午後三時すぎ、美由紀は試験会場からほど近い臨床心理士会の事務局を訪ねた。この時刻、職員はまずほとんど出払っている。きっといつものように、舎利弗がひとりで留守番をしているだろう。
予想どおり、待合室は薄暗くひっそりとしていた。美由紀が歩を進めていくと、事務室から舎利弗が顔をのぞかせた。
くつろいでいたらしい。チョコレートバーを頬張りながら、舎利弗がいった。「やあ、おかえり。試験どうだった」
どうもこうもない。ひどく落ち着かない気分だ。美由紀は足ばやに舎利弗に近づきながら、不安をぶつけた。「聞いてよ、舎利弗先生。なにか変なの」
舎利弗はぽかんとした顔で見かえした。「どうかしたのかい?」
「わたしよりずっと経験豊富な人たちが、みんな例の表情観察についてはわたしに驚いた顔を向けてくるの。最初は後輩を励ますつもりで大げさにリアクションしてくれてるんだと思ってたけど、違うみたい。試験の面接の人までびっくりしてるのよ」
「びっくり? 驚いただけじゃなくて、びっくり? それほんと?」
「ほんとよ。驚きと、びっくりは似て非なるものでしょ。驚きは目が見開かれて眉毛《まゆげ》があがり、口を開ける。びっくりはその正反対、目を細めて眉毛は下がり、唇はきつく結ばれる」
「面接官がそんな表情をしたの? びっくりの表情は、驚きの表情よりさらに短いはずだよ。四分の一秒から二分の一秒のあいだに表れ、消えてしまうはずだ。それを見逃さなかったってのかい?」
「ええ。そんなの、向かい合わせているんだから見過ごすわけないでしょ。なにが変だっていうの。いまもわたしは、あなたがそのチョコレートバーの破片が右の奥歯にひっかかっているのを取り除きたがっていることや、思ったほど甘くなかったのが不満なこと、コーラもしくは炭酸系のジュースを飲みたいと思ってること、そしてわたしがなにを取り乱しているのかわからず、抑うつ性人格障害にでもなったのかと疑いを持ち、その直後にそんなはずはないと打ち消した。それぐらいのことがわかるけど、これっておかしいの?」
「そりゃ……おかしいよ」
美由紀は口をつぐんだ。
表情から感情を読む方法を教えてくれたはずの舎利弗が、あきらかに驚きのいろを浮かべて、唖然《あぜん》としながら美由紀を眺めている。
舎利弗はいった。「ぜんぶ正解だ。ベテランの臨床心理士だろうが誰だろうが、仰天するはずだ」
「どうして?……わたし、教わったとおり理論的に結論を導きだしているだけだし……」
「ああ、それはわかる。わかるんだけど……。速すぎるよ。常識じゃ考えられない速さだ」
「速いって……なにが?」
しばし沈黙があった。舎利弗は手もとのチョコレートバーを眺めながら、考える素振りをしていた。その眉間《みけん》に深い縦じわが刻まれる。
やがて舎利弗が唸《うな》るようにいった。「おそらく、きみの動体視力のせいだろうな」
「え?」今度は美由紀自身が驚く番だった。「それって……」
「きみは空自でパイロットだったんだろ? 音速を超える戦闘機の操縦|桿《かん》を握ってた。視力も二・〇以上、目に見えるものはなにもかも見逃さず、一瞬で判断を下さなきゃならなかったはずだ。もともと素質のある人間がパイロットに選ばれるんだろうけど、女性自衛官初めての戦闘機乗りだったきみの場合、動体視力はさらに卓越したものだったはずだ」
「だけど、パイロットの世界でもわたし以上に優れた人はいっぱいいたのよ」
「そうだろうけど、臨床心理学を勉強して、表情の読み取り方のレッスンを受けたのはきみぐらいのものだろ? 動体視力と心理学の知識、観察の技能が組みあわさって、その特異な能力となって結実したんだよ。たぶん臨床心理学史上、ほかに例をみない存在だ」
ほかに例をみない。
そのひとことが胸に突き刺さった。このところ感じていた疎外感の理由は、そこにあったのだ。
同じ道を歩む人々がいれば、苦労を分かち合うことができる。防衛大だろうと自衛隊だろうと、真の孤独とは無縁だった。けれども、いまは違う。
自分の感覚を共有できる人間は、誰もいない。絶対音感を持つ人が不協和音を苦痛がるように、いまのわたしには、他人の感情がわかりすぎることが辛《つら》い。どこへ行っても、誰に目を向けても、その思いがたちどころにわかってしまう。
現に、舎利弗がわたしに近づきがたいものを感じだしたことを、わたしは悟っている。
舎利弗は困惑ぎみに後ずさった。「飲み物をとってくるよ。きみもどう?」
「ええ……」美由紀はつぶやいた。
冷蔵庫に向かいながら、舎利弗がいった。「いやあ、こんなこともあるんだな。いままで臨床の世界では友里佐知子先生が千里眼だなんて呼ばれてたけど、きみはその上を行きそうだな」
千里眼だなんて。わたしはそんな特殊な人間ではない。
ふと、自分にも読みとれなかった感情があることを思いだした。そうだ、わたしにも欠点はある。人から疎外されるほど特異な存在ではないはずだ。
美由紀は舎利弗の背にたずねた。「ターゲル検査ソフトって知ってる?」
「ああ。事務室のパソコンの棚にあるよ。ふつう臨床の現場で読み取る必要のない表情ばかり収められてるやつだけど……」
「うん、面接の人もそういってた。見てもいい?」
いいよ。返事を聞いてすぐ、美由紀は事務室に駆けこんだ。
棚からターゲル検査ソフトのパッケージを見つけだす。ドイツ語の表記だった。取りだしたディスクをパソコンにセットしたとき、机の上のソフトビニール人形が目に入った。
「なにこれ? ウルトラマン?」
「ああ」と舎利弗の声がドアの向こうからきこえた。「ウルトラセブンだよ」
「こんなの持ちこむなんて。子供みたい」
「まあ、その、暇なんで。でもドラマは結構おとな向けなんだよ。それに僕らの学問にも無縁じゃないし。最後は過労で倒れたしね」
「過労?」美由紀はウルトラセブンの人形を眺めた。「これが? なんで過労になったの?」
「そりゃ、怪獣と戦いすぎたからさ」
「冗談でしょ」
「いいや。本気だよ。……どうやらきみも、僕の顔が見えなきゃ本心はわからないらしいな」
「それはそうよ」
ソフトが起動し、モニターにメニュー画面が表示された。美由紀は検索窓に、面接で耳にした画像の分類を入力した。Dの一九四のA三。
エンターキーを叩《たた》いてほどなく、例の笑いを浮かべた男性の顔が表示された。
いったいどんな感情なのだろう。美由紀は解答を表示するためにF2キーを押した。
表示された解答はドイツ語だった。
予想どおり、待合室は薄暗くひっそりとしていた。美由紀が歩を進めていくと、事務室から舎利弗が顔をのぞかせた。
くつろいでいたらしい。チョコレートバーを頬張りながら、舎利弗がいった。「やあ、おかえり。試験どうだった」
どうもこうもない。ひどく落ち着かない気分だ。美由紀は足ばやに舎利弗に近づきながら、不安をぶつけた。「聞いてよ、舎利弗先生。なにか変なの」
舎利弗はぽかんとした顔で見かえした。「どうかしたのかい?」
「わたしよりずっと経験豊富な人たちが、みんな例の表情観察についてはわたしに驚いた顔を向けてくるの。最初は後輩を励ますつもりで大げさにリアクションしてくれてるんだと思ってたけど、違うみたい。試験の面接の人までびっくりしてるのよ」
「びっくり? 驚いただけじゃなくて、びっくり? それほんと?」
「ほんとよ。驚きと、びっくりは似て非なるものでしょ。驚きは目が見開かれて眉毛《まゆげ》があがり、口を開ける。びっくりはその正反対、目を細めて眉毛は下がり、唇はきつく結ばれる」
「面接官がそんな表情をしたの? びっくりの表情は、驚きの表情よりさらに短いはずだよ。四分の一秒から二分の一秒のあいだに表れ、消えてしまうはずだ。それを見逃さなかったってのかい?」
「ええ。そんなの、向かい合わせているんだから見過ごすわけないでしょ。なにが変だっていうの。いまもわたしは、あなたがそのチョコレートバーの破片が右の奥歯にひっかかっているのを取り除きたがっていることや、思ったほど甘くなかったのが不満なこと、コーラもしくは炭酸系のジュースを飲みたいと思ってること、そしてわたしがなにを取り乱しているのかわからず、抑うつ性人格障害にでもなったのかと疑いを持ち、その直後にそんなはずはないと打ち消した。それぐらいのことがわかるけど、これっておかしいの?」
「そりゃ……おかしいよ」
美由紀は口をつぐんだ。
表情から感情を読む方法を教えてくれたはずの舎利弗が、あきらかに驚きのいろを浮かべて、唖然《あぜん》としながら美由紀を眺めている。
舎利弗はいった。「ぜんぶ正解だ。ベテランの臨床心理士だろうが誰だろうが、仰天するはずだ」
「どうして?……わたし、教わったとおり理論的に結論を導きだしているだけだし……」
「ああ、それはわかる。わかるんだけど……。速すぎるよ。常識じゃ考えられない速さだ」
「速いって……なにが?」
しばし沈黙があった。舎利弗は手もとのチョコレートバーを眺めながら、考える素振りをしていた。その眉間《みけん》に深い縦じわが刻まれる。
やがて舎利弗が唸《うな》るようにいった。「おそらく、きみの動体視力のせいだろうな」
「え?」今度は美由紀自身が驚く番だった。「それって……」
「きみは空自でパイロットだったんだろ? 音速を超える戦闘機の操縦|桿《かん》を握ってた。視力も二・〇以上、目に見えるものはなにもかも見逃さず、一瞬で判断を下さなきゃならなかったはずだ。もともと素質のある人間がパイロットに選ばれるんだろうけど、女性自衛官初めての戦闘機乗りだったきみの場合、動体視力はさらに卓越したものだったはずだ」
「だけど、パイロットの世界でもわたし以上に優れた人はいっぱいいたのよ」
「そうだろうけど、臨床心理学を勉強して、表情の読み取り方のレッスンを受けたのはきみぐらいのものだろ? 動体視力と心理学の知識、観察の技能が組みあわさって、その特異な能力となって結実したんだよ。たぶん臨床心理学史上、ほかに例をみない存在だ」
ほかに例をみない。
そのひとことが胸に突き刺さった。このところ感じていた疎外感の理由は、そこにあったのだ。
同じ道を歩む人々がいれば、苦労を分かち合うことができる。防衛大だろうと自衛隊だろうと、真の孤独とは無縁だった。けれども、いまは違う。
自分の感覚を共有できる人間は、誰もいない。絶対音感を持つ人が不協和音を苦痛がるように、いまのわたしには、他人の感情がわかりすぎることが辛《つら》い。どこへ行っても、誰に目を向けても、その思いがたちどころにわかってしまう。
現に、舎利弗がわたしに近づきがたいものを感じだしたことを、わたしは悟っている。
舎利弗は困惑ぎみに後ずさった。「飲み物をとってくるよ。きみもどう?」
「ええ……」美由紀はつぶやいた。
冷蔵庫に向かいながら、舎利弗がいった。「いやあ、こんなこともあるんだな。いままで臨床の世界では友里佐知子先生が千里眼だなんて呼ばれてたけど、きみはその上を行きそうだな」
千里眼だなんて。わたしはそんな特殊な人間ではない。
ふと、自分にも読みとれなかった感情があることを思いだした。そうだ、わたしにも欠点はある。人から疎外されるほど特異な存在ではないはずだ。
美由紀は舎利弗の背にたずねた。「ターゲル検査ソフトって知ってる?」
「ああ。事務室のパソコンの棚にあるよ。ふつう臨床の現場で読み取る必要のない表情ばかり収められてるやつだけど……」
「うん、面接の人もそういってた。見てもいい?」
いいよ。返事を聞いてすぐ、美由紀は事務室に駆けこんだ。
棚からターゲル検査ソフトのパッケージを見つけだす。ドイツ語の表記だった。取りだしたディスクをパソコンにセットしたとき、机の上のソフトビニール人形が目に入った。
「なにこれ? ウルトラマン?」
「ああ」と舎利弗の声がドアの向こうからきこえた。「ウルトラセブンだよ」
「こんなの持ちこむなんて。子供みたい」
「まあ、その、暇なんで。でもドラマは結構おとな向けなんだよ。それに僕らの学問にも無縁じゃないし。最後は過労で倒れたしね」
「過労?」美由紀はウルトラセブンの人形を眺めた。「これが? なんで過労になったの?」
「そりゃ、怪獣と戦いすぎたからさ」
「冗談でしょ」
「いいや。本気だよ。……どうやらきみも、僕の顔が見えなきゃ本心はわからないらしいな」
「それはそうよ」
ソフトが起動し、モニターにメニュー画面が表示された。美由紀は検索窓に、面接で耳にした画像の分類を入力した。Dの一九四のA三。
エンターキーを叩《たた》いてほどなく、例の笑いを浮かべた男性の顔が表示された。
いったいどんな感情なのだろう。美由紀は解答を表示するためにF2キーを押した。
表示された解答はドイツ語だった。
Er starrt bei der Frau an, die er liebt.
彼は、愛する女性を見つめている……。
恋愛感情。美由紀は愕然《がくぜん》とした。
なぜわたしにわからなかったのだろう。わたしには恋愛の経験もある。それなのに、どうして実感できなかったのだろう。
恋愛感情。美由紀は愕然《がくぜん》とした。
なぜわたしにわからなかったのだろう。わたしには恋愛の経験もある。それなのに、どうして実感できなかったのだろう。