ジェニファー・レインはタイのプーケット島近海に浮かぶクルーザーの甲板で、リクライニング・チェアにおさまり、水平線に没していく夕陽をサングラス越しに眺めていた。
アジアの海は波しぶきひとつとっても、どこかエキゾチックな味わいがある。太陽もヨーロッパとは違って見える。どこかけばけばしく、野蛮で、粗野で、それゆえに美しい。これから東アジアの国家間の勢力図が大きく描き換えられることを思えば、この光景は歴史の転換点の壮大な幕開けといえる。
サイドテーブルの上でコードレスの受話器が鳴った。
定時連絡か。愉《たの》しみに水を差す規則だ。ジェニファーは手を伸ばして、受話器をとった。
「はい」
「レイン特別顧問」いつもの連絡員の声だった。「|見えない武器《インビジブル・ウエポン》の開発は無事完了。明日、ベトナムのホーチミン市の闇市でプロトタイプを見ることができるそうです」
「朝七時に入国するわ」
「それと……このシステムを最初に開発した、小峰忠志の一周忌が終わりました。大きな混乱もなく、事故を疑うような報道も見受けられないようで」
「ああ……。小峰君ね。彼も気の毒に。実験を成功させてわたしたちに開発データを譲渡した直後、飲酒運転で崖《がけ》から転落とはね」
「お悔やみのメッセージでも送っておくべきだったでしょうか? むろんマインドシーク・コーポレーションの名は伏せますが」
「必要ないわ。故人の名誉を回復してあげる必要も特にないし。彼は彼なりに歴史に貢献した。それでいいんじゃない?」
「御意に。……最後にもうひとつ、われわれの関与していない日本国内の事件なのですが……」
「なんなの? サンセットを鑑賞する時間を妨げてまで、無関係のニュースをわたしの耳に入れたいの?」
連絡員は臆《おく》したようすもなく告げた。「昨晩、国内便の旅客機に対し爆破テロを企てた男が逮捕されました。テロを阻止したのは、岬美由紀なる女とのことですが」
その瞬間、目の前に感じていた美は消え失せ、無意味なものになった。
ジェニファーは身体を起こし、サングラスをはずした。「岬美由紀……?」
「爆弾を仕掛けられた旅客機の特定から、犯人の動機、計画に至るまで、すべてを見抜いたのは�千里眼の女�だったと、日本の国内向けメディアが報じています」
憎悪の炎が静かに燃えあがるのを感じる。
岬美由紀、千里眼。またしてもあの女か。
「レイン特別顧問。本社上層部では千里眼の女が、見えない兵器についても存在を見抜く可能性があるのではと、危惧《きぐ》する声もあがっているようですが」
いらぬ世話だ。ジェニファーはいった。「ご心配なく。計画は予定どおり進めるわ。上層部にも動揺なきようにと伝えておいて」
「御意に」連絡員がそういって、電話は切れた。
受話器を床に叩《たた》きつける。何度か弾んで、海へと落下していった。
リクライニング・チェアの背に身をあずけて、空を見あげる。またしても出しゃばってきたか、岬美由紀。
だが、今度こそ邪魔はさせない。あの女がなにを画策しようとも、海の藻屑《もくず》と消え去る。あの女の想像をはるかに超えた規模の事態が起きるからだ。
そう思うに至って、ようやくジェニファーの心は鎮まりだした。幸運を、岬美由紀。己の無力さを痛感しながら、泣きじゃくって死んでいくそのさまをじっくりと見物してあげる。思い知らせてやるわ、あなたにも見えないものがあるってことを。
アジアの海は波しぶきひとつとっても、どこかエキゾチックな味わいがある。太陽もヨーロッパとは違って見える。どこかけばけばしく、野蛮で、粗野で、それゆえに美しい。これから東アジアの国家間の勢力図が大きく描き換えられることを思えば、この光景は歴史の転換点の壮大な幕開けといえる。
サイドテーブルの上でコードレスの受話器が鳴った。
定時連絡か。愉《たの》しみに水を差す規則だ。ジェニファーは手を伸ばして、受話器をとった。
「はい」
「レイン特別顧問」いつもの連絡員の声だった。「|見えない武器《インビジブル・ウエポン》の開発は無事完了。明日、ベトナムのホーチミン市の闇市でプロトタイプを見ることができるそうです」
「朝七時に入国するわ」
「それと……このシステムを最初に開発した、小峰忠志の一周忌が終わりました。大きな混乱もなく、事故を疑うような報道も見受けられないようで」
「ああ……。小峰君ね。彼も気の毒に。実験を成功させてわたしたちに開発データを譲渡した直後、飲酒運転で崖《がけ》から転落とはね」
「お悔やみのメッセージでも送っておくべきだったでしょうか? むろんマインドシーク・コーポレーションの名は伏せますが」
「必要ないわ。故人の名誉を回復してあげる必要も特にないし。彼は彼なりに歴史に貢献した。それでいいんじゃない?」
「御意に。……最後にもうひとつ、われわれの関与していない日本国内の事件なのですが……」
「なんなの? サンセットを鑑賞する時間を妨げてまで、無関係のニュースをわたしの耳に入れたいの?」
連絡員は臆《おく》したようすもなく告げた。「昨晩、国内便の旅客機に対し爆破テロを企てた男が逮捕されました。テロを阻止したのは、岬美由紀なる女とのことですが」
その瞬間、目の前に感じていた美は消え失せ、無意味なものになった。
ジェニファーは身体を起こし、サングラスをはずした。「岬美由紀……?」
「爆弾を仕掛けられた旅客機の特定から、犯人の動機、計画に至るまで、すべてを見抜いたのは�千里眼の女�だったと、日本の国内向けメディアが報じています」
憎悪の炎が静かに燃えあがるのを感じる。
岬美由紀、千里眼。またしてもあの女か。
「レイン特別顧問。本社上層部では千里眼の女が、見えない兵器についても存在を見抜く可能性があるのではと、危惧《きぐ》する声もあがっているようですが」
いらぬ世話だ。ジェニファーはいった。「ご心配なく。計画は予定どおり進めるわ。上層部にも動揺なきようにと伝えておいて」
「御意に」連絡員がそういって、電話は切れた。
受話器を床に叩《たた》きつける。何度か弾んで、海へと落下していった。
リクライニング・チェアの背に身をあずけて、空を見あげる。またしても出しゃばってきたか、岬美由紀。
だが、今度こそ邪魔はさせない。あの女がなにを画策しようとも、海の藻屑《もくず》と消え去る。あの女の想像をはるかに超えた規模の事態が起きるからだ。
そう思うに至って、ようやくジェニファーの心は鎮まりだした。幸運を、岬美由紀。己の無力さを痛感しながら、泣きじゃくって死んでいくそのさまをじっくりと見物してあげる。思い知らせてやるわ、あなたにも見えないものがあるってことを。