風車の扉から地上に飛び降り、芝生に転がった。
警報はぴたりと聞こえなくなり、代わりにブラスバンドの演奏が耳に入った。
顔をあげると、丘の上を王国時代の鼓笛隊が楽器を鳴らしながら行進していく。
見物人はいないのに、鼓笛隊は一糸乱れぬ足どりで突き進み、さっき美由紀が目を覚ました石畳の広場へと丘を下っていく。
美由紀はゲーム機を拾いあげ、その鼓笛隊を追った。
孤立無援でいるよりは、人にまぎれていたほうがまだ希望が持てる。たとえ敵か味方か判然としない連中であっても。
鼓笛隊に追いつき、その隊列の行進のなかに分け入ったが、誰ひとりとして歩を緩めることなく、ひたすら楽器を奏でつづけている。美由紀と視線を合わせようとする者もいない。
表情は真剣そのものだった。美由紀を意識しながら無視しているのなら、多少なりとも視線が踊ったり頬筋《きようきん》がこわばったりするはずだが、そんな反応はなかった。
自分の行いに揺るぎない義務感と使命感を抱いている、そう考えられた。
なにが彼らをここまで徹底させているのだろう。報酬か。それともほかに、なんらかの理由があるのか。
石畳の広場に戻った。
噴水の周りのベンチには、ちらほらと男女の姿があった。だが美由紀は、彼らに話しかける気はなかった。
いまは赤い電話とやらを探さねばならない。とりあえずゲームに従わないことには、ルールが見えてこない。
さっきは素通りした二階建ての建物の一階部分に入ると、そこは飲食店のようだった。
客も大勢いた。老若男女問わず、また国籍もさまざまな人々が四、五人ずつテーブルを囲んでいる。会話はほとんどなく、黙々と食事をつづけていた。
店の奥にはカウンターがあって、エプロン姿の婦人がこちらを見て微笑んだ。「いらっしゃいませ」
日本語だ。しかし、この状況でウェイトレスを勤めるからには、各国の言語に精通していてもふしぎではない。
美由紀はカウンターに歩み寄った。
空腹のせいか、店内に漂う匂いが香ばしく思える。
「食事はいかが?」と婦人がきいてきた。
「お金かかるの?」と美由紀は戸惑いがちにつぶやいた。
すると、いきなり店内の客たちがいっせいに笑いだした。
振りかえると、誰もが手にしたゲーム機と美由紀を、かわるがわる見ながら笑い転げている。
婦人は苦笑ぎみに告げてきた。「気にしないで。初めてここに来た人は、みんなあなたと同じ質問をするんだから。食事は無料よ。好きなだけ食べていいの」
「そう……。赤い電話ってのも探してるんだけど……」
「ああ。あれね」と婦人は店内の隅を指差した。
頑丈そうなガラスの扉の向こう、フォーンブースのなかに、壁にかかった赤い公衆電話が見えている。
美由紀はそこに近づいた。把っ手を握り、押したり引いたりしてみたが、扉はびくともしない。
ドアの脇に赤と緑のボタンがある。それらも押してみたが、開錠するようすはなかった。
ファンファーレが鳴った。美由紀の携帯ゲーム機だった。その液晶画面を見つめる。
ウィンドウのなかにメッセージが表示されていた。
�緑のボタンを押してから、正確に三十秒後に赤のボタンを押すと扉が開きます�
「時計、ない?」美由紀はきいた。
またしても店内に笑いが沸き起こった。顔を真っ赤にして、ひきつったような笑いを発している者もいる。
美由紀ひとりだけは笑っていなかった。むしろ醒《さ》めた気分に浸りつつあった。
ここにいる連中が、この扉を開けることができたとは思えない。それが果たせたのなら第三章に進んでいるはずだ。第三章は兵士に追いまわされるステージだった。ここでのんびりと食事に興じていられるはずがない。
彼らはたぶん、第二章から先に進めず、半ば諦《あきら》めかけている人々だろう。だから赤い電話のあるこの店内にたむろしているのだ。新入りがここに駆けこんできて、扉を開けられずに七転八倒する姿を笑いながら見物する、それ以外にすべきことがないのだろう。
時計がこの街にないことはよくわかった。
だが、方法はひとつだけではない。
美由紀は首からペンダントを外した。
友人の由愛香が褒めてくれた、十字架《クロス》つきのペンダント。チェーンの長さは四十センチ。これで時間は計れる。
クロスを錘《おもり》の代わりに一方の端に寄せ、もう一方の端の留め金を把《と》っ手につなぐ。長さ四十センチの振り子ができあがった。
振り子を振ると同時に緑のボタンを押した。物理学の初歩だ。
錘の重さは関係なく、七往復したら十秒。十四往復で二十秒。そして二十一往復で三十秒。
左右に揺れる振り子、その動きを数える。十八、十九、二十、二十一。
美由紀はすかさず赤いボタンを押した。
ファンファーレが鳴り響く。かちゃりと音がした。
把っ手を引いてみると、扉はすんなりと開いた。
客たちはどよめいて立ちあがった。彼らが押し寄せてくる前に、美由紀はペンダントを回収して扉のなかに滑りこんだ。
頭上から合成音声らしき女性の声がする。「ようこそ、赤い電話へ。一分間、どこへでも自由に通話できます。ただし、ファントム・クォーターでのゲームの妨げになる会話は禁止されています」
どこへでも自由に。美由紀の胸は高鳴った。助けを呼ぶとしたら今しかない。
ここが海外であることはまず間違いない。日本にかけるとすれば国際電話になる。
国番号の81をダイヤルし、それから日本臨床心理士会の番号を押した。
地球の反対側でないことを祈りたい。日本が深夜や早朝の時間帯だとしたら、電話にでる知人は皆無に等しい。
電話はつながった。馴染《なじ》みの声が応じた。「はい、日本臨床……」
「徳永さん。岬美由紀だけど……」
「ああ、美由紀。ちょうどよかった。このあいだ宝くじの当選発表だったろ? 古屋さん、ぜんぶ外れたのに、超ご機嫌でさ。会話をしていても、精神状態がかつてないほどに安定していると感じるよ。恐怖症はほとんど克服できたんじゃないかな?」
「そう。それはよかった。あのね……」
「いったいどうして症状を和らげることができたんだい? それが把握できないと、今後のカウンセリングが難しいよ」
じれったく思いながら、美由紀はいった。「殺される確率と宝くじが当たる確率を同じにすると、人間は前者を否定して後者を肯定しようとする。でも宝くじが当たらなかったとき、もう一方の確率も同程度に低いことに気づいて、安堵《あんど》を覚えるのよ。恐怖症の克服には、理性的な学習が最も適している場合がある。古屋さんは本来、頭のいい人だったからね。新しいものの考え方が脳神経のシナプス結合に新たな水路をつくって、心の安定が図れるようになったの」
「なるほど。そうか。やっぱりきみはたいしたもんだよ」
「悪いんだけど、ちょっと急いでいるから……。舎利弗先生、いない?」
「ああ、ちょっと待って」
早くしてよ。いまは一秒でも惜しいんだから。美由紀は苛立《いらだ》ちながらつぶやいた。
「はい」と舎利弗の声が応じた。
「あ、先生」
「そっちはどう? ロシア大使館の人が、ご協力ありがとうございますって電話寄越してきたよ」
ということは、わたしは当初の予定どおり、チェチェンの難民キャンプに発《た》ったことになっているのだろう。
大使館の人間も事実を知らないのかもしれない。しかし、これは最初から仕組まれた拉致《らち》であるに相違なかった。
「聞いて。大変な状況なの。目覚めたら見知らぬ街にいて、なんていうか、二世紀前のデンマークの街みたいなところなんだけど、地下に潜ったらハイテクのコントロールセンターがあって……」
「ああ。僕もDVD持ってるよ。逃げだそうとすると大きな白い風船が追いかけてくるんだろ? ナンバーワンが誰かってのが知りたいのかい? あれは……」
「違うのよ。ドラマの話じゃないの。なんか、ゲーム機を持たされてるのよ。それの指示に従って行動しろって……」
「ドラマじゃないっていうと、小説の話? 全国の佐藤さんをやっつけろとか? あれはいただけないな」
「まじめに聞いて。フィクションじゃないの、現実なのよ。太陽の位置からして、たぶんこっちは正午ぐらいだと思うの。時差を知ればおおよその位置はわかるから、いま何時か教えて」
「よくわかんないけど、いまの時刻かい? ええと……」
ところが、通話はそこでぷつりと切れた。ツー、ツーという反復音が耳に痛い。
時刻を聞くのはルール違反か。それ以外の質問をしろということだ。美由紀は急いで同じ番号をダイヤルした。
受話器から女性の声が流れてきた。「同じ番号へはかけられません」
ルールはぜんぶ先に言ってよ。美由紀は舌打ちをして受話器を戻し、また取りあげた。
今度は友人の携帯電話の番号をダイヤルする。
「もしもし?」と由愛香の声が応じる。
「美由紀だけど……」
「あー、美由紀。はがきでのコンサートの応募、外れちゃった。藍がネットオークションで譲ってくれる人を探してるって……」
「黙ってきいて。わたしが出国してから、妙な噂は聞いてない? わたし、高速道路で意識を失って、白バイ警官が駆けつけたはずなんだけど」
「白バイ……? さあ。美由紀のクルマなら、マンションの駐車場にあるでしょ。何に乗っていったの?」
「駐車場に?」
そのとき、またしても電話は切れた。
頭上から音声が響く。一分経過しました。ご利用、ありがとうございます。
落胆が襲った。情報らしきものは、ほとんど手に入らなかった。
あきらかになったのは、ここが海外であること、そして宝くじ当選日やコンサートチケットの当選発表日を過ぎていることから、日本を離れてもう何日も過ぎているらしいということだけだ。
美由紀はガラスの扉を押し開けて、フォーンブースを出た。
店内の客たちは立ちあがったまま、固唾《かたず》を呑《の》んでこちらを見守っていた。
足をとめて、美由紀は彼らにいった。「一分間、どこへでも通話ができるって」
それを聞いた客たちの顔いろが変わった。ほぼ全員がいっせいにフォーンブースに押し寄せる。扉の脇にあるボタンに我先に挑戦しようと、男たちの奪い合いが始まった。
心の奥底に激しい憤りを感じながら、美由紀はその場をあとにした。
わたしたちは遊ばれている。ゲームに参加する意志すら確かめられることなく、強制的に参加を余儀なくされ、盤上の駒にされている。ひとの人生をなんだと思っているのだろう。
わたしのほうにもルールはある。主宰者を突き止め、目的を吐かせ、責めを負わせる。それまで、このファントム・クォーターを去るつもりはない。
警報はぴたりと聞こえなくなり、代わりにブラスバンドの演奏が耳に入った。
顔をあげると、丘の上を王国時代の鼓笛隊が楽器を鳴らしながら行進していく。
見物人はいないのに、鼓笛隊は一糸乱れぬ足どりで突き進み、さっき美由紀が目を覚ました石畳の広場へと丘を下っていく。
美由紀はゲーム機を拾いあげ、その鼓笛隊を追った。
孤立無援でいるよりは、人にまぎれていたほうがまだ希望が持てる。たとえ敵か味方か判然としない連中であっても。
鼓笛隊に追いつき、その隊列の行進のなかに分け入ったが、誰ひとりとして歩を緩めることなく、ひたすら楽器を奏でつづけている。美由紀と視線を合わせようとする者もいない。
表情は真剣そのものだった。美由紀を意識しながら無視しているのなら、多少なりとも視線が踊ったり頬筋《きようきん》がこわばったりするはずだが、そんな反応はなかった。
自分の行いに揺るぎない義務感と使命感を抱いている、そう考えられた。
なにが彼らをここまで徹底させているのだろう。報酬か。それともほかに、なんらかの理由があるのか。
石畳の広場に戻った。
噴水の周りのベンチには、ちらほらと男女の姿があった。だが美由紀は、彼らに話しかける気はなかった。
いまは赤い電話とやらを探さねばならない。とりあえずゲームに従わないことには、ルールが見えてこない。
さっきは素通りした二階建ての建物の一階部分に入ると、そこは飲食店のようだった。
客も大勢いた。老若男女問わず、また国籍もさまざまな人々が四、五人ずつテーブルを囲んでいる。会話はほとんどなく、黙々と食事をつづけていた。
店の奥にはカウンターがあって、エプロン姿の婦人がこちらを見て微笑んだ。「いらっしゃいませ」
日本語だ。しかし、この状況でウェイトレスを勤めるからには、各国の言語に精通していてもふしぎではない。
美由紀はカウンターに歩み寄った。
空腹のせいか、店内に漂う匂いが香ばしく思える。
「食事はいかが?」と婦人がきいてきた。
「お金かかるの?」と美由紀は戸惑いがちにつぶやいた。
すると、いきなり店内の客たちがいっせいに笑いだした。
振りかえると、誰もが手にしたゲーム機と美由紀を、かわるがわる見ながら笑い転げている。
婦人は苦笑ぎみに告げてきた。「気にしないで。初めてここに来た人は、みんなあなたと同じ質問をするんだから。食事は無料よ。好きなだけ食べていいの」
「そう……。赤い電話ってのも探してるんだけど……」
「ああ。あれね」と婦人は店内の隅を指差した。
頑丈そうなガラスの扉の向こう、フォーンブースのなかに、壁にかかった赤い公衆電話が見えている。
美由紀はそこに近づいた。把っ手を握り、押したり引いたりしてみたが、扉はびくともしない。
ドアの脇に赤と緑のボタンがある。それらも押してみたが、開錠するようすはなかった。
ファンファーレが鳴った。美由紀の携帯ゲーム機だった。その液晶画面を見つめる。
ウィンドウのなかにメッセージが表示されていた。
�緑のボタンを押してから、正確に三十秒後に赤のボタンを押すと扉が開きます�
「時計、ない?」美由紀はきいた。
またしても店内に笑いが沸き起こった。顔を真っ赤にして、ひきつったような笑いを発している者もいる。
美由紀ひとりだけは笑っていなかった。むしろ醒《さ》めた気分に浸りつつあった。
ここにいる連中が、この扉を開けることができたとは思えない。それが果たせたのなら第三章に進んでいるはずだ。第三章は兵士に追いまわされるステージだった。ここでのんびりと食事に興じていられるはずがない。
彼らはたぶん、第二章から先に進めず、半ば諦《あきら》めかけている人々だろう。だから赤い電話のあるこの店内にたむろしているのだ。新入りがここに駆けこんできて、扉を開けられずに七転八倒する姿を笑いながら見物する、それ以外にすべきことがないのだろう。
時計がこの街にないことはよくわかった。
だが、方法はひとつだけではない。
美由紀は首からペンダントを外した。
友人の由愛香が褒めてくれた、十字架《クロス》つきのペンダント。チェーンの長さは四十センチ。これで時間は計れる。
クロスを錘《おもり》の代わりに一方の端に寄せ、もう一方の端の留め金を把《と》っ手につなぐ。長さ四十センチの振り子ができあがった。
振り子を振ると同時に緑のボタンを押した。物理学の初歩だ。
錘の重さは関係なく、七往復したら十秒。十四往復で二十秒。そして二十一往復で三十秒。
左右に揺れる振り子、その動きを数える。十八、十九、二十、二十一。
美由紀はすかさず赤いボタンを押した。
ファンファーレが鳴り響く。かちゃりと音がした。
把っ手を引いてみると、扉はすんなりと開いた。
客たちはどよめいて立ちあがった。彼らが押し寄せてくる前に、美由紀はペンダントを回収して扉のなかに滑りこんだ。
頭上から合成音声らしき女性の声がする。「ようこそ、赤い電話へ。一分間、どこへでも自由に通話できます。ただし、ファントム・クォーターでのゲームの妨げになる会話は禁止されています」
どこへでも自由に。美由紀の胸は高鳴った。助けを呼ぶとしたら今しかない。
ここが海外であることはまず間違いない。日本にかけるとすれば国際電話になる。
国番号の81をダイヤルし、それから日本臨床心理士会の番号を押した。
地球の反対側でないことを祈りたい。日本が深夜や早朝の時間帯だとしたら、電話にでる知人は皆無に等しい。
電話はつながった。馴染《なじ》みの声が応じた。「はい、日本臨床……」
「徳永さん。岬美由紀だけど……」
「ああ、美由紀。ちょうどよかった。このあいだ宝くじの当選発表だったろ? 古屋さん、ぜんぶ外れたのに、超ご機嫌でさ。会話をしていても、精神状態がかつてないほどに安定していると感じるよ。恐怖症はほとんど克服できたんじゃないかな?」
「そう。それはよかった。あのね……」
「いったいどうして症状を和らげることができたんだい? それが把握できないと、今後のカウンセリングが難しいよ」
じれったく思いながら、美由紀はいった。「殺される確率と宝くじが当たる確率を同じにすると、人間は前者を否定して後者を肯定しようとする。でも宝くじが当たらなかったとき、もう一方の確率も同程度に低いことに気づいて、安堵《あんど》を覚えるのよ。恐怖症の克服には、理性的な学習が最も適している場合がある。古屋さんは本来、頭のいい人だったからね。新しいものの考え方が脳神経のシナプス結合に新たな水路をつくって、心の安定が図れるようになったの」
「なるほど。そうか。やっぱりきみはたいしたもんだよ」
「悪いんだけど、ちょっと急いでいるから……。舎利弗先生、いない?」
「ああ、ちょっと待って」
早くしてよ。いまは一秒でも惜しいんだから。美由紀は苛立《いらだ》ちながらつぶやいた。
「はい」と舎利弗の声が応じた。
「あ、先生」
「そっちはどう? ロシア大使館の人が、ご協力ありがとうございますって電話寄越してきたよ」
ということは、わたしは当初の予定どおり、チェチェンの難民キャンプに発《た》ったことになっているのだろう。
大使館の人間も事実を知らないのかもしれない。しかし、これは最初から仕組まれた拉致《らち》であるに相違なかった。
「聞いて。大変な状況なの。目覚めたら見知らぬ街にいて、なんていうか、二世紀前のデンマークの街みたいなところなんだけど、地下に潜ったらハイテクのコントロールセンターがあって……」
「ああ。僕もDVD持ってるよ。逃げだそうとすると大きな白い風船が追いかけてくるんだろ? ナンバーワンが誰かってのが知りたいのかい? あれは……」
「違うのよ。ドラマの話じゃないの。なんか、ゲーム機を持たされてるのよ。それの指示に従って行動しろって……」
「ドラマじゃないっていうと、小説の話? 全国の佐藤さんをやっつけろとか? あれはいただけないな」
「まじめに聞いて。フィクションじゃないの、現実なのよ。太陽の位置からして、たぶんこっちは正午ぐらいだと思うの。時差を知ればおおよその位置はわかるから、いま何時か教えて」
「よくわかんないけど、いまの時刻かい? ええと……」
ところが、通話はそこでぷつりと切れた。ツー、ツーという反復音が耳に痛い。
時刻を聞くのはルール違反か。それ以外の質問をしろということだ。美由紀は急いで同じ番号をダイヤルした。
受話器から女性の声が流れてきた。「同じ番号へはかけられません」
ルールはぜんぶ先に言ってよ。美由紀は舌打ちをして受話器を戻し、また取りあげた。
今度は友人の携帯電話の番号をダイヤルする。
「もしもし?」と由愛香の声が応じる。
「美由紀だけど……」
「あー、美由紀。はがきでのコンサートの応募、外れちゃった。藍がネットオークションで譲ってくれる人を探してるって……」
「黙ってきいて。わたしが出国してから、妙な噂は聞いてない? わたし、高速道路で意識を失って、白バイ警官が駆けつけたはずなんだけど」
「白バイ……? さあ。美由紀のクルマなら、マンションの駐車場にあるでしょ。何に乗っていったの?」
「駐車場に?」
そのとき、またしても電話は切れた。
頭上から音声が響く。一分経過しました。ご利用、ありがとうございます。
落胆が襲った。情報らしきものは、ほとんど手に入らなかった。
あきらかになったのは、ここが海外であること、そして宝くじ当選日やコンサートチケットの当選発表日を過ぎていることから、日本を離れてもう何日も過ぎているらしいということだけだ。
美由紀はガラスの扉を押し開けて、フォーンブースを出た。
店内の客たちは立ちあがったまま、固唾《かたず》を呑《の》んでこちらを見守っていた。
足をとめて、美由紀は彼らにいった。「一分間、どこへでも通話ができるって」
それを聞いた客たちの顔いろが変わった。ほぼ全員がいっせいにフォーンブースに押し寄せる。扉の脇にあるボタンに我先に挑戦しようと、男たちの奪い合いが始まった。
心の奥底に激しい憤りを感じながら、美由紀はその場をあとにした。
わたしたちは遊ばれている。ゲームに参加する意志すら確かめられることなく、強制的に参加を余儀なくされ、盤上の駒にされている。ひとの人生をなんだと思っているのだろう。
わたしのほうにもルールはある。主宰者を突き止め、目的を吐かせ、責めを負わせる。それまで、このファントム・クォーターを去るつもりはない。