陽が傾きかけてきたとき、美由紀はようやく地上に戻った。
管制施設の前には、あいかわらず警官らがひしめきあっていた。名も知れない男はいま、救急隊員に保護され、救急車に向かっている。自分の足で歩いていた。長時間にわたり屋上に籠城《ろうじよう》していたわりには、しっかりとした足取りだった。
美由紀は人の群れのなかにたたずみ、それを見守っていた。屋上の扉をバーナーで破るのに長い時間が費やされたことを除けば、すべてうまくいった。彼の命は救われ、将来に希望の光も感じた。
わたしの能力が、初めて人のために役立った。そう思った。
ただし、安堵《あんど》を覚えていられるのもこれまでだった。予想どおり、血相を変えた刑事たちが美由紀につかつかと歩み寄ってきた。
「岬さんといいましたね」刑事のひとりがいった。「あなた、どうかしてますな。人の乗り物で勝手に空を飛んで、屋上に突撃とは」
「ええ」美由紀はつぶやいた。「申しわけありません。クルマを売って弁償します」
「クルマだなんて。損害の金額は低く見積もっても、一千万円以上ですよ」
「……はい」
刑事は妙な顔をしたが、ふとなにかに気づいたようにたずねてきた。「あのランボルギーニ、あなたの?」
「そうですけど」
賠償金額には充分と知ったからか、刑事は調子を崩されたらしい。戸惑いがちにいった。
「とにかく、あの男性の飛び降りを説得で阻止しようというときに、あんな危険な真似を……」
「いや」と声が飛んだ。
刑事が眉《まゆ》をひそめて振りかえる。美由紀も声のしたほうを見た。
飛び降りを企てた男は、救急隊員を伴ったまま足をとめてこちらを見ていた。
男は真顔で告げた。「ぜんぶ、その岬さんのいうとおりだったんだよ……。岬さんが見抜いてくれなかったら、僕は飛び降りてた」
静寂が辺りを包んだ。誰もが沈黙していた。
微笑みが男の顔に浮かんだ。それから申しわけなさそうに深々と頭をさげると、またゆっくりと歩きだす。
その背を見送ってから、刑事は美由紀に向き直った。
いくらか表情の和らいだ刑事は、美由紀にため息まじりにいった。「彼の取り調べを終えてから、あなたにも話を聞きに行きますよ」
「ええ。いつでも……」
刑事らが立ち去っていく。何人かは不服そうな顔を向けてきたが、苦言は呈さなかった。
結果に救われた、彼らはそう思っているのだろう。わたしが確信したことは、彼らには共感できない。
また孤独を感じはじめたとき、舎利弗が歩み寄って声をかけてきた。「美由紀」
「舎利弗先生……。ご迷惑をおかけして……」
「いいんだよ。それより、怪我はない? 屋上で、ずいぶん荒っぽい着陸をしてたみたいだけど」
「平気です。あ、専務理事は……」
「さっき帰ったよ。ここではもう、することがないとおっしゃってた」
やはり。美由紀は胸に痛みを感じた。思わずつぶやきが漏れる。「短い夢だったな……」
「夢って?」
「正直いって、いままでは臨床心理士の資格を得ることに執着してなかった。けど、さっき屋上であの人を説得したとき……わたしにもできることがあるかもしれない、そう思ったの。皮肉な話ね。臨床心理士になりたいってようやく思えたのに、永遠にその権利を失うなんて……」
舎利弗は美由紀を見つめ、ため息をついた。それから懐に手をいれ、一枚の封筒を取りだした。
封筒を差しだしながら、舎利弗がいった。「専務理事から預かってたものだ。こんな場所で渡すことになるなんてね」
「え?」美由紀はそれを受け取った。透明なフィルム部分に、一枚のカードがのぞいてみえた。
そのカードの記名欄には、岬美由紀の名があった。
美由紀ははっと息を呑《の》んだ。「これって……」
「おめでとう、美由紀」舎利弗が微笑とともに告げた。「合格だよ。きょうから五年間、きみは臨床心理士だ」
まだ信じられない自分がいる。呆然《ぼうぜん》とIDカードを眺めた。わたしに、新しい道が拓《ひら》けた。こんな向こう見ずなわたしに。
自分の名を眺めているうちに、視界がぼやけはじめる。涙がこぼれおちそうになった。
舎利弗は美由紀の肩をぽんと軽く叩《たた》いた。「歓迎するよ。きみは、臨床心理士会の歴史に残る人物になりそうだ」
「それって、どういう意味?」
「どうって……きみほどすごい才能のある人間は、ほかにいないからさ。なんていうか、日本ばかりか世界までも救いそうな人にみえるよ。あ、くれぐれも過労にだけは気をつけてね」
美由紀は思わず笑った。涙を流しながら、舎利弗を見つめて笑った。
陽の光が赤く染まりはじめる。気温がさがり、かすかに冷たいそよ風が頬をなでていく。涙を早く乾かせ、そううながされている気がする。そう、わたしはもう泣いている場合ではない。道が見つかったのだから。使命が、一日も早くわたしを求めているから。
管制施設の前には、あいかわらず警官らがひしめきあっていた。名も知れない男はいま、救急隊員に保護され、救急車に向かっている。自分の足で歩いていた。長時間にわたり屋上に籠城《ろうじよう》していたわりには、しっかりとした足取りだった。
美由紀は人の群れのなかにたたずみ、それを見守っていた。屋上の扉をバーナーで破るのに長い時間が費やされたことを除けば、すべてうまくいった。彼の命は救われ、将来に希望の光も感じた。
わたしの能力が、初めて人のために役立った。そう思った。
ただし、安堵《あんど》を覚えていられるのもこれまでだった。予想どおり、血相を変えた刑事たちが美由紀につかつかと歩み寄ってきた。
「岬さんといいましたね」刑事のひとりがいった。「あなた、どうかしてますな。人の乗り物で勝手に空を飛んで、屋上に突撃とは」
「ええ」美由紀はつぶやいた。「申しわけありません。クルマを売って弁償します」
「クルマだなんて。損害の金額は低く見積もっても、一千万円以上ですよ」
「……はい」
刑事は妙な顔をしたが、ふとなにかに気づいたようにたずねてきた。「あのランボルギーニ、あなたの?」
「そうですけど」
賠償金額には充分と知ったからか、刑事は調子を崩されたらしい。戸惑いがちにいった。
「とにかく、あの男性の飛び降りを説得で阻止しようというときに、あんな危険な真似を……」
「いや」と声が飛んだ。
刑事が眉《まゆ》をひそめて振りかえる。美由紀も声のしたほうを見た。
飛び降りを企てた男は、救急隊員を伴ったまま足をとめてこちらを見ていた。
男は真顔で告げた。「ぜんぶ、その岬さんのいうとおりだったんだよ……。岬さんが見抜いてくれなかったら、僕は飛び降りてた」
静寂が辺りを包んだ。誰もが沈黙していた。
微笑みが男の顔に浮かんだ。それから申しわけなさそうに深々と頭をさげると、またゆっくりと歩きだす。
その背を見送ってから、刑事は美由紀に向き直った。
いくらか表情の和らいだ刑事は、美由紀にため息まじりにいった。「彼の取り調べを終えてから、あなたにも話を聞きに行きますよ」
「ええ。いつでも……」
刑事らが立ち去っていく。何人かは不服そうな顔を向けてきたが、苦言は呈さなかった。
結果に救われた、彼らはそう思っているのだろう。わたしが確信したことは、彼らには共感できない。
また孤独を感じはじめたとき、舎利弗が歩み寄って声をかけてきた。「美由紀」
「舎利弗先生……。ご迷惑をおかけして……」
「いいんだよ。それより、怪我はない? 屋上で、ずいぶん荒っぽい着陸をしてたみたいだけど」
「平気です。あ、専務理事は……」
「さっき帰ったよ。ここではもう、することがないとおっしゃってた」
やはり。美由紀は胸に痛みを感じた。思わずつぶやきが漏れる。「短い夢だったな……」
「夢って?」
「正直いって、いままでは臨床心理士の資格を得ることに執着してなかった。けど、さっき屋上であの人を説得したとき……わたしにもできることがあるかもしれない、そう思ったの。皮肉な話ね。臨床心理士になりたいってようやく思えたのに、永遠にその権利を失うなんて……」
舎利弗は美由紀を見つめ、ため息をついた。それから懐に手をいれ、一枚の封筒を取りだした。
封筒を差しだしながら、舎利弗がいった。「専務理事から預かってたものだ。こんな場所で渡すことになるなんてね」
「え?」美由紀はそれを受け取った。透明なフィルム部分に、一枚のカードがのぞいてみえた。
そのカードの記名欄には、岬美由紀の名があった。
美由紀ははっと息を呑《の》んだ。「これって……」
「おめでとう、美由紀」舎利弗が微笑とともに告げた。「合格だよ。きょうから五年間、きみは臨床心理士だ」
まだ信じられない自分がいる。呆然《ぼうぜん》とIDカードを眺めた。わたしに、新しい道が拓《ひら》けた。こんな向こう見ずなわたしに。
自分の名を眺めているうちに、視界がぼやけはじめる。涙がこぼれおちそうになった。
舎利弗は美由紀の肩をぽんと軽く叩《たた》いた。「歓迎するよ。きみは、臨床心理士会の歴史に残る人物になりそうだ」
「それって、どういう意味?」
「どうって……きみほどすごい才能のある人間は、ほかにいないからさ。なんていうか、日本ばかりか世界までも救いそうな人にみえるよ。あ、くれぐれも過労にだけは気をつけてね」
美由紀は思わず笑った。涙を流しながら、舎利弗を見つめて笑った。
陽の光が赤く染まりはじめる。気温がさがり、かすかに冷たいそよ風が頬をなでていく。涙を早く乾かせ、そううながされている気がする。そう、わたしはもう泣いている場合ではない。道が見つかったのだから。使命が、一日も早くわたしを求めているから。