笹島は腕時計で時刻を確認した。午後二時二十六分。
|ジャパン・エア・インターナショナル(JAI)の整備士のつなぎを着た笹島は、フォークリフトを操り第一旅客ターミナルの貨物集積所から、広大な滑走路へと走りでた。
フォークリフトは大きなコンテナを掲げている。同種の車両が何台も、待機中の石川県小松空港行きJAI783便に向かって走っていた。
コンテナの底部は曲線を描いていた。円筒を横に倒した形状の旅客機では、乗客の座席下にある貨物室の床は必然的に逆アーチ状になっている。荷物を直接、貨物室に入れたのでは、床の曲線のせいで不安定だ。だからこのようなコンテナに積んで搬入することになっている。
曇り空の下、ボーイング747には大勢の整備士が群がっているのが見える。格納庫でいわゆるAチェックを終えたあとでも、離陸までのあいだに繰りかえし点検がおこなわれている。
JAIも馬鹿ではない。好摩のような胡散《うさん》臭いフリーライターの発言であっても、きょう国内で離着陸する旅客機すべてに念入りな点検を課している。
防塵《ぼうじん》眼鏡と呼吸用のマスクを着用した整備士までいることから、いまもなお燃料タンクのアクセス・ドア内部を点検しているとわかる。午後三時四十分に離陸することを考えると、現時点でこの徹底ぶりは度を越しているほどだ。
たしかにJAIは、数ある航空会社のなかでも比較的安全面を重視する企業だ。だが、それでも穴があることを教えてやる。この世に完璧《かんぺき》ということなどない。
整備士は貨物室の内部を綿密に調べたあと、フォークリフトの運転手らにコンテナの積みこみを許可した。
これが盲点だと笹島は思った。全長七十メートル、全幅六十四メートルの機体の隅々までチェックが入り、一方で乗客の荷物検査もおこなわれる。だが、その中間に、見落とされがちなコンテナという物体が存在することを、誰もが忘れている。
荷物をコンテナに積む作業において、警備は手薄だ。各自、作業員にまかされた仕事にすぎない。コンテナの内壁にC4をたっぷりと詰めこみ、特殊なセンサー付きの起爆装置をおさめても、そのことに気づく者はいない。
コンテナはいびつな形の貨物室の内部にパズルのように隙間なく収められていく。それぞれのコンテナの位置も決まっている。笹島の運んだコンテナは、思惑どおり機首から三十七メートル、重心位置から四メートル後方の左舷《さげん》に収納された。
あそこで爆発すれば、機体は確実にコントロールを失い、きりもみ状態になって墜落する。しかも、爆破工作の痕跡《こんせき》が残りにくい。
七年ものあいだ、あらゆる手段を検討した。爆破以外の方法も模索した。パイロットの食事に睡眠薬か毒薬をまぜることも考えたが、航空会社はどこも食中毒を想定し、機長と副操縦士、航空機関士らの食事をそれぞれ別のところで作らせている。三人全員の操縦能力を失わせるのに適切なやり方とは思えなかった。
旅客機は失速しても、機首を下げて迎え角を小さくするなどの操縦により、墜落をまぬがれる。旅客機はなかなか落ちないものだと知った。両親の死の責めを負わせたいという動機と、安全対策が万全に近いことを思い知るという葛藤《かつとう》の連続だった。
しかしそのジレンマも、もうすぐ終焉《しゆうえん》を迎える。このコンテナのほかには、機内アナウンス用のDVDをすり替えただけという、簡単な工作ですべては終わった。惨劇はまだ起きていない。それでも、それは必然となり、笹島の仕事としては完了した。
フォークリフトで格納庫に入り、ロッカールームで整備士の服からスーツに着替えた。関係者用の通路から旅客でにぎわうロビーにでて、その混雑に紛れこむ。
第一の復讐《ふくしゆう》は終わった。しかし、これは始まりでもある。悲劇はこれだけに留《とど》まらない。航空会社があらゆるフライトを自粛せざるをえなくなるまで、恐怖はつづく。
感慨を胸に、ひとりロビーを突っ切っていく。そのとき、ふいに肩をぽんと叩《たた》かれた。
立ちどまって振りかえった瞬間、笹島は息を呑《の》んだ。
美由紀はデニム地のカジュアルな服装で、背後にたたずんでいた。
「み……」笹島は混乱しながらつぶやいた。「美由紀さん。なんで、こんなところに……」
「きょうはそんなふうに人を驚かせてばかりの日ね。あなたこそ、ここでなにをしてるの? 兵庫に向かってるはずなのに……」
「いや。国内便で、関西空港まで飛んだほうが早いかと思ってね。きみも飛行機の利用を?」
「いいえ」美由紀はポケットからチケットを取りだしていった。「判明したのよ。爆破テロの標的になっている飛行機が」
「なんだって」
「三時四十分羽田発小松行き、JAI783便。スーパーシートに売れ残りがあったんで、二枚押さえてきたわ」
「そ……それは、よかったね」うかつなことで表情に感情を表すことはできない。笹島は目を逸《そ》らしながらいった。「すぐに通報して、離陸も取りやめさせるべきかな」
「いいえ。いまさら通報だなんて。それより、機内に乗りこんだほうが早いわ」
「乗りこむだって?」
「そうよ。JAIといえば徹底した点検で知られている会社よ。機体整備は万全のはず。乗客が手荷物で爆弾を持ちこむとしか考えられない」
「その人物を直接捜しだそうってのかい」
「ええ。そのとおり」
「しかし……」
言いかけて、笹島は口をつぐんだ。
貨物室やコンテナという点検の盲点を指摘して、どうなるというのだ。計画をみずから失敗に追いこむだけではないのか。
「どうかした?」と美由紀はきいた。
「いや、なんでもない……」
「じゃ、行きましょう。あなたも協力してくれるわよね?」
「そりゃ、もちろん……」
微笑んで背を向け、搭乗手続きの列へと向かっていく美由紀の後ろ姿を見ながら、笹島は心拍が速まるのを感じていた。
千里眼が、いまの俺の心境を見抜けなかったはずがない。動揺は確実に判別できたはずだ。しかし、どこまでわかっているのだろう。一緒に旅客機に乗ろうと誘ってきた。墜落する運命の機体に。彼女は、真実の何割を知りえているのだろうか。
ひょっとして、すべてわかっていて、あんな態度をとっているのか。
どちらにせよ、逃げ場はない。ここで逃走したのでは、旅客機に爆弾があると教えるようなものだ。
不安と緊張に、汗がにじむ。緊張しながら笹島は歩を踏みだした。まるで死刑台への一歩だ。運命はこの期に及んで、俺をもてあそぼうとしているのか。
|ジャパン・エア・インターナショナル(JAI)の整備士のつなぎを着た笹島は、フォークリフトを操り第一旅客ターミナルの貨物集積所から、広大な滑走路へと走りでた。
フォークリフトは大きなコンテナを掲げている。同種の車両が何台も、待機中の石川県小松空港行きJAI783便に向かって走っていた。
コンテナの底部は曲線を描いていた。円筒を横に倒した形状の旅客機では、乗客の座席下にある貨物室の床は必然的に逆アーチ状になっている。荷物を直接、貨物室に入れたのでは、床の曲線のせいで不安定だ。だからこのようなコンテナに積んで搬入することになっている。
曇り空の下、ボーイング747には大勢の整備士が群がっているのが見える。格納庫でいわゆるAチェックを終えたあとでも、離陸までのあいだに繰りかえし点検がおこなわれている。
JAIも馬鹿ではない。好摩のような胡散《うさん》臭いフリーライターの発言であっても、きょう国内で離着陸する旅客機すべてに念入りな点検を課している。
防塵《ぼうじん》眼鏡と呼吸用のマスクを着用した整備士までいることから、いまもなお燃料タンクのアクセス・ドア内部を点検しているとわかる。午後三時四十分に離陸することを考えると、現時点でこの徹底ぶりは度を越しているほどだ。
たしかにJAIは、数ある航空会社のなかでも比較的安全面を重視する企業だ。だが、それでも穴があることを教えてやる。この世に完璧《かんぺき》ということなどない。
整備士は貨物室の内部を綿密に調べたあと、フォークリフトの運転手らにコンテナの積みこみを許可した。
これが盲点だと笹島は思った。全長七十メートル、全幅六十四メートルの機体の隅々までチェックが入り、一方で乗客の荷物検査もおこなわれる。だが、その中間に、見落とされがちなコンテナという物体が存在することを、誰もが忘れている。
荷物をコンテナに積む作業において、警備は手薄だ。各自、作業員にまかされた仕事にすぎない。コンテナの内壁にC4をたっぷりと詰めこみ、特殊なセンサー付きの起爆装置をおさめても、そのことに気づく者はいない。
コンテナはいびつな形の貨物室の内部にパズルのように隙間なく収められていく。それぞれのコンテナの位置も決まっている。笹島の運んだコンテナは、思惑どおり機首から三十七メートル、重心位置から四メートル後方の左舷《さげん》に収納された。
あそこで爆発すれば、機体は確実にコントロールを失い、きりもみ状態になって墜落する。しかも、爆破工作の痕跡《こんせき》が残りにくい。
七年ものあいだ、あらゆる手段を検討した。爆破以外の方法も模索した。パイロットの食事に睡眠薬か毒薬をまぜることも考えたが、航空会社はどこも食中毒を想定し、機長と副操縦士、航空機関士らの食事をそれぞれ別のところで作らせている。三人全員の操縦能力を失わせるのに適切なやり方とは思えなかった。
旅客機は失速しても、機首を下げて迎え角を小さくするなどの操縦により、墜落をまぬがれる。旅客機はなかなか落ちないものだと知った。両親の死の責めを負わせたいという動機と、安全対策が万全に近いことを思い知るという葛藤《かつとう》の連続だった。
しかしそのジレンマも、もうすぐ終焉《しゆうえん》を迎える。このコンテナのほかには、機内アナウンス用のDVDをすり替えただけという、簡単な工作ですべては終わった。惨劇はまだ起きていない。それでも、それは必然となり、笹島の仕事としては完了した。
フォークリフトで格納庫に入り、ロッカールームで整備士の服からスーツに着替えた。関係者用の通路から旅客でにぎわうロビーにでて、その混雑に紛れこむ。
第一の復讐《ふくしゆう》は終わった。しかし、これは始まりでもある。悲劇はこれだけに留《とど》まらない。航空会社があらゆるフライトを自粛せざるをえなくなるまで、恐怖はつづく。
感慨を胸に、ひとりロビーを突っ切っていく。そのとき、ふいに肩をぽんと叩《たた》かれた。
立ちどまって振りかえった瞬間、笹島は息を呑《の》んだ。
美由紀はデニム地のカジュアルな服装で、背後にたたずんでいた。
「み……」笹島は混乱しながらつぶやいた。「美由紀さん。なんで、こんなところに……」
「きょうはそんなふうに人を驚かせてばかりの日ね。あなたこそ、ここでなにをしてるの? 兵庫に向かってるはずなのに……」
「いや。国内便で、関西空港まで飛んだほうが早いかと思ってね。きみも飛行機の利用を?」
「いいえ」美由紀はポケットからチケットを取りだしていった。「判明したのよ。爆破テロの標的になっている飛行機が」
「なんだって」
「三時四十分羽田発小松行き、JAI783便。スーパーシートに売れ残りがあったんで、二枚押さえてきたわ」
「そ……それは、よかったね」うかつなことで表情に感情を表すことはできない。笹島は目を逸《そ》らしながらいった。「すぐに通報して、離陸も取りやめさせるべきかな」
「いいえ。いまさら通報だなんて。それより、機内に乗りこんだほうが早いわ」
「乗りこむだって?」
「そうよ。JAIといえば徹底した点検で知られている会社よ。機体整備は万全のはず。乗客が手荷物で爆弾を持ちこむとしか考えられない」
「その人物を直接捜しだそうってのかい」
「ええ。そのとおり」
「しかし……」
言いかけて、笹島は口をつぐんだ。
貨物室やコンテナという点検の盲点を指摘して、どうなるというのだ。計画をみずから失敗に追いこむだけではないのか。
「どうかした?」と美由紀はきいた。
「いや、なんでもない……」
「じゃ、行きましょう。あなたも協力してくれるわよね?」
「そりゃ、もちろん……」
微笑んで背を向け、搭乗手続きの列へと向かっていく美由紀の後ろ姿を見ながら、笹島は心拍が速まるのを感じていた。
千里眼が、いまの俺の心境を見抜けなかったはずがない。動揺は確実に判別できたはずだ。しかし、どこまでわかっているのだろう。一緒に旅客機に乗ろうと誘ってきた。墜落する運命の機体に。彼女は、真実の何割を知りえているのだろうか。
ひょっとして、すべてわかっていて、あんな態度をとっているのか。
どちらにせよ、逃げ場はない。ここで逃走したのでは、旅客機に爆弾があると教えるようなものだ。
不安と緊張に、汗がにじむ。緊張しながら笹島は歩を踏みだした。まるで死刑台への一歩だ。運命はこの期に及んで、俺をもてあそぼうとしているのか。