美由紀はエレベーターで一階まで降りると、ビルのエントランスから路地に駆けだした。
いつも由愛香と待ち合わせる喫茶店といえば、神宮|外苑《がいえん》の銀杏《いちよう》並木だ。クルマで行き来すれば、それほど時間はかからないだろう。
駐車場のメルセデスに向かおうとしたとき、不審な黒のリムジンが一台、路地に滑りこんできた。
あのバスのように長い車体を、よくこんな細い路地に乗りいれられたものだ。そう思いながら眺めていると、リムジンは駐車場の前で停車した。
運転手がウィンドウをさげてこちらを見る。「岬美由紀元二等空尉であられますか」
その男の話し方も、鍛えあげた身体であることをしめす猪首《いくび》も、かつての職場をそのまま連想させる。
「そうですけど」美由紀は応じた。
ドアが開き、運転手はすばやい身のこなしで車外に降り立つと、後部座席のドアを開けた。
クルマに近づいてなかを覗《のぞ》きこむ。美由紀は息を呑《の》んだ。
航空自衛隊の制服を身につけた、頭髪に白いものの混じった初老の男。彫刻刀で刻んだかのような深い皺《しわ》が無数に刻まれた険しい顔つき。忘れようとしても忘れられない、その鋭い眼光。
「広門《ひろかど》空将……」と美由紀はつぶやいた。
「しばらくぶりだったな」広門は少し喉《のど》にからむ声でいった。「話がある。乗ってくれないか。むろんきみもいまは民間人だから、強制はできんが」
「あのう……わたし、神宮外苑まで出かけるところなんですけど」
「それなら、このクルマで行くといい。着くまでには話も終わるよ」
ためらいはよぎる。だが、広門|友康《ともやす》は空自の上級幹部のなかでも無駄話を嫌う人種で、そのぶん必要と思われることしか口にしないはずだ。彼がみずから出向いてきた以上、無視できるレベルの話でもないのだろう。
失礼します、美由紀は告げて後部座席に乗りこんだ。
応接間のようにソファが向かいになったその空間には、もうひとりのスーツ姿の男がいた。
年齢は三十代前半ぐらい、ビンの底のように厚いレンズの丸眼鏡をかけている。
その物腰から、防衛省の人間だろうと美由紀は察しをつけた。やはり以前に関わった職種の人間は、独特の空気感をもって感じられる。
ドアが閉められ、運転手がクルマを発進させた。
ほとんど揺れを感じさせない車内で、広門はいった。「先日の旅客機の件での活躍は聞いたよ。除隊しても元幹部自衛官にふさわしい働きを誇りに思う」
「どうも……」
「彼は」と広門はスーツの男に顎《あご》をしゃくった。「内部部局の防衛政策局、佐々木洋輔《ささきようすけ》だ」
「防衛計画課の所属です。どうぞよろしく」と佐々木は会釈した。
美由紀も頭をさげてから、佐々木にきいた。「周辺事態に不穏な動きでも?」
「ええ。まずはこちらをお手にとって、ご覧いただけますか」佐々木はソファの向こうから、長さ一メートル、直径五センチほどの透明な円筒を取りだした。
一見、ガラスかアクリル製にみえたそれは、触れてみるとゴムのような柔軟性を持っているのがわかる。無理な力を加えなくても、九十度以上の角度に曲げられるしろものだった。
「これがなにか?」
「まっすぐにして、円筒の上部から覗きこんでみてください。望遠鏡みたいに」
いわれたとおりにしてみると、当然のことながら向こうが透けてみえる。透明度は高く、鮮明だ。像が拡大されているわけではない、レンズの機能はないらしい。
ますます、何の用途のために作られた物かわからなくなった。「それで?」
「そのまま、円筒を曲げてみてください」
なかを覗いたまま、円筒をねじ曲げていく。驚いたことに、見えている像は変わっていく。うつむいているのに、広門らの顔が見える。
「これは……」
「どうです。びっくりしましたか?」
「ええ。……チューブを曲げても、光が円筒のなかをそのまま通るのね。だから一方の端を差し向けた方角の風景が、もう一方の端のなかに見える。柔軟な潜望鏡ですね」
「おっしゃるとおりですよ。それは発明者によってフレキシブル・ペリスコープと名づけられたそうです。自由な形に曲げられる潜望鏡という意味です」
「ほんとにふしぎ。どうやって……」
「理論自体は古くからあるものの応用です。幾何光学で説明されるように、光線は、異なる媒質の接合面で折れ曲がります。薄いアクリル・ゴム合成樹脂の透明な円盤状凹レンズ、および凸レンズ各二十万枚を、交互に重ねてから、その隙間に水の三倍の密度がある液体キセノンを封じこめ、周囲をゴムで密閉したものです。これにより、円筒の端から入った光は、円筒がどう曲がっていようとその内部に沿って屈折して進み、反対側の端に抜けるんです」
「すごい発明ですね。でも、これを潜水艦に装備する意義はあまり感じられませんけど。現代では小型のカメラはいくらでもあるし、直進以外の方向をモニターするのは難しくない」
「そうです。この大きさのフレキシブル・ペリスコープには、さほど実用性は感じられません。しかし、これがあくまで試作品にすぎないとしたら、どう思います? 目指すところは、これと同じ原理と仕組みを持ち、より細くつくられたものです。グラスファイバーで作られた、直径わずか〇・五ミリのフレキシブル・ペリスコープです」
「さあ……。一本では意味がないでしょうけど、複数集まれば……」
佐々木は大きくうなずいた。「七百万本も揃えれば、二メートル四方の面積をチューブの端でびっしり埋めつくすことができます。その表面はいわば、七百万画素のテレビ画面と同じです。いいですか。ある物体の片側の表面に、直径〇・五ミリのフレキシブル・ペリスコープの端を敷き詰め、物体側面にチューブを迂回《うかい》させて、反対側の表面にも同じようにもう一方の端を隙間なく並べる。どうなると思います?」
「光はチューブに沿って迂回するから、向こう側が見える。つまり物体は透けて見えるってことかな」
「そうですよ、岬二尉、いえ、岬先生」佐々木は興奮ぎみにいった。「『攻殻機動隊』って漫画をご存じですか。光学迷彩というものが現実になる日が来たんです。従来のステルス機は表面加工によってレーダー波や赤外線を反射せずに吸収することで、電子的に探知されにくくなっていましたが、当然ながら目視では視認できます。でもこの技術を併用すると、目にも見えない機体が実現するんです」
「そんなにうまくいくかしら……。繊維状のチューブを迂回させるといっても、かなりの体積になるし、機体の表面すべてを覆わなきゃいけなくなる。窓もしくは監視カメラがなきゃパイロットは外のようすを把握できないし、搭載兵器や翼の稼動部分を考えると、それらすべてにこのチューブの端を敷き詰めるなんて考えられない」
広門が冷静な声で告げた。「戦闘機ならそうだろうが、ミサイルに適用するとは考えられないか?」
「……ありえますね。理論的には可能でしょう。でも、自衛隊の装備にそのような発明を利用するのは、問題があると思いますけど」
「われわれが兵器として採用するわけじゃないんだ。なにより、コストが高くつきすぎる。それだけの本数の極細フレキシブル・ペリスコープを作るだけでも、防衛予算の十年ぶんぐらいは軽く吹き飛んでしまう計算らしい」
「そんなに……? すると、たとえ米軍でも配備は不可能ですね」
「ところが」佐々木がスーツケースから書類を取りだした。「その不可能に挑んだ者がいるんです。イタリアのベネチアに本社があるアクア・マルタ社はグラスファイバー製造の老舗《しにせ》ですが、このほど持ちこまれた案に従って、じつに八千七百七十六万本もの極細フレキシブル・ペリスコープを作ったとのことです。これを電波吸収素材《RAM》を含むイディオス強化プラスチック製の巨大な容器の表面に加工したんです」
「巨大な容器というと……」
「これです」佐々木は書類を差しだしてきた。「全長五・五六メートル、直径〇・五二メートルの円筒形で、先端部分はドーム状に丸くなってます。円筒の途中に左右に伸びる翼がついています。耐熱設計も充分に考慮されてます」
いやな予感を覚えながら、美由紀は書類に目を落とした。
それは佐々木の説明どおりの物体を設計した図面だった。
極細フレキシブル・ペリスコープの端で表面を覆い尽くし、チューブは壁の内部に埋めこむ。物体そのものは、内部が空洞になった巨大な円筒形で、何かにすっぽり被《かぶ》せることを目的としているようだった。
そして、これがどんな物のカバーに使われるのか、空洞部分の形状をみれば察しはつく。
「トマホークね」美由紀はつぶやいた。「中に巡航ミサイルがぴったりとおさまるように設計されてる」
「そうとも」広門は苦々しい顔でうなずいた。「これをトマホークに被せれば、見えないミサイルの一丁上がりというわけだ」
それがどれだけ恐ろしい意味を持つか、空自の戦闘機部隊に籍を置いていた美由紀には充分に理解できた。
巡航ミサイルは艦船の垂直発射管からも、飛行機からも発射できる。射程は数百キロから数千キロ、あらかじめインプットされた地表の地図情報を参照して障害物を避けて飛び、目標に命中する。核の搭載も可能だ。
そのミサイルが、レーダーに探知されることもなく、目に見えることもなく飛来する。あらゆる防衛網は難なく突破されてしまうにちがいない。|完全なる《パーフエクト》ステルス兵器の襲撃を受けたのでは、どの国の防御も無力とならざるをえない。
しかしそれは、すべてが完全だった場合の話だ。
美由紀は佐々木に書類をかえしながらいった。「本当に見えないのかしら。飛行機雲で判別できるかも」
「アクア・マルタ社でこのステルス・カバーを受注した業者らによると、直射日光に対してはやや外郭が反射して浮かびあがることもあるようですが、曇り空の場合には十メートルも距離をおけば、ほとんど見えなくなるということです」
「ふうん。夜間ならミサイルのバックファイヤーが目立つだろうし、陽射しが強ければ、地上にわずかでも影がおちることはありうるだろうし……。そんなミサイルを使用するとなると、曇りか雨の日の日中ってところかしら。それで、そのステルス・カバーはどこに納品されたんですか?」
「それがまったく見当もつかないありさまで……。どこの誰が発注し、完成品を受け取ったのか、情報はまるで不明です。アクア・マルタ社で把握していた依頼人はただの使い走りにすぎず、その指示を出していた企業も代理だったようで……元をたどることは不可能のようです」
「巡航ミサイルは偵察衛星網を持つ国にしか扱えないはずです。それもトマホークとなると、アメリカとしか考えられないけど……」
広門は首を横に振った。「米軍の発注とは思えない。彼らは研究に手を染めていた形跡すらないんだ。それに、トマホークにしろ発射装置にしろ、金に糸目をつけさえしなければ購入できるのが世界の武器マーケットだ。ステルス・カバーに天文学的な金額を完済している依頼人だ、トマホークの一発ぐらい手に入れているだろう」
「それでも高価なことに変わりはないはずです。ステルス・カバーの製造費と、トマホーク本体、発射装置とミッションを実行する諸経費。すでに数兆から数十兆円という予算規模に膨れあがっているはずですけど」
「わが国を攻撃目標にすれば、充分に元がとれる」
「なんですって……?」
佐々木がこわばった顔で告げてきた。「けさの株価大暴落のニュース、ご存じでしょう? 世界に冠たる日本の製造業が軒並み値を下げて、ライバル関係にある諸外国の企業すべての株価が上がっている。これは、どこかの投資家がそれら外国企業の株を買いあさったからなんです。本来なら破産を余儀なくされるクレージーなやり方ですが、買い手が儲《もう》かる状況がひとつだけ考えられます。日本の企業の壊滅です」
「そう」広門はうなずいた。「この投資家は、日本の主要企業が跡形もなく消滅することを前提としているとしか思えんのだ。得体の知れない依頼人が見えないミサイルを作らせてから、たった数週間で株式市場にこのような混乱が生じた。日本攻撃の可能性が高いことを、防衛省長官は総理に忠告している。けさから極秘裏に全閣僚によって安全保障会議がひらかれている」
美由紀は逆に、現実味のなさに醒《さ》めた気分になりつつあった。
「あのう……。怪しい動きがあったことは確かでしょうけど、それらふたつを容易に結びつけていいものでしょうか? 日本の主要企業が機能を失うほどに壊滅するとなると、列島各地にあるすべての工場が破壊されねばなりません。たとえトマホークに核を搭載したところで、首都圏のみを狙ったのでは目的が果たせませんから、少なくとも十発前後のミサイルで列島の全工業地帯を隈《くま》なく一斉攻撃することになります。それだけの数のトマホークと発射装置、そしてステルス・カバーが用立てられるものでしょうか? 状況から見て、何者かが準備しているのはせいぜい一発の見えないミサイルのみと考えるのが妥当と思いますが」
「でも」佐々木は身を乗りだした。「たとえ一発でも、脅威は脅威ですよ」
「ええ。けれども、その一発だけではどこを攻撃しようとも、株による儲けどころか発射にかかる費用さえ回収できないでしょう。計算するまでもないことです。一発で日本全土が沈められれば利益もでるでしょうが、そんなことはありえないですし」
車内に沈黙が降りてきた。防衛省のふたりも、この単純な疑問に対する答えは用意していなかったらしい。
ぼんやりと外を眺める。青山一丁目の交差点が近い。そろそろ目的地だ。
広門がいった。「とにかく、総理および長官の判断で、この危機に対する対策チームが設けられることになった。きみもそこに加わってもらいたい」
「わたしが? なぜですか」
佐々木が咳《せき》ばらいをする。「その……。ほとんどの閣僚は、元イーグルドライバーだった女性幹部自衛官が、現在は千里眼と呼ばれていることに興味をしめしておられ……」
あきれた話だ。美由紀はうんざりして告げた。「そう呼ばれているのはカウンセラーとしての仕事に限ってのことですよ。見えないものが見えるわけじゃないんです」
じれったそうに広門がいう。「閣僚がいささか現実的なものの見方を欠いていることは、われわれも感じている。それでもこれは正式な決定に基づく要請だ。きみは空の防衛にも詳しく、いまの仇名《あだな》は千里眼だ。見えないミサイルに対処する専門家を呼び集める際に、決して無視できる存在ではないと感じた大臣がいた。そういうことだ」
乱暴な話もいいところだ。
責任を背負わす人間を探そうとするのは政府および防衛省の体質だが、ここまで露骨にその態度をしめされると同情心すら湧かない。
銀杏《いちよう》並木のすぐ近くでクルマは停車した。前方に赤信号が見える。
美由紀はドアを開けながらいった。「忙しいので、これで」
「待て」広門が呼びとめた。「対策チームは三日後から稼動する。よほど重要な用件がないかぎり、初日から出席してもらいたい」
「考えておきます。以上です」美由紀はドアを叩《たた》きつけた。
足ばやにリムジンから離れて、携帯を取りだす。苛立《いらだ》ちを抑えながら臨床心理士会に電話をかけた。
「日本臨床心理士会、事務局です」舎利弗の声が聞こえてきた。
「ああ、舎利弗先生。美由紀だけど。ロシア大使館に電話をいれて、さっきの件、お受けすると伝えてくれないかな?」
「いいけど……。ロシア語でどういえばいいんだい?」
「いえ、大使館の電話オペレーターは、日本語のわかる人が就いているはずだから」
「わかった。いったいどんな要請だったの?」
「ロシアに行くの。っていうより、チェチェンかな」
「チェチェン!?」舎利弗の驚きの声が返ってきた。「いつ?」
「明後日って言ってた」
「ずいぶん急だね」
「ええ。でも、もうひとつの非現実的で面倒な依頼を受けるよりはましなの」
「なんだか複雑な事情がありそうだけど……。そうだ、萩庭夕子って子はどうする?」
「誰?」
「さっきホワイトボードの前で話したろ。二十歳の大学生で、きみが指導することになってた……」
「ああ、そうだった……。いろいろあって忘れてた」
「きみが物忘れなんて珍しいね。DSMにいちど目を通しただけで、九割以上の症例を暗記できるほどの人なのに」
「ごめん。今度から気をつけるから……」
「もしその萩庭夕子さんが同行したいといったら、連れていってくれるかい?」
「え? だけど……」
「頼むよ。上京して独り暮らしをしている子みたいだから、不便はないと思う。それに、この期間内に臨床心理士に師事したっていうノルマをこなさないと、彼女の単位に影響するようだし……」
美由紀は迷った。行く場所はまだ確定していない。危険がないとも限らない。それに、快適に過ごせる環境かどうかもわからない。
それでも、ロシア政府が大使館を通じて公式に依頼してきた話だ、外国からのビジターを過酷な状況に晒《さら》したりはしないだろう。
もし対処しきれない事態だったら、萩庭夕子だけ先に帰国させればいい。何日か一緒にいれば、単位も認められるだろう。
「わかった。わたしはどちらでもいいから、彼女の意志を尊重すると伝えて」
「オーケー。あ、いま徳永が近くにいるから、電話を替わるよ」
すぐに徳永の声が聞こえてきた。「やあ、美由紀。さっきはどうも」
「徳永さん。その後、古屋さんはどうだった?」
「宝くじを買いに行ったのはいい気分転換になったみたいだ。当たるかもしれないって目を輝かせてたよ。けれども、今度は当選を前にして殺されたらどうしようとか、そんな心配をはじめてるんだ」
苦笑しながら美由紀はいった。「少なくとも、当面は生きることへの意志は喚起されたみたいね。殺される確率と宝くじに当たる確率が同率なわけだから、どっちを信じるかは古屋さんしだいね」
「でも、四日後の当選発表で、意気消沈するんじゃないのか。宝くじが当たらなかったからには、殺人に遭う可能性が高まった、とかなんとか」
「なんにしても、いま古屋さんには自発的に行動したり、考えたり、世の中の経験を通じて刺激を受けることが大事だと思うの。偏った思考に新しい水路づけをすることになると思うんだけど……」
「そうかもな。きみの勘を信じるよ。なんにせよ古屋さんは帰ってくれたし、きょうのところは平和安泰だ」
「よかったね、じゃ」美由紀は電話を切った。
たちまち笑ってはいられなくなる。
徳永は平和安泰かもしれないが、わたしのほうは違う。あまりの忙しさに手探り状態で、その場しのぎばかり繰りかえしている。
先の見えない千里眼、か。美由紀はため息をついた。書けないペンや鳴らないギターと同じだ。これほど頼りにできないものはほかにない。
いつも由愛香と待ち合わせる喫茶店といえば、神宮|外苑《がいえん》の銀杏《いちよう》並木だ。クルマで行き来すれば、それほど時間はかからないだろう。
駐車場のメルセデスに向かおうとしたとき、不審な黒のリムジンが一台、路地に滑りこんできた。
あのバスのように長い車体を、よくこんな細い路地に乗りいれられたものだ。そう思いながら眺めていると、リムジンは駐車場の前で停車した。
運転手がウィンドウをさげてこちらを見る。「岬美由紀元二等空尉であられますか」
その男の話し方も、鍛えあげた身体であることをしめす猪首《いくび》も、かつての職場をそのまま連想させる。
「そうですけど」美由紀は応じた。
ドアが開き、運転手はすばやい身のこなしで車外に降り立つと、後部座席のドアを開けた。
クルマに近づいてなかを覗《のぞ》きこむ。美由紀は息を呑《の》んだ。
航空自衛隊の制服を身につけた、頭髪に白いものの混じった初老の男。彫刻刀で刻んだかのような深い皺《しわ》が無数に刻まれた険しい顔つき。忘れようとしても忘れられない、その鋭い眼光。
「広門《ひろかど》空将……」と美由紀はつぶやいた。
「しばらくぶりだったな」広門は少し喉《のど》にからむ声でいった。「話がある。乗ってくれないか。むろんきみもいまは民間人だから、強制はできんが」
「あのう……わたし、神宮外苑まで出かけるところなんですけど」
「それなら、このクルマで行くといい。着くまでには話も終わるよ」
ためらいはよぎる。だが、広門|友康《ともやす》は空自の上級幹部のなかでも無駄話を嫌う人種で、そのぶん必要と思われることしか口にしないはずだ。彼がみずから出向いてきた以上、無視できるレベルの話でもないのだろう。
失礼します、美由紀は告げて後部座席に乗りこんだ。
応接間のようにソファが向かいになったその空間には、もうひとりのスーツ姿の男がいた。
年齢は三十代前半ぐらい、ビンの底のように厚いレンズの丸眼鏡をかけている。
その物腰から、防衛省の人間だろうと美由紀は察しをつけた。やはり以前に関わった職種の人間は、独特の空気感をもって感じられる。
ドアが閉められ、運転手がクルマを発進させた。
ほとんど揺れを感じさせない車内で、広門はいった。「先日の旅客機の件での活躍は聞いたよ。除隊しても元幹部自衛官にふさわしい働きを誇りに思う」
「どうも……」
「彼は」と広門はスーツの男に顎《あご》をしゃくった。「内部部局の防衛政策局、佐々木洋輔《ささきようすけ》だ」
「防衛計画課の所属です。どうぞよろしく」と佐々木は会釈した。
美由紀も頭をさげてから、佐々木にきいた。「周辺事態に不穏な動きでも?」
「ええ。まずはこちらをお手にとって、ご覧いただけますか」佐々木はソファの向こうから、長さ一メートル、直径五センチほどの透明な円筒を取りだした。
一見、ガラスかアクリル製にみえたそれは、触れてみるとゴムのような柔軟性を持っているのがわかる。無理な力を加えなくても、九十度以上の角度に曲げられるしろものだった。
「これがなにか?」
「まっすぐにして、円筒の上部から覗きこんでみてください。望遠鏡みたいに」
いわれたとおりにしてみると、当然のことながら向こうが透けてみえる。透明度は高く、鮮明だ。像が拡大されているわけではない、レンズの機能はないらしい。
ますます、何の用途のために作られた物かわからなくなった。「それで?」
「そのまま、円筒を曲げてみてください」
なかを覗いたまま、円筒をねじ曲げていく。驚いたことに、見えている像は変わっていく。うつむいているのに、広門らの顔が見える。
「これは……」
「どうです。びっくりしましたか?」
「ええ。……チューブを曲げても、光が円筒のなかをそのまま通るのね。だから一方の端を差し向けた方角の風景が、もう一方の端のなかに見える。柔軟な潜望鏡ですね」
「おっしゃるとおりですよ。それは発明者によってフレキシブル・ペリスコープと名づけられたそうです。自由な形に曲げられる潜望鏡という意味です」
「ほんとにふしぎ。どうやって……」
「理論自体は古くからあるものの応用です。幾何光学で説明されるように、光線は、異なる媒質の接合面で折れ曲がります。薄いアクリル・ゴム合成樹脂の透明な円盤状凹レンズ、および凸レンズ各二十万枚を、交互に重ねてから、その隙間に水の三倍の密度がある液体キセノンを封じこめ、周囲をゴムで密閉したものです。これにより、円筒の端から入った光は、円筒がどう曲がっていようとその内部に沿って屈折して進み、反対側の端に抜けるんです」
「すごい発明ですね。でも、これを潜水艦に装備する意義はあまり感じられませんけど。現代では小型のカメラはいくらでもあるし、直進以外の方向をモニターするのは難しくない」
「そうです。この大きさのフレキシブル・ペリスコープには、さほど実用性は感じられません。しかし、これがあくまで試作品にすぎないとしたら、どう思います? 目指すところは、これと同じ原理と仕組みを持ち、より細くつくられたものです。グラスファイバーで作られた、直径わずか〇・五ミリのフレキシブル・ペリスコープです」
「さあ……。一本では意味がないでしょうけど、複数集まれば……」
佐々木は大きくうなずいた。「七百万本も揃えれば、二メートル四方の面積をチューブの端でびっしり埋めつくすことができます。その表面はいわば、七百万画素のテレビ画面と同じです。いいですか。ある物体の片側の表面に、直径〇・五ミリのフレキシブル・ペリスコープの端を敷き詰め、物体側面にチューブを迂回《うかい》させて、反対側の表面にも同じようにもう一方の端を隙間なく並べる。どうなると思います?」
「光はチューブに沿って迂回するから、向こう側が見える。つまり物体は透けて見えるってことかな」
「そうですよ、岬二尉、いえ、岬先生」佐々木は興奮ぎみにいった。「『攻殻機動隊』って漫画をご存じですか。光学迷彩というものが現実になる日が来たんです。従来のステルス機は表面加工によってレーダー波や赤外線を反射せずに吸収することで、電子的に探知されにくくなっていましたが、当然ながら目視では視認できます。でもこの技術を併用すると、目にも見えない機体が実現するんです」
「そんなにうまくいくかしら……。繊維状のチューブを迂回させるといっても、かなりの体積になるし、機体の表面すべてを覆わなきゃいけなくなる。窓もしくは監視カメラがなきゃパイロットは外のようすを把握できないし、搭載兵器や翼の稼動部分を考えると、それらすべてにこのチューブの端を敷き詰めるなんて考えられない」
広門が冷静な声で告げた。「戦闘機ならそうだろうが、ミサイルに適用するとは考えられないか?」
「……ありえますね。理論的には可能でしょう。でも、自衛隊の装備にそのような発明を利用するのは、問題があると思いますけど」
「われわれが兵器として採用するわけじゃないんだ。なにより、コストが高くつきすぎる。それだけの本数の極細フレキシブル・ペリスコープを作るだけでも、防衛予算の十年ぶんぐらいは軽く吹き飛んでしまう計算らしい」
「そんなに……? すると、たとえ米軍でも配備は不可能ですね」
「ところが」佐々木がスーツケースから書類を取りだした。「その不可能に挑んだ者がいるんです。イタリアのベネチアに本社があるアクア・マルタ社はグラスファイバー製造の老舗《しにせ》ですが、このほど持ちこまれた案に従って、じつに八千七百七十六万本もの極細フレキシブル・ペリスコープを作ったとのことです。これを電波吸収素材《RAM》を含むイディオス強化プラスチック製の巨大な容器の表面に加工したんです」
「巨大な容器というと……」
「これです」佐々木は書類を差しだしてきた。「全長五・五六メートル、直径〇・五二メートルの円筒形で、先端部分はドーム状に丸くなってます。円筒の途中に左右に伸びる翼がついています。耐熱設計も充分に考慮されてます」
いやな予感を覚えながら、美由紀は書類に目を落とした。
それは佐々木の説明どおりの物体を設計した図面だった。
極細フレキシブル・ペリスコープの端で表面を覆い尽くし、チューブは壁の内部に埋めこむ。物体そのものは、内部が空洞になった巨大な円筒形で、何かにすっぽり被《かぶ》せることを目的としているようだった。
そして、これがどんな物のカバーに使われるのか、空洞部分の形状をみれば察しはつく。
「トマホークね」美由紀はつぶやいた。「中に巡航ミサイルがぴったりとおさまるように設計されてる」
「そうとも」広門は苦々しい顔でうなずいた。「これをトマホークに被せれば、見えないミサイルの一丁上がりというわけだ」
それがどれだけ恐ろしい意味を持つか、空自の戦闘機部隊に籍を置いていた美由紀には充分に理解できた。
巡航ミサイルは艦船の垂直発射管からも、飛行機からも発射できる。射程は数百キロから数千キロ、あらかじめインプットされた地表の地図情報を参照して障害物を避けて飛び、目標に命中する。核の搭載も可能だ。
そのミサイルが、レーダーに探知されることもなく、目に見えることもなく飛来する。あらゆる防衛網は難なく突破されてしまうにちがいない。|完全なる《パーフエクト》ステルス兵器の襲撃を受けたのでは、どの国の防御も無力とならざるをえない。
しかしそれは、すべてが完全だった場合の話だ。
美由紀は佐々木に書類をかえしながらいった。「本当に見えないのかしら。飛行機雲で判別できるかも」
「アクア・マルタ社でこのステルス・カバーを受注した業者らによると、直射日光に対してはやや外郭が反射して浮かびあがることもあるようですが、曇り空の場合には十メートルも距離をおけば、ほとんど見えなくなるということです」
「ふうん。夜間ならミサイルのバックファイヤーが目立つだろうし、陽射しが強ければ、地上にわずかでも影がおちることはありうるだろうし……。そんなミサイルを使用するとなると、曇りか雨の日の日中ってところかしら。それで、そのステルス・カバーはどこに納品されたんですか?」
「それがまったく見当もつかないありさまで……。どこの誰が発注し、完成品を受け取ったのか、情報はまるで不明です。アクア・マルタ社で把握していた依頼人はただの使い走りにすぎず、その指示を出していた企業も代理だったようで……元をたどることは不可能のようです」
「巡航ミサイルは偵察衛星網を持つ国にしか扱えないはずです。それもトマホークとなると、アメリカとしか考えられないけど……」
広門は首を横に振った。「米軍の発注とは思えない。彼らは研究に手を染めていた形跡すらないんだ。それに、トマホークにしろ発射装置にしろ、金に糸目をつけさえしなければ購入できるのが世界の武器マーケットだ。ステルス・カバーに天文学的な金額を完済している依頼人だ、トマホークの一発ぐらい手に入れているだろう」
「それでも高価なことに変わりはないはずです。ステルス・カバーの製造費と、トマホーク本体、発射装置とミッションを実行する諸経費。すでに数兆から数十兆円という予算規模に膨れあがっているはずですけど」
「わが国を攻撃目標にすれば、充分に元がとれる」
「なんですって……?」
佐々木がこわばった顔で告げてきた。「けさの株価大暴落のニュース、ご存じでしょう? 世界に冠たる日本の製造業が軒並み値を下げて、ライバル関係にある諸外国の企業すべての株価が上がっている。これは、どこかの投資家がそれら外国企業の株を買いあさったからなんです。本来なら破産を余儀なくされるクレージーなやり方ですが、買い手が儲《もう》かる状況がひとつだけ考えられます。日本の企業の壊滅です」
「そう」広門はうなずいた。「この投資家は、日本の主要企業が跡形もなく消滅することを前提としているとしか思えんのだ。得体の知れない依頼人が見えないミサイルを作らせてから、たった数週間で株式市場にこのような混乱が生じた。日本攻撃の可能性が高いことを、防衛省長官は総理に忠告している。けさから極秘裏に全閣僚によって安全保障会議がひらかれている」
美由紀は逆に、現実味のなさに醒《さ》めた気分になりつつあった。
「あのう……。怪しい動きがあったことは確かでしょうけど、それらふたつを容易に結びつけていいものでしょうか? 日本の主要企業が機能を失うほどに壊滅するとなると、列島各地にあるすべての工場が破壊されねばなりません。たとえトマホークに核を搭載したところで、首都圏のみを狙ったのでは目的が果たせませんから、少なくとも十発前後のミサイルで列島の全工業地帯を隈《くま》なく一斉攻撃することになります。それだけの数のトマホークと発射装置、そしてステルス・カバーが用立てられるものでしょうか? 状況から見て、何者かが準備しているのはせいぜい一発の見えないミサイルのみと考えるのが妥当と思いますが」
「でも」佐々木は身を乗りだした。「たとえ一発でも、脅威は脅威ですよ」
「ええ。けれども、その一発だけではどこを攻撃しようとも、株による儲けどころか発射にかかる費用さえ回収できないでしょう。計算するまでもないことです。一発で日本全土が沈められれば利益もでるでしょうが、そんなことはありえないですし」
車内に沈黙が降りてきた。防衛省のふたりも、この単純な疑問に対する答えは用意していなかったらしい。
ぼんやりと外を眺める。青山一丁目の交差点が近い。そろそろ目的地だ。
広門がいった。「とにかく、総理および長官の判断で、この危機に対する対策チームが設けられることになった。きみもそこに加わってもらいたい」
「わたしが? なぜですか」
佐々木が咳《せき》ばらいをする。「その……。ほとんどの閣僚は、元イーグルドライバーだった女性幹部自衛官が、現在は千里眼と呼ばれていることに興味をしめしておられ……」
あきれた話だ。美由紀はうんざりして告げた。「そう呼ばれているのはカウンセラーとしての仕事に限ってのことですよ。見えないものが見えるわけじゃないんです」
じれったそうに広門がいう。「閣僚がいささか現実的なものの見方を欠いていることは、われわれも感じている。それでもこれは正式な決定に基づく要請だ。きみは空の防衛にも詳しく、いまの仇名《あだな》は千里眼だ。見えないミサイルに対処する専門家を呼び集める際に、決して無視できる存在ではないと感じた大臣がいた。そういうことだ」
乱暴な話もいいところだ。
責任を背負わす人間を探そうとするのは政府および防衛省の体質だが、ここまで露骨にその態度をしめされると同情心すら湧かない。
銀杏《いちよう》並木のすぐ近くでクルマは停車した。前方に赤信号が見える。
美由紀はドアを開けながらいった。「忙しいので、これで」
「待て」広門が呼びとめた。「対策チームは三日後から稼動する。よほど重要な用件がないかぎり、初日から出席してもらいたい」
「考えておきます。以上です」美由紀はドアを叩《たた》きつけた。
足ばやにリムジンから離れて、携帯を取りだす。苛立《いらだ》ちを抑えながら臨床心理士会に電話をかけた。
「日本臨床心理士会、事務局です」舎利弗の声が聞こえてきた。
「ああ、舎利弗先生。美由紀だけど。ロシア大使館に電話をいれて、さっきの件、お受けすると伝えてくれないかな?」
「いいけど……。ロシア語でどういえばいいんだい?」
「いえ、大使館の電話オペレーターは、日本語のわかる人が就いているはずだから」
「わかった。いったいどんな要請だったの?」
「ロシアに行くの。っていうより、チェチェンかな」
「チェチェン!?」舎利弗の驚きの声が返ってきた。「いつ?」
「明後日って言ってた」
「ずいぶん急だね」
「ええ。でも、もうひとつの非現実的で面倒な依頼を受けるよりはましなの」
「なんだか複雑な事情がありそうだけど……。そうだ、萩庭夕子って子はどうする?」
「誰?」
「さっきホワイトボードの前で話したろ。二十歳の大学生で、きみが指導することになってた……」
「ああ、そうだった……。いろいろあって忘れてた」
「きみが物忘れなんて珍しいね。DSMにいちど目を通しただけで、九割以上の症例を暗記できるほどの人なのに」
「ごめん。今度から気をつけるから……」
「もしその萩庭夕子さんが同行したいといったら、連れていってくれるかい?」
「え? だけど……」
「頼むよ。上京して独り暮らしをしている子みたいだから、不便はないと思う。それに、この期間内に臨床心理士に師事したっていうノルマをこなさないと、彼女の単位に影響するようだし……」
美由紀は迷った。行く場所はまだ確定していない。危険がないとも限らない。それに、快適に過ごせる環境かどうかもわからない。
それでも、ロシア政府が大使館を通じて公式に依頼してきた話だ、外国からのビジターを過酷な状況に晒《さら》したりはしないだろう。
もし対処しきれない事態だったら、萩庭夕子だけ先に帰国させればいい。何日か一緒にいれば、単位も認められるだろう。
「わかった。わたしはどちらでもいいから、彼女の意志を尊重すると伝えて」
「オーケー。あ、いま徳永が近くにいるから、電話を替わるよ」
すぐに徳永の声が聞こえてきた。「やあ、美由紀。さっきはどうも」
「徳永さん。その後、古屋さんはどうだった?」
「宝くじを買いに行ったのはいい気分転換になったみたいだ。当たるかもしれないって目を輝かせてたよ。けれども、今度は当選を前にして殺されたらどうしようとか、そんな心配をはじめてるんだ」
苦笑しながら美由紀はいった。「少なくとも、当面は生きることへの意志は喚起されたみたいね。殺される確率と宝くじに当たる確率が同率なわけだから、どっちを信じるかは古屋さんしだいね」
「でも、四日後の当選発表で、意気消沈するんじゃないのか。宝くじが当たらなかったからには、殺人に遭う可能性が高まった、とかなんとか」
「なんにしても、いま古屋さんには自発的に行動したり、考えたり、世の中の経験を通じて刺激を受けることが大事だと思うの。偏った思考に新しい水路づけをすることになると思うんだけど……」
「そうかもな。きみの勘を信じるよ。なんにせよ古屋さんは帰ってくれたし、きょうのところは平和安泰だ」
「よかったね、じゃ」美由紀は電話を切った。
たちまち笑ってはいられなくなる。
徳永は平和安泰かもしれないが、わたしのほうは違う。あまりの忙しさに手探り状態で、その場しのぎばかり繰りかえしている。
先の見えない千里眼、か。美由紀はため息をついた。書けないペンや鳴らないギターと同じだ。これほど頼りにできないものはほかにない。