銀杏の並木道に面したカフェテラスで、美由紀は由愛香、藍らとともに食事をとった。
だが、この三人は周囲の客にとって奇妙に映るに違いない。運ばれてきたパスタやサラダをそっちのけにして、ハガキを書くことに集中しているからだ。
雪村藍は美由紀のふたつ年下の友人だったが、何軒もの飲食店経営を成功させている由愛香とは違って、ソフトウェア会社に勤務するごくふつうのOLだった。
とはいえ、髪を明るく染めているせいか、あるいはその童顔のせいか、社会人には見えない。むしろ十代の学生という印象を漂わせている。
テーブルに置いたノートパソコンのキーを叩きながら藍が嘆いた。「あー。またつながんない。ちょっと。この店の無線LANってどうなってんの」
由愛香はハガキにペンを走らせながらいった。「無線LANのせいじゃなくて、サイトにアクセスが集中してるんじゃないの? セブン・エレメンツの公式サイトじゃ混んでるの当たり前だし」
「だけどさ、ほかのアドレスもつながりにくいよ? これじゃ応募先の住所、わかんないじゃん。ったく、設備に金かけてないね、この店」
「飲食店の経営ってそれほどゆとりがあるものじゃないの。無線LANなんてあくまでサービス。ちゃんと食事とコーヒーが出てるんだから文句いわない」
「それ経営者のスタンス? 由愛香さんの店、今後は行くのやめようかな」
「ええ、どうぞ。長時間居座ってネットやって応募ハガキ書きまくるお客さんなんて要らないから」
「そういう由愛香さんが、この店にとっちゃ迷惑な客かもよ。もとはといえばハガキの応募も由愛香さんの発想でしょ? なんで自分の店でやらないの」
「うちの店は昼どき混むの」
「ほかの人の店なら平気なの? 自分勝手」
「藍。いままで、うちの店で無料《ただ》で飲んだアメリカンコーヒー二杯とパフェ、代金払ってくれる?」
「おごってくれるって言ったじゃん。わたしみたいな貧乏人から金とるの? 強欲女」
「あつかましいにもほどがあるでしょ。あなたみたいな人は出入り禁止に……」
「ちょっと」美由紀は口をはさんだ。「ふたりとも、それぐらいにしたら? チケットが入手困難で、気が立ってるのはわかるけどさ」
由愛香と藍は顔を見合わせ、気まずそうに押し黙った。
美由紀のほうは作業が進んでいなかった。
やはりチケットよりも気になることがある。
ハンドバッグから携帯を取りだしてテーブルに置いた。液晶表示板をテレビに切り替え、ニュースを放送しているチャンネルをさがす。ほとんどの局が株価暴落を解説する番組を放送中だった。
「へえ」藍がそれを覗《のぞ》きこんでいった。「きれいに映ってる。これ、ワンセグだよね?」
「そう。地上デジタル放送」
「いいなーワンセグ携帯。わたしも買おうかな」
由愛香が藍をじろりと見た。「そんなにお金があるなら……」
「はいはい、コーヒー代払えって言うんでしょ。さっき聞いた」
「パフェもよ」
「お金持ちのくせに意地悪だなぁ、由愛香さんは」藍はそういいながら席を立った。
「どこ行くの?」と美由紀はきいた。
「洗面所で手を洗ってくる」
「さっき洗ってきたばっかりなのに……」
「んー、でもハガキ書いてるうちに、なんか指先が汗ばんできちゃって。気持ち悪いから、洗ってくるね」
藍が立ち去っていくと、由愛香が美由紀に顔を近づけてきた。
「藍の住んでる部屋ってさ、塵《ちり》ひとつ落ちてないほど掃除が行き届いてるんだけど……、洗面所に山のように石鹸《せつけん》が置いてあるんだよね」
「知ってる。一個につき一回手を洗ったら捨てるのよね。前に使った石鹸は汚くて触る気がしないって」
「会社でも手を洗いすぎるって怒られてるみたいよ? 異常よね」
「異常っていうか……。不潔恐怖症ね。手を洗わないと不安でたまらなくなる」
「カウンセリングしてあげたら? 前に観たドラマで、不潔恐怖症は幼少のころに母親が殴殺されて、その血がべっとり両手についたからって……」
「抑圧されたトラウマなんて非科学的なの。劇的な原因なんて存在しないのかもしれない。少しずつ、手を洗わなくても不安を感じないように慣れさせていかないとね……。でもいまのところ、藍はカウンセリング受けたくないって」
「わたしが会社の経営者だったら、水の無駄遣いをする社員なんて真っ先にクビ切るけどね」
「由愛香……」
「冗談よ」由愛香は通りがかった若いウェイターに声をかけた。「ねえちょっと、このパソコンなんだけど……。店内の無線LAN、ちゃんと機能してる?」
失礼します、といってウェイターはパソコンのキーを操作し、接続状況を確かめだした。
だが、美由紀はそのようすを眺めてはいなかった。
ワンセグ携帯の画面に映しだされた折れ線グラフに衝撃を受けていたからだった。
市場はすでにあらゆる調整によって安定を取り戻しつつある。
それはつまり、けさの暴落は自然の事態ではなく、やはり海外企業の株の一斉買い占めという、異常な行為に及んだ者が存在していたからだった。
本気で日本の全主要企業が壊滅すると信じている。どうしてそんな絵空事を受けいれられるのだろう。たった一発の見えないミサイルとも結びつく話とは思えない。
ウェイターが告げた。「失礼しました、たしかに店の無線ルータが調子悪いのかも……。いま見てきます」
「早くしてね」と由愛香はいって、美由紀に向き直った。「コンサートは三か月後か。暑い夏を迎えるころになって、がっかりしたくないものね。それまではヤキモキしながら待つ毎日ね」
「由愛香。わたし、あさってからしばらく留守にするから。海外にいくの」
「海外? 出張ってこと?」
「うん……。命じられたわけじゃなくて、自分の意志でね。臨床心理士は会社員じゃないから、出向先も自分で選択できる権限があるの」
「コンサートまでには戻れる?」
「もちろんよ。そんなに長く日本を離れる気なんてないし」
「よかった」由愛香はハガキの山を押しつけてきた。「じゃ、これお願い」
「え……?」
「あさってから留守にするんだから、そのあいだのぶんも前もって書いておいてよ。ひとり一日三十枚がノルマなんだから。美由紀ひとりが楽しちゃいけないでしょ」
「……さっきから思ってたんだけど、プリンターで印字したほうが……」
「駄目。手書きのほうが当選の確率が高いって言われてるし。心をこめるのよ、美由紀。セブン・エレメンツへの愛情をペンにぶつけるの」
仕方がない。美由紀はため息まじりにペンをとった。「愛情……か。すでに憎しみに変わりはじめてるんだけど」
だが、この三人は周囲の客にとって奇妙に映るに違いない。運ばれてきたパスタやサラダをそっちのけにして、ハガキを書くことに集中しているからだ。
雪村藍は美由紀のふたつ年下の友人だったが、何軒もの飲食店経営を成功させている由愛香とは違って、ソフトウェア会社に勤務するごくふつうのOLだった。
とはいえ、髪を明るく染めているせいか、あるいはその童顔のせいか、社会人には見えない。むしろ十代の学生という印象を漂わせている。
テーブルに置いたノートパソコンのキーを叩きながら藍が嘆いた。「あー。またつながんない。ちょっと。この店の無線LANってどうなってんの」
由愛香はハガキにペンを走らせながらいった。「無線LANのせいじゃなくて、サイトにアクセスが集中してるんじゃないの? セブン・エレメンツの公式サイトじゃ混んでるの当たり前だし」
「だけどさ、ほかのアドレスもつながりにくいよ? これじゃ応募先の住所、わかんないじゃん。ったく、設備に金かけてないね、この店」
「飲食店の経営ってそれほどゆとりがあるものじゃないの。無線LANなんてあくまでサービス。ちゃんと食事とコーヒーが出てるんだから文句いわない」
「それ経営者のスタンス? 由愛香さんの店、今後は行くのやめようかな」
「ええ、どうぞ。長時間居座ってネットやって応募ハガキ書きまくるお客さんなんて要らないから」
「そういう由愛香さんが、この店にとっちゃ迷惑な客かもよ。もとはといえばハガキの応募も由愛香さんの発想でしょ? なんで自分の店でやらないの」
「うちの店は昼どき混むの」
「ほかの人の店なら平気なの? 自分勝手」
「藍。いままで、うちの店で無料《ただ》で飲んだアメリカンコーヒー二杯とパフェ、代金払ってくれる?」
「おごってくれるって言ったじゃん。わたしみたいな貧乏人から金とるの? 強欲女」
「あつかましいにもほどがあるでしょ。あなたみたいな人は出入り禁止に……」
「ちょっと」美由紀は口をはさんだ。「ふたりとも、それぐらいにしたら? チケットが入手困難で、気が立ってるのはわかるけどさ」
由愛香と藍は顔を見合わせ、気まずそうに押し黙った。
美由紀のほうは作業が進んでいなかった。
やはりチケットよりも気になることがある。
ハンドバッグから携帯を取りだしてテーブルに置いた。液晶表示板をテレビに切り替え、ニュースを放送しているチャンネルをさがす。ほとんどの局が株価暴落を解説する番組を放送中だった。
「へえ」藍がそれを覗《のぞ》きこんでいった。「きれいに映ってる。これ、ワンセグだよね?」
「そう。地上デジタル放送」
「いいなーワンセグ携帯。わたしも買おうかな」
由愛香が藍をじろりと見た。「そんなにお金があるなら……」
「はいはい、コーヒー代払えって言うんでしょ。さっき聞いた」
「パフェもよ」
「お金持ちのくせに意地悪だなぁ、由愛香さんは」藍はそういいながら席を立った。
「どこ行くの?」と美由紀はきいた。
「洗面所で手を洗ってくる」
「さっき洗ってきたばっかりなのに……」
「んー、でもハガキ書いてるうちに、なんか指先が汗ばんできちゃって。気持ち悪いから、洗ってくるね」
藍が立ち去っていくと、由愛香が美由紀に顔を近づけてきた。
「藍の住んでる部屋ってさ、塵《ちり》ひとつ落ちてないほど掃除が行き届いてるんだけど……、洗面所に山のように石鹸《せつけん》が置いてあるんだよね」
「知ってる。一個につき一回手を洗ったら捨てるのよね。前に使った石鹸は汚くて触る気がしないって」
「会社でも手を洗いすぎるって怒られてるみたいよ? 異常よね」
「異常っていうか……。不潔恐怖症ね。手を洗わないと不安でたまらなくなる」
「カウンセリングしてあげたら? 前に観たドラマで、不潔恐怖症は幼少のころに母親が殴殺されて、その血がべっとり両手についたからって……」
「抑圧されたトラウマなんて非科学的なの。劇的な原因なんて存在しないのかもしれない。少しずつ、手を洗わなくても不安を感じないように慣れさせていかないとね……。でもいまのところ、藍はカウンセリング受けたくないって」
「わたしが会社の経営者だったら、水の無駄遣いをする社員なんて真っ先にクビ切るけどね」
「由愛香……」
「冗談よ」由愛香は通りがかった若いウェイターに声をかけた。「ねえちょっと、このパソコンなんだけど……。店内の無線LAN、ちゃんと機能してる?」
失礼します、といってウェイターはパソコンのキーを操作し、接続状況を確かめだした。
だが、美由紀はそのようすを眺めてはいなかった。
ワンセグ携帯の画面に映しだされた折れ線グラフに衝撃を受けていたからだった。
市場はすでにあらゆる調整によって安定を取り戻しつつある。
それはつまり、けさの暴落は自然の事態ではなく、やはり海外企業の株の一斉買い占めという、異常な行為に及んだ者が存在していたからだった。
本気で日本の全主要企業が壊滅すると信じている。どうしてそんな絵空事を受けいれられるのだろう。たった一発の見えないミサイルとも結びつく話とは思えない。
ウェイターが告げた。「失礼しました、たしかに店の無線ルータが調子悪いのかも……。いま見てきます」
「早くしてね」と由愛香はいって、美由紀に向き直った。「コンサートは三か月後か。暑い夏を迎えるころになって、がっかりしたくないものね。それまではヤキモキしながら待つ毎日ね」
「由愛香。わたし、あさってからしばらく留守にするから。海外にいくの」
「海外? 出張ってこと?」
「うん……。命じられたわけじゃなくて、自分の意志でね。臨床心理士は会社員じゃないから、出向先も自分で選択できる権限があるの」
「コンサートまでには戻れる?」
「もちろんよ。そんなに長く日本を離れる気なんてないし」
「よかった」由愛香はハガキの山を押しつけてきた。「じゃ、これお願い」
「え……?」
「あさってから留守にするんだから、そのあいだのぶんも前もって書いておいてよ。ひとり一日三十枚がノルマなんだから。美由紀ひとりが楽しちゃいけないでしょ」
「……さっきから思ってたんだけど、プリンターで印字したほうが……」
「駄目。手書きのほうが当選の確率が高いって言われてるし。心をこめるのよ、美由紀。セブン・エレメンツへの愛情をペンにぶつけるの」
仕方がない。美由紀はため息まじりにペンをとった。「愛情……か。すでに憎しみに変わりはじめてるんだけど」