笹島は、外にでていく美由紀を追って駆けだした。
まだ話したいことがある。彼女はまだ、僕の気持ちを充分に理解してくれてはいない。
階段を降りていく美由紀の背に、笹島は声をかけた。「まってくれ。岬元二尉」
地上に降り立ったところで足をとめ、美由紀は振りかえった。「もう階級で呼ぶのはやめてくれる? 自衛官じゃないんだし」
反感をあらわにした態度。一年前に再会したときと同じだった。会うたび、彼女の視線は厳しくなる。言葉は棘《とげ》のように胸に突き刺さる。
痛みを感じるのは、僕のほうに罪悪感があるせいだろう。三年前、彼女を除隊に追いやってしまったのは、ある意味で僕の責任だ。そう痛感した。
「わかったよ。岬さん」笹島は穏やかに話しかけた。「いや、美由紀さんと呼んでもいいかな。そのほうが親しみがある」
美由紀は戸惑ったかのように目を逸《そ》らし、歩きだした。「勝手にすれば?」
笹島は美由紀に追いつくと、歩調を合わせた。「機体の重心に狙いを定めるなんて、犯人がいるとすればプロっぽい手口だな」
「あなたの専門はパイロットおよび乗員の心理分析でしょ。テロリストの心理も読めるの?」
「きみだってジャンボ機は専門というわけじゃないだろ。まあ、僕の研究では、パイロットの心理ひとつとっても墜落の危険性は完全に除外できるわけじゃない。空中では錯覚も起きやすいからね。雲海の屋根部分を水平線と見誤った例もある。雲を地面と同様に水平にみなして、それと平行に飛ぼうとしてバランスを崩すこともある。雲のなかでは太陽の光が差しこんでくる方向を真上と感じがちになる」
「まるで実体験したみたいな言い方ね。けど、機体の物理的な安全性についてなんて、精神科医のテキストには書いてないと思うけど」
「飛行機のハードウェアそのものも勉強したって言っただろ。機体に穴が開いても、すぐにコックピットではそれを把握し、操縦士が高度を三千六百メートルまで下げて安全な気圧差にする。エンジンも四つ、油圧系統も複数に分割されていて、方向|舵《だ》も昇降舵も二分割されてバックアップがなされている。容易なことじゃ旅客機を墜落させることなんかできない。しかし、重心は重要だ。搭乗手続きをするのも、機体の重心を見極めながら人や貨物を載せるためだからな」
美由紀は醒《さ》めた目を向けてきた。訳知り顔で知識を披露する笹島に、軽蔑《けいべつ》の念を抱いたのかもしれなかった。
「じゃあ聞くけど、どうあっても重心がずれてしまう場合はどうするの? 飛ぶのをやめる?」
「テストかな。重心は絶対に合わせなきゃならない。だからバラストっていう鉛製の錘《おもり》をいれて重心を調整する。なにしろ、乗客ひとりが前のほうから後ろのほうに移動しただけで、重心は一・二ミリ後方にずれるって話だ。デリケートなもんだよ。重心位置が二メートル以上ずれたら危険だからな」
「正確には一・七五メートルだけどね」
笹島は足をとめた。「なあ、美由紀さん」
じれったそうに美由紀は振りかえった。「なに?」
言葉に詰まる。彼女には、どんなに謝罪したところで受けいれてはもらえないだろう。
美由紀が、過剰なまでに人を疑うようになったのも、僕のせいに違いない。信頼を得られるとまでは思わないが、少しでも彼女の苦しみを和らげてあげたい。
笹島はつぶやいた。「美由紀さん。僕に腹を立てているのはわかるけど……」
「やめてよ。聞きたくない」
「どうしてだよ。僕は心から謝りたいんだ。きみの観察眼なら、僕の気持ちを察することができるだろ?」
「だからいやなの!」美由紀は顔をあげて笹島を見た。「あなたが反省してるなんて、認めたくない。よけいに辛《つら》くなるじゃない」
「……まだ憎んでいるほうがましってことかい? 僕を悪人だと思っていたいのかい?」
美由紀の大きな瞳《ひとみ》が潤みだしていた。
また顔を伏せて、美由紀はいった。「怒りを鎮めるために、心理面で適応機制が働いて、投射によってすべてをあなたのせいにする。もしあなたの心が読めなかったら、きっとそうしてる……」
「だけど……。いまのきみは、そうじゃないんだろ?」
「できないからよ」美由紀は声を震わせながら訴えてきた。「心の適応が図れない。だから不安定になる」
笹島はつぶやくしかなかった。「そうか……」
岬美由紀がパイロットとして培った動体視力と、心理学の知識の両方を兼ね備えたことで、千里眼呼ばわりされるほど人の感情を見抜けるようになったこと。そのうわさを耳にしたとき、きっと彼女は耐えがたい孤独と不安を背負いこんでしまったに違いない、笹島はそう感じていた。そしていま、それが現実だったとわかった。
人の心を見透かせるほど苦痛なことはない。彼女のその苦しみも、笹島が三年前の査問会議で公表した上官の精神分析結果に端を発している。あのせいで美由紀は臨床心理学を学ばざるをえなかった。しかも結果、彼女のほうが正しかった。それでも上官の復職はかなわず、美由紀は重い十字架を背負うことになってしまった。
「すまない」胸に痛みを覚えながら、笹島はつぶやいた。「きみをこれ以上苦しめたくない……。きょうはもう仕事に戻るといいよ。警察の捜査には、僕が充分に協力するから」
「いいの。わたしは手を引かない」
「どうしてだよ。きみの本業は人助けではあっても、テロの阻止ではないだろ」
「旅客機が墜落する可能性を感じておいて、無視なんかできないわ。何百人もの人の命がかかってる。わたしは誰の命も失わせたくない」
「それは僕も同じだよ。でも捜査権は警察にあるし、指揮権はまずあの警部補にある」
「七瀬さんはいい人かもしれないけど、わたしの感じていることを重視してはくれない。見下そうとしているのがその表れ。顎《あご》を突きだしがちになるのは、それだけ目線を上にして優位を保ちたい気持ちがあるからよ」
「考えごとをするために、心理学でいうコミュニケーション・チャンネルを一時的に絶つためのしぐさとも考えられる」
「教科書どおりの答えね」
美由紀は、まるで違う考えのようだった。観察眼と洞察力では、こちらをはるかに凌駕《りようが》しているのだろう。美由紀はポケットから折りたたまれた紙片をとりだして開いた。
それは週刊誌に掲載された好摩の取材記事のページを破りとったものだった。
好摩の顔写真を笹島の鼻先に突きつけながら、美由紀はいった。「この顔をしてみて」
「……いま、ここでかい?」
「そう。リエゾン精神科医ならカウンセリングもするんでしょ。表情の読み方を練習するソフト、あなたも使ったことがあるでしょう? そのときみたいに表情を真似てから、漠然と沸きでてくる感情を感じとるのよ」
通行人の目が気になるな。笹島はためらいながらも、どこか怯《おび》えたように目を丸くした好摩の顔を模倣した。
美由紀はきいた。「どんな感情だと思う?」
「さあ……。興奮ぎみで、なにかに漠然と怯えているような感じかな……。それぐらいしか……」
沈黙のなかで、美由紀はため息を漏らした。
「それが」美由紀は落胆とともにつぶやいた。「あなたと、わたしの違いなの」
美由紀が告げようとしたことを、笹島はおおむね理解できた。
じっくり観察することが本分のカウンセラーは、時間をかけて表情を分析することに慣れている。しかし美由紀は、観察した瞬間、当人のなかに感情がこみあげるのとほぼ同じ速度で、同じ気持ちを共有できるのだ。
感情は瞬時に起きて瞬時に消える。それゆえに、本当に相手の感情を知ることができるのは、彼女しかいない。誰も、美由紀と同じようには感じることはできない。
美由紀は背を向けて、その場を立ち去りかけた。
「待ってよ、美由紀さん」笹島はいった。「ひとつだけ聞いてほしいんだ」
無言のまま、美由紀は立ちどまった。
美由紀の背に、笹島は告げた。「僕が機体のことを勉強したのも、心理的にみれば適応機制さ……。旅客機がどうなっていれば両親が助かったのか、ずっとそればかり研究してた」
おそらく彼女も、僕の両親の事故についてはもう、知りおおせているのだろう。
背を向ける美由紀の肩は、かすかに震えていた。
笹島が高校一年のころ、彼の両親と三人でヨーロッパ旅行に行くはずが、ひとり風邪をこじらせ日本を離れられなかった。だがその数日後、両親が乗ったマドリード発パリ行きの旅客機は墜落した。山腹に激突した機体は大破、乗客はひとりも助からなかった。
回収されたブラックボックスから、機長の精神面に問題があったという結論が下った。その報道は笹島にとって衝撃的だった。
あんな惨劇が起きる航空業界であってはならないはずだ。それがこの道に足を踏みいれたきっかけだった。人々が同じ悲しみに直面する事態を、抑制し、やがて根絶せねばならない。
「よく夢想したよ」笹島はつぶやいた。「旅客機っていうものは、どうして乗客のシートに脱出装置をつけてくれないんだろうってね。シートごと射出してパラシュートで降下する、本気でそんな機体が発明できないかと考えあぐねた。いろいろ文献も調べたよ。でも、戦闘機乗りだったきみなら知ってるとおり、無理だった。訓練も受けていない人間は、たとえ自動的に射出されても、その後どうすべきかわからない。ささいなトラブルにも対処できないし、風圧のなかでどんな姿勢をとるかも、着地の瞬間にどう身構えるかも知らない。結局、助かる可能性はほとんどない……」
「二百時間以上の訓練が必要でしょうね……。それに、ジャンボジェット旅客機の降下速度を考えると、パラシュートが開かないこともあるし……」
「飛行機について、いろんなことを知ったよ。いまさら両親が生き返るわけでもないのに、それでも勉強した。……ひょっとしたら、いまその知識が役に立つかもしれない。僕を信じてくれないか?」
美由紀も両親を失い、孤独な者どうしだ。ただ、関係はフェアではない。僕は彼女を傷つけてしまっている。できることなら、彼女の傷を癒《い》やしたい。そして、僕の気持ちを、彼女に受けいれてもらいたい。
美由紀はこわばった顔で振り向いた。その瞳には涙が溢《あふ》れそうになっていた。
目を合わせてこちらの感情を読むことは、彼女にとって勇気がいることらしい。
しばらく、困惑したように伏せがちだった美由紀の目が、意を決したようすでまっすぐに笹島の顔をとらえた。
的確に心を読んだのだろう。美由紀は泣きそうな声でささやいた。「あなたのせいじゃない……。あなたは、わたしを陥れようとしたわけじゃなかった。除隊したことも、板村三佐を巻きこんでしまったことも、ぜんぶわたしのせいなの。すべての責任はわたしにあった。あなたのせいにしようとしてたわたしが間違ってた……」
「それはちがうよ」笹島が静かにいった。「人間の心理として当然のことなんだ。でもきみは、僕の真意を見抜いてくれただろう? 僕もきみを理解したい。きみも手を引くつもりがないのなら……。逆に協力しあおう。僕はきみほどの観察眼も働かないし、飛行機についてもきみのほうがプロだが……。警察をだまらせておくことはできるよ。ほかにも、役に立てることがあるかもしれない」
また美由紀の視線が笹島に向いた。涙を溜《た》めた瞳《ひとみ》は穏やかな湖面のようにきらめいていた。
「ええ」美由紀はうなずいた。
笹島は安堵《あんど》のため息を漏らした。「よかった……」
まだわだかまりは失《う》せていなくても、わかりあっていける一歩が踏みだせた。笹島はそう実感した。
僕は、きみを救いたい。心から愛しているからだ。
この感情を読みとってほしい。笹島は念じるようにそう願った。
ところが美由紀は、涙を指先で拭《ふ》きとると、いつものようにどこか冷ややかな態度に戻った。
行きましょ、そういって美由紀は歩きだす。
思わずぽかんとして、笹島は立ちつくした。
これからがいい雰囲気だったのに。もちろんタイムリミットを考えれば、ぐずぐずしている場合ではないのだが、それにしてもまるでスイッチを切ったかのように、この想いだけが伝わらないなんて。
うまくいかないもんだな。笹島は首をひねりながら、美由紀の後を追った。
まだ話したいことがある。彼女はまだ、僕の気持ちを充分に理解してくれてはいない。
階段を降りていく美由紀の背に、笹島は声をかけた。「まってくれ。岬元二尉」
地上に降り立ったところで足をとめ、美由紀は振りかえった。「もう階級で呼ぶのはやめてくれる? 自衛官じゃないんだし」
反感をあらわにした態度。一年前に再会したときと同じだった。会うたび、彼女の視線は厳しくなる。言葉は棘《とげ》のように胸に突き刺さる。
痛みを感じるのは、僕のほうに罪悪感があるせいだろう。三年前、彼女を除隊に追いやってしまったのは、ある意味で僕の責任だ。そう痛感した。
「わかったよ。岬さん」笹島は穏やかに話しかけた。「いや、美由紀さんと呼んでもいいかな。そのほうが親しみがある」
美由紀は戸惑ったかのように目を逸《そ》らし、歩きだした。「勝手にすれば?」
笹島は美由紀に追いつくと、歩調を合わせた。「機体の重心に狙いを定めるなんて、犯人がいるとすればプロっぽい手口だな」
「あなたの専門はパイロットおよび乗員の心理分析でしょ。テロリストの心理も読めるの?」
「きみだってジャンボ機は専門というわけじゃないだろ。まあ、僕の研究では、パイロットの心理ひとつとっても墜落の危険性は完全に除外できるわけじゃない。空中では錯覚も起きやすいからね。雲海の屋根部分を水平線と見誤った例もある。雲を地面と同様に水平にみなして、それと平行に飛ぼうとしてバランスを崩すこともある。雲のなかでは太陽の光が差しこんでくる方向を真上と感じがちになる」
「まるで実体験したみたいな言い方ね。けど、機体の物理的な安全性についてなんて、精神科医のテキストには書いてないと思うけど」
「飛行機のハードウェアそのものも勉強したって言っただろ。機体に穴が開いても、すぐにコックピットではそれを把握し、操縦士が高度を三千六百メートルまで下げて安全な気圧差にする。エンジンも四つ、油圧系統も複数に分割されていて、方向|舵《だ》も昇降舵も二分割されてバックアップがなされている。容易なことじゃ旅客機を墜落させることなんかできない。しかし、重心は重要だ。搭乗手続きをするのも、機体の重心を見極めながら人や貨物を載せるためだからな」
美由紀は醒《さ》めた目を向けてきた。訳知り顔で知識を披露する笹島に、軽蔑《けいべつ》の念を抱いたのかもしれなかった。
「じゃあ聞くけど、どうあっても重心がずれてしまう場合はどうするの? 飛ぶのをやめる?」
「テストかな。重心は絶対に合わせなきゃならない。だからバラストっていう鉛製の錘《おもり》をいれて重心を調整する。なにしろ、乗客ひとりが前のほうから後ろのほうに移動しただけで、重心は一・二ミリ後方にずれるって話だ。デリケートなもんだよ。重心位置が二メートル以上ずれたら危険だからな」
「正確には一・七五メートルだけどね」
笹島は足をとめた。「なあ、美由紀さん」
じれったそうに美由紀は振りかえった。「なに?」
言葉に詰まる。彼女には、どんなに謝罪したところで受けいれてはもらえないだろう。
美由紀が、過剰なまでに人を疑うようになったのも、僕のせいに違いない。信頼を得られるとまでは思わないが、少しでも彼女の苦しみを和らげてあげたい。
笹島はつぶやいた。「美由紀さん。僕に腹を立てているのはわかるけど……」
「やめてよ。聞きたくない」
「どうしてだよ。僕は心から謝りたいんだ。きみの観察眼なら、僕の気持ちを察することができるだろ?」
「だからいやなの!」美由紀は顔をあげて笹島を見た。「あなたが反省してるなんて、認めたくない。よけいに辛《つら》くなるじゃない」
「……まだ憎んでいるほうがましってことかい? 僕を悪人だと思っていたいのかい?」
美由紀の大きな瞳《ひとみ》が潤みだしていた。
また顔を伏せて、美由紀はいった。「怒りを鎮めるために、心理面で適応機制が働いて、投射によってすべてをあなたのせいにする。もしあなたの心が読めなかったら、きっとそうしてる……」
「だけど……。いまのきみは、そうじゃないんだろ?」
「できないからよ」美由紀は声を震わせながら訴えてきた。「心の適応が図れない。だから不安定になる」
笹島はつぶやくしかなかった。「そうか……」
岬美由紀がパイロットとして培った動体視力と、心理学の知識の両方を兼ね備えたことで、千里眼呼ばわりされるほど人の感情を見抜けるようになったこと。そのうわさを耳にしたとき、きっと彼女は耐えがたい孤独と不安を背負いこんでしまったに違いない、笹島はそう感じていた。そしていま、それが現実だったとわかった。
人の心を見透かせるほど苦痛なことはない。彼女のその苦しみも、笹島が三年前の査問会議で公表した上官の精神分析結果に端を発している。あのせいで美由紀は臨床心理学を学ばざるをえなかった。しかも結果、彼女のほうが正しかった。それでも上官の復職はかなわず、美由紀は重い十字架を背負うことになってしまった。
「すまない」胸に痛みを覚えながら、笹島はつぶやいた。「きみをこれ以上苦しめたくない……。きょうはもう仕事に戻るといいよ。警察の捜査には、僕が充分に協力するから」
「いいの。わたしは手を引かない」
「どうしてだよ。きみの本業は人助けではあっても、テロの阻止ではないだろ」
「旅客機が墜落する可能性を感じておいて、無視なんかできないわ。何百人もの人の命がかかってる。わたしは誰の命も失わせたくない」
「それは僕も同じだよ。でも捜査権は警察にあるし、指揮権はまずあの警部補にある」
「七瀬さんはいい人かもしれないけど、わたしの感じていることを重視してはくれない。見下そうとしているのがその表れ。顎《あご》を突きだしがちになるのは、それだけ目線を上にして優位を保ちたい気持ちがあるからよ」
「考えごとをするために、心理学でいうコミュニケーション・チャンネルを一時的に絶つためのしぐさとも考えられる」
「教科書どおりの答えね」
美由紀は、まるで違う考えのようだった。観察眼と洞察力では、こちらをはるかに凌駕《りようが》しているのだろう。美由紀はポケットから折りたたまれた紙片をとりだして開いた。
それは週刊誌に掲載された好摩の取材記事のページを破りとったものだった。
好摩の顔写真を笹島の鼻先に突きつけながら、美由紀はいった。「この顔をしてみて」
「……いま、ここでかい?」
「そう。リエゾン精神科医ならカウンセリングもするんでしょ。表情の読み方を練習するソフト、あなたも使ったことがあるでしょう? そのときみたいに表情を真似てから、漠然と沸きでてくる感情を感じとるのよ」
通行人の目が気になるな。笹島はためらいながらも、どこか怯《おび》えたように目を丸くした好摩の顔を模倣した。
美由紀はきいた。「どんな感情だと思う?」
「さあ……。興奮ぎみで、なにかに漠然と怯えているような感じかな……。それぐらいしか……」
沈黙のなかで、美由紀はため息を漏らした。
「それが」美由紀は落胆とともにつぶやいた。「あなたと、わたしの違いなの」
美由紀が告げようとしたことを、笹島はおおむね理解できた。
じっくり観察することが本分のカウンセラーは、時間をかけて表情を分析することに慣れている。しかし美由紀は、観察した瞬間、当人のなかに感情がこみあげるのとほぼ同じ速度で、同じ気持ちを共有できるのだ。
感情は瞬時に起きて瞬時に消える。それゆえに、本当に相手の感情を知ることができるのは、彼女しかいない。誰も、美由紀と同じようには感じることはできない。
美由紀は背を向けて、その場を立ち去りかけた。
「待ってよ、美由紀さん」笹島はいった。「ひとつだけ聞いてほしいんだ」
無言のまま、美由紀は立ちどまった。
美由紀の背に、笹島は告げた。「僕が機体のことを勉強したのも、心理的にみれば適応機制さ……。旅客機がどうなっていれば両親が助かったのか、ずっとそればかり研究してた」
おそらく彼女も、僕の両親の事故についてはもう、知りおおせているのだろう。
背を向ける美由紀の肩は、かすかに震えていた。
笹島が高校一年のころ、彼の両親と三人でヨーロッパ旅行に行くはずが、ひとり風邪をこじらせ日本を離れられなかった。だがその数日後、両親が乗ったマドリード発パリ行きの旅客機は墜落した。山腹に激突した機体は大破、乗客はひとりも助からなかった。
回収されたブラックボックスから、機長の精神面に問題があったという結論が下った。その報道は笹島にとって衝撃的だった。
あんな惨劇が起きる航空業界であってはならないはずだ。それがこの道に足を踏みいれたきっかけだった。人々が同じ悲しみに直面する事態を、抑制し、やがて根絶せねばならない。
「よく夢想したよ」笹島はつぶやいた。「旅客機っていうものは、どうして乗客のシートに脱出装置をつけてくれないんだろうってね。シートごと射出してパラシュートで降下する、本気でそんな機体が発明できないかと考えあぐねた。いろいろ文献も調べたよ。でも、戦闘機乗りだったきみなら知ってるとおり、無理だった。訓練も受けていない人間は、たとえ自動的に射出されても、その後どうすべきかわからない。ささいなトラブルにも対処できないし、風圧のなかでどんな姿勢をとるかも、着地の瞬間にどう身構えるかも知らない。結局、助かる可能性はほとんどない……」
「二百時間以上の訓練が必要でしょうね……。それに、ジャンボジェット旅客機の降下速度を考えると、パラシュートが開かないこともあるし……」
「飛行機について、いろんなことを知ったよ。いまさら両親が生き返るわけでもないのに、それでも勉強した。……ひょっとしたら、いまその知識が役に立つかもしれない。僕を信じてくれないか?」
美由紀も両親を失い、孤独な者どうしだ。ただ、関係はフェアではない。僕は彼女を傷つけてしまっている。できることなら、彼女の傷を癒《い》やしたい。そして、僕の気持ちを、彼女に受けいれてもらいたい。
美由紀はこわばった顔で振り向いた。その瞳には涙が溢《あふ》れそうになっていた。
目を合わせてこちらの感情を読むことは、彼女にとって勇気がいることらしい。
しばらく、困惑したように伏せがちだった美由紀の目が、意を決したようすでまっすぐに笹島の顔をとらえた。
的確に心を読んだのだろう。美由紀は泣きそうな声でささやいた。「あなたのせいじゃない……。あなたは、わたしを陥れようとしたわけじゃなかった。除隊したことも、板村三佐を巻きこんでしまったことも、ぜんぶわたしのせいなの。すべての責任はわたしにあった。あなたのせいにしようとしてたわたしが間違ってた……」
「それはちがうよ」笹島が静かにいった。「人間の心理として当然のことなんだ。でもきみは、僕の真意を見抜いてくれただろう? 僕もきみを理解したい。きみも手を引くつもりがないのなら……。逆に協力しあおう。僕はきみほどの観察眼も働かないし、飛行機についてもきみのほうがプロだが……。警察をだまらせておくことはできるよ。ほかにも、役に立てることがあるかもしれない」
また美由紀の視線が笹島に向いた。涙を溜《た》めた瞳《ひとみ》は穏やかな湖面のようにきらめいていた。
「ええ」美由紀はうなずいた。
笹島は安堵《あんど》のため息を漏らした。「よかった……」
まだわだかまりは失《う》せていなくても、わかりあっていける一歩が踏みだせた。笹島はそう実感した。
僕は、きみを救いたい。心から愛しているからだ。
この感情を読みとってほしい。笹島は念じるようにそう願った。
ところが美由紀は、涙を指先で拭《ふ》きとると、いつものようにどこか冷ややかな態度に戻った。
行きましょ、そういって美由紀は歩きだす。
思わずぽかんとして、笹島は立ちつくした。
これからがいい雰囲気だったのに。もちろんタイムリミットを考えれば、ぐずぐずしている場合ではないのだが、それにしてもまるでスイッチを切ったかのように、この想いだけが伝わらないなんて。
うまくいかないもんだな。笹島は首をひねりながら、美由紀の後を追った。