美由紀は全力で通路を駆け抜け、笹島を追った。だが寸前で笹島がドアの向こうに消え、直後にドアは密閉された。それを見た。
「待って!」美由紀は怒鳴った。「止めて! あの人を逃がしちゃいけない!」
フライトアテンダントらが美由紀を抱きとめ、取り押さえようとしてきた。「お客さま。お席にお戻りになってください」
「だめよ。離陸を中止して」
乗客はざわめいていたが、それ以上にエンジン音がけたたましく響いた。振動はいっそう激しくなり、床は機首方向を上にして傾きだした。
離陸が開始された。美由紀は呆然とした。
笹島をこの機内に誘いこんだのは、彼の真意をたしかめると同時に、彼が乗っている以上、爆破はありえないという前提があったからだ。しかし彼は逃走した。それはつまり、墜落がもはや不可避となったことを意味していた。
男性の乗務員が近づいてきて、険しい目で美由紀を見た。「どうかなさいましたか」
「聞いて」美由紀はいった。「この機には爆弾が……」
「どうかお客さま、冷静に。まずはお席にお座りください」
「ほんとなのよ。好摩って人が雑誌の取材で発言してたでしょう。さっきの人がすべてを画策して……」
「お客さま、当機は厳重なチェックのうえで運航しております。どうか、ほかのお客さまに配慮していただきますよう……」
そのとき、ふいに音声が流れた。
低い男の声。笹島の声だった。「乗客のみなさまにお知らせがございます」
前方のモニターに、映像が流れた。それは、映画からダビングしたとおぼしき旅客機の墜落の瞬間だった。
「当機は、小松空港に着陸寸前、層雲を抜けたあたりで異常が発生し、墜落いたします。すべては点検整備、それ以前の航空機の構造上の問題であり、これを隠匿してきたJAIおよびボーイング社は厳しく非難されるものとします」
映像は次々に切り替わったが、どれもジャンボ機の墜落シーンばかりだった。映画もあればニュース映像もあった。笹島の音声は、延々とリピートしつづけている。当機は、小松空港に着陸寸前……。
乗客たちに動揺がひろがった。悲鳴があがり、シートベルトを外して立ちあがろうとする者もいた。フライトアテンダントが、事態の収拾に走りまわる。機内はパニックの様相を呈しだした。
男性の乗務員は、信じられないという顔で美由紀を見つめた。
美由紀は乗務員に告げた。「機長に会わせて。それと、すぐにDVDを止めて」
戸惑いながらも、乗務員は通路を前方に歩きだした。「こちらへ」
上昇中だけに、機首方向への通路は上り坂だ。それを足ばやに駆けあがっていく。あちこちで怯《おび》える声や、嗚咽《おえつ》がきこえている。恐怖が広がっている。
怖いよ。蚊の鳴くような少年の声を聞きつけたとき、美由紀は通路の脇に目を向けた。座席のすぐ近くにしゃがんで、その少年の顔をのぞきこんだ。
隣に座っている母親に身をすり寄せて、泣きそうな顔をしている男の子に、美由紀は微笑みかけた。「心配しないで。すぐに地上に戻れるわ」
「ほんとに?」
「ええ、約束する。だから、きちんと座って。シートに背をぴったりと当てて。お母さんとは手をつないでいるだけでいいの。わたしからのお願い。いいわね?」
「……うん」
美由紀はうなずいてみせてから、立ちあがって前方に向かった。
スーパーシートの最前列を越えて、コックピットの扉に行き着いたとき、ちょうど乗務員のノックに応《こた》えて機長が姿を現したところだった。
「どういうことなんだね、なにがあった」と機長は乗務員と美由紀をかわるがわる見た。美由紀に目をとめ、たずねてくる。「きみは?」
「元空自、二等空尉の岬美由紀です。笹島雄介という男が爆弾を仕掛けました。おそらく機内からは手のつけようのない、貨物室のコンテナ内部だと思われます」
「なんだって? なぜそんなことを……」
開いたドアの向こう、副操縦士が振りかえってきいてきた。「DVDのいたずらだけじゃないのか?」
「いいえ」と美由紀は首を振った。「彼は今回、墜落を機体の不備によるものと見せたがっているのではなく、故意による爆破だとあきらかにしたがっています。乗客にあのDVDを見せたのは、絶望に至るまでの恐怖が長ければ長いほど、その状況が乗客の携帯電話などを通じて家族に伝わり、飛行機恐怖症の人間が増えるという彼の持論を実践したものです」
機長はコックピットを振りかえった。「すぐに羽田に引き返す。管制塔に連絡を……」
「まってください。それは不可能です。ランディング・アプローチ中に機体は爆発します」
「確かなのか?」
「……ええ」
暮子の持っていた起爆装置に関する書類の数値。100=1001・2、200=989・5。あれは高度と気圧の関係を表すものだ。高度が低くなるほど気圧は上がる。高度百メートルなら千一・二ヘクトパスカル、二百メートルなら九百八十九・五ヘクトパスカル。
すなわち、気圧センサーから高度を割りだし、ある一定の高度を超えたら第一のスイッチが入り、ふたたび降下してその高度を割ったら爆発する、そういう仕組みを考えたのだろう。
「機長」美由紀はいった。「さっきDVDで笹島は、層雲を抜けたころにトラブルが起きるといってました。層雲は地上六百メートルあたりまで発生します。つまり、高度六百メートルの気圧、九百四十三・二ヘクトパスカルを超えると起爆装置が働くんです」
「なんてことだ」機長は愕然《がくぜん》とした。「高度六百メートル以下に降りられないなんて。着陸不可能じゃないか。燃料も小松への片道ぶんしか積んでいない。どこへも行けないぞ」
静寂が包む。絶望を伴う不快な沈黙だった。機体をどこに差し向けようとも、行き着くところは墜落しかない。
打つ手はないのか。美由紀は目を閉じた。思考をめまぐるしく働かせる。乗客たちの命がかかっている。二日間、この瞬間を回避するためだけに奔走した。いまに至って、なんの方策も思いつけないのか。
瞬間的に、頭に閃《ひらめ》くものがあった。そう、唯一の手段だ。ほかに方法はない。
美由紀は機長に告げた。「ご提案があります」
「待って!」美由紀は怒鳴った。「止めて! あの人を逃がしちゃいけない!」
フライトアテンダントらが美由紀を抱きとめ、取り押さえようとしてきた。「お客さま。お席にお戻りになってください」
「だめよ。離陸を中止して」
乗客はざわめいていたが、それ以上にエンジン音がけたたましく響いた。振動はいっそう激しくなり、床は機首方向を上にして傾きだした。
離陸が開始された。美由紀は呆然とした。
笹島をこの機内に誘いこんだのは、彼の真意をたしかめると同時に、彼が乗っている以上、爆破はありえないという前提があったからだ。しかし彼は逃走した。それはつまり、墜落がもはや不可避となったことを意味していた。
男性の乗務員が近づいてきて、険しい目で美由紀を見た。「どうかなさいましたか」
「聞いて」美由紀はいった。「この機には爆弾が……」
「どうかお客さま、冷静に。まずはお席にお座りください」
「ほんとなのよ。好摩って人が雑誌の取材で発言してたでしょう。さっきの人がすべてを画策して……」
「お客さま、当機は厳重なチェックのうえで運航しております。どうか、ほかのお客さまに配慮していただきますよう……」
そのとき、ふいに音声が流れた。
低い男の声。笹島の声だった。「乗客のみなさまにお知らせがございます」
前方のモニターに、映像が流れた。それは、映画からダビングしたとおぼしき旅客機の墜落の瞬間だった。
「当機は、小松空港に着陸寸前、層雲を抜けたあたりで異常が発生し、墜落いたします。すべては点検整備、それ以前の航空機の構造上の問題であり、これを隠匿してきたJAIおよびボーイング社は厳しく非難されるものとします」
映像は次々に切り替わったが、どれもジャンボ機の墜落シーンばかりだった。映画もあればニュース映像もあった。笹島の音声は、延々とリピートしつづけている。当機は、小松空港に着陸寸前……。
乗客たちに動揺がひろがった。悲鳴があがり、シートベルトを外して立ちあがろうとする者もいた。フライトアテンダントが、事態の収拾に走りまわる。機内はパニックの様相を呈しだした。
男性の乗務員は、信じられないという顔で美由紀を見つめた。
美由紀は乗務員に告げた。「機長に会わせて。それと、すぐにDVDを止めて」
戸惑いながらも、乗務員は通路を前方に歩きだした。「こちらへ」
上昇中だけに、機首方向への通路は上り坂だ。それを足ばやに駆けあがっていく。あちこちで怯《おび》える声や、嗚咽《おえつ》がきこえている。恐怖が広がっている。
怖いよ。蚊の鳴くような少年の声を聞きつけたとき、美由紀は通路の脇に目を向けた。座席のすぐ近くにしゃがんで、その少年の顔をのぞきこんだ。
隣に座っている母親に身をすり寄せて、泣きそうな顔をしている男の子に、美由紀は微笑みかけた。「心配しないで。すぐに地上に戻れるわ」
「ほんとに?」
「ええ、約束する。だから、きちんと座って。シートに背をぴったりと当てて。お母さんとは手をつないでいるだけでいいの。わたしからのお願い。いいわね?」
「……うん」
美由紀はうなずいてみせてから、立ちあがって前方に向かった。
スーパーシートの最前列を越えて、コックピットの扉に行き着いたとき、ちょうど乗務員のノックに応《こた》えて機長が姿を現したところだった。
「どういうことなんだね、なにがあった」と機長は乗務員と美由紀をかわるがわる見た。美由紀に目をとめ、たずねてくる。「きみは?」
「元空自、二等空尉の岬美由紀です。笹島雄介という男が爆弾を仕掛けました。おそらく機内からは手のつけようのない、貨物室のコンテナ内部だと思われます」
「なんだって? なぜそんなことを……」
開いたドアの向こう、副操縦士が振りかえってきいてきた。「DVDのいたずらだけじゃないのか?」
「いいえ」と美由紀は首を振った。「彼は今回、墜落を機体の不備によるものと見せたがっているのではなく、故意による爆破だとあきらかにしたがっています。乗客にあのDVDを見せたのは、絶望に至るまでの恐怖が長ければ長いほど、その状況が乗客の携帯電話などを通じて家族に伝わり、飛行機恐怖症の人間が増えるという彼の持論を実践したものです」
機長はコックピットを振りかえった。「すぐに羽田に引き返す。管制塔に連絡を……」
「まってください。それは不可能です。ランディング・アプローチ中に機体は爆発します」
「確かなのか?」
「……ええ」
暮子の持っていた起爆装置に関する書類の数値。100=1001・2、200=989・5。あれは高度と気圧の関係を表すものだ。高度が低くなるほど気圧は上がる。高度百メートルなら千一・二ヘクトパスカル、二百メートルなら九百八十九・五ヘクトパスカル。
すなわち、気圧センサーから高度を割りだし、ある一定の高度を超えたら第一のスイッチが入り、ふたたび降下してその高度を割ったら爆発する、そういう仕組みを考えたのだろう。
「機長」美由紀はいった。「さっきDVDで笹島は、層雲を抜けたころにトラブルが起きるといってました。層雲は地上六百メートルあたりまで発生します。つまり、高度六百メートルの気圧、九百四十三・二ヘクトパスカルを超えると起爆装置が働くんです」
「なんてことだ」機長は愕然《がくぜん》とした。「高度六百メートル以下に降りられないなんて。着陸不可能じゃないか。燃料も小松への片道ぶんしか積んでいない。どこへも行けないぞ」
静寂が包む。絶望を伴う不快な沈黙だった。機体をどこに差し向けようとも、行き着くところは墜落しかない。
打つ手はないのか。美由紀は目を閉じた。思考をめまぐるしく働かせる。乗客たちの命がかかっている。二日間、この瞬間を回避するためだけに奔走した。いまに至って、なんの方策も思いつけないのか。
瞬間的に、頭に閃《ひらめ》くものがあった。そう、唯一の手段だ。ほかに方法はない。
美由紀は機長に告げた。「ご提案があります」