行く先々で警察の起動捜査隊の初動捜査に付きあわされる。事件のあった現場で、第一発見者として何度も同じ証言を繰りかえさねばならない。誰にもわからないことを真っ先に見抜ける技能がそなわっている以上、仕方がないことかもしれない。
いまも美由紀は、好摩のオフィスの片隅にたたずんで、救急隊員によって書庫から運びだされる遺体を眺めていた。
鑑識は指紋の採取をあらかた終えたらしい。段ボールに詰めこまれた遺留品の運びだしが、早くも始まっている。
首吊り死体は好摩牛耳に間違いなかった。着ていた粗末なスーツは、この立派なオフィスには似つかわしくない。近いうちに大金が転がりこむ可能性があって、オフィスは先行投資、スーツのほうはまだ安物で済ませていたという状況だろうか。
エントランスの辺りで朝霧から事情をきいていた三十代後半の痩《や》せた刑事が、こちらに向き直った。つかつかと歩を進めてくる。
「岬美由紀さんですか」と刑事はしかめっ面できいてきた。
「そうですけど」
「本庁捜査一課の七瀬卓郎《ななせたくろう》警部補です。恐縮ですが……」
「ええ、わかってます。まず起動捜査隊に成り行きを話して、あとから捜査一課の人に同じ話をする。いつものことね」
七瀬の目が険しくなった。「慣れてるみたいですな」
「よくあることだしね。他殺体である以上は捜査一課の人も熱心に調べたがるだろうし」
「他殺?」
「ええ。似たような現場に出くわしたことがあるの。首すじに無数のひっかき傷ができてた。ロープをはずそうとして必死に喉《のど》もとを掻《か》きむしるせいで、そうなるのね。吉川線っていうんだっけ、発見者の吉川澄一《よしかわちよういち》教授の名に由来して」
「専門用語もよくご存じで。しかもホトケを前にずいぶん冷静だったんですな」
「行き着く先に不幸が待ってることは、おおむね予測済みだったりもするの」
「ふうん……。ここにおいでになった理由は? 臨床心理士が相手にするのは生きている人間だと思ってましたが、生前の好摩とはお会いになってないんでしょう?」
「まあね。でも雑誌に載ってる好摩さんの顔が真剣だった。旅客機墜落は嘘とは思えない。それだけのこと」
「なるほど」七瀬はため息とともに頭をかいた。「うわさの千里眼ですか」
「でもないけど。科学的根拠のある方法での観察だし」
「けれども、それをうちの鑑識に証拠として提出することはできんのでしょう?」
美由紀はうなずくしかなかった。「わたしを信用してと言っても、それだけじゃ足りないのよね?」
「そうですな。あなたの評判は聞き及んでいても、物証とはなりえません。千里眼の岬美由紀さんがそう思ったから、というだけでは」
「よくわかってる。それで、これからの捜査はどうするの?」
「いちおう規則どおり、自殺と他殺の両面で捜査を……」
「そんなことより、好摩さんが知ってたと思われるテロの情報は?」
「テロ?」
これだから警察は鈍いといわざるをえない。東京湾観音事件の蒲生警部補も最初のころはぴんとこない顔で見かえすばかりだった。いま七瀬も同様に、ただあいまいな表情を浮かべるだけだ。
デスクに歩み寄りながら、美由紀はさっき目についた書類を指差した。「JAIの旅客機の細部にわたる図面。ボーイング747ER、ファーストクラスのない座席図面をみても国内便。じつに細かく調べてあるのよ。しかも、機首から数えて三番目のドア、主翼の上にある側面ドア付近の拡大図が集めてある」
「それはいったい……どういうことですか」
じれったく思いながら美由紀が口をひらきかけたときだった。
聞き覚えのある男の落ち着きはらった声が室内に響いた。「重心だよ。爆弾魔が狙いたがる、747型機のヘソだ」
美由紀は息を呑《の》んだ。
スマートな身体を上質のスーツに包んだ色白の男、実年齢の三十二よりいくつか若くみえる。
笹島雄介は美由紀を澄ました顔で見つめた。「ひさしぶり」
「あ……」美由紀は絶句した。「どうしてここに……」
七瀬が口をさしはさんだ。「岬さんのおっしゃるように、旅客機の図面や写真をこれだけ集めて、なにを画策していたかを分析することは重要でしてね。自殺の疑いもあることだし、好摩の生前の精神状態を推し量るための専門家を呼んだわけです。笹島先生は精神科医にはめずらしく、飛行機関係もお詳しいので」
「自殺だなんて……」
「あいにく、吉川線があったというだけでは偽装の可能性も捨てきれませんので。好摩の爪に残った血液のDNAを鑑定して、傷のついた時期を調べあげねばなりません。結果がでるまでは、どちらとも断定できませんな」
「そんな悠長な……。旅客機は二日後に落ちるかもしれないのに」
だが七瀬は唸《うな》りながら首を横に振り、懐から紙片をとりだした。「この走り書きは遺書です。ホトケのポケットから見つかったもので、ご覧の通り好摩の遺書とも思われます。こちらの筆跡鑑定も必要でして」
美由紀は紙片を一瞥《いちべつ》した。ご迷惑をあ[#「あ」に傍点]かけしました。勝手ながら……。そこまで読みとれた。
それだけで美由紀は断じた。「もしそれが好摩さんの筆跡なら、自殺じゃないわ」
「またそんなことを……」
「『お』を『あ』と書き間違えるなんて、たとえうつ病状態だったとしてもまず考えにくい。これは心理学でいう意味飽和、つまり心をこめずにただ文面を書いたときに起きやすいミスよ。彼は誰かに書くことを強制されただけ」
七瀬は困惑ぎみに笹島を見やった。
笹島はうなずいた。「彼女のいうとおりだよ。意味飽和の可能性が高い。本人の筆跡だとしても、自殺の根拠とはなりえない」
警察が呼んだ精神科医が美由紀の肩を持ったからだろう、七瀬は面食らったように押し黙った。
美由紀は笹島の顔に目を向けず、自分の使命に集中しようとした。「七瀬さん、その遺書を拝見できますか?」
ところが、七瀬は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せて紙片を懐に戻した。「証拠品ですので」
「旅客機の乗客の命がかかってるのよ」
「捜査はわれわれの仕事です。あなたはホトケの第一発見者にすぎませんから」
焦りと苛立《いらだ》ちが同時に募った。こんなところで時間をつぶしている暇はない。
「失礼します」といって美由紀は戸口に足ばやに向かった。
背後から七瀬の声が響いてくる。のちほどご連絡しますよ、あなたにはまだまだ聞きたいことがあるので……。
だが美由紀は、その言葉を最後まで耳にしなかった。エントランスを出て階段を駆け降りる。太陽はほぼ真上にあった。正午が近づいている。
時間は失われていく。こんなところで無駄に費やしたくない。
以前のように、後悔したくない。
いまも美由紀は、好摩のオフィスの片隅にたたずんで、救急隊員によって書庫から運びだされる遺体を眺めていた。
鑑識は指紋の採取をあらかた終えたらしい。段ボールに詰めこまれた遺留品の運びだしが、早くも始まっている。
首吊り死体は好摩牛耳に間違いなかった。着ていた粗末なスーツは、この立派なオフィスには似つかわしくない。近いうちに大金が転がりこむ可能性があって、オフィスは先行投資、スーツのほうはまだ安物で済ませていたという状況だろうか。
エントランスの辺りで朝霧から事情をきいていた三十代後半の痩《や》せた刑事が、こちらに向き直った。つかつかと歩を進めてくる。
「岬美由紀さんですか」と刑事はしかめっ面できいてきた。
「そうですけど」
「本庁捜査一課の七瀬卓郎《ななせたくろう》警部補です。恐縮ですが……」
「ええ、わかってます。まず起動捜査隊に成り行きを話して、あとから捜査一課の人に同じ話をする。いつものことね」
七瀬の目が険しくなった。「慣れてるみたいですな」
「よくあることだしね。他殺体である以上は捜査一課の人も熱心に調べたがるだろうし」
「他殺?」
「ええ。似たような現場に出くわしたことがあるの。首すじに無数のひっかき傷ができてた。ロープをはずそうとして必死に喉《のど》もとを掻《か》きむしるせいで、そうなるのね。吉川線っていうんだっけ、発見者の吉川澄一《よしかわちよういち》教授の名に由来して」
「専門用語もよくご存じで。しかもホトケを前にずいぶん冷静だったんですな」
「行き着く先に不幸が待ってることは、おおむね予測済みだったりもするの」
「ふうん……。ここにおいでになった理由は? 臨床心理士が相手にするのは生きている人間だと思ってましたが、生前の好摩とはお会いになってないんでしょう?」
「まあね。でも雑誌に載ってる好摩さんの顔が真剣だった。旅客機墜落は嘘とは思えない。それだけのこと」
「なるほど」七瀬はため息とともに頭をかいた。「うわさの千里眼ですか」
「でもないけど。科学的根拠のある方法での観察だし」
「けれども、それをうちの鑑識に証拠として提出することはできんのでしょう?」
美由紀はうなずくしかなかった。「わたしを信用してと言っても、それだけじゃ足りないのよね?」
「そうですな。あなたの評判は聞き及んでいても、物証とはなりえません。千里眼の岬美由紀さんがそう思ったから、というだけでは」
「よくわかってる。それで、これからの捜査はどうするの?」
「いちおう規則どおり、自殺と他殺の両面で捜査を……」
「そんなことより、好摩さんが知ってたと思われるテロの情報は?」
「テロ?」
これだから警察は鈍いといわざるをえない。東京湾観音事件の蒲生警部補も最初のころはぴんとこない顔で見かえすばかりだった。いま七瀬も同様に、ただあいまいな表情を浮かべるだけだ。
デスクに歩み寄りながら、美由紀はさっき目についた書類を指差した。「JAIの旅客機の細部にわたる図面。ボーイング747ER、ファーストクラスのない座席図面をみても国内便。じつに細かく調べてあるのよ。しかも、機首から数えて三番目のドア、主翼の上にある側面ドア付近の拡大図が集めてある」
「それはいったい……どういうことですか」
じれったく思いながら美由紀が口をひらきかけたときだった。
聞き覚えのある男の落ち着きはらった声が室内に響いた。「重心だよ。爆弾魔が狙いたがる、747型機のヘソだ」
美由紀は息を呑《の》んだ。
スマートな身体を上質のスーツに包んだ色白の男、実年齢の三十二よりいくつか若くみえる。
笹島雄介は美由紀を澄ました顔で見つめた。「ひさしぶり」
「あ……」美由紀は絶句した。「どうしてここに……」
七瀬が口をさしはさんだ。「岬さんのおっしゃるように、旅客機の図面や写真をこれだけ集めて、なにを画策していたかを分析することは重要でしてね。自殺の疑いもあることだし、好摩の生前の精神状態を推し量るための専門家を呼んだわけです。笹島先生は精神科医にはめずらしく、飛行機関係もお詳しいので」
「自殺だなんて……」
「あいにく、吉川線があったというだけでは偽装の可能性も捨てきれませんので。好摩の爪に残った血液のDNAを鑑定して、傷のついた時期を調べあげねばなりません。結果がでるまでは、どちらとも断定できませんな」
「そんな悠長な……。旅客機は二日後に落ちるかもしれないのに」
だが七瀬は唸《うな》りながら首を横に振り、懐から紙片をとりだした。「この走り書きは遺書です。ホトケのポケットから見つかったもので、ご覧の通り好摩の遺書とも思われます。こちらの筆跡鑑定も必要でして」
美由紀は紙片を一瞥《いちべつ》した。ご迷惑をあ[#「あ」に傍点]かけしました。勝手ながら……。そこまで読みとれた。
それだけで美由紀は断じた。「もしそれが好摩さんの筆跡なら、自殺じゃないわ」
「またそんなことを……」
「『お』を『あ』と書き間違えるなんて、たとえうつ病状態だったとしてもまず考えにくい。これは心理学でいう意味飽和、つまり心をこめずにただ文面を書いたときに起きやすいミスよ。彼は誰かに書くことを強制されただけ」
七瀬は困惑ぎみに笹島を見やった。
笹島はうなずいた。「彼女のいうとおりだよ。意味飽和の可能性が高い。本人の筆跡だとしても、自殺の根拠とはなりえない」
警察が呼んだ精神科医が美由紀の肩を持ったからだろう、七瀬は面食らったように押し黙った。
美由紀は笹島の顔に目を向けず、自分の使命に集中しようとした。「七瀬さん、その遺書を拝見できますか?」
ところが、七瀬は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せて紙片を懐に戻した。「証拠品ですので」
「旅客機の乗客の命がかかってるのよ」
「捜査はわれわれの仕事です。あなたはホトケの第一発見者にすぎませんから」
焦りと苛立《いらだ》ちが同時に募った。こんなところで時間をつぶしている暇はない。
「失礼します」といって美由紀は戸口に足ばやに向かった。
背後から七瀬の声が響いてくる。のちほどご連絡しますよ、あなたにはまだまだ聞きたいことがあるので……。
だが美由紀は、その言葉を最後まで耳にしなかった。エントランスを出て階段を駆け降りる。太陽はほぼ真上にあった。正午が近づいている。
時間は失われていく。こんなところで無駄に費やしたくない。
以前のように、後悔したくない。