降りつづいた雨があがり、東京の上空に澄みきった青空がひろがった。
朝九時半。岬美由紀は本郷通りの歩道に面したカフェテラスの前に、メルセデスを滑りこませた。エンジンを切ってクルマを降りると、季節の変わり目を爽《さわ》やかな風に感じる。
雲をわずかに浮かべた空に遠雷のように響くのは、飛行機の音だった。見あげると、羽田方面に向かう旅客機の、点のような姿があった。
平和で穏やかな日常が戻っている。一週間ほど前に世間をにぎわした重大事件は、過去の幾多の同規模の事件と同じく、人々の記憶から消えつつある。
心に痛手を残すほどの惨事でないかぎり、世間は事件というものを忘れ去っていく。そこに関わった人たちの存在も、端《はな》から知らされていなかったかのように。
美由紀はオープンカフェに向かった。晴れた朝に事務局に出勤する場合は、ここに立ち寄るのが常だ。
厳かに響く東大安田講堂の鐘の音、風に揺らぐ並木の向こうに見え隠れする赤レンガの塀。あわただしい東京の朝に、ぽっかりと空いた異国のような安らぎの時間が、ここにはある。
テーブルを選ぼうとしたとき、すぐ近くの席に見慣れた顔があるのに気づいた。美由紀は声をかけた。「舎利弗さん」
三年前からずっと変わらない、小太りの身体つきに無精ひげを生やした、どこかおどおどとした感のある舎利弗は、分厚い専門書から顔をあげた。
いつものように舎利弗はきょとんとした目を美由紀に向けてきた。「やあ……ひさしぶり。ここで会うなんて……」
「ほんと、しばらくぶり」美由紀は笑って、向かいの席を差ししめした。「ここ、いい?」
「ああ、いいよ、どうぞ。当然のことながら、僕はひとりだし……」
「あいかわらずね。この三年間、ずっと朝から夕方まで事務局に詰めて、その後はまっすぐ家に帰ってる。みんなあなたのことをそんなふうに噂してるけど……」
「事実だよ。僕はカウンセリングが苦手でね。あちこち行かされるのは御免だから、理事長にいって内勤にしてもらってる。事務局も電話番は必要だしね」
美由紀は思わず笑った。
舎利弗が目を丸くする。「なにかおかしかった?」
「いえ……。三年前も、あなたが暇だったから、わたしを指導することになったんだろうな、って」
「まあ……そうだろうね。もっといい教師だったら、きみも今よりずっと伸びたんだろうけど……」
「とんでもない。あなたは最高の先生だったわ。いまも尊敬する気持ちは変わらない」
「そう?」
「ええ」
「そりゃ……よかった」舎利弗は照れ笑いを浮かべながら、コーヒーカップを口もとに運んだ。
しばしの沈黙のあと、舎利弗はふと思いついたようにきいてきた。「そうだ、あの精神科医の笹島先生の話……」
美由紀は心にもやが広がるのを感じた。このところはどこに行っても、彼の話ばかりだ。
「いま警察が取り調べ中なの。起訴に至るのは確実だし、それから裁判ね」
「きみも出廷して、証言するのかな」
「たぶんね……」
「なあ、美由紀。……思うんだけど、今回のことできみは成長したんじゃないかな」
「っていうと?」
「臨床心理士になった一年前まで、きみは人の顔を見て感情がわかってしまうことに、抵抗をしめしていたと思うけど」
「その後もそうよ。本心なんて見抜けないに越したことはない、いつもそう思ってる」
「いまは変わってきてるんじゃないか?」
美由紀はぼんやりと虚空を見つめた。
実感はなかったが、たしかにそうかもしれない。この特異な才能を持つ重要なきっかけになった笹島との関係、そこに区切りがついて、わたしには見えてきたものがある。
人が千里眼などと持て囃《はや》すこの技能は、ただ数奇な巡りあわせによって偶然手にいれたにすぎない、以前はそう思っていた。しかし、いまは違う。これは運命だった。
舎利弗はいった。「きみが自衛隊を辞めたのは、そもそも笹島のトラウマ論に疑惑の目を向けたからだった。きみのその直感は結局、的を射ていたんだ。結果的にきみは彼の暴走を食いとめる立場になった。そのために必要な能力が三年のあいだに培われ、いま役立った。すべてが終わって、きみには誰にも真似できない技能が残された。その力を世のために惜しみなく発揮することだよ。それがきみの使命みたいなもんだ」
「そうね」美由紀はうなずいた。「いまではたしかに、そう思える」
人の感情を瞬時に見抜く、その特技を持ったことを恨んだ日もあった。これからも時おり、孤独を感じる日もあるかもしれない。
しかし、もうわたしはそんな自分を否定しない。この能力とともに歩んでいく。わたしが心を読むことによって、救える人がいるかぎり。
ふと、テーブルに影がおちているのに気づいた。顔をあげると、友人の高遠由愛香がスーツ姿でたたずんでいた。
にっこり笑って由愛香はたずねてきた。「注文、早くしてくれる? うちも商売だしね」
「あ、由愛香。座って」美由紀は舎利弗にいった。「彼女、ここの経営者なの」
舎利弗は軽くむせながら、目を見張った。「そうなの? 美由紀の友達かい?」
「まあ、そうね」
「驚いたな。……やっぱ、きみみたいな人にはセレブなお連れさんがいるんだね」
「舎利弗先生もこのあいだ、プライベートのお仲間と集まりを持ったって聞いたけど」
「あれは……ネット仲間のオフ会みたいなもので、映画とかドラマ好きの連中ばかりが気にいったソフトを持ち寄っただけで……」
由愛香が舎利弗に笑いかけた。「楽しそう。わたしも映画はよく観ますよ」
美由紀はふと思った。女性とほとんどつきあったことがないという舎利弗に、きっかけを世話するのも悪くない。
「ちょうどよかった」と美由紀はいった。「由愛香も舎利弗先生の集まりに参加したら?」
だが、舎利弗は緊張の面持ちで由愛香を見かえすと、たどたどしい口調できいた。「え……じゃあ、あの……ジョージ・A・ロメロって監督知ってる? 『ゾンビ』の」
ふいにしらけた空気の漂うテーブルで、由愛香が無表情に首を振った。「知らない」
「ああ、そう……」
「ごめんなさい。シネマサークルってすてきだとは思うんだけど……」
弁明に入った由愛香の顔を見た瞬間、美由紀にはその心が見抜けた。映画の趣味が合わないという理由のほかに、彼女はいま新しい出会いを欲していない状況にある。
「由愛香」美由紀は友人を見つめてたずねた。「彼氏とうまくいってるみたいね?」
大仰なほどに驚きのいろを浮かべて、由愛香は見かえしてきた。「どうしてわかるの?」
「そりゃ、わたしには……」
ところが、舎利弗も目を丸くしながら口をはさんだ。「僕もびっくりしたよ。恋愛感情を見抜けるなんて。きみにとっては、大の苦手だったはずだろ?」
「……いえ、でもそれは男性が女性に向ける恋愛感情で……」
「いや。きみは女性のそういう感情にもかなり、無頓着《むとんちやく》だったはずだよ。なんていうか、そのう、ひきくらべて感じられる自分の経験が少ないのかな、と……。ああ、ごめん。別に深い意味は……」
美由紀は黙りこくった。
そういわれてみれば、そうだった。けれどもいまは違う。
さも楽しそうに由愛香が身を乗りだしてきた。「この気持ちがわかるようになったってことは、美由紀、あなたにも誰かいい人見つかったの?」
見つかってはいない。それでも、同じ感情なら経験した。
あの横浜港の古びた管理小屋で、肩に手をまわしてきた笹島の横顔が、目の前にちらつく。わたしに向けられた、あのまなざし……。
自然に指先が襟もとに触れた。あのフリースのマフラーも、いまはない。
美由紀はため息とともに、その思考を頭から遠ざけた。
「知ってるわよ、恋する気持ちぐらい」美由紀はつぶやいて、遠い空に目を移した。
いつしか、ひとすじの飛行機雲が、ひろびろとした空にたなびいていた。
朝九時半。岬美由紀は本郷通りの歩道に面したカフェテラスの前に、メルセデスを滑りこませた。エンジンを切ってクルマを降りると、季節の変わり目を爽《さわ》やかな風に感じる。
雲をわずかに浮かべた空に遠雷のように響くのは、飛行機の音だった。見あげると、羽田方面に向かう旅客機の、点のような姿があった。
平和で穏やかな日常が戻っている。一週間ほど前に世間をにぎわした重大事件は、過去の幾多の同規模の事件と同じく、人々の記憶から消えつつある。
心に痛手を残すほどの惨事でないかぎり、世間は事件というものを忘れ去っていく。そこに関わった人たちの存在も、端《はな》から知らされていなかったかのように。
美由紀はオープンカフェに向かった。晴れた朝に事務局に出勤する場合は、ここに立ち寄るのが常だ。
厳かに響く東大安田講堂の鐘の音、風に揺らぐ並木の向こうに見え隠れする赤レンガの塀。あわただしい東京の朝に、ぽっかりと空いた異国のような安らぎの時間が、ここにはある。
テーブルを選ぼうとしたとき、すぐ近くの席に見慣れた顔があるのに気づいた。美由紀は声をかけた。「舎利弗さん」
三年前からずっと変わらない、小太りの身体つきに無精ひげを生やした、どこかおどおどとした感のある舎利弗は、分厚い専門書から顔をあげた。
いつものように舎利弗はきょとんとした目を美由紀に向けてきた。「やあ……ひさしぶり。ここで会うなんて……」
「ほんと、しばらくぶり」美由紀は笑って、向かいの席を差ししめした。「ここ、いい?」
「ああ、いいよ、どうぞ。当然のことながら、僕はひとりだし……」
「あいかわらずね。この三年間、ずっと朝から夕方まで事務局に詰めて、その後はまっすぐ家に帰ってる。みんなあなたのことをそんなふうに噂してるけど……」
「事実だよ。僕はカウンセリングが苦手でね。あちこち行かされるのは御免だから、理事長にいって内勤にしてもらってる。事務局も電話番は必要だしね」
美由紀は思わず笑った。
舎利弗が目を丸くする。「なにかおかしかった?」
「いえ……。三年前も、あなたが暇だったから、わたしを指導することになったんだろうな、って」
「まあ……そうだろうね。もっといい教師だったら、きみも今よりずっと伸びたんだろうけど……」
「とんでもない。あなたは最高の先生だったわ。いまも尊敬する気持ちは変わらない」
「そう?」
「ええ」
「そりゃ……よかった」舎利弗は照れ笑いを浮かべながら、コーヒーカップを口もとに運んだ。
しばしの沈黙のあと、舎利弗はふと思いついたようにきいてきた。「そうだ、あの精神科医の笹島先生の話……」
美由紀は心にもやが広がるのを感じた。このところはどこに行っても、彼の話ばかりだ。
「いま警察が取り調べ中なの。起訴に至るのは確実だし、それから裁判ね」
「きみも出廷して、証言するのかな」
「たぶんね……」
「なあ、美由紀。……思うんだけど、今回のことできみは成長したんじゃないかな」
「っていうと?」
「臨床心理士になった一年前まで、きみは人の顔を見て感情がわかってしまうことに、抵抗をしめしていたと思うけど」
「その後もそうよ。本心なんて見抜けないに越したことはない、いつもそう思ってる」
「いまは変わってきてるんじゃないか?」
美由紀はぼんやりと虚空を見つめた。
実感はなかったが、たしかにそうかもしれない。この特異な才能を持つ重要なきっかけになった笹島との関係、そこに区切りがついて、わたしには見えてきたものがある。
人が千里眼などと持て囃《はや》すこの技能は、ただ数奇な巡りあわせによって偶然手にいれたにすぎない、以前はそう思っていた。しかし、いまは違う。これは運命だった。
舎利弗はいった。「きみが自衛隊を辞めたのは、そもそも笹島のトラウマ論に疑惑の目を向けたからだった。きみのその直感は結局、的を射ていたんだ。結果的にきみは彼の暴走を食いとめる立場になった。そのために必要な能力が三年のあいだに培われ、いま役立った。すべてが終わって、きみには誰にも真似できない技能が残された。その力を世のために惜しみなく発揮することだよ。それがきみの使命みたいなもんだ」
「そうね」美由紀はうなずいた。「いまではたしかに、そう思える」
人の感情を瞬時に見抜く、その特技を持ったことを恨んだ日もあった。これからも時おり、孤独を感じる日もあるかもしれない。
しかし、もうわたしはそんな自分を否定しない。この能力とともに歩んでいく。わたしが心を読むことによって、救える人がいるかぎり。
ふと、テーブルに影がおちているのに気づいた。顔をあげると、友人の高遠由愛香がスーツ姿でたたずんでいた。
にっこり笑って由愛香はたずねてきた。「注文、早くしてくれる? うちも商売だしね」
「あ、由愛香。座って」美由紀は舎利弗にいった。「彼女、ここの経営者なの」
舎利弗は軽くむせながら、目を見張った。「そうなの? 美由紀の友達かい?」
「まあ、そうね」
「驚いたな。……やっぱ、きみみたいな人にはセレブなお連れさんがいるんだね」
「舎利弗先生もこのあいだ、プライベートのお仲間と集まりを持ったって聞いたけど」
「あれは……ネット仲間のオフ会みたいなもので、映画とかドラマ好きの連中ばかりが気にいったソフトを持ち寄っただけで……」
由愛香が舎利弗に笑いかけた。「楽しそう。わたしも映画はよく観ますよ」
美由紀はふと思った。女性とほとんどつきあったことがないという舎利弗に、きっかけを世話するのも悪くない。
「ちょうどよかった」と美由紀はいった。「由愛香も舎利弗先生の集まりに参加したら?」
だが、舎利弗は緊張の面持ちで由愛香を見かえすと、たどたどしい口調できいた。「え……じゃあ、あの……ジョージ・A・ロメロって監督知ってる? 『ゾンビ』の」
ふいにしらけた空気の漂うテーブルで、由愛香が無表情に首を振った。「知らない」
「ああ、そう……」
「ごめんなさい。シネマサークルってすてきだとは思うんだけど……」
弁明に入った由愛香の顔を見た瞬間、美由紀にはその心が見抜けた。映画の趣味が合わないという理由のほかに、彼女はいま新しい出会いを欲していない状況にある。
「由愛香」美由紀は友人を見つめてたずねた。「彼氏とうまくいってるみたいね?」
大仰なほどに驚きのいろを浮かべて、由愛香は見かえしてきた。「どうしてわかるの?」
「そりゃ、わたしには……」
ところが、舎利弗も目を丸くしながら口をはさんだ。「僕もびっくりしたよ。恋愛感情を見抜けるなんて。きみにとっては、大の苦手だったはずだろ?」
「……いえ、でもそれは男性が女性に向ける恋愛感情で……」
「いや。きみは女性のそういう感情にもかなり、無頓着《むとんちやく》だったはずだよ。なんていうか、そのう、ひきくらべて感じられる自分の経験が少ないのかな、と……。ああ、ごめん。別に深い意味は……」
美由紀は黙りこくった。
そういわれてみれば、そうだった。けれどもいまは違う。
さも楽しそうに由愛香が身を乗りだしてきた。「この気持ちがわかるようになったってことは、美由紀、あなたにも誰かいい人見つかったの?」
見つかってはいない。それでも、同じ感情なら経験した。
あの横浜港の古びた管理小屋で、肩に手をまわしてきた笹島の横顔が、目の前にちらつく。わたしに向けられた、あのまなざし……。
自然に指先が襟もとに触れた。あのフリースのマフラーも、いまはない。
美由紀はため息とともに、その思考を頭から遠ざけた。
「知ってるわよ、恋する気持ちぐらい」美由紀はつぶやいて、遠い空に目を移した。
いつしか、ひとすじの飛行機雲が、ひろびろとした空にたなびいていた。