広大な床面積を誇る品川駅構内には、ショッピングモールさながらに商店街が縦横に走っている。東海道・山陽新幹線のホームもあることから、旅じたくが整えられるほどの多種多様な店舗が立ち並ぶ。
だが朝の六時五十分という時刻では、それらの店のシャッターは下りて閑散としている。蛍光灯におぼろげに照らしだされた無機質の迷路、それでも刻一刻とラッシュ時が迫り、通勤客とおぼしき人々の靴の音がそこかしこに響き渡る。
京浜急行のホームから中間改札を通って、コンコースに悠然と歩を進める男がいる。スキンヘッドにいかめしい顔、黒のスーツ。細い腕と脚は俊敏そうで、いざというときの逃げ足も速そうだった。
美由紀は焦点のさだまらない目であっても、昨夜見たその男の顔を見逃すことはなかった。すかさずシャッターの陰から飛びだし、男の襟もとをつかんだ。
「な、なにしやがる!」男は抵抗して、美由紀の手を振りほどこうとした。
激しい頭痛と耳鳴り、めまいのなかにあって、美由紀の握力は充分に発揮できていなかった。それでも、意地でも放すまいと心にきめていた。
身体を引き寄せて脚をひっかけ、柔道の大外刈りの要領で床に引き倒す。男は悲鳴とともに背を床に打ちつけた。美由紀は男に抱きついたまま転がって、半開きのシャッターの下に潜りこんだ。
薄暗いドラッグストアの店内で、美由紀は仰向《あおむ》けになった男の上に乗り、その喉《のど》もとを絞めあげた。「ブツの受け取りってのに興味があるの。段取り、教えてくれる?」
男は愕然《がくぜん》とした表情で美由紀の顔を見あげた。「おまえは……」
「さっさと白状して。時間がないの」
「へっ……。言わなきゃどうする? 絞め殺すか?」
美由紀は遠慮なく、男の首をつかんだ手に体重をかけた。男は苦しがってじたばたと暴れた。
店内でカウンターに寄りかかっていた笹島が、男に静かに告げた。「精神科医からの忠告だが、麻薬中毒は思わぬ凶暴性を発揮することがある。口には気をつけたほうがいい」
はっとして男は抵抗をやめた。
「わかったよ」男は苦々しくつぶやいた。「教えるよ」
美由紀は少しばかり意外に感じた。脅しにこれほど早く屈するとは思わなかった。仕事が仕事だけに、麻薬中毒患者の恐ろしさを熟知しているということだろうか。
「嘘をついてもバレるわよ」と美由紀は男にいった。
「わかってるよ、ほんとのことを言えばいいんだろ。……携帯だ、俺の胸ポケットに入ってる。改札を出たところで三人の運び屋が、顔の見えるぐらいの距離から電話をしてくる」
「三人って?」
「ブツを間違いなく手に入れられるように、複数の運び屋を雇ってるんだよ。連中は競って我先にブツを仕入れて、運ぼうとする。確実な方法なんだ、暮子ママはいつもそうしてる。ただし、気をつけなよ。三人のうちひとりと接触したら、ほかの連中は雲隠れしちまう。こっちが取り引き相手を選んだってことだからな。人選も課題のひとつってことだ」
美由紀はしばらく無言のまま、男の目をじっと見つめた。
薄明かりのなかだが、見誤ることはない。男が欺瞞《ぎまん》を働いているようすはない。ほぼ間違いなく、真実を口にしている。すなおすぎるのが気になるが、嘘ではないようだ。
「情報ありがと」美由紀はそういって、男の胸ポケットをまさぐって携帯電話を取りだした。
ふたたび床を転がって、シャッターの下からコンコースへと戻る。それから男を引き立たせると、美由紀は中間改札のほうへと突き飛ばした。「消えてくれる? 邪魔したら承知しないわよ」
男は怯《おび》えた顔でふらふらと後ずさったが、反撃を画策するようすもなく、背を向けて走り去っていった。
シャッターをくぐって外にでてきた笹島に、美由紀はいった。「凶暴?」
「中毒の患者同然だったことは事実だろ。しかし、明るいところでみるとひどく血の気が失《う》せた顔だな……。目も血走っている。熱があるんじゃないのか」
「だいじょうぶ。マフラーのおかげで暖かいし」美由紀は出口の改札へと向かった。
自分の体調は自分が最もよくわかっている。これ以上ないというぐらい、最悪のコンディションだった。息は切れるし、まっすぐ歩くだけでも困難だ。
それでも、弱音を吐いてはいられない。国内のどの空港も、もう朝の第一便は出発している。爆弾の受け渡しがいまからおこなわれるということは、午後以降の便の可能性が高いが、どの空港発のどの便かもいまだ特定できていない。
自動改札に切符をいれて構内から出る。笹島がいった。「品川で取り引きってことは、狙われる旅客機は羽田発かな」
「断定はできないけど、その可能性は高いわね」美由紀は自動券売機の上の時計に目を向けた。
もう七時になる。暮子のいった約束の時間。改札前はまだ人影もまばらだ。
ふいに携帯が鳴った。だが呼び出し音は一度かぎりだった。液晶板を見ると、メールの表示がでている。
笹島が緊迫した声でつぶやいた。「メールか」
美由紀は急いで携帯を操作し、液晶板に表示させた。とたんに、面食らって凍りついた。
だが朝の六時五十分という時刻では、それらの店のシャッターは下りて閑散としている。蛍光灯におぼろげに照らしだされた無機質の迷路、それでも刻一刻とラッシュ時が迫り、通勤客とおぼしき人々の靴の音がそこかしこに響き渡る。
京浜急行のホームから中間改札を通って、コンコースに悠然と歩を進める男がいる。スキンヘッドにいかめしい顔、黒のスーツ。細い腕と脚は俊敏そうで、いざというときの逃げ足も速そうだった。
美由紀は焦点のさだまらない目であっても、昨夜見たその男の顔を見逃すことはなかった。すかさずシャッターの陰から飛びだし、男の襟もとをつかんだ。
「な、なにしやがる!」男は抵抗して、美由紀の手を振りほどこうとした。
激しい頭痛と耳鳴り、めまいのなかにあって、美由紀の握力は充分に発揮できていなかった。それでも、意地でも放すまいと心にきめていた。
身体を引き寄せて脚をひっかけ、柔道の大外刈りの要領で床に引き倒す。男は悲鳴とともに背を床に打ちつけた。美由紀は男に抱きついたまま転がって、半開きのシャッターの下に潜りこんだ。
薄暗いドラッグストアの店内で、美由紀は仰向《あおむ》けになった男の上に乗り、その喉《のど》もとを絞めあげた。「ブツの受け取りってのに興味があるの。段取り、教えてくれる?」
男は愕然《がくぜん》とした表情で美由紀の顔を見あげた。「おまえは……」
「さっさと白状して。時間がないの」
「へっ……。言わなきゃどうする? 絞め殺すか?」
美由紀は遠慮なく、男の首をつかんだ手に体重をかけた。男は苦しがってじたばたと暴れた。
店内でカウンターに寄りかかっていた笹島が、男に静かに告げた。「精神科医からの忠告だが、麻薬中毒は思わぬ凶暴性を発揮することがある。口には気をつけたほうがいい」
はっとして男は抵抗をやめた。
「わかったよ」男は苦々しくつぶやいた。「教えるよ」
美由紀は少しばかり意外に感じた。脅しにこれほど早く屈するとは思わなかった。仕事が仕事だけに、麻薬中毒患者の恐ろしさを熟知しているということだろうか。
「嘘をついてもバレるわよ」と美由紀は男にいった。
「わかってるよ、ほんとのことを言えばいいんだろ。……携帯だ、俺の胸ポケットに入ってる。改札を出たところで三人の運び屋が、顔の見えるぐらいの距離から電話をしてくる」
「三人って?」
「ブツを間違いなく手に入れられるように、複数の運び屋を雇ってるんだよ。連中は競って我先にブツを仕入れて、運ぼうとする。確実な方法なんだ、暮子ママはいつもそうしてる。ただし、気をつけなよ。三人のうちひとりと接触したら、ほかの連中は雲隠れしちまう。こっちが取り引き相手を選んだってことだからな。人選も課題のひとつってことだ」
美由紀はしばらく無言のまま、男の目をじっと見つめた。
薄明かりのなかだが、見誤ることはない。男が欺瞞《ぎまん》を働いているようすはない。ほぼ間違いなく、真実を口にしている。すなおすぎるのが気になるが、嘘ではないようだ。
「情報ありがと」美由紀はそういって、男の胸ポケットをまさぐって携帯電話を取りだした。
ふたたび床を転がって、シャッターの下からコンコースへと戻る。それから男を引き立たせると、美由紀は中間改札のほうへと突き飛ばした。「消えてくれる? 邪魔したら承知しないわよ」
男は怯《おび》えた顔でふらふらと後ずさったが、反撃を画策するようすもなく、背を向けて走り去っていった。
シャッターをくぐって外にでてきた笹島に、美由紀はいった。「凶暴?」
「中毒の患者同然だったことは事実だろ。しかし、明るいところでみるとひどく血の気が失《う》せた顔だな……。目も血走っている。熱があるんじゃないのか」
「だいじょうぶ。マフラーのおかげで暖かいし」美由紀は出口の改札へと向かった。
自分の体調は自分が最もよくわかっている。これ以上ないというぐらい、最悪のコンディションだった。息は切れるし、まっすぐ歩くだけでも困難だ。
それでも、弱音を吐いてはいられない。国内のどの空港も、もう朝の第一便は出発している。爆弾の受け渡しがいまからおこなわれるということは、午後以降の便の可能性が高いが、どの空港発のどの便かもいまだ特定できていない。
自動改札に切符をいれて構内から出る。笹島がいった。「品川で取り引きってことは、狙われる旅客機は羽田発かな」
「断定はできないけど、その可能性は高いわね」美由紀は自動券売機の上の時計に目を向けた。
もう七時になる。暮子のいった約束の時間。改札前はまだ人影もまばらだ。
ふいに携帯が鳴った。だが呼び出し音は一度かぎりだった。液晶板を見ると、メールの表示がでている。
笹島が緊迫した声でつぶやいた。「メールか」
美由紀は急いで携帯を操作し、液晶板に表示させた。とたんに、面食らって凍りついた。
ブツヲニュウシュ。トリヒキジョウケンハ アトデレンラクスル。ヒゲ
「なんだこれ」と笹島がいった。
顔をあげて、美由紀は辺りを見まわした。顔の見える距離から連絡が入るとさっきの男は言っていた。だが、周囲に携帯を手にした人間は見当たらない。
と、つづけざまに二回、携帯の呼び出し音が鳴った。さらにメールをふたつ受信している。
顔をあげて、美由紀は辺りを見まわした。顔の見える距離から連絡が入るとさっきの男は言っていた。だが、周囲に携帯を手にした人間は見当たらない。
と、つづけざまに二回、携帯の呼び出し音が鳴った。さらにメールをふたつ受信している。
ヒゲガニュウシュシタモヨウ。オレハオリル。アカシャツ
オレトアカシャツハ、ブツヲニュウシュデキナカッタ。ホカノホウホウアリ。メガネ
「美由紀さん」笹島が耳うちした。「あいつら、どうも変じゃないか」
笹島の視線を追うと、改札の向こうで公衆電話のブースにひとり、口ひげを生やした目つきの鋭い男がいる。
すぐに美由紀は、コンコースをはさんで逆側にある公衆電話にも、怪しい男がふたりほどいることに気づいた。そのふたりは連れ立ってはいないらしく、距離を置いてそれぞれに電話の受話器を手にしている。うちひとりはジャケットの下に赤いシャツを着て、もうひとりは眼鏡をかけていた。
「でもな」と笹島は頭をかいた。「受信したのはメールだし……」
「いえ。あの人たちにちがいないわ。公衆電話からでもメールは送れるし」
「そうなのかい?」
「プッシュホンで184‐090‐310‐1655番。ドコモのメールセンターにかけてから、相手の電話番号を入力して、*2*2と押す。いにしえのポケットベルのメッセージってやつと同じ」
「懐かしいな。アが11で、イが21ってやつだな。ひと昔前には女学生はみんな文字と番号の変換表を暗記してた」
「ずいぶん前だけどね」美由紀はつぶやきながら、メール送信者と思われる三人を観察した。
髭《ひげ》、赤シャツ、眼鏡。内容から、誰がどのメールを送ったかはわかる。三人ともこちらの顔は知らないらしく、しきりに視線を周囲に泳がせている。ここで公衆電話から連絡するよう、指示を受けていただけなのだろう。
三人のうち、髭と赤シャツには揺るぎない自信を感じる。しかし、眼鏡だけは別だ。彼の表情は左右非対称だった。右頬を吊《つ》りあげている。現状であの表情を浮かべるには、それなりに理由がありそうだった。
「眼鏡の人だけ嘘をついてる」と美由紀はいった。
「ふうん。きみがそういうのなら間違いはないだろうが……。誰と接触する? チャンスは一度だぞ」
美由紀は鈍りがちな思考を必死で働かせた。髭と赤シャツは本当のことを告げ、眼鏡は嘘の連絡を寄越している。メール内容と照らしあわせると、合致しないように思える。いや、待て……。
「あの眼鏡の人と話すわ」と美由紀は歩を踏みだした。
「ほんとか?」笹島も並んで歩きだす。「髭は嘘をついていないんだろ。なら、髭と接触すべきじゃないのか。ブツを入手したとメールしてきてるんだぞ」
「そう。一方で眼鏡の人は、自分と赤シャツが入手できていないと言ってるけど、それは嘘。すべての条件を満たすのは、髭の人と眼鏡の人が共同で爆弾を入手して、眼鏡の人が髭の人を出し抜いてひとりで取り引きしようとしている、そういう状況よ。つまり現状では眼鏡の人のところに爆弾がある」
「頭がこんがらがってきた」
「中毒患者に負けてどうするのよ」
「寝不足でね」
「それはわたしもよ。でもキスのあとは寝てたんじゃなかったの?」
「きみの体力の回復を待ってたんだが……朝になっちまって」
「回復を待ったの? なんで?」
「それは、そのう……。いや、べつにいいよ」
自動改札に近づきながら眼鏡の男に目線を合わせる。眼鏡の男もこちらに近づいてきた。と同時に、髭と赤シャツが肩をすくめて退散していく。
美由紀は改札をはさんで、眼鏡と向き合った。「おはよう」
眼鏡はぶっきらぼうに告げた。「代金はきょうじゅうに振りこめ。大久保駅に預けてある。ヴィトンのバッグだ」
会話はそれだけだった。眼鏡はすぐに踵《きびす》をかえして、歩き去っていった。
その姿が見えなくなるまで、美由紀はじれったさを噛《か》みしめながら静止していた。不穏な動きをみせれば、彼に怪しまれる可能性がある。
しかし、足音も聞こえなくなるに至って、美由紀は即座に駆けだした。笹島もほぼ同時に走りだした。
「大久保駅か」笹島がいった。「総武線だな。電車のほうが早くないか」
「いいえ。わたしのクルマのほうが早いわ」美由紀は階段を駆け降りて、パーキングスペースのメルセデスへと急いだ。
爆弾を押さえてしまえば、テロは防げる。暮子が気づいて先回りするより前に、なんとしても手にいれねばならない。あと数時間。そもそもわたしが気づかなければ、誰も知りえなかった爆弾テロ。いまも世間に知る者はいない。阻止できるのは、わたししかいない。
笹島の視線を追うと、改札の向こうで公衆電話のブースにひとり、口ひげを生やした目つきの鋭い男がいる。
すぐに美由紀は、コンコースをはさんで逆側にある公衆電話にも、怪しい男がふたりほどいることに気づいた。そのふたりは連れ立ってはいないらしく、距離を置いてそれぞれに電話の受話器を手にしている。うちひとりはジャケットの下に赤いシャツを着て、もうひとりは眼鏡をかけていた。
「でもな」と笹島は頭をかいた。「受信したのはメールだし……」
「いえ。あの人たちにちがいないわ。公衆電話からでもメールは送れるし」
「そうなのかい?」
「プッシュホンで184‐090‐310‐1655番。ドコモのメールセンターにかけてから、相手の電話番号を入力して、*2*2と押す。いにしえのポケットベルのメッセージってやつと同じ」
「懐かしいな。アが11で、イが21ってやつだな。ひと昔前には女学生はみんな文字と番号の変換表を暗記してた」
「ずいぶん前だけどね」美由紀はつぶやきながら、メール送信者と思われる三人を観察した。
髭《ひげ》、赤シャツ、眼鏡。内容から、誰がどのメールを送ったかはわかる。三人ともこちらの顔は知らないらしく、しきりに視線を周囲に泳がせている。ここで公衆電話から連絡するよう、指示を受けていただけなのだろう。
三人のうち、髭と赤シャツには揺るぎない自信を感じる。しかし、眼鏡だけは別だ。彼の表情は左右非対称だった。右頬を吊《つ》りあげている。現状であの表情を浮かべるには、それなりに理由がありそうだった。
「眼鏡の人だけ嘘をついてる」と美由紀はいった。
「ふうん。きみがそういうのなら間違いはないだろうが……。誰と接触する? チャンスは一度だぞ」
美由紀は鈍りがちな思考を必死で働かせた。髭と赤シャツは本当のことを告げ、眼鏡は嘘の連絡を寄越している。メール内容と照らしあわせると、合致しないように思える。いや、待て……。
「あの眼鏡の人と話すわ」と美由紀は歩を踏みだした。
「ほんとか?」笹島も並んで歩きだす。「髭は嘘をついていないんだろ。なら、髭と接触すべきじゃないのか。ブツを入手したとメールしてきてるんだぞ」
「そう。一方で眼鏡の人は、自分と赤シャツが入手できていないと言ってるけど、それは嘘。すべての条件を満たすのは、髭の人と眼鏡の人が共同で爆弾を入手して、眼鏡の人が髭の人を出し抜いてひとりで取り引きしようとしている、そういう状況よ。つまり現状では眼鏡の人のところに爆弾がある」
「頭がこんがらがってきた」
「中毒患者に負けてどうするのよ」
「寝不足でね」
「それはわたしもよ。でもキスのあとは寝てたんじゃなかったの?」
「きみの体力の回復を待ってたんだが……朝になっちまって」
「回復を待ったの? なんで?」
「それは、そのう……。いや、べつにいいよ」
自動改札に近づきながら眼鏡の男に目線を合わせる。眼鏡の男もこちらに近づいてきた。と同時に、髭と赤シャツが肩をすくめて退散していく。
美由紀は改札をはさんで、眼鏡と向き合った。「おはよう」
眼鏡はぶっきらぼうに告げた。「代金はきょうじゅうに振りこめ。大久保駅に預けてある。ヴィトンのバッグだ」
会話はそれだけだった。眼鏡はすぐに踵《きびす》をかえして、歩き去っていった。
その姿が見えなくなるまで、美由紀はじれったさを噛《か》みしめながら静止していた。不穏な動きをみせれば、彼に怪しまれる可能性がある。
しかし、足音も聞こえなくなるに至って、美由紀は即座に駆けだした。笹島もほぼ同時に走りだした。
「大久保駅か」笹島がいった。「総武線だな。電車のほうが早くないか」
「いいえ。わたしのクルマのほうが早いわ」美由紀は階段を駆け降りて、パーキングスペースのメルセデスへと急いだ。
爆弾を押さえてしまえば、テロは防げる。暮子が気づいて先回りするより前に、なんとしても手にいれねばならない。あと数時間。そもそもわたしが気づかなければ、誰も知りえなかった爆弾テロ。いまも世間に知る者はいない。阻止できるのは、わたししかいない。