雑木林のなかの小道を歩きながら、美由紀はゲーム機に目を落とした。
まだ第三章の表示がでない。
赤い電話は見つけたし通話もした。それなのに、まだ次の章に進めない。なぜだろう。
考えるのが嫌になって、美由紀はゲーム機をポケットに捻《ね》じこんだ。
誰かが勝手にきめたルールだ、不本意だと思ったところで、どうしようもない。
視界が開けた。
羊が放牧されている牧場の脇に、大きな屋敷がある。風景のままの時代のデンマークなら、間違いなくこの辺り一帯の地主が住んでいる建物だろう。
広大な花壇に囲まれた、その瀟洒《しようしや》なつくりの屋敷に近づいていった。
すると、開け放たれた窓から、女の泣いている声が聞こえてくる。
その女に話しかける、しわがれた老婦の声がした。日本語だ。「そう。それがあなたの人生だったのね。でももう心配いらないから。過去がわかった以上、あなたはこのさき救われる」
「……けど」若い女の声は嗚咽《おえつ》のせいで途切れがちになっていた。「わたし……どうしたらいいのか……。お父さんはまだ都内に住んでるし……」
聞き覚えのある声だと気づいた。
美由紀は窓を覗《のぞ》きこんで、はっと息を呑んだ。「香苗さん」
居間のなかで椅子に腰掛けていた香苗が、こちらを見た。
涙を流したまま、香苗は大きく目を見開いた。「あ、岬先生」
「無事だったの。待ってて、いまいくから」美由紀は急いで屋敷の外を迂回《うかい》し、玄関から中に駆けこんだ。
これまで見てきたものとは比べものにならないほど、高価そうな調度品に彩られた通路を抜けて、美由紀は広々とした居間に入った。
香苗は椅子から立ちあがり、駆け寄ってきた。美由紀は思わず香苗を抱きしめた。「よかった……。香苗さん」
「岬先生。よくご無事で……」
とそのとき、美由紀は、室内にいるもうひとりの視線を感じて、顔をあげた。
いままで香苗と向かい合って座っていた、でっぷりと太った老婦。
身につけているものは一見して派手で、ラメの入ったドレスにペンダントやネックレスを何重にも首に巻き、手首にもきらびやかな宝石をちりばめたブレスレットの数々、そしてすべての指はリングとネイルアートに彩られている。
ショートカットにした白髪にはきれいにウェーブがかかっていて、そこだけ見れば上品ととれなくもないが、ほとんど歌舞伎役者も同然の厚化粧が趣味のよさを打ち消している。過剰に濃く引かれたアイラインのせいで、目もとは異常に鋭く見えた。
「あら」老婦は面白くもなさそうにつぶやいた。「お友達なの」
その見た目も喋《しやべ》り方も、美由紀にとって初めて見聞きするものではなかった。ただし、初対面であることに変わりはない。美由紀はテレビを通じてこの女を知っているだけだった。
香苗は涙をぬぐいながら、老婦にいった。「こちらは臨床心理士の岬美由紀先生です。岬先生、こちらの方は……」
「ええ、知ってる。厳島咲子《いつくしまさきこ》さんですね? 有名な占い師の」
「占い、というのはちょっと違うわね」咲子は嘲笑《ちようしよう》に似た笑いを浮かべた。「スピリチュアル・カウンセラーとでも呼んでもらおうかしら。もっとも、そういう呼称も最近では亜流が多すぎて、意味が曖昧《あいまい》になりつつあるけど」
「カウンセラー? 厳島先生はカウンセリングもするの?」
「ええ。いまも香苗さんのトラウマについて、その記憶を呼び覚ましていたところよ」
不穏な空気を感じながら、美由紀は香苗を見た。「なにをされたの? トラウマ論なんて科学的根拠がないって言ったのに……」
「ちがうのよ、岬先生」香苗はまじまじと美由紀を見つめた。「ほんとだったの。厳島先生と会話するうちに、記憶がよみがえってきて……。思いだすのも辛《つら》かった記憶が浮かんできて、ああ、これがわたしの心を蝕《むしば》んでる原因だったんだって、そう実感して……」
「それは勘違いなの。いい? 記憶なんて薄れていくものよ。楽しかったことも、辛かったことも、どちらもいまの人格形成に影響を与えていて当然なのよ。いま恵まれない状況にあったら、過去を振りかえって誰かを恨んだり、後悔したりすることもある。けれど、抑圧された記憶が無意識のうちに心の病……そう呼ぶのもほんとは正しくないけど、なんらかの疾患を引き起こすなんてのは俗説なのよ」
「だけどわたし、はっきり思いだしたの」香苗は瞳《ひとみ》を潤ませながら訴えてきた。「小さかったころに両親は離婚して……わたし、お父さんが住むマンションの一室にいて……。お父さんはわたしに酷《ひど》いことを……」
「ねえ香苗さん、聞いて。思いこみを暴走させるのはよくないわ。幼少のころの記憶はおぼろげになっているはずだし、それは抑圧されているんじゃなく、ただ忘れかけているだけなの。それを、さももっともらしい記憶回復療法のカウンセリングという体《てい》で言葉巧みに誘導されたら、想像も入り混じった偽の記憶を本物だと思いこんでしまうの。ひと昔前に流行《はや》った自分探しの旅なんて、ぜんぶそういう勘違いの産物だったのよ」
厳島咲子が口をはさんできた。「聞き捨てならない話ね。あなた、わたしを侮辱する気なの?」
「そうじゃないけど……。いえ。ある部分では、あなたは根本的に間違ってると思う」
「岬先生」香苗はすがるようにいった。「厳島先生の言葉はすべて的確だったの。わたしに悩みがあることもわかってたし、それが人間関係の悩みだってことも言い当てた」
「香苗さん。悩みのない人間なんていないし、悩みは総じて人間関係に起因するものよ。占い師っていうのは、そういう誰にでも当てはまる物言いで巧みに相手を信じさせてしまうの。心理学でいうバーナム効果っていう作用を利用してるのよ」
「ああ」咲子は口もとをゆがめた。「どこかで聞いた名だと思ったわ、岬美由紀さん。血液型で性格が分かれるのはナンセンスだとかなんとか、難癖をつけてた人ね。以前に新聞で読んだわ。千里眼って呼ばれてるんだって? それこそ信じられないけど」
「わたしは信奉者を得ようなんて思ってないの。占い師でもないしね。そういえば、血液型性格分類は占星術と並んで、厳島先生の十八番《おはこ》だったわね? 商売を邪魔されたとでも思った?」
「もちろん。なんて無知な女なんだろうって軽蔑《けいべつ》したわ」
「臨床心理学で否定されている俗説を、どうやって信じたらいいか教えてくれる?」
「あなたに教えることなんて何もないわよ。どうせ地獄に落ちるんだし」
「冥界《めいかい》にまで精通してるのね、先生は。なら、ここがどこかってことぐらい、当然お見通しよね?」
「当たり前でしょ」
「じゃ、どこなのか教えて」
「あなたにはわからないの? 千里眼なのに」
美由紀は口をつぐんだ。
妙に挑発的な態度。たんなる反発というより、立場の優劣を競いたがる敵愾心《てきがいしん》を感じさせる。
どうしてわたしと張りあおうとするのだろうか。この場でわたしを言い負かしたところで、さしたるメリットもないだろうに。
そのとき、水流の音がした。ドアが開いて、洗面所から男がでてきた。
顔を洗ったらしい。タオルを首から下げながら、その日本人の男はにやにやしながらきいてきた。「なにをそんなに反目しあってるんだい? なんなら、相手の心を読んだらどうなんだい?」
厳島咲子は男にいった。「わたしはとっくに、この岬さんとやらの心を見透かしてるわよ。エゴの固まり、意地っ張りで、自分を利口だと思っていて、嘘つき。それだけの人よ」
憤りを覚えて美由紀は咲子に言いかえした。「それってカミングアウトかしら。ぜんぶあなたにぴったり当てはまるんだけど」
「なんですって。この……」
「よしなよ」男は笑いながら仲裁に入ってきた。「きみ、岬さんっていうのか。なにか厳島先生に聞きたいことでも? 俺が代わりに答えてやるよ」
「……さっき聞いたのは、ここがどこかってこと」
「どこかって? そんなの、この街にたむろしている連中なら誰でも見抜けているだろうぜ? まあ、もしきみが間違っていたら、正解を教えてしまうのは癪《しやく》だからな。おおざっぱに、南半球とだけは言っておこう」
南半球。男は自信たっぷりにそういった。なぜそう言いきれるのだろう。彼は、なんらかの情報をつかんでいるのか。
そのとき、だしぬけにサイレンが響き渡った。
一瞬の間をおいて、屋敷のなかに踏みこんでくるあわただしい足音がした。
居間に駆けこんできた一群は、あの中世もしくは近世の兵士ではなく、ナチス・ドイツの憲兵隊を思わせる深緑の制服に身を包んだ連中だった。腰のホルスターから拳銃《けんじゆう》を抜き、男にいっせいに襲いかかる。
男はびくつき、逃げだそうとしたが、すぐに憲兵隊に取り押さえられた。両腕をねじりあげられ、床にひきずられながら外へと連行されていく。
「なぜだ!?」男は怯《おび》えきった表情で叫んでいた。「どうして駄目なんだ。南半球だろ? 間違ってないはずだろ? 洗面所の水が時計回りに渦巻いてたじゃねえか。俺は間違ってねえ!」
その声が遠ざかっていく。
屋敷の外で、クルマのドアを閉めるバタンという音がした。
エンジン音が響き、それが小さくなると、辺りにまた静寂が戻ってきた。
香苗が戸惑ったように美由紀を見た。「あの人の言ってたこと……間違いだったの?」
美由紀は唸《うな》った。「たぶんコリオリの力ってのを読みかじったんだろうけど……。地球が自転している影響で慣性力が働いて、台風の渦は北半球では反時計回り、南半球では時計回りになる。けれど、洗面台みたいな小さな渦ではコリオリの力はまず無関係」
咲子は椅子に腰掛けたまま、顔をしかめてつぶやいた。「馬鹿な男よ。スピリチュアル・カウンセラーとしても駆けだしだったけど、予知能力があるなんてふかしといて、あの体たらくじゃね。連れていかれて当然よ」
彼も占い師の類《たぐ》いだった。
ふと、美由紀のなかにおぼろげに浮かびあがった思考が、ひとつのかたちをとりはじめた。
「そうか」美由紀はいった。「ペルスペクティヴ、ヴォヤンセ、クレヤボヤンス。それに千里眼……。テレビに出てた超能力者もさっき見かけた。ここに集められたのは、透視とかそういう特殊能力があるとされてる人ばかりなのね」
眉《まゆ》をひそめて咲子は美由紀を見つめてきた。「いまごろわかったの?」
「香苗さんは、わたしに同行したせいで一緒に拉致《らち》された……。ほかにもそういう人がいるかもしれないけど、主宰者の本来の目的は、超能力者を招集することにあった。わたしは超能力者じゃないけど……」
「ええ、そうね。あなたは違うわよね、そんなに鈍いんですもの。そのうち、さっきの人たちが現れて、あなたも連行されることでしょうよ。すでに大勢の人間が、能力のなさを露呈して連れ去られていったから。あなたも不用意な発言には気をつけることね」
「……そう、なるほどね。ここにいる人たちが、やたらと無口だった理由がようやくわかったわ。質問に答えてくれないのも、そのせいだったのね。自分が無知だとバレたら、超能力者じゃないってことが証明され、ただちに排除されてしまう。ここにいるうちにその掟《おきて》を理解し学習したから、みんなおとなしくしているのね」
「いまさらそんなことを……」咲子は忌々しそうにいった。「どうしてあなたはまだ連行されないのかしら」
「わたしは気づいたことを話しているだけで、わからないことがあるなんて口にしていないからでしょ。地下のコントロールセンターでは、ペルスペクティヴのBとか、ヴォヤンセのCとかそれぞれに呼び名をつけて、言動を逐一観察してる。能力がないことをしめす確実な失言がないかぎり、連行の対象にはならない」
「つまり、わたしとあなたのどちらかが、いずれ連行される運命ね。わたしは香苗さんのトラウマを正確に見抜いたし、あなたはそれを否定してる。もちろん、連れて行かれるのはあなたよ」
「トラウマの原因を本人の親とすれば、本人は罪の意識から逃れられるし、すべてを親のせいにできるから、本人はとっても気が楽になるのよね。そういう聞き心地のいい話をしてくれるカウンセラーを万能視して心酔しがちになるし、カウンセラーの側はつじつま合わせの過去を語るだけで尊敬を得られる。倒錯した相互依存の関係よね。そんなものは宗教でしかない。カウンセリングとはまったく別物」
「たわごとは聞き飽きたわ。礼儀作法も心得ない小娘が、千里眼だなんてね。冗談もほどほどにしてもらいたいわ」
「厳島先生はちっとも、わたしの実像を見抜いてくれないのね」
「あなたこそ、なにも見抜けてないじゃないの、岬さん」
美由紀は沈黙し、咲子をじっと見つめた。
虚勢を張っている目。瞳孔《どうこう》が開いている。頬も痙攣《けいれん》している。
こんな局面で自律神経系の交感神経が優位となり、過剰な緊張と興奮に包まれていることからも、厳島咲子は嘘つきだとわかる。わたしにしてみれば、表情を見れば一瞬にしてわかる。
咲子は、これ以上美由紀と張りあうのは苦痛と感じたのか、雌雄を決するような提言を口にした。「もしわたしの考えていることをあなたが言い当てたのなら、わたしはこの身につけている宝石をすべてあなたにあげるわよ」
瞬間的に頭に浮かんだ言葉を、美由紀は発した。「いいわ。あなたの心理状態を言い当ててあげる。あなたはわたしに、宝石をくれるつもりはない」
「なによそれ」咲子は勝ち誇ったように笑った。「あいにくわたしは……」
ところがそのとき、またしてもサイレンが響き渡った。
クルマのエンジン音が聞こえて、すぐに憲兵隊がどかどかと居間に踏みこんできた。
「ああ」咲子は椅子の背に身をあずけて、ふんぞりかえった。「岬さん。お迎えがきたみたいよ」
しかし、憲兵隊は美由紀ではなく、咲子の椅子を取り囲むようにして詰め寄った。
まだ咲子には手をかけないものの、拳銃の銃口は咲子に突きつけられている。
「ちょっと!」咲子はあわてたようすで怒鳴った。「なんなのこれ! なんでわたしなのよ。違うでしょ、あっちでしょ!」
憲兵隊は押し黙ったまま、無表情に咲子を見据えるばかりだった。
美由紀はいった。「あなたが宝石を渡すのを渋った瞬間、あなたは確実に連行されることになる。彼らは、その準備をしてるのよ」
「ど……どういうことよ、それ」
「厳島先生の考えていることをわたしが言い当てたら、宝石をくれるって言ったわよね。そしてわたしは、先生はわたしに宝石をくれるつもりはない、そう告げた。もしわたしが言ったことが当たっていたのなら、約束どおりに宝石をもらうことになる。でも外れていたとしたら、先生はわたしに宝石をあげるつもりがあるってことになるから、宝石を渡さざるをえない。どっちに転んでも宝石を渡さなければ、あなたはただの嘘つきになる。このゲームの主宰者が求めている人材でないことがはっきりする」
「な……。それは……わたしを騙《だま》したのね!」
「ふうん。霊能力のあるスピリチュアル・カウンセラーも騙されることがあるの?」
咲子は小刻みに身を震わせていたが、危機を逃れるには宝石を手放すしかないと悟ったらしい。指輪を次々に外してテーブルクロスの上に置き、それからブレスレット、さらにペンダントやネックレスまでを放りだした。最後にクロスの四方を結んで袋状にして封じこめ、美由紀に投げて寄越した。
だが、その作業が終わったとたん、憲兵隊は咲子の両腕をつかんで引き立たせた。
「なにするの!」咲子は悲鳴のように叫んだ。「宝石はあげたじゃないの」
美由紀は告げた。「わたしの罠《わな》が見抜けなかったことで、失格と見なされたのよ」
顔を真っ赤にして、咲子はもがきながら怒鳴った。「畜生、この女! よくも嵌《は》めたわね。あんたなんか地獄に堕《お》ちればいいのよ!」
罵声《ばせい》は果てしなくつづきそうだった。憲兵隊が連行しようとするが、咲子も床に座りこんで抵抗を試みている。
騒動を見物する趣味はない。美由紀は香苗の肩に手をかけた。「いきましょう」
「あ……でも……」香苗は咲子を振りかえり、抵抗の素振りをみせた。
「香苗さん、お願いだからわたしを信じて。あなたが日々感じる辛《つら》さは、決して抑圧された記憶のせいなんかじゃないの」
「ええ……。わかった、外に出るわ」
香苗はそういって歩きだしながらも、しきりに咲子を気にかけているらしく、ときおり後ろを振り向いていた。
好ましくないことだと美由紀は思った。香苗は、劇的な感動を煽《あお》るトラウマ論に魅せられつつある。できるだけ早急に真実を受けいれさせないと、記憶回復療法に依存しがちになってしまう。いっこうに症状を回復できない、袋小路に迷いこむ可能性がある。
まだ第三章の表示がでない。
赤い電話は見つけたし通話もした。それなのに、まだ次の章に進めない。なぜだろう。
考えるのが嫌になって、美由紀はゲーム機をポケットに捻《ね》じこんだ。
誰かが勝手にきめたルールだ、不本意だと思ったところで、どうしようもない。
視界が開けた。
羊が放牧されている牧場の脇に、大きな屋敷がある。風景のままの時代のデンマークなら、間違いなくこの辺り一帯の地主が住んでいる建物だろう。
広大な花壇に囲まれた、その瀟洒《しようしや》なつくりの屋敷に近づいていった。
すると、開け放たれた窓から、女の泣いている声が聞こえてくる。
その女に話しかける、しわがれた老婦の声がした。日本語だ。「そう。それがあなたの人生だったのね。でももう心配いらないから。過去がわかった以上、あなたはこのさき救われる」
「……けど」若い女の声は嗚咽《おえつ》のせいで途切れがちになっていた。「わたし……どうしたらいいのか……。お父さんはまだ都内に住んでるし……」
聞き覚えのある声だと気づいた。
美由紀は窓を覗《のぞ》きこんで、はっと息を呑んだ。「香苗さん」
居間のなかで椅子に腰掛けていた香苗が、こちらを見た。
涙を流したまま、香苗は大きく目を見開いた。「あ、岬先生」
「無事だったの。待ってて、いまいくから」美由紀は急いで屋敷の外を迂回《うかい》し、玄関から中に駆けこんだ。
これまで見てきたものとは比べものにならないほど、高価そうな調度品に彩られた通路を抜けて、美由紀は広々とした居間に入った。
香苗は椅子から立ちあがり、駆け寄ってきた。美由紀は思わず香苗を抱きしめた。「よかった……。香苗さん」
「岬先生。よくご無事で……」
とそのとき、美由紀は、室内にいるもうひとりの視線を感じて、顔をあげた。
いままで香苗と向かい合って座っていた、でっぷりと太った老婦。
身につけているものは一見して派手で、ラメの入ったドレスにペンダントやネックレスを何重にも首に巻き、手首にもきらびやかな宝石をちりばめたブレスレットの数々、そしてすべての指はリングとネイルアートに彩られている。
ショートカットにした白髪にはきれいにウェーブがかかっていて、そこだけ見れば上品ととれなくもないが、ほとんど歌舞伎役者も同然の厚化粧が趣味のよさを打ち消している。過剰に濃く引かれたアイラインのせいで、目もとは異常に鋭く見えた。
「あら」老婦は面白くもなさそうにつぶやいた。「お友達なの」
その見た目も喋《しやべ》り方も、美由紀にとって初めて見聞きするものではなかった。ただし、初対面であることに変わりはない。美由紀はテレビを通じてこの女を知っているだけだった。
香苗は涙をぬぐいながら、老婦にいった。「こちらは臨床心理士の岬美由紀先生です。岬先生、こちらの方は……」
「ええ、知ってる。厳島咲子《いつくしまさきこ》さんですね? 有名な占い師の」
「占い、というのはちょっと違うわね」咲子は嘲笑《ちようしよう》に似た笑いを浮かべた。「スピリチュアル・カウンセラーとでも呼んでもらおうかしら。もっとも、そういう呼称も最近では亜流が多すぎて、意味が曖昧《あいまい》になりつつあるけど」
「カウンセラー? 厳島先生はカウンセリングもするの?」
「ええ。いまも香苗さんのトラウマについて、その記憶を呼び覚ましていたところよ」
不穏な空気を感じながら、美由紀は香苗を見た。「なにをされたの? トラウマ論なんて科学的根拠がないって言ったのに……」
「ちがうのよ、岬先生」香苗はまじまじと美由紀を見つめた。「ほんとだったの。厳島先生と会話するうちに、記憶がよみがえってきて……。思いだすのも辛《つら》かった記憶が浮かんできて、ああ、これがわたしの心を蝕《むしば》んでる原因だったんだって、そう実感して……」
「それは勘違いなの。いい? 記憶なんて薄れていくものよ。楽しかったことも、辛かったことも、どちらもいまの人格形成に影響を与えていて当然なのよ。いま恵まれない状況にあったら、過去を振りかえって誰かを恨んだり、後悔したりすることもある。けれど、抑圧された記憶が無意識のうちに心の病……そう呼ぶのもほんとは正しくないけど、なんらかの疾患を引き起こすなんてのは俗説なのよ」
「だけどわたし、はっきり思いだしたの」香苗は瞳《ひとみ》を潤ませながら訴えてきた。「小さかったころに両親は離婚して……わたし、お父さんが住むマンションの一室にいて……。お父さんはわたしに酷《ひど》いことを……」
「ねえ香苗さん、聞いて。思いこみを暴走させるのはよくないわ。幼少のころの記憶はおぼろげになっているはずだし、それは抑圧されているんじゃなく、ただ忘れかけているだけなの。それを、さももっともらしい記憶回復療法のカウンセリングという体《てい》で言葉巧みに誘導されたら、想像も入り混じった偽の記憶を本物だと思いこんでしまうの。ひと昔前に流行《はや》った自分探しの旅なんて、ぜんぶそういう勘違いの産物だったのよ」
厳島咲子が口をはさんできた。「聞き捨てならない話ね。あなた、わたしを侮辱する気なの?」
「そうじゃないけど……。いえ。ある部分では、あなたは根本的に間違ってると思う」
「岬先生」香苗はすがるようにいった。「厳島先生の言葉はすべて的確だったの。わたしに悩みがあることもわかってたし、それが人間関係の悩みだってことも言い当てた」
「香苗さん。悩みのない人間なんていないし、悩みは総じて人間関係に起因するものよ。占い師っていうのは、そういう誰にでも当てはまる物言いで巧みに相手を信じさせてしまうの。心理学でいうバーナム効果っていう作用を利用してるのよ」
「ああ」咲子は口もとをゆがめた。「どこかで聞いた名だと思ったわ、岬美由紀さん。血液型で性格が分かれるのはナンセンスだとかなんとか、難癖をつけてた人ね。以前に新聞で読んだわ。千里眼って呼ばれてるんだって? それこそ信じられないけど」
「わたしは信奉者を得ようなんて思ってないの。占い師でもないしね。そういえば、血液型性格分類は占星術と並んで、厳島先生の十八番《おはこ》だったわね? 商売を邪魔されたとでも思った?」
「もちろん。なんて無知な女なんだろうって軽蔑《けいべつ》したわ」
「臨床心理学で否定されている俗説を、どうやって信じたらいいか教えてくれる?」
「あなたに教えることなんて何もないわよ。どうせ地獄に落ちるんだし」
「冥界《めいかい》にまで精通してるのね、先生は。なら、ここがどこかってことぐらい、当然お見通しよね?」
「当たり前でしょ」
「じゃ、どこなのか教えて」
「あなたにはわからないの? 千里眼なのに」
美由紀は口をつぐんだ。
妙に挑発的な態度。たんなる反発というより、立場の優劣を競いたがる敵愾心《てきがいしん》を感じさせる。
どうしてわたしと張りあおうとするのだろうか。この場でわたしを言い負かしたところで、さしたるメリットもないだろうに。
そのとき、水流の音がした。ドアが開いて、洗面所から男がでてきた。
顔を洗ったらしい。タオルを首から下げながら、その日本人の男はにやにやしながらきいてきた。「なにをそんなに反目しあってるんだい? なんなら、相手の心を読んだらどうなんだい?」
厳島咲子は男にいった。「わたしはとっくに、この岬さんとやらの心を見透かしてるわよ。エゴの固まり、意地っ張りで、自分を利口だと思っていて、嘘つき。それだけの人よ」
憤りを覚えて美由紀は咲子に言いかえした。「それってカミングアウトかしら。ぜんぶあなたにぴったり当てはまるんだけど」
「なんですって。この……」
「よしなよ」男は笑いながら仲裁に入ってきた。「きみ、岬さんっていうのか。なにか厳島先生に聞きたいことでも? 俺が代わりに答えてやるよ」
「……さっき聞いたのは、ここがどこかってこと」
「どこかって? そんなの、この街にたむろしている連中なら誰でも見抜けているだろうぜ? まあ、もしきみが間違っていたら、正解を教えてしまうのは癪《しやく》だからな。おおざっぱに、南半球とだけは言っておこう」
南半球。男は自信たっぷりにそういった。なぜそう言いきれるのだろう。彼は、なんらかの情報をつかんでいるのか。
そのとき、だしぬけにサイレンが響き渡った。
一瞬の間をおいて、屋敷のなかに踏みこんでくるあわただしい足音がした。
居間に駆けこんできた一群は、あの中世もしくは近世の兵士ではなく、ナチス・ドイツの憲兵隊を思わせる深緑の制服に身を包んだ連中だった。腰のホルスターから拳銃《けんじゆう》を抜き、男にいっせいに襲いかかる。
男はびくつき、逃げだそうとしたが、すぐに憲兵隊に取り押さえられた。両腕をねじりあげられ、床にひきずられながら外へと連行されていく。
「なぜだ!?」男は怯《おび》えきった表情で叫んでいた。「どうして駄目なんだ。南半球だろ? 間違ってないはずだろ? 洗面所の水が時計回りに渦巻いてたじゃねえか。俺は間違ってねえ!」
その声が遠ざかっていく。
屋敷の外で、クルマのドアを閉めるバタンという音がした。
エンジン音が響き、それが小さくなると、辺りにまた静寂が戻ってきた。
香苗が戸惑ったように美由紀を見た。「あの人の言ってたこと……間違いだったの?」
美由紀は唸《うな》った。「たぶんコリオリの力ってのを読みかじったんだろうけど……。地球が自転している影響で慣性力が働いて、台風の渦は北半球では反時計回り、南半球では時計回りになる。けれど、洗面台みたいな小さな渦ではコリオリの力はまず無関係」
咲子は椅子に腰掛けたまま、顔をしかめてつぶやいた。「馬鹿な男よ。スピリチュアル・カウンセラーとしても駆けだしだったけど、予知能力があるなんてふかしといて、あの体たらくじゃね。連れていかれて当然よ」
彼も占い師の類《たぐ》いだった。
ふと、美由紀のなかにおぼろげに浮かびあがった思考が、ひとつのかたちをとりはじめた。
「そうか」美由紀はいった。「ペルスペクティヴ、ヴォヤンセ、クレヤボヤンス。それに千里眼……。テレビに出てた超能力者もさっき見かけた。ここに集められたのは、透視とかそういう特殊能力があるとされてる人ばかりなのね」
眉《まゆ》をひそめて咲子は美由紀を見つめてきた。「いまごろわかったの?」
「香苗さんは、わたしに同行したせいで一緒に拉致《らち》された……。ほかにもそういう人がいるかもしれないけど、主宰者の本来の目的は、超能力者を招集することにあった。わたしは超能力者じゃないけど……」
「ええ、そうね。あなたは違うわよね、そんなに鈍いんですもの。そのうち、さっきの人たちが現れて、あなたも連行されることでしょうよ。すでに大勢の人間が、能力のなさを露呈して連れ去られていったから。あなたも不用意な発言には気をつけることね」
「……そう、なるほどね。ここにいる人たちが、やたらと無口だった理由がようやくわかったわ。質問に答えてくれないのも、そのせいだったのね。自分が無知だとバレたら、超能力者じゃないってことが証明され、ただちに排除されてしまう。ここにいるうちにその掟《おきて》を理解し学習したから、みんなおとなしくしているのね」
「いまさらそんなことを……」咲子は忌々しそうにいった。「どうしてあなたはまだ連行されないのかしら」
「わたしは気づいたことを話しているだけで、わからないことがあるなんて口にしていないからでしょ。地下のコントロールセンターでは、ペルスペクティヴのBとか、ヴォヤンセのCとかそれぞれに呼び名をつけて、言動を逐一観察してる。能力がないことをしめす確実な失言がないかぎり、連行の対象にはならない」
「つまり、わたしとあなたのどちらかが、いずれ連行される運命ね。わたしは香苗さんのトラウマを正確に見抜いたし、あなたはそれを否定してる。もちろん、連れて行かれるのはあなたよ」
「トラウマの原因を本人の親とすれば、本人は罪の意識から逃れられるし、すべてを親のせいにできるから、本人はとっても気が楽になるのよね。そういう聞き心地のいい話をしてくれるカウンセラーを万能視して心酔しがちになるし、カウンセラーの側はつじつま合わせの過去を語るだけで尊敬を得られる。倒錯した相互依存の関係よね。そんなものは宗教でしかない。カウンセリングとはまったく別物」
「たわごとは聞き飽きたわ。礼儀作法も心得ない小娘が、千里眼だなんてね。冗談もほどほどにしてもらいたいわ」
「厳島先生はちっとも、わたしの実像を見抜いてくれないのね」
「あなたこそ、なにも見抜けてないじゃないの、岬さん」
美由紀は沈黙し、咲子をじっと見つめた。
虚勢を張っている目。瞳孔《どうこう》が開いている。頬も痙攣《けいれん》している。
こんな局面で自律神経系の交感神経が優位となり、過剰な緊張と興奮に包まれていることからも、厳島咲子は嘘つきだとわかる。わたしにしてみれば、表情を見れば一瞬にしてわかる。
咲子は、これ以上美由紀と張りあうのは苦痛と感じたのか、雌雄を決するような提言を口にした。「もしわたしの考えていることをあなたが言い当てたのなら、わたしはこの身につけている宝石をすべてあなたにあげるわよ」
瞬間的に頭に浮かんだ言葉を、美由紀は発した。「いいわ。あなたの心理状態を言い当ててあげる。あなたはわたしに、宝石をくれるつもりはない」
「なによそれ」咲子は勝ち誇ったように笑った。「あいにくわたしは……」
ところがそのとき、またしてもサイレンが響き渡った。
クルマのエンジン音が聞こえて、すぐに憲兵隊がどかどかと居間に踏みこんできた。
「ああ」咲子は椅子の背に身をあずけて、ふんぞりかえった。「岬さん。お迎えがきたみたいよ」
しかし、憲兵隊は美由紀ではなく、咲子の椅子を取り囲むようにして詰め寄った。
まだ咲子には手をかけないものの、拳銃の銃口は咲子に突きつけられている。
「ちょっと!」咲子はあわてたようすで怒鳴った。「なんなのこれ! なんでわたしなのよ。違うでしょ、あっちでしょ!」
憲兵隊は押し黙ったまま、無表情に咲子を見据えるばかりだった。
美由紀はいった。「あなたが宝石を渡すのを渋った瞬間、あなたは確実に連行されることになる。彼らは、その準備をしてるのよ」
「ど……どういうことよ、それ」
「厳島先生の考えていることをわたしが言い当てたら、宝石をくれるって言ったわよね。そしてわたしは、先生はわたしに宝石をくれるつもりはない、そう告げた。もしわたしが言ったことが当たっていたのなら、約束どおりに宝石をもらうことになる。でも外れていたとしたら、先生はわたしに宝石をあげるつもりがあるってことになるから、宝石を渡さざるをえない。どっちに転んでも宝石を渡さなければ、あなたはただの嘘つきになる。このゲームの主宰者が求めている人材でないことがはっきりする」
「な……。それは……わたしを騙《だま》したのね!」
「ふうん。霊能力のあるスピリチュアル・カウンセラーも騙されることがあるの?」
咲子は小刻みに身を震わせていたが、危機を逃れるには宝石を手放すしかないと悟ったらしい。指輪を次々に外してテーブルクロスの上に置き、それからブレスレット、さらにペンダントやネックレスまでを放りだした。最後にクロスの四方を結んで袋状にして封じこめ、美由紀に投げて寄越した。
だが、その作業が終わったとたん、憲兵隊は咲子の両腕をつかんで引き立たせた。
「なにするの!」咲子は悲鳴のように叫んだ。「宝石はあげたじゃないの」
美由紀は告げた。「わたしの罠《わな》が見抜けなかったことで、失格と見なされたのよ」
顔を真っ赤にして、咲子はもがきながら怒鳴った。「畜生、この女! よくも嵌《は》めたわね。あんたなんか地獄に堕《お》ちればいいのよ!」
罵声《ばせい》は果てしなくつづきそうだった。憲兵隊が連行しようとするが、咲子も床に座りこんで抵抗を試みている。
騒動を見物する趣味はない。美由紀は香苗の肩に手をかけた。「いきましょう」
「あ……でも……」香苗は咲子を振りかえり、抵抗の素振りをみせた。
「香苗さん、お願いだからわたしを信じて。あなたが日々感じる辛《つら》さは、決して抑圧された記憶のせいなんかじゃないの」
「ええ……。わかった、外に出るわ」
香苗はそういって歩きだしながらも、しきりに咲子を気にかけているらしく、ときおり後ろを振り向いていた。
好ましくないことだと美由紀は思った。香苗は、劇的な感動を煽《あお》るトラウマ論に魅せられつつある。できるだけ早急に真実を受けいれさせないと、記憶回復療法に依存しがちになってしまう。いっこうに症状を回復できない、袋小路に迷いこむ可能性がある。