植物管理センターは、渋谷区のはずれ、環状七号線に面した場所に入り口がある。高い塀に囲まれた広大な敷地のなかには、巨大なビニールハウスの屋根がいくつも連なって見えていた。
美由紀は笹島とともにその入り口に近づき、警備員に声をかけた。「こんにちは。バイトで働いている吉野律子さんにお会いしたいんですけど」
「吉野って……ああ、あの眼鏡をかけた子か。まだ来てないよ。そろそろだとは思うけど」
「ご存じなんですか?」
「出勤が多いからよく見かけるんでね。あんな熱心なバイトの子は少ないよ」警備員は美由紀の肩ごしに遠くを眺めていった。「あ、あのバスに乗ってるの、そうじゃないか? 一番後ろの席。ちょうど来たところみたいだ」
入り口のすぐ前にあるバス停に、一台の路線バスが滑りこんできた。
窓ごしに、ショートヘアに緑のジャケット姿の痩《や》せた女がみえる。どことなく内気そうにみえた。最後尾に座っているのは、その女しかいない。
笹島が美由紀にささやいてきた。「あれが吉野律子か。たしかにどこか変わってるな。五人ほど座れる最後列の椅子の、右端に座ってる」
「端に寄って座るのは当然でしょ。心理学的にも自分のパーソナルスペースを広くとろうとするために、たいていの人が端に座りたがることは実証されてる」
「でも左端じゃなく右端だよ? ふつうなら左に寄ることが多い。心臓がある左側をかばうためとか、いろいろ理由はいわれてるが、世に左側恐怖症なんてものがあるぐらいだから、わざわざ右に座るというのは少なくとも弱腰な人間じゃないのかも」
「まあ、そういえなくもないけどね……。隠しごとをしている人間の素行としては、ちょっと例外的かもね」
「見かけによらず大胆な性格とか」
「あるいはレジのお金を盗んだぐらいで、それ以上のことはなにも知らないのかも……」
「きみともあろうものが、ずいぶん弱気だね」
「そうね」と美由紀は苦笑した。「いまのわたしなら間違いなく左端に座るわね」
律子は立ちあがって通路を進み、外に降りてきた。
入り口に向かって歩いてきた律子に、美由紀は声をかけた。「すみません。岬美由紀といいます。あなた、吉野律子さんね?」
「……はい?」と律子は戸惑いがちに応じた。
表情にできるだけはっきりと感情を浮かびあがらせるためにも、唐突かつ核心を突いた質問をしたほうがいい。美由紀はきいた。「中華料理店のレジのお金、あなたが盗んだ?」
「な……」律子は大きく目を見開いて絶句した。「……なんのこと?」
「好摩さんって人の知り合い?」
律子の頬筋《きようきん》が左右のバランスを欠き、右のみがわずかにひきつったことを、美由紀は見逃さなかった。嫌悪もしくは不快感が瞬時に生じた。好摩の名に聞き覚えがあって、しかも快く思っていない。
「ねえ、律子さん。わたしたちは、あなたの力になることが……」
しかし律子は、失礼しますといい残し、美由紀の脇をすり抜けて植物管理センターの入り口へと小走りに向かっていった。
「まって」美由紀は声をかけた。
それでも律子は立ちどまることなく、門のなかに逃げこんでいった。彼女の反応を見ていた警備員が、こちらに警戒のいろのこもった目を向ける。
美由紀は困惑を深めた。どうやらあの警備員にも、これ以上の協力を求めることは難しそうだ。
笹島が美由紀にいった。「弱ったな。今度はどうする?」
思考をめぐらせていると、携帯電話が短く鳴った。メールの着信のようだ。
液晶板を見てみると、由愛香からのメールだった。写真が添付されている。
表示してみると、口を大きく開け、顔を大仰なほどに歪《ゆが》めた男の顔が映っている。
まるでにらめっこのようだ。美由紀はこんな状況だというのにプッと噴きだしてしまった。
「どうしたんだ」と笹島は美由紀の携帯を覗《のぞ》きこみ、たちまち眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。「こりゃひどいな」
「元はかっこいい人だと思うけどね。どうしてこんな顔してるんだろ。どんな心理かわかる?」
「さっぱりだ。少なくとも恋人にみせる顔じゃないな」
「じゃあ恋心は皆無ってことかな」
「わからんよ。おかしな顔をして笑わせようとしてるのかも。とにかく、ふつうの心理状態じゃこんな顔にはならない。きみはどう思う?」
「さっぱりわからない」美由紀は携帯電話をしまいこんだ。「そんなことより、なんとかして律子さんに会わないと」
「それならいい考えがある」と笹島は歩道の先を指さした。「隣のデニーズで待ってよう」
「デニーズ?」美由紀は笹島がしめす方向を見やった。たしかに敷地のすぐ隣にファミリーレストランの看板がでている。「どうして?」
「あの子はさぼり癖がついていると思う。ここの従業員が時間つぶしをするとしたら、あそこしかなさそうだ」
「でも警備員さんも中華料理店の女主人さんも、熱心な子だっていってるけど」
「きみは律子って子の指先を見たか? 爪の先がまるで汚れてない。僕もガーデニングはするけど、連日のように土いじりしてりゃ、爪の下に土が溜《た》まるはずだ。こいつがなかなか落ちないんだよ」
「……だから仕事を怠けてるって?」
「そうとも。間違いない。デニーズに行こう。それが一番近道だ」
美由紀は首をかしげたくなった。たしかに、律子の指先はきれいだった。意識せずとも、美由紀は目にとまる範囲のものはすべて観察し、記憶にとどめていた。
ただし、律子がバスから降りるときの几帳面《きちようめん》なしぐさを見ても、声をかけられたときのまじめな顔を考慮しても、仕事熱心という評判を裏づけこそすれ、さぼりがちという結論など導きだせない。
笹島はにっこりと笑った。「どうだい、鋭い観察だろ? きみが昭和四十三年の一円玉ってのを一瞬にして疑ったように、僕も精神医学以外の面で鋭いところを見せたかったんだ」
あきれた。美由紀はため息とともにいった。「わたしと張りあうために彼女の顔以外のところを観察したっていうの?」
「ここでの仕事といえば土いじりが主体だからね。まずは指先を見るべきと心にきめてた」
「ふうん……それで、表情のほうはどう思う?」
「え……表情って?」
「大事なのはまず彼女の顔に表れる感情でしょ。あなたはどう思ったの」
「表情……か。それが……指先に気をとられてたんで……。きみほどの動体視力なら、どっちも見ることができるんだろうけど」
「なら、今度からは顔の観察を優先して」
「そうか。まあ、そうするかな」笹島は頭をかいた。「でも僕は自分の勘を信じるよ。彼女はデニーズに来る」
「勝手にすれば? わたしは彼女がなかでちゃんと働いているほうに賭《か》ける」
「いいとも」かすかにむっとしたようすの笹島が、肩をすくめた。「ファミレスで待ってるよ。なるべく早く来るといい。無駄にできる時間はないんだからね」
美由紀は黙って、笹島が背を向けて歩き去っていくのを眺めた。
案外、子供じみたところがある人だ。どうあってもわたしを感心させたかったのだろうか。やはり男の心というのはわかりにくい。
携帯が鳴った。今度は電話の着信のようだった。液晶板にはやはり、由愛香の名がある。
美由紀は電話にでた。「もしもし」
「どうだった?」と由愛香の声がきいてきた。
「どうって……。あれじゃなにもわからないわよ」
「なによ。千里眼なのに」
「千里眼どころか、なぜあんな表情をしているのかさえわからないの。いったいどんなときに撮ったの?」
「……やっぱ、くしゃみした瞬間じゃダメ?」
「くしゃみ?」美由紀は頭がくらくらする気がした。「道理でわからなかったわけね」
「顔が写ってれば、なんでもいいのかと……」
「そんなわけないでしょ。ちゃんと澄ましてる顔にして」
「わかった。すぐ送るから、すぐ返事して」由愛香の声がそう告げて、電話は切れた。
この忙しいときに、いっそう頭を混乱させる事態だ。美由紀は携帯をしまいながら思った。
いまは平和には違いない。だが、嵐の前の静けさなのだ。本物の千里眼なら心どころか、未来も読めるだろう。わたしにはどちらもできない。わたしに可能なのは努力すること、最後まであきらめないこと。それだけでしかない。ごくふつうの人間だ。そんな人間に、奇跡は起こせるだろうか。
美由紀は笹島とともにその入り口に近づき、警備員に声をかけた。「こんにちは。バイトで働いている吉野律子さんにお会いしたいんですけど」
「吉野って……ああ、あの眼鏡をかけた子か。まだ来てないよ。そろそろだとは思うけど」
「ご存じなんですか?」
「出勤が多いからよく見かけるんでね。あんな熱心なバイトの子は少ないよ」警備員は美由紀の肩ごしに遠くを眺めていった。「あ、あのバスに乗ってるの、そうじゃないか? 一番後ろの席。ちょうど来たところみたいだ」
入り口のすぐ前にあるバス停に、一台の路線バスが滑りこんできた。
窓ごしに、ショートヘアに緑のジャケット姿の痩《や》せた女がみえる。どことなく内気そうにみえた。最後尾に座っているのは、その女しかいない。
笹島が美由紀にささやいてきた。「あれが吉野律子か。たしかにどこか変わってるな。五人ほど座れる最後列の椅子の、右端に座ってる」
「端に寄って座るのは当然でしょ。心理学的にも自分のパーソナルスペースを広くとろうとするために、たいていの人が端に座りたがることは実証されてる」
「でも左端じゃなく右端だよ? ふつうなら左に寄ることが多い。心臓がある左側をかばうためとか、いろいろ理由はいわれてるが、世に左側恐怖症なんてものがあるぐらいだから、わざわざ右に座るというのは少なくとも弱腰な人間じゃないのかも」
「まあ、そういえなくもないけどね……。隠しごとをしている人間の素行としては、ちょっと例外的かもね」
「見かけによらず大胆な性格とか」
「あるいはレジのお金を盗んだぐらいで、それ以上のことはなにも知らないのかも……」
「きみともあろうものが、ずいぶん弱気だね」
「そうね」と美由紀は苦笑した。「いまのわたしなら間違いなく左端に座るわね」
律子は立ちあがって通路を進み、外に降りてきた。
入り口に向かって歩いてきた律子に、美由紀は声をかけた。「すみません。岬美由紀といいます。あなた、吉野律子さんね?」
「……はい?」と律子は戸惑いがちに応じた。
表情にできるだけはっきりと感情を浮かびあがらせるためにも、唐突かつ核心を突いた質問をしたほうがいい。美由紀はきいた。「中華料理店のレジのお金、あなたが盗んだ?」
「な……」律子は大きく目を見開いて絶句した。「……なんのこと?」
「好摩さんって人の知り合い?」
律子の頬筋《きようきん》が左右のバランスを欠き、右のみがわずかにひきつったことを、美由紀は見逃さなかった。嫌悪もしくは不快感が瞬時に生じた。好摩の名に聞き覚えがあって、しかも快く思っていない。
「ねえ、律子さん。わたしたちは、あなたの力になることが……」
しかし律子は、失礼しますといい残し、美由紀の脇をすり抜けて植物管理センターの入り口へと小走りに向かっていった。
「まって」美由紀は声をかけた。
それでも律子は立ちどまることなく、門のなかに逃げこんでいった。彼女の反応を見ていた警備員が、こちらに警戒のいろのこもった目を向ける。
美由紀は困惑を深めた。どうやらあの警備員にも、これ以上の協力を求めることは難しそうだ。
笹島が美由紀にいった。「弱ったな。今度はどうする?」
思考をめぐらせていると、携帯電話が短く鳴った。メールの着信のようだ。
液晶板を見てみると、由愛香からのメールだった。写真が添付されている。
表示してみると、口を大きく開け、顔を大仰なほどに歪《ゆが》めた男の顔が映っている。
まるでにらめっこのようだ。美由紀はこんな状況だというのにプッと噴きだしてしまった。
「どうしたんだ」と笹島は美由紀の携帯を覗《のぞ》きこみ、たちまち眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。「こりゃひどいな」
「元はかっこいい人だと思うけどね。どうしてこんな顔してるんだろ。どんな心理かわかる?」
「さっぱりだ。少なくとも恋人にみせる顔じゃないな」
「じゃあ恋心は皆無ってことかな」
「わからんよ。おかしな顔をして笑わせようとしてるのかも。とにかく、ふつうの心理状態じゃこんな顔にはならない。きみはどう思う?」
「さっぱりわからない」美由紀は携帯電話をしまいこんだ。「そんなことより、なんとかして律子さんに会わないと」
「それならいい考えがある」と笹島は歩道の先を指さした。「隣のデニーズで待ってよう」
「デニーズ?」美由紀は笹島がしめす方向を見やった。たしかに敷地のすぐ隣にファミリーレストランの看板がでている。「どうして?」
「あの子はさぼり癖がついていると思う。ここの従業員が時間つぶしをするとしたら、あそこしかなさそうだ」
「でも警備員さんも中華料理店の女主人さんも、熱心な子だっていってるけど」
「きみは律子って子の指先を見たか? 爪の先がまるで汚れてない。僕もガーデニングはするけど、連日のように土いじりしてりゃ、爪の下に土が溜《た》まるはずだ。こいつがなかなか落ちないんだよ」
「……だから仕事を怠けてるって?」
「そうとも。間違いない。デニーズに行こう。それが一番近道だ」
美由紀は首をかしげたくなった。たしかに、律子の指先はきれいだった。意識せずとも、美由紀は目にとまる範囲のものはすべて観察し、記憶にとどめていた。
ただし、律子がバスから降りるときの几帳面《きちようめん》なしぐさを見ても、声をかけられたときのまじめな顔を考慮しても、仕事熱心という評判を裏づけこそすれ、さぼりがちという結論など導きだせない。
笹島はにっこりと笑った。「どうだい、鋭い観察だろ? きみが昭和四十三年の一円玉ってのを一瞬にして疑ったように、僕も精神医学以外の面で鋭いところを見せたかったんだ」
あきれた。美由紀はため息とともにいった。「わたしと張りあうために彼女の顔以外のところを観察したっていうの?」
「ここでの仕事といえば土いじりが主体だからね。まずは指先を見るべきと心にきめてた」
「ふうん……それで、表情のほうはどう思う?」
「え……表情って?」
「大事なのはまず彼女の顔に表れる感情でしょ。あなたはどう思ったの」
「表情……か。それが……指先に気をとられてたんで……。きみほどの動体視力なら、どっちも見ることができるんだろうけど」
「なら、今度からは顔の観察を優先して」
「そうか。まあ、そうするかな」笹島は頭をかいた。「でも僕は自分の勘を信じるよ。彼女はデニーズに来る」
「勝手にすれば? わたしは彼女がなかでちゃんと働いているほうに賭《か》ける」
「いいとも」かすかにむっとしたようすの笹島が、肩をすくめた。「ファミレスで待ってるよ。なるべく早く来るといい。無駄にできる時間はないんだからね」
美由紀は黙って、笹島が背を向けて歩き去っていくのを眺めた。
案外、子供じみたところがある人だ。どうあってもわたしを感心させたかったのだろうか。やはり男の心というのはわかりにくい。
携帯が鳴った。今度は電話の着信のようだった。液晶板にはやはり、由愛香の名がある。
美由紀は電話にでた。「もしもし」
「どうだった?」と由愛香の声がきいてきた。
「どうって……。あれじゃなにもわからないわよ」
「なによ。千里眼なのに」
「千里眼どころか、なぜあんな表情をしているのかさえわからないの。いったいどんなときに撮ったの?」
「……やっぱ、くしゃみした瞬間じゃダメ?」
「くしゃみ?」美由紀は頭がくらくらする気がした。「道理でわからなかったわけね」
「顔が写ってれば、なんでもいいのかと……」
「そんなわけないでしょ。ちゃんと澄ましてる顔にして」
「わかった。すぐ送るから、すぐ返事して」由愛香の声がそう告げて、電話は切れた。
この忙しいときに、いっそう頭を混乱させる事態だ。美由紀は携帯をしまいながら思った。
いまは平和には違いない。だが、嵐の前の静けさなのだ。本物の千里眼なら心どころか、未来も読めるだろう。わたしにはどちらもできない。わたしに可能なのは努力すること、最後まであきらめないこと。それだけでしかない。ごくふつうの人間だ。そんな人間に、奇跡は起こせるだろうか。