そこは、港の埠頭《ふとう》の先に位置する木造建ての管理小屋らしかった。なかは無人で、がらんとしている。無線の機材も取り除かれた跡があった。くもの巣が張りめぐらされているところをみると、使用しなくなって久しいのかもしれない。
それでもゴムボートや救命用品一式が残っていた。笹島がそのなかから毛布をとりだして、美由紀に羽織らせてくれた。
美由紀は部屋の片隅にうずくまり、めまいや痺れを堪《こら》えようと必死になった。目を閉じると、平衡感覚に狂いが生じて小屋が傾いているように感じられる。かといって目を開けると、今度は壁が揺れているように見えてくる。
笹島は部屋のなかを物色していたが、そのうち中央にある古いストーブの前で足をとめた。
煙突が屋根の外に伸びている石炭式のストーブを眺めながら、笹島がいった。「これで暖がとれればいいんだが、燃やすものがない……。あ、そうだ、さっきの」
部屋の隅に向かった笹島に、美由紀はきいた。「なにかあるの?」
本を何十冊も抱えて笹島は戻ってきた。「新品の本が山ほど捨ててあったんだ。ぜんぶ同じ本でね。たぶん業者か誰かが、大量の売れ残りを不法投棄したんだな」
「なんて本?」
「『ソウルで逢《あ》えたら』とかいう題名だ。知ってる?」
「知らない」
「じゃ遠慮なく燃やせるな」笹島はページを次々にやぶってストーブに放りこみ、ライターで火をつけた。
室内がオレンジいろに照らしだされる。温度の上昇は感じられないが、わずかな安堵《あんど》を覚えることはできた。
そのおぼろげな明かりのなかで、笹島はゴムボートのなかをあさった。「非常食と、ミネラルウォーターが数本ある」
「海水一に対して、真水二の割合で混ぜれば、飲み水を増やせる……。ちょっとしょっぱいけど、水は多いほうがいいでしょ」
笹島が近づいてきて、穏やかにきいた。「自衛隊のサバイバルの知恵? ほかには?」
「薄くなった石鹸《せつけん》は電子レンジに入れて、五百ワットで三十秒温めれば、また膨らんで何回か使える。ただし直後は熱くなっていて、手で触れると火傷《やけど》しちゃうから注意」
「なるほど」笹島は美由紀に並んで座った。「つづけて」
「アルカリ乾電池は切れたあとも、消費電流の小さい機械に移し換えればまだ使える。ラジオで切れても電卓なら数時間は持つ。……ああ、駄目。正気を保てない……」
「がんばって。酒と同じで、時間とともに血液中で浄化されるはずだ」
そうはいっても、泥酔の数百倍の辛《つら》さだ。目には自然に涙が溢《あふ》れ、口もとから涎《よだれ》がしたたる。全身の痙攣《けいれん》がとめどなく起きる。
笹島が美由紀をそっと抱いて、身体の震えを抑制してくれた。
「寒い?」と笹島がきいた。
「ええ。……でもあなたのおかげで、少し温かい……」
「そうだ、これを」と笹島は、懐からマフラーを取りだした。
薄手に見えたが、藍《あい》いろのフリース製のマフラーだった。笹島がそれを美由紀の首に巻こうとしたとき、頬が触れあうぐらいに接近した。美由紀は思わずどきっとした。
マフラーはとても温かく、肌触りも柔らかかった。
「ありがとう」美由紀はつぶやいた。「毛糸のマフラーはチクチクして嫌いだけど、フリースは好きよ」
「生地を切った手製のものだけどね。フリースの原料は?」
「ペットボトルのリサイクルで……ポリエステルだけど、製造工程によって肌触りが違う」
「正解だよ」笹島は静かにいった。「ねえ、美由紀さん。僕はきみと出会えて、本当によかったと思う」
「……え?」
「きみを知る前まで、僕はただ両親の死に打ちひしがれた哀れな若造でしかなかった……。同じようにパイロットの精神面に起因する事故を防ぎたくて、精神科医になったけど、事故は別の理由でも起きる。……結局、悲劇はあとを絶たない。隠蔽《いんぺい》体質の航空業界は、すべての事故の原因をうやむやにしてきた。僕ひとりが抗《あらが》ってみたところで、無力感にさいなまれるだけさ」
「無力感なら、わたしもずっとひきずってる……」
「きみは違うよ。とんでもなく大勢の人を助けてきたじゃないか。人の感情を見抜けるようになったのも、きみにとっては運命かもしれない。きみは使命を与えられたようなもんだよ。日々、正しい行いにその技能を役立てようとしている。僕もそうありたいと思う」
「あなたはわたしより、ずっと立派よ」
「どうして?」
「警察にも、防衛省にも権威として認められているし……」
「そんなの無意味だ。そうだろ? きみはあらゆる権力を敵にまわしてでも、たった独りで物事を解決しようとする。いじめられて悩んでる子ひとりのために、労力を惜しまず尽くす。誰の悩みだろうと、自分のことのように考えて行動する」
「わたしには……人の気持ちがわかるから。わかりすぎるぐらい、わかるからよ」
「その才能はきみ特有のものだ。でもその思いは、きみだけが抱いているわけじゃない。僕もきみを守ってあげたいよ」
まるでショック療法のように、一瞬だけ意識が覚醒《かくせい》した気がした。またすぐに混沌《こんとん》としはじめる思考のなかで、美由紀は笹島を見つめた。「それって……どういう意味?」
「千里眼に見抜けない、唯一の感情ってことさ」
たずねる間もなく、笹島が顔を近づけてきた。
唇を重ねることに、美由紀は抵抗をしなかった。
胸の奥に温かさが広がっていく。ふしぎな感覚だった。これが、あの読みとれなかった感情か。美由紀はおぼろげな思考のなかで感じた。なるほど、わからなかったわけだ。こんな恋愛、わたしは経験したことがなかった。
それでもゴムボートや救命用品一式が残っていた。笹島がそのなかから毛布をとりだして、美由紀に羽織らせてくれた。
美由紀は部屋の片隅にうずくまり、めまいや痺れを堪《こら》えようと必死になった。目を閉じると、平衡感覚に狂いが生じて小屋が傾いているように感じられる。かといって目を開けると、今度は壁が揺れているように見えてくる。
笹島は部屋のなかを物色していたが、そのうち中央にある古いストーブの前で足をとめた。
煙突が屋根の外に伸びている石炭式のストーブを眺めながら、笹島がいった。「これで暖がとれればいいんだが、燃やすものがない……。あ、そうだ、さっきの」
部屋の隅に向かった笹島に、美由紀はきいた。「なにかあるの?」
本を何十冊も抱えて笹島は戻ってきた。「新品の本が山ほど捨ててあったんだ。ぜんぶ同じ本でね。たぶん業者か誰かが、大量の売れ残りを不法投棄したんだな」
「なんて本?」
「『ソウルで逢《あ》えたら』とかいう題名だ。知ってる?」
「知らない」
「じゃ遠慮なく燃やせるな」笹島はページを次々にやぶってストーブに放りこみ、ライターで火をつけた。
室内がオレンジいろに照らしだされる。温度の上昇は感じられないが、わずかな安堵《あんど》を覚えることはできた。
そのおぼろげな明かりのなかで、笹島はゴムボートのなかをあさった。「非常食と、ミネラルウォーターが数本ある」
「海水一に対して、真水二の割合で混ぜれば、飲み水を増やせる……。ちょっとしょっぱいけど、水は多いほうがいいでしょ」
笹島が近づいてきて、穏やかにきいた。「自衛隊のサバイバルの知恵? ほかには?」
「薄くなった石鹸《せつけん》は電子レンジに入れて、五百ワットで三十秒温めれば、また膨らんで何回か使える。ただし直後は熱くなっていて、手で触れると火傷《やけど》しちゃうから注意」
「なるほど」笹島は美由紀に並んで座った。「つづけて」
「アルカリ乾電池は切れたあとも、消費電流の小さい機械に移し換えればまだ使える。ラジオで切れても電卓なら数時間は持つ。……ああ、駄目。正気を保てない……」
「がんばって。酒と同じで、時間とともに血液中で浄化されるはずだ」
そうはいっても、泥酔の数百倍の辛《つら》さだ。目には自然に涙が溢《あふ》れ、口もとから涎《よだれ》がしたたる。全身の痙攣《けいれん》がとめどなく起きる。
笹島が美由紀をそっと抱いて、身体の震えを抑制してくれた。
「寒い?」と笹島がきいた。
「ええ。……でもあなたのおかげで、少し温かい……」
「そうだ、これを」と笹島は、懐からマフラーを取りだした。
薄手に見えたが、藍《あい》いろのフリース製のマフラーだった。笹島がそれを美由紀の首に巻こうとしたとき、頬が触れあうぐらいに接近した。美由紀は思わずどきっとした。
マフラーはとても温かく、肌触りも柔らかかった。
「ありがとう」美由紀はつぶやいた。「毛糸のマフラーはチクチクして嫌いだけど、フリースは好きよ」
「生地を切った手製のものだけどね。フリースの原料は?」
「ペットボトルのリサイクルで……ポリエステルだけど、製造工程によって肌触りが違う」
「正解だよ」笹島は静かにいった。「ねえ、美由紀さん。僕はきみと出会えて、本当によかったと思う」
「……え?」
「きみを知る前まで、僕はただ両親の死に打ちひしがれた哀れな若造でしかなかった……。同じようにパイロットの精神面に起因する事故を防ぎたくて、精神科医になったけど、事故は別の理由でも起きる。……結局、悲劇はあとを絶たない。隠蔽《いんぺい》体質の航空業界は、すべての事故の原因をうやむやにしてきた。僕ひとりが抗《あらが》ってみたところで、無力感にさいなまれるだけさ」
「無力感なら、わたしもずっとひきずってる……」
「きみは違うよ。とんでもなく大勢の人を助けてきたじゃないか。人の感情を見抜けるようになったのも、きみにとっては運命かもしれない。きみは使命を与えられたようなもんだよ。日々、正しい行いにその技能を役立てようとしている。僕もそうありたいと思う」
「あなたはわたしより、ずっと立派よ」
「どうして?」
「警察にも、防衛省にも権威として認められているし……」
「そんなの無意味だ。そうだろ? きみはあらゆる権力を敵にまわしてでも、たった独りで物事を解決しようとする。いじめられて悩んでる子ひとりのために、労力を惜しまず尽くす。誰の悩みだろうと、自分のことのように考えて行動する」
「わたしには……人の気持ちがわかるから。わかりすぎるぐらい、わかるからよ」
「その才能はきみ特有のものだ。でもその思いは、きみだけが抱いているわけじゃない。僕もきみを守ってあげたいよ」
まるでショック療法のように、一瞬だけ意識が覚醒《かくせい》した気がした。またすぐに混沌《こんとん》としはじめる思考のなかで、美由紀は笹島を見つめた。「それって……どういう意味?」
「千里眼に見抜けない、唯一の感情ってことさ」
たずねる間もなく、笹島が顔を近づけてきた。
唇を重ねることに、美由紀は抵抗をしなかった。
胸の奥に温かさが広がっていく。ふしぎな感覚だった。これが、あの読みとれなかった感情か。美由紀はおぼろげな思考のなかで感じた。なるほど、わからなかったわけだ。こんな恋愛、わたしは経験したことがなかった。