JAI783便のスーパーシートは設備として素晴らしく、座席の間隔もファーストクラス並みに開いている。本来なら快適そのものの旅立ちになることだろう。だが笹島にとっては、そうではなかった。
座席はエコノミーも含めほぼ満席状態だった。地鳴りのような響きと振動、機体はゆっくりと滑走路に進んでいる。正面のモニターには緊急時の脱出法を説明する映像が流れているが、乗客のほとんどは旅慣れているらしく、凝視する者は誰もいない。
隣に座った美由紀がふいに声をかけてきた。「どうしたの。そんなに汗かいて」
「え? あ、いや……。シートベルトが少し窮屈でね。それに、僕自身、飛行機がそれほど好きじゃないんだ。両親のこともあるしね」
「ああ……。そうだったわね。ごめんなさい」
「いや、いいんだ。……ねえ美由紀さん、知ってるかい? ジャンボ旅客機ってのは、自力でバックすることはしないんだよ」
「そりゃ、そうでしょ。後ろ見えないし、地上で逆噴射しちゃ周りの迷惑だしね。牽引車《トーイングカー》が押してバックさせるのよ。どこでもそうしてるでしょう」
「そうだよ。きみはパイロットだったね、忘れてたよ……」
「笹島さん。どうかしたの。ヘンよ」
「いや……。あ、まだドアが開いているんだが、あれはね……」
「飛行中の機内は気圧が高くなるから、ドアの内部から外方向に十二トンもの圧力がかかる。だからドアは開口部より大きく作ってあるけど、搭乗時は外側に開いている。これをいったん斜めにして内側まで引きこんでから閉じる。JAIでは気圧のチェックのために、離陸寸前まで開けているのね」
「……ご名答だ」笹島がつぶやいたとき、機内の照明が落ちた。ただの離陸手順だというのに、笹島はびくついてしまった。
美由紀の冷静な声が告げる。「離陸前に明かりが消えるのは、電力消費を抑えるためじゃなく、異常が発生して停電したときのために、乗客の目を慣らさせるため。乗務員はこの三十秒間、万一の状況を想像してイメージトレーニングすることが義務づけられている」
「ああ、もちろん知ってるよ。……精神医学が専門だからね、僕は」
「笹島さん」美由紀は前方を向いたままささやいた。「爆弾テロなんか働いて、ご両親が浮かばれると思う?」
座席はエコノミーも含めほぼ満席状態だった。地鳴りのような響きと振動、機体はゆっくりと滑走路に進んでいる。正面のモニターには緊急時の脱出法を説明する映像が流れているが、乗客のほとんどは旅慣れているらしく、凝視する者は誰もいない。
隣に座った美由紀がふいに声をかけてきた。「どうしたの。そんなに汗かいて」
「え? あ、いや……。シートベルトが少し窮屈でね。それに、僕自身、飛行機がそれほど好きじゃないんだ。両親のこともあるしね」
「ああ……。そうだったわね。ごめんなさい」
「いや、いいんだ。……ねえ美由紀さん、知ってるかい? ジャンボ旅客機ってのは、自力でバックすることはしないんだよ」
「そりゃ、そうでしょ。後ろ見えないし、地上で逆噴射しちゃ周りの迷惑だしね。牽引車《トーイングカー》が押してバックさせるのよ。どこでもそうしてるでしょう」
「そうだよ。きみはパイロットだったね、忘れてたよ……」
「笹島さん。どうかしたの。ヘンよ」
「いや……。あ、まだドアが開いているんだが、あれはね……」
「飛行中の機内は気圧が高くなるから、ドアの内部から外方向に十二トンもの圧力がかかる。だからドアは開口部より大きく作ってあるけど、搭乗時は外側に開いている。これをいったん斜めにして内側まで引きこんでから閉じる。JAIでは気圧のチェックのために、離陸寸前まで開けているのね」
「……ご名答だ」笹島がつぶやいたとき、機内の照明が落ちた。ただの離陸手順だというのに、笹島はびくついてしまった。
美由紀の冷静な声が告げる。「離陸前に明かりが消えるのは、電力消費を抑えるためじゃなく、異常が発生して停電したときのために、乗客の目を慣らさせるため。乗務員はこの三十秒間、万一の状況を想像してイメージトレーニングすることが義務づけられている」
「ああ、もちろん知ってるよ。……精神医学が専門だからね、僕は」
「笹島さん」美由紀は前方を向いたままささやいた。「爆弾テロなんか働いて、ご両親が浮かばれると思う?」
笹島は絶句した。そうならざるをえなかった。
やはり気づいていたか。いや、当然だ。千里眼の女に見抜けない謎などあるはずもない。
震える自分の声を笹島はきいた。「どうしてこの便だと……?」
「一年も前から計画してたことでしょ。宮崎の航空大学校で会ったとき、あなたは講義とは関係のない航空路のデータを持ってた。V17─V59─V52、大島から浜松、名古屋を通って小松に至る、空の道ね。さっき、わたしを秋田に行かせようとする寸前まで、あなたは自分の意志で都内に留まった。つまり起点は羽田。きょうの午後、羽田発小松行きの飛行機で、その空路で飛ぶのはJAI783便しかなかった」
「なるほど。あのときのこと、まだ覚えてたのか……」
「好摩にスクープを報じさせたのは、事前に情報があったにもかかわらず墜落をまぬがれなかったことにして、航空会社の責任を重くするため?」
「そう……だとも。航空業界は汚い。腐敗しきっている。いったん閉鎖されるべきなんだ」
「好摩が首を吊《つ》ったのも……」
「あの男は金になびく。必要以上の情報まで提供しかねない。もともと、ケシを貢いでくるだけのつまらない男だった。捨て駒としては、惜しまれる存在じゃなかった」
「それで殺したっていうの?」
「美由紀さん。僕はね……」
笹島を制して美由紀は語気を強めた。「あなたは既婚者だった。奥さんの事業も褒められたものではなかったけど、あなたは彼女さえ裏切って、自己満足に走ろうとした」
「ちがう。きみのことは、本気で愛してたんだよ。いまもその想いは変わらない。……査問会議を覚えているだろ。きみは孤独で、僕もそうだった。きみとなら共有できると思ったんだ。ふたりで悩みを乗り越えたかった。まずは僕が行動を起こし、きみを守っていく。心にそう誓ったんだよ」
「行動って、あなたのやっていることは重大な犯罪よ」
「幻覚にとらわれている世間の目を醒《さ》ましてやろうとしているんだ。これは革命だよ」
「なんの話よ」
「旅客機の安全神話なんて、航空会社の捏造《ねつぞう》さ。人は本来、飛べない。神は人体に翼を与えてはくれていない」
「でも知恵を授けてくれてる。そうでしょ。人っていう高等生物は知恵によって発展する。良識もそこから生まれるのよ。あなたがご両親の事故に納得がいかないのが事実だったとしても、どうして大勢の人を犠牲にしようとするの? どれだけ多くの人が、あなたと同じ辛《つら》い思いを味わわされると思ってるの?」
「飛行機なんて、危険だよ。アメリカの同時多発テロでも兵器の代替品に利用された。こんなものがあるから……」
「いいえ!」美由紀はぴしゃりといった。「あなたのような人たちがいるから、空の旅から不安が消えないのよ。もともと航空業界と乗客の関係は相互信頼によって成り立ってる。悪意ある人間より善意ある人間の存在を信じることで、地球上どこへでも飛んでいける奇跡の乗り物は実現し、身近なものになった。その信頼を逆手にとるなんて、人として許されることじゃないわ」
「人として? それは……」
「あなたは人間以下ってことよ!」
笹島はめまいを覚えた。
判ってくれるはずの美由紀に、拒絶された。同じように両親を失ったはずなのに、この心を受けとめてはくれない。
しょせんこの女も、綺麗《きれい》ごとに終始するだけの視野の持ち主でしかなかったか。両親を失った無念すらも消えてしまったのだろう。悲しみから執念を、執念から復讐《ふくしゆう》を、復讐から革命を。そのように連想してきた俺の心を、この女は理解してはくれない。
と、前のシートの男性が振りかえっていった。「まあまあ、おふたりとも。間もなく離陸だから。仲良くなさい」
乗客に笑いが沸き起こる。どうやら、ただの痴話|喧嘩《げんか》だと思っているらしい。美由紀が戸惑いのいろを浮かべている。
周囲は状況を把握せず、油断している。逃れるならいましかない。
笹島は素早くシートベルトを外し、立ちあがった。美由紀が反応したが、同じくベルトを外すのに手間取っている。その間に、笹島は通路を後方へと駆けた。
いちばん近いドアはいままさに内部に引きこまれ、閉じようとしているところだった。フライトアテンダントが呆然《ぼうぜん》とこちらを見つめる。笹島はドアの隙間に頭から飛びこんだ。
外気のなかに放りだされる。だが気圧の変化はない。ここはまだ地上だ。
緊急時、滑り台などが存在しないときにも飛び降りられるよう、ドアから地面までは四メートルていどしか離れていない。笹島の身体はアスファルトに叩《たた》きつけられ、転がった。全身に鈍い痛みを感じる。エンジン音で鼓膜が破けそうだ。
両耳をふさいで立ちあがり、笹島は必死で走りだした。頭上を見あげると、旅客機は徐々に速度を上げ、滑走路を前進していく。
思わず笑いがこぼれた。783便は離陸を中止しなかった。運命はもう変わらない。千里眼に見抜かれようと、未来は揺らがない。
やはり気づいていたか。いや、当然だ。千里眼の女に見抜けない謎などあるはずもない。
震える自分の声を笹島はきいた。「どうしてこの便だと……?」
「一年も前から計画してたことでしょ。宮崎の航空大学校で会ったとき、あなたは講義とは関係のない航空路のデータを持ってた。V17─V59─V52、大島から浜松、名古屋を通って小松に至る、空の道ね。さっき、わたしを秋田に行かせようとする寸前まで、あなたは自分の意志で都内に留まった。つまり起点は羽田。きょうの午後、羽田発小松行きの飛行機で、その空路で飛ぶのはJAI783便しかなかった」
「なるほど。あのときのこと、まだ覚えてたのか……」
「好摩にスクープを報じさせたのは、事前に情報があったにもかかわらず墜落をまぬがれなかったことにして、航空会社の責任を重くするため?」
「そう……だとも。航空業界は汚い。腐敗しきっている。いったん閉鎖されるべきなんだ」
「好摩が首を吊《つ》ったのも……」
「あの男は金になびく。必要以上の情報まで提供しかねない。もともと、ケシを貢いでくるだけのつまらない男だった。捨て駒としては、惜しまれる存在じゃなかった」
「それで殺したっていうの?」
「美由紀さん。僕はね……」
笹島を制して美由紀は語気を強めた。「あなたは既婚者だった。奥さんの事業も褒められたものではなかったけど、あなたは彼女さえ裏切って、自己満足に走ろうとした」
「ちがう。きみのことは、本気で愛してたんだよ。いまもその想いは変わらない。……査問会議を覚えているだろ。きみは孤独で、僕もそうだった。きみとなら共有できると思ったんだ。ふたりで悩みを乗り越えたかった。まずは僕が行動を起こし、きみを守っていく。心にそう誓ったんだよ」
「行動って、あなたのやっていることは重大な犯罪よ」
「幻覚にとらわれている世間の目を醒《さ》ましてやろうとしているんだ。これは革命だよ」
「なんの話よ」
「旅客機の安全神話なんて、航空会社の捏造《ねつぞう》さ。人は本来、飛べない。神は人体に翼を与えてはくれていない」
「でも知恵を授けてくれてる。そうでしょ。人っていう高等生物は知恵によって発展する。良識もそこから生まれるのよ。あなたがご両親の事故に納得がいかないのが事実だったとしても、どうして大勢の人を犠牲にしようとするの? どれだけ多くの人が、あなたと同じ辛《つら》い思いを味わわされると思ってるの?」
「飛行機なんて、危険だよ。アメリカの同時多発テロでも兵器の代替品に利用された。こんなものがあるから……」
「いいえ!」美由紀はぴしゃりといった。「あなたのような人たちがいるから、空の旅から不安が消えないのよ。もともと航空業界と乗客の関係は相互信頼によって成り立ってる。悪意ある人間より善意ある人間の存在を信じることで、地球上どこへでも飛んでいける奇跡の乗り物は実現し、身近なものになった。その信頼を逆手にとるなんて、人として許されることじゃないわ」
「人として? それは……」
「あなたは人間以下ってことよ!」
笹島はめまいを覚えた。
判ってくれるはずの美由紀に、拒絶された。同じように両親を失ったはずなのに、この心を受けとめてはくれない。
しょせんこの女も、綺麗《きれい》ごとに終始するだけの視野の持ち主でしかなかったか。両親を失った無念すらも消えてしまったのだろう。悲しみから執念を、執念から復讐《ふくしゆう》を、復讐から革命を。そのように連想してきた俺の心を、この女は理解してはくれない。
と、前のシートの男性が振りかえっていった。「まあまあ、おふたりとも。間もなく離陸だから。仲良くなさい」
乗客に笑いが沸き起こる。どうやら、ただの痴話|喧嘩《げんか》だと思っているらしい。美由紀が戸惑いのいろを浮かべている。
周囲は状況を把握せず、油断している。逃れるならいましかない。
笹島は素早くシートベルトを外し、立ちあがった。美由紀が反応したが、同じくベルトを外すのに手間取っている。その間に、笹島は通路を後方へと駆けた。
いちばん近いドアはいままさに内部に引きこまれ、閉じようとしているところだった。フライトアテンダントが呆然《ぼうぜん》とこちらを見つめる。笹島はドアの隙間に頭から飛びこんだ。
外気のなかに放りだされる。だが気圧の変化はない。ここはまだ地上だ。
緊急時、滑り台などが存在しないときにも飛び降りられるよう、ドアから地面までは四メートルていどしか離れていない。笹島の身体はアスファルトに叩《たた》きつけられ、転がった。全身に鈍い痛みを感じる。エンジン音で鼓膜が破けそうだ。
両耳をふさいで立ちあがり、笹島は必死で走りだした。頭上を見あげると、旅客機は徐々に速度を上げ、滑走路を前進していく。
思わず笑いがこぼれた。783便は離陸を中止しなかった。運命はもう変わらない。千里眼に見抜かれようと、未来は揺らがない。