寺 光秀の軍が丹波亀山を発したのは、夜十時すぎであった。隊頭は、東へゆく。「西へむかわぬのか」という、行軍の方角につ
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本能寺

 光秀の軍が丹波亀山を発したのは、夜十時すぎであった。隊頭は、東へゆく。
「西へむかわぬのか」
という、行軍の方角についての疑問が士卒のあいだに最初からあった。亀山から備中(岡山県)へゆく道は、ふつう、三《み》草越《くさごえ》をとる。三草越とは大阪府北部の能勢《のせ》のあたりの峠で、これを越えて播州《ばんしゅう》(兵庫県)に出るのが、ふつうの経路であった。むろんそのためには丹波亀山を西に発しなければならない。
しかし軍は東に進んでいる。老《おい》ノ坂《さか》を東に越えれば京都盆地である。
士卒たちの疑問は、物頭によってほどなく解けた。本能寺において信長の閲兵を受けるのだという。それを説明する物頭たちも、無邪気に信じきっていた。
真実を知っているのは、光秀をのぞいて五人であった。光秀は明智左馬助、斎藤内蔵助に明かしたあと、さらに三人の重臣に明かしていた。
道は、ほそい。
徒歩者は二列で歩き、騎乗者は一騎ずつ打たせた。ときどき伝騎が隊列を道わきに押しのけて走った。亀山のひがし、王子で亀山盆地は尽き、森林のなかに入った。道は急坂であった。森の上に星が無数にきらめき、あすの晴天をおもわせた。
ついに老ノ坂を越えた。時刻は零時をすぎているであろう。
(越えた)
という実感が、馬上の光秀の状態を、心理的なものから物理的なものに変えた。越えた以上、もはや光秀はこの物理的勢いに自分の運命をゆだねてゆくしかない。
老ノ坂をくだってゆく光秀は、革命家でもなければ武将でもない。自分の生命を一個の匕《ひ》首《しゅ》に変えて他の生命へ直進する単純勁烈《けいれつ》な暗殺者であった。ただこの暗殺者は一万数千という大軍をひきいている点が、他の類型と異なっている。
坂をくだってしばらくゆくと、中腹に沓掛《くつかけ》という部落がある。家々の軒に馬の沓やわらじを掛けて旅人に売るためにこの称があり、宿駅としては古い。
光秀はここで休止を命じ、全軍に腰兵糧をつかわせた。光秀は村内のふるい神社の境内に入り、そこで矢野源右衛門という物頭をよび意中をうちあけた。
源右衛門は遠江《とおとうみ》の人、はやくからその朴直《ぼくちょく》さを光秀に愛された。光秀からこれほどの大事をうちあけられても、源右衛門は顔色も変えない。自分が何をすればよいのか、この男は知りたいだけであった。光秀は、先兵《せんぺい》隊長として一軍のさきを進め、といった。その目的は、この一軍のなかで光秀の意図に気づき抜け駈《が》けて本能寺へ内応する者があるかもしれない。また行軍の途次、在郷の者が時ならぬ大軍の行軍をあやしみ、本能寺へ速報することもありうる。それらをふせぐためであった。
矢野源右衛門は、先発した。
やがて休止がおわり、隊列はふたたび坂をくだりはじめた。
坂が尽き、野に出た。このあたりの野が、桂《かつら》である。
桂に河があり、桂川という。その桂の渡しを東へわたれば路幅はひろがり、道はひたひたと京の七条に通じてゆく。本能寺までは、七、八キロというところであろう。
夜はなお深い。
司令官としての光秀は緻《ち》密《みつ》であった。この桂をもって攻撃準備地にすることを最初から思案に組み入れ、いまそれを実行した。光秀は軍令をくだした。
「馬の沓を切りすてよ」
行軍中でこそ馬わらじ《・・・》は必要だが、戦闘に入るとかえって邪魔になる。それを捨てよというのは戦場が近い証拠であろう。しかし、どこに戦場があるのか、とみな不審に思った。
「徒歩《かちだち》の者は、あたらしいわらじ《・・・》にはきかえよ」
と、光秀の軍令はこまかい。
「鉄砲の者は火《ひ》縄《なわ》を一尺五寸に切って五本を手に持て。五本とも、火をつけよ。火の消えぬよう、さかさにさげよ」
本格的な戦闘行軍の支度であった。
一同、桂川を押し渡った。渡りおわったとき、士卒はおどろくべきことを知らされた。
「敵は本能寺にあり」
という思ってもみなかった攻撃目標であった。本能寺には信長がいる。その右大臣家をこそ討ち奉る、というのである。斎藤内蔵助は士卒をはげますために、
「今日よりして殿様は天下様におなり遊ばす。しもじも草履取りにいたるまで、このめでたさを勇みよろこべ。侍どもは今日を先《せん》途《ど》とはたらき、家運を興すべし。討死つかまつり候《そうろう》ときは、兄弟、子に家を継がせ、兄弟、子のなきものにはその筋々をさがし出し、その跡を継がせることゆめまちがいはない。されば力《つと》めよ」
と、軍中に触れさせた。その間も一万数千の人数は東にうごいてゆく。
斎藤内蔵助の隊が京都市中に入ったのは午前五時ごろであったろう。
この老練の指揮官は、京都の町内々々の木戸の押しあけ方まで兵に指示した。そのほか、大軍が道路一筋のみを使用するのは時間的な無駄《むだ》であると考え、組ごとにめいめいが道をえらび、本能寺を目標に分進する方法をとった。
さらに内蔵助の指示はゆきとどいている。本能寺のあらかたの位置を教えるだけでなく、闇《やみ》をすかせばこう見えるであろうというその形状までおしえた。本能寺は樹木が鬱然《うつぜん》としているために夜目には森に見え、なかでもサイカチの木が亭々《ていてい》として天に枝を張っている。それが目印だ、と内蔵助はいうのである。

本能寺は、日蓮《にちれん》を宗祖とする本門法華宗《ほっけしゅう》五大本山のひとつである。足利中期に創建され、その後京の市中を転々とし、信長のこのころは四条西洞院《にしのとういん》にある。
信長のふしぎは、これほどひんぱんに京にくるくせに、京に城館をつくらぬことであった。かつては将軍義昭に館《やかた》を建ててやったが、信長自身の宿所ではない。最近、ようやく押《おしの》小路室町《こうじむろまち》に通称二条ノ館というものを造営したが、できあがってから気がかわり、皇太子誠仁《さねひと》親王に進呈してしまった。二条新御所といわれるものがそれである。
信長自身は、つねに寺で泊まった。斎藤道三がその僧侶《そうりょ》時代を送った妙覚寺が定宿であったが、最近はもっぱら本能寺を用いた。
信長の経済感覚が、そうさせているようにおもわれる。建物は建造費もさることながら維持費が大きい。いささかの金でも天下経略のためにつかおうというこの合理主義者にとっては、無用の費《つい》えであった。
そのかわり、本能寺を大きく城郭式に改造している。それも最近であった。最近工事を命じ、付近の民家を立ちのかせ、まわりにあらたに堀を掘り、その土を掻《か》きあげて土居《どい》をきずき、ところどころに城戸《きど》を設け、出入りを警戒していた。信長の経済観でいえば、この程度の設備なら、信長不在中は寺がその維持を受けもつであろうというところであったろう。堀、土居、塀《へい》はできあがっているが、塀はまだ塗装されていない。
この日の日中、右大臣信長は公卿《くげ》衆の来訪を受け、夜に入って嫡子《ちゃくし》の左中将《さちゅうじょう》信忠があそびにきた。信忠は二十五歳で、この時期信長とともに入洛《じゅらく》し、かれは信長の定宿であった妙覚寺に手の者五百人とともに宿営していた。ちなみに信長の本能寺における人数は、わずか二百人である。
信長はこの夜、ひとも首をかしげるほどに機《き》嫌《げん》がよく、歓談に時を移し、信忠が辞し去ろうとしても、
「まあよいではないか」
と押しとどめた。
信長は、満で四十八になる。その齢《とし》とは思えぬほどのよく撓《しな》う筋骨と張りのある声、鋭気に満ちた目をもっており、一瞬間といえども老いを人に感じさせたことがない。ところがこの夜にかぎって話が古い。かつてないことであった。その苛《か》烈《れつ》すぎる前半生を回顧しつつ、その追想のなかに登場する人物をこきおろしたり、嘲弄《ちょうろう》したり、かとおもうと激賞したりして、時のたつのをわすれているふぜいであった。この男が越し方を回想するなどはかつてないことだし、またこれほど長く喋《しゃべ》ることもまれなことであったろう。
夜ばなしの相手は、信忠のほかに信長の文官の村井貞勝以下の側近たちで、かれらはそういう信長を、ときどき不審におもった。
夜ふけになって、信忠は辞し、宿所の妙覚寺に帰って行った。
信長は、快く疲れた。やがて侍女にも手伝わさずに白綾《しろあや》の寝巻に着更《きか》え、寝所に入った。次室には宿直《とのい》の小姓がおり、そのなかに信長の寵童《ちょうどう》森蘭丸がいる。ことし数えて十八歳で、すでに童《わらわ》ともいえないが、信長の命令で髪、衣服をいまなお大人にしていない。森家は美濃の名門の出で、亡父可成《よしなり》はかつて斎藤道三に仕え、ついで織田家に転仕し、美濃兼山《かねやま》の城主であったが、浅井・朝倉との戦さで討死した。信長はその可成の遺児をあわれみ、とくに蘭丸を愛し、美濃岩村五万石をあたえ、童形《どうぎょう》のままで加《か》判《はん》奉行にも任じさせていた。
夜明け前、にわかに人の群れのどよめきと銃声をきいたとき、目ざとい信長は目をさました。
「蘭丸、あれは何ぞ」
襖《ふすま》ごしでいった。信長は、おそらく足軽どもの喧《けん》嘩《か》であろうとおもった。蘭丸も同時に気づき、「されば物見に」と一声残し、廊下をかけて高欄に足をかけた。東天に雲が多く、雲がひかりを帯び、夜がようやく明け初めようとしている。
その暁天《ぎょうてん》を背に兵気が動き、旗が群れ、その旗は、いまどき京にあらわるべくもない水色桔梗の明智光秀の旗であった。
蘭丸は高欄からとび降り、信長の寝所に駈けもどった。
信長はすでに寝所に灯をつけていた。
「謀反でござりまする」
蘭丸は、指をついた。そばに堺《さかい》の商人で信長気に入りの茶人でもある長谷川宗仁《そうにん》がいたが、宗仁のみるところ、信長はいささかもさわがない。両眼が、らん《・・》と光っている。
「相手は、何者ぞ」
「惟任《これとう》光秀に候」
と蘭丸がいったとき、信長はその癖でちょっと首をかしげた。が、すぐ、
「是非に及ばず」
とのみいった。信長がこの事態に対して発したただ一言のことばであった。どういうことであろう。相変らず言葉が短かすぎ、その意味はよくはわからない。反乱軍の包囲をうけた以上もはやどうにもならぬという意味なのか、それともさらに深い響きを信長は籠《こ》めたのか。人間五十年化《け》転《てん》ノウチニクラブレバ夢マボロシノゴトクナリという小謡《うたい》の一章を愛唱し、霊魂を否定し、無神論を奉じているこの虚無主義者は、まるで仕事をするためにのみうまれてきたような生涯《しょうがい》を送り、いまその完成途上で死ぬ。是非もなし、と瞬時、すべてを能動的にあきらめ去ったのであろう。
そのあと信長の働きはすさまじい。
まず弓をとって高欄に出、二矢《し》三矢《し》とつがえては射放ったが、すぐ音を発して弦《つる》がきれた。信長は弓を捨て、機敏に槍《やり》をとり、濡《ぬ》れ縁をかけまわり、あちこちから高欄へよじのぼろうとする武者をまたたくまに二、三人突き落した。
この働きは、事態の解決にはなんの役にもたたないが、信長は弾みきったその筋肉を動かしつつ奮戦した。この全身が弾機《ばね》でできているような不可思議なほどの働き者は最後まで働きつづけようとするのか、それとも自分の最後の生をもっとも勇敢なかたちで飾ろうというこの男の美意識によるものか、おそらくはそのいずれもの織りまざったものであろう。
信長は、自分の美意識を尊重し、それを人にも押しつけ、そのために数えきれぬほどの人間を殺してきたが、かれ自身が自分を殺すこの最期《いまわ》にあたってもっともそれを重んじた。
駈け入るなり、宗仁をよび、
「汝《うぬ》は武士ではないゆえ、死ぬな。死なずに女どもを取りまとめて落せ。信長が最後に、女どもを道連れにして死んだとあれば、世間に対してきたなし」
と言い、ひるむ宗仁を叱《しか》りつけ、その命令どおりにさせた。信長はそのあと殿舎に火をかけさせた。ふたたび濡れ縁に出ると、明智の兵は庭にみちみちている。
その大軍に対し、信長の側近はよく戦い、厩中間《うまやちゅうげん》でさえことごとく武器をとって奮戦してつぎつぎと討たれ、また町方に宿舎をとっていた者も駈けつけて乱軍のなかで死んだ。
そのとき、濡れ縁を伝って信長のそばに駈け寄ってきた者があり、自分の名を名乗った。明智家で槍をとっては無双といわれた美濃石津郡出身の安田作兵衛国次であった。槍の穂を沈め、息をはずませ、
「右大臣家、御免候え」
と叫んだとき、信長はふりむき、蹴《け》あげるような声で一喝《いっかつ》した。安田は威にうたれたのであろう、両膝《ひざ》を折り、不覚にも信長を拝《はい》跪《き》した。
信長は、あとをも見ずに奥へ駈け入り、納《なん》戸《ど》の重い戸を立てきり、さらに障子を閉じ、室内にすわるや、燭台《しょくだい》をひき寄せた。
もはや、信長がこの世でなすべきことは、自分を殺すこと以外にはなかった。この自尊心のつよすぎる男にとっては、自分を殺す者は自分のほかにありえないであろう。
信長は、腹を掻《か》き切った。たれが介錯《かいしゃく》をしたのか、よくわからない。首が落ち、活動をようやく停止したその体は、ほどなく炎で焼かれ、灰になった。
この信長の死よりもわずか以前に、その夫人濃姫が庭さきで死んだ。濃姫はかつてその居城の奥を離れたことがなかったが、このたび信長にすすめられ、共に安土を出、京に入り、この本能寺にいた。
「敵は光秀」
ときいたとき、濃姫の胸はどうであったであろう。彼女は即座に身支度をし、二重に鉢《はち》巻《まき》を結び、辻《つじ》ノ花という大模様を染めた小《こ》袖《そで》に花《はな》田《だ》色《いろ》の襷《たすき》をかけ、白《しら》柄《え》の薙刀《なぎなた》をとって殿舎の広庭へ出、そこで戦ううちに明智方の山本三右衛門という者の槍にかかって崩れ、そのまま果てた。濃姫は子がなく、彼女もまた実父道三の血をあとに残さなかった。
 死が、さらにつづいている。
妙覚寺宿所の嫡子信忠であった。
この寺は、室町薬師寺町にあり、二条新御所はすぐそばに石垣をそびえさせている。
信忠は妙覚寺が要害でないと見、同勢をひきいて打って出、包囲軍を打ち崩しつつこの二条新御所に移った。
移ってから、信忠はこの新御所の居住者である誠仁親王を戦火にひき入れることをおそれ、包囲軍に対して軍使を送った。その言うところは、親王が他の場所に移座されるまで戦いをやめよ、ということであった。
このとき、光秀は三条堀川に本営をかまえていたが、即座にそれを承知した。
親王は、東の城門から荷輿《にないこし》で出られた。この荷輿は、たまたまこの夜親王のそばにあった連歌師里村紹巴が町家をかけまわって手に入れてきたもので、粗末な板輿であった。
親王は去り、銃声がおこり、戦闘は開始された。
信忠付の士には、高知な者が多かった。かつて斎藤道三の家来だった者で、猪子兵助《いのこひょうすけ》という者がいる。信長若年のころ、道三と信長が富《とみ》田《た》の聖徳寺で舅婿《しゅうとむこ》の対面をした帰路、道三が、「兵助、信長をどう見たぞ」とたずねたあのときの猪子兵助である。兵助はそのとき、「ききしにまさるうつけ者でござりまするな」といった。が、道三はかぶりを振り、
「あの者の門に、おれの子らは馬をつなぐことになるだろう」
といった。
その道三も長《なが》良《ら》川《がわ》の河《か》畔《はん》で義子のため殺され、あのとき道三が将来を予言した婿の信長は予言された以上の生涯を生き、しかも道三がむかし、夫人小見《おみ》の方《かた》の甥《おい》ということもあってその才智を愛した光秀によって今暁殺された。その三代の乱を、兵助は見た。余談ながら、兵助はなお生きつづけている。二条新御所陥落のあと乱軍のなかを斬《き》りぬけて落ち、その後秀吉につかえて余生を全うした。
信忠は午前十時まで戦い、やがて二条新御所に火を放ち、腹を切り、短刀を突きたててから、
「死体はあの縁の下にほうり入れよ」
と命じ、鎌《かま》田《た》新介という者に首を打たせて果てた。そのあと火炎が御所を蔽《おお》い、この信長の嫡子の死体をふくめてことごとくを灰にした。
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