山手通りを飛ばして、住宅街の真ん中にある大崎民間飛行場のゲートにガヤルドを乗りいれたのは、部屋をでて二十分ほど経ったころだった。
ゲートは無人同然に開け放たれていた。もともと、常駐の警備員もいないほどの小さな施設だ。入り口を警戒する習慣はないのだろう。
セスナやジャイロコプターなどの小型機が連なる滑走路付近にクルマを停めると、美由紀は外に降り立ち、管制施設のビルに向かって走った。
すでにそこは警官と報道陣らでごったがえしていた。拡声器で屋上に呼びかけている人物の背には、見覚えがあった。
面接で会った、資格認定協会の専務理事だ。してみると、スーツ姿の男たちに臨床心理士も混ざっているのだろう。
見あげると、ビルはテレビで観たよりずっと高く思えた。縁《へり》ぎりぎりに立つ男の姿はまさに点のようだ。
専務理事の声が響く。「とにかく落ち着いて、その場に腰を下ろしてください。ゆっくり深呼吸して。安全な場所までさがるんですよ。話は充分に時間をとってうかがいます。誰もあなたを責めたりしません」
ちがう。専務理事はあの男の心理を見誤っている。彼は心から自殺を望んでいるわけではない。
人を掻《か》き分けて専務理事のいるところまでたどり着こうともがいた。と、そのとき、聞き覚えのある男の声がした。「美由紀。美由紀じゃないか」
はっとして振りかえると、舎利弗がいつものように丸く目を見開いて立っていた。
「あ、舎利弗先生。なんでここに?」
「付近にいた臨床心理士で手が空いている人間は、全員招集されたから……。きみのほうこそ、どうしたんだい」
「聞いて。あの男性は自殺を図ろうとしてるわけじゃないの」
「なんだって? でも現にああして……」
「こんな事態になったことに戸惑いを覚えている。うつ病患者っていうわけでもないわ。気分障害の兆候はみられない。でも気弱なうえに、第一次被暗示性が高いように思えるの。最初はその意志がなかったのに、周りが彼を自殺者だとみなしていると、実際に自分が死にたがっていたんじゃないかと錯覚しはじめるのよ」
「え……? いや、まあ、なくはないが、でもそんな……。いまの僕らがあの男性を追い詰めていると?」
「そう。周囲も彼の死を望んでいる、そんなふうに思い違いをする」
「暗示で自殺は実行できないだろう。本能的に防衛するはずだ」
「うつ病でなくても、ほかに精神的に不安定になる理由があるのかもしれない。どっちにしても、彼の現在の心の状態を尊重して、そこから対話を始めないと……」
ふいに制服警官が近づいてきた。「失礼。報道のかたですか?」
舎利弗がおどおどといった。「ええと……彼女は、臨床心理士である僕の知り合いで、助手のようなもので……」
「許可のあった関係者のかたしか、ここにはいられません。ただちに退去してください」
「いや、でも……」
「いいの」美由紀はため息をつき、舎利弗に告げた。「もう行くから」
困惑ぎみに見送る舎利弗の視線を背に感じながら、美由紀は人の輪からでていった。
わたしの能力を理解している舎利弗は、耳を傾けようとしてくれる。それでも、専務理事を説得するとなると困難だろう。人からみれば、わたしの主張は独断にすぎない。
憂鬱《ゆううつ》な気分で喧騒《けんそう》から遠ざかったとき、ジャイロコプターの機体が目に入った。
バイクのように乗員がむきだしになるコックピットに、ヘリのようなメインローターがついた小型の飛行用マシン。幹部候補生学校時代に訓練で乗ったことがある。これなら……。
そう思ったときには、すでに美由紀は機体に駆け寄っていた。まだ周囲の誰も美由紀を不審がる気配をみせていない。
コックピットに乗りこみ、イグニッションスイッチを押した。軽いエンジン音はトラクターのようだ。
メインローターが回転を始めると、騒音と風圧でさすがに人々が気づきだした。
唖然《あぜん》とこちらを眺める人の群れのなかで、舎利弗が怒鳴っているのがきこえる。「美由紀! どうするつもりだ!?」
わたしにできることをするだけだ。美由紀は操縦|桿《かん》を前に倒して機体を滑走路に差し向けた。
ヘリは垂直に上昇できるが、ジャイロコプターの場合は前進させて主翼に下から空気を当てねばならない。滑走路上で速度を上げていったんビルから遠ざかる。速度計よりも、顔に感じる風圧をたよりに操縦桿を引いた。機首がぐんと持ちあがった。視界に青い空がひろがる。ジャイロコプターは高度をあげていった。
旋回し、ビルのほうに進路を変える。眼下をちらと見やると、誰もが揃ってこちらを眺めていた。専務理事は拡声器を手にしたまま凍りついている。
これで資格も一生手に入らないかもしれない。運命とは、そんなものだろうと美由紀は思った。もう目的などない。臨床心理士になっても、意味はない。
屋上に迫ると、バルコニーの外側に立った男がびくついたのが見てとれた。美由紀は片手をあげて、心配しないでとしめした。さらに高度をあげてビルの高さを追い越し、そこから徐々に下降する。
着陸もヘリのようにはいかない。さほど広さのない屋上に対し斜めに進入し、タイヤを接地させる。シートベルトをはずし、横っ跳びに機体から脱出した。無人のジャイロコプターはビルのバルコニーにがつんと打ちつけて、あたかも目を回したかのように屋上をさまよった。
美由紀はコンクリートの屋上に叩《たた》きつけられた痛みを堪《こら》えながら、立ちあがった。迷走する機体に駆け寄り、コックピットのスイッチを切る。エンジン音がやんで、メインローターは失速しはじめた。
ふうっとため息をつき、美由紀は振りかえった。反対側のバルコニーのフェンスの向こうで、男は怯《おび》えた顔でこちらを眺めている。
「なんだ?」男は震える声できいてきた。「いったいどうしたってんだ。あんた誰だ?」
「落ち着いてよ。わたしは岬美由紀」
「岬? 何者だよ」
「何者って……いまは無職かな。さっきまで引き籠《こ》もってテレビ観てたし、強いていえばニート」
「ニートがなんの用だ。こんな無茶して。俺が飛び降りたらどうするつもりだったんだ」
「いいえ。あなたは飛び降りないとわかってた。自殺の意志がないってこともね。あなたはおそらく、無断でここに立ち入り、なにかのはずみで扉に鍵《かぎ》がかかって、降りられなくなった。困り果てて、なんとか下の窓に移ろうと、勇気を振りしぼってバルコニーの外側に出たけど、そこで地上の人に見つかり通報されてしまった。誰もがあなたを自殺志願者と思っているせいで、あなたは進退きわまった」
男は衝撃を受けたようすで目をむいた。「どうしてそれを……」
「あなたの表情には当惑という感情しか浮かんでいなかったからよ。心配ないわ。ゆっくりこっちに来て」
だが男は、また情けない顔をして首を横に振った。「駄目だよ……。いまさら降りていったら、怒られる。会社もクビになる」
「きちんと理由を話せばだいじょうぶよ」
「どんな理由を? 俺は外回りの営業をさぼって、ここで景色を眺めることが日課になってた。それだけのことだ。どうやって上司にいえる?」
「冷静になって。そもそも、なぜここに頻繁に立ち寄るようになったの?」
ちらと男は地上を見下ろした。それからびくついた顔で美由紀を振り向き、泣きだしそうな声で告げてきた。「前から自殺を考えてたのかも」
「それはないわ」
「なんでそんなことがいえるんだよ」
「聞いて。あなたがいまそんなふうに感じるのは、この状況から逃れたいという一心からよ。そのために衝動的に飛び降りを図ろうとする気持ちと、踏みとどまろうとする意志が葛藤《かつとう》してる。でも、自分の苦しみを和らげるために、自殺を正当なものとして受けいれようとしはじめているの。以前は自殺なんて本気で考えもしなかったのに、この雰囲気のせいで、何度かそう感じたように思えるのよ」
「嘘だ」
「いいえ。ほんとよ」
「前にもバルコニーからこっちに出たことがあるぞ」
「それって、確かなことなの? よく考えて」
「いや……よく覚えてないが、ここから真下を眺める光景を、以前にも目にしたと思う。だから本当だ」
「違うのよ。それは既視感っていうものにすぎない。自我の一時的分裂で生じるのよ」
「なんだ? 難しすぎる。もっとわかりやすくいえ」
「あなたはバルコニーを乗り越えてから、ずっとひとつのことだけ考えてたわけじゃないでしょ。いま自分が置かれている状況から気持ちが逸《そ》れて、家庭のことや、仕事のことを考えたりした。そこからまた現状を認識する心理に戻ったとき、その認識は二度目だから、前にもそんなことがあったように思えるの。日常よくある心理現象よ」
「ああ……。たしかに……そうかな」
「間違ってたら教えて。あなたはたぶん、パチンコかゲームが好きで、以前はそれにハマることで昼間のサボり癖がついた」
「おい!」男は塀のなかの囚人のように、フェンスにしがみついてきた。「パチンコ好きだなんて、どうしてわかるんだ!?」
ゲームでなくパチンコか。美由紀はつづけた。「瞬《まばた》きが少ないから、トランス状態に陥りやすいってことがわかるの。パチスロは苦手でしょ? 集中力は長い時間、持続しないみたいだから。あなたはその趣味でお小遣いを使い果たして、それ以降ここで時間をつぶすようになった。いつも周囲の空気に染まりがちで、影響されやすい自分を感じているはず……。いまもそうでしょ? 自殺することが人々の期待に応《こた》えることのように思いはじめてる。それでも自殺できない自分の情けなさに腹が立ってしょうがない。そうじゃない?」
突如、男はむせび泣きだした。
美由紀はフェンスの隙間からハンカチを差しいれた。「だいじょうぶ?」
「ああ」男はしきりに涙をぬぐいながらうなずいた。「飛び降りすらできないなんて……情けないよ」
「だから、それは違うんだって。自殺願望は錯覚にすぎないの。あなたは周りに受けいれられようと、いつも自分の意志を曲げて、最初から他人の望むかたちを自分も望んでいたんだと、錯覚させることで平常心を保ってきた。でも、そんなのは本当のあなたの人生じゃないわ。あなたは、自分の意志を持っていいの。やりたくないことは、やらなくたっていいのよ。少しずつでも、自分がどうしたいかをあきらかにするように努力してみて。自分を偽っちゃいけないのよ」
男は泣きじゃくり、フェンスにすがりついていた。
もう心配ないな、と美由紀は感じた。心が落ち着いてきたら、彼がフェンスを越えてこちらに戻るのを手伝うだけだ。
彼はいま、少なくとも今後まだ自分を試せる機会があることを知った。生きるための意志としては、充分すぎるほどの課題だ。
ゲートは無人同然に開け放たれていた。もともと、常駐の警備員もいないほどの小さな施設だ。入り口を警戒する習慣はないのだろう。
セスナやジャイロコプターなどの小型機が連なる滑走路付近にクルマを停めると、美由紀は外に降り立ち、管制施設のビルに向かって走った。
すでにそこは警官と報道陣らでごったがえしていた。拡声器で屋上に呼びかけている人物の背には、見覚えがあった。
面接で会った、資格認定協会の専務理事だ。してみると、スーツ姿の男たちに臨床心理士も混ざっているのだろう。
見あげると、ビルはテレビで観たよりずっと高く思えた。縁《へり》ぎりぎりに立つ男の姿はまさに点のようだ。
専務理事の声が響く。「とにかく落ち着いて、その場に腰を下ろしてください。ゆっくり深呼吸して。安全な場所までさがるんですよ。話は充分に時間をとってうかがいます。誰もあなたを責めたりしません」
ちがう。専務理事はあの男の心理を見誤っている。彼は心から自殺を望んでいるわけではない。
人を掻《か》き分けて専務理事のいるところまでたどり着こうともがいた。と、そのとき、聞き覚えのある男の声がした。「美由紀。美由紀じゃないか」
はっとして振りかえると、舎利弗がいつものように丸く目を見開いて立っていた。
「あ、舎利弗先生。なんでここに?」
「付近にいた臨床心理士で手が空いている人間は、全員招集されたから……。きみのほうこそ、どうしたんだい」
「聞いて。あの男性は自殺を図ろうとしてるわけじゃないの」
「なんだって? でも現にああして……」
「こんな事態になったことに戸惑いを覚えている。うつ病患者っていうわけでもないわ。気分障害の兆候はみられない。でも気弱なうえに、第一次被暗示性が高いように思えるの。最初はその意志がなかったのに、周りが彼を自殺者だとみなしていると、実際に自分が死にたがっていたんじゃないかと錯覚しはじめるのよ」
「え……? いや、まあ、なくはないが、でもそんな……。いまの僕らがあの男性を追い詰めていると?」
「そう。周囲も彼の死を望んでいる、そんなふうに思い違いをする」
「暗示で自殺は実行できないだろう。本能的に防衛するはずだ」
「うつ病でなくても、ほかに精神的に不安定になる理由があるのかもしれない。どっちにしても、彼の現在の心の状態を尊重して、そこから対話を始めないと……」
ふいに制服警官が近づいてきた。「失礼。報道のかたですか?」
舎利弗がおどおどといった。「ええと……彼女は、臨床心理士である僕の知り合いで、助手のようなもので……」
「許可のあった関係者のかたしか、ここにはいられません。ただちに退去してください」
「いや、でも……」
「いいの」美由紀はため息をつき、舎利弗に告げた。「もう行くから」
困惑ぎみに見送る舎利弗の視線を背に感じながら、美由紀は人の輪からでていった。
わたしの能力を理解している舎利弗は、耳を傾けようとしてくれる。それでも、専務理事を説得するとなると困難だろう。人からみれば、わたしの主張は独断にすぎない。
憂鬱《ゆううつ》な気分で喧騒《けんそう》から遠ざかったとき、ジャイロコプターの機体が目に入った。
バイクのように乗員がむきだしになるコックピットに、ヘリのようなメインローターがついた小型の飛行用マシン。幹部候補生学校時代に訓練で乗ったことがある。これなら……。
そう思ったときには、すでに美由紀は機体に駆け寄っていた。まだ周囲の誰も美由紀を不審がる気配をみせていない。
コックピットに乗りこみ、イグニッションスイッチを押した。軽いエンジン音はトラクターのようだ。
メインローターが回転を始めると、騒音と風圧でさすがに人々が気づきだした。
唖然《あぜん》とこちらを眺める人の群れのなかで、舎利弗が怒鳴っているのがきこえる。「美由紀! どうするつもりだ!?」
わたしにできることをするだけだ。美由紀は操縦|桿《かん》を前に倒して機体を滑走路に差し向けた。
ヘリは垂直に上昇できるが、ジャイロコプターの場合は前進させて主翼に下から空気を当てねばならない。滑走路上で速度を上げていったんビルから遠ざかる。速度計よりも、顔に感じる風圧をたよりに操縦桿を引いた。機首がぐんと持ちあがった。視界に青い空がひろがる。ジャイロコプターは高度をあげていった。
旋回し、ビルのほうに進路を変える。眼下をちらと見やると、誰もが揃ってこちらを眺めていた。専務理事は拡声器を手にしたまま凍りついている。
これで資格も一生手に入らないかもしれない。運命とは、そんなものだろうと美由紀は思った。もう目的などない。臨床心理士になっても、意味はない。
屋上に迫ると、バルコニーの外側に立った男がびくついたのが見てとれた。美由紀は片手をあげて、心配しないでとしめした。さらに高度をあげてビルの高さを追い越し、そこから徐々に下降する。
着陸もヘリのようにはいかない。さほど広さのない屋上に対し斜めに進入し、タイヤを接地させる。シートベルトをはずし、横っ跳びに機体から脱出した。無人のジャイロコプターはビルのバルコニーにがつんと打ちつけて、あたかも目を回したかのように屋上をさまよった。
美由紀はコンクリートの屋上に叩《たた》きつけられた痛みを堪《こら》えながら、立ちあがった。迷走する機体に駆け寄り、コックピットのスイッチを切る。エンジン音がやんで、メインローターは失速しはじめた。
ふうっとため息をつき、美由紀は振りかえった。反対側のバルコニーのフェンスの向こうで、男は怯《おび》えた顔でこちらを眺めている。
「なんだ?」男は震える声できいてきた。「いったいどうしたってんだ。あんた誰だ?」
「落ち着いてよ。わたしは岬美由紀」
「岬? 何者だよ」
「何者って……いまは無職かな。さっきまで引き籠《こ》もってテレビ観てたし、強いていえばニート」
「ニートがなんの用だ。こんな無茶して。俺が飛び降りたらどうするつもりだったんだ」
「いいえ。あなたは飛び降りないとわかってた。自殺の意志がないってこともね。あなたはおそらく、無断でここに立ち入り、なにかのはずみで扉に鍵《かぎ》がかかって、降りられなくなった。困り果てて、なんとか下の窓に移ろうと、勇気を振りしぼってバルコニーの外側に出たけど、そこで地上の人に見つかり通報されてしまった。誰もがあなたを自殺志願者と思っているせいで、あなたは進退きわまった」
男は衝撃を受けたようすで目をむいた。「どうしてそれを……」
「あなたの表情には当惑という感情しか浮かんでいなかったからよ。心配ないわ。ゆっくりこっちに来て」
だが男は、また情けない顔をして首を横に振った。「駄目だよ……。いまさら降りていったら、怒られる。会社もクビになる」
「きちんと理由を話せばだいじょうぶよ」
「どんな理由を? 俺は外回りの営業をさぼって、ここで景色を眺めることが日課になってた。それだけのことだ。どうやって上司にいえる?」
「冷静になって。そもそも、なぜここに頻繁に立ち寄るようになったの?」
ちらと男は地上を見下ろした。それからびくついた顔で美由紀を振り向き、泣きだしそうな声で告げてきた。「前から自殺を考えてたのかも」
「それはないわ」
「なんでそんなことがいえるんだよ」
「聞いて。あなたがいまそんなふうに感じるのは、この状況から逃れたいという一心からよ。そのために衝動的に飛び降りを図ろうとする気持ちと、踏みとどまろうとする意志が葛藤《かつとう》してる。でも、自分の苦しみを和らげるために、自殺を正当なものとして受けいれようとしはじめているの。以前は自殺なんて本気で考えもしなかったのに、この雰囲気のせいで、何度かそう感じたように思えるのよ」
「嘘だ」
「いいえ。ほんとよ」
「前にもバルコニーからこっちに出たことがあるぞ」
「それって、確かなことなの? よく考えて」
「いや……よく覚えてないが、ここから真下を眺める光景を、以前にも目にしたと思う。だから本当だ」
「違うのよ。それは既視感っていうものにすぎない。自我の一時的分裂で生じるのよ」
「なんだ? 難しすぎる。もっとわかりやすくいえ」
「あなたはバルコニーを乗り越えてから、ずっとひとつのことだけ考えてたわけじゃないでしょ。いま自分が置かれている状況から気持ちが逸《そ》れて、家庭のことや、仕事のことを考えたりした。そこからまた現状を認識する心理に戻ったとき、その認識は二度目だから、前にもそんなことがあったように思えるの。日常よくある心理現象よ」
「ああ……。たしかに……そうかな」
「間違ってたら教えて。あなたはたぶん、パチンコかゲームが好きで、以前はそれにハマることで昼間のサボり癖がついた」
「おい!」男は塀のなかの囚人のように、フェンスにしがみついてきた。「パチンコ好きだなんて、どうしてわかるんだ!?」
ゲームでなくパチンコか。美由紀はつづけた。「瞬《まばた》きが少ないから、トランス状態に陥りやすいってことがわかるの。パチスロは苦手でしょ? 集中力は長い時間、持続しないみたいだから。あなたはその趣味でお小遣いを使い果たして、それ以降ここで時間をつぶすようになった。いつも周囲の空気に染まりがちで、影響されやすい自分を感じているはず……。いまもそうでしょ? 自殺することが人々の期待に応《こた》えることのように思いはじめてる。それでも自殺できない自分の情けなさに腹が立ってしょうがない。そうじゃない?」
突如、男はむせび泣きだした。
美由紀はフェンスの隙間からハンカチを差しいれた。「だいじょうぶ?」
「ああ」男はしきりに涙をぬぐいながらうなずいた。「飛び降りすらできないなんて……情けないよ」
「だから、それは違うんだって。自殺願望は錯覚にすぎないの。あなたは周りに受けいれられようと、いつも自分の意志を曲げて、最初から他人の望むかたちを自分も望んでいたんだと、錯覚させることで平常心を保ってきた。でも、そんなのは本当のあなたの人生じゃないわ。あなたは、自分の意志を持っていいの。やりたくないことは、やらなくたっていいのよ。少しずつでも、自分がどうしたいかをあきらかにするように努力してみて。自分を偽っちゃいけないのよ」
男は泣きじゃくり、フェンスにすがりついていた。
もう心配ないな、と美由紀は感じた。心が落ち着いてきたら、彼がフェンスを越えてこちらに戻るのを手伝うだけだ。
彼はいま、少なくとも今後まだ自分を試せる機会があることを知った。生きるための意志としては、充分すぎるほどの課題だ。