絵を仕上げたころには、陽は傾きだしていた。
わずかに赤みを帯びてきた空、崖《がけ》の岩肌、そして教会やドームといった建物の外壁。いろは変わっても、描くべき対象は常にそこにありつづけた。
「きれい」と香苗が感嘆したようにいった。「やっぱり絵も巧《うま》いんですね、岬先生」
「どうかな。美術の先生がなんて言うか」美由紀は筆を置くと、キャンバスを手にして立ちあがった。
ベレー帽の男は部屋の隅で手持ち無沙汰《ぶさた》げにたたずんでいた。美由紀が歩み寄っていくと、男は大仰なほどの愛想《あいそ》笑いを浮かべた。
「ついに完成しましたか。では拝見」と男は両手を差し伸べてきた。
美由紀は黙ってキャンバスを男に渡した。
「ほう」男は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。「これは……写実主義ではないですな。どちらかといえば、モネやルノワールのような印象派だ」
「ええ。意識的にそうしたの。光の動きや変化の質感を表現することに重きをおくのが印象派。与えられた課題にはぴったりだと思うけど」
男はしばし絵を眺めていたが、やがてその目を大きく見開き、興奮したようにいった。「見事! この完成度の高さ。まさに芸術の域。文句なしの五つ星ですな!」
「それ合格ってこと?」
「さて……ね。私はここで絵画を評価するだけが仕事でして。ゲーム全体についての評定は、直接あなたの携帯ゲーム機に伝えられることでしょう。この絵を持って橋にお行きなさい。すべてはそこでわかるでしょう!」
わずかに赤みを帯びてきた空、崖《がけ》の岩肌、そして教会やドームといった建物の外壁。いろは変わっても、描くべき対象は常にそこにありつづけた。
「きれい」と香苗が感嘆したようにいった。「やっぱり絵も巧《うま》いんですね、岬先生」
「どうかな。美術の先生がなんて言うか」美由紀は筆を置くと、キャンバスを手にして立ちあがった。
ベレー帽の男は部屋の隅で手持ち無沙汰《ぶさた》げにたたずんでいた。美由紀が歩み寄っていくと、男は大仰なほどの愛想《あいそ》笑いを浮かべた。
「ついに完成しましたか。では拝見」と男は両手を差し伸べてきた。
美由紀は黙ってキャンバスを男に渡した。
「ほう」男は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。「これは……写実主義ではないですな。どちらかといえば、モネやルノワールのような印象派だ」
「ええ。意識的にそうしたの。光の動きや変化の質感を表現することに重きをおくのが印象派。与えられた課題にはぴったりだと思うけど」
男はしばし絵を眺めていたが、やがてその目を大きく見開き、興奮したようにいった。「見事! この完成度の高さ。まさに芸術の域。文句なしの五つ星ですな!」
「それ合格ってこと?」
「さて……ね。私はここで絵画を評価するだけが仕事でして。ゲーム全体についての評定は、直接あなたの携帯ゲーム機に伝えられることでしょう。この絵を持って橋にお行きなさい。すべてはそこでわかるでしょう!」
美由紀はキャンバスを小脇に抱えながら、香苗とともに丘を下り、峡谷に架かる橋に近づいていった。
夕陽に赤く染まったその橋の手前、兵士たちは左右の隊列に分かれて向かい合わせに立ち、道をあけている。
「どうやら、合格者になりえたようね」と美由紀は歩きながらつぶやいた。
「合格したんですか?」香苗が驚いたようにきいた。「ってことは、第四章まででゲームは終わりってこと?」
「いいえ。たぶん第五章も第六章もあるんでしょう。微妙な結果なら憲兵隊にも連れ去られることなく、いつまでもゲームにつきあわされる羽目になる。でもわたしは、抜けることができた。彼らに認めさせたから」
「彼らって……?」
橋のすぐ近くまで来た。
兵士はアイーダトランペットを空に向けて、ファンファーレを奏でた。
それとほぼ同調して、ゲーム機も同じメロディを鳴らしているのがわかる。液晶画面を見ると、日本語の表示がでていた。
�祝・合格!�
思わずため息が漏れる。やっとのことでクリヤーか。
橋に歩を進め、香苗も後をついてくる。が、そのとき、兵士たちが動いた。
美由紀の背後で槍《やり》がX字に突きあわされる。香苗はその向こうで、びくついて立ちつくしていた。
「なにをするの?」と美由紀はいった。
兵士は美由紀をじろりと見て、つぶやくように告げてきた。「ここから先は、合格者以外立ち入り禁止です」
「彼女はわたしの連れよ」
「なりません。こちらでお待ちいただいたうえで、先に祖国にお帰りいただくこととなります」
「日本へ? ……彼女の安全を保証できる?」
「もちろんです。われわれが責任を持ってロシア共和国内の空港までお連れします」
香苗が心配そうな顔でつぶやいた。「岬先生……」
「怖がらないで。わたしが主宰者の目的に気づいた以上、友達であるあなたに手出しできるはずないわ」
「それ……どういうこと? ここのゲームって、いったい何だったの?」
美由紀は黙って香苗を見つめた。
彼女には打ち明けられない。
秘密を知れば、危険にさらされることもあるだろう。何も知らないままなら、安全に帰国できる可能性も高い。それ以外に、選ぶべき道はない。
「わたしを信じて」と美由紀はいった。「先に日本に帰って、臨床心理士会に連絡をして。住所を伝えてくれれば、わたしも帰国しだい、すぐにあなたのところに行くから。わたしがあなたのカウンセリングをして、症状を改善できるように最大限の努力をする。だから、決して記憶回復療法に頼ろうなんて思わないで。厳島咲子みたいな人に頼ろうと思っちゃだめよ。わかった?」
香苗の目には、かすかな当惑のいろが浮かんでいた。
それでも、香苗はうなずいた。「ええ。岬先生も、気をつけて……」
美由紀はうなずくと、踵《きびす》をかえして橋を渡りだした。
本当は、香苗を残していきたくない。
彼女はまだ迷っている。苦痛から逃れたいあまり、奇跡にすがりたい願望をのぞかせている。そもそもわたしを頼ってきたのも、千里眼という評判を聞きつけたからだろう。
だが、彼女に必要なのは宗教的な信仰心ではない。症状を改善するための適切な指導と療法が施されることだ。
香苗のためにも、まずはこの場の責務を果たして、無事に帰国することが最優先だった。
このふざけたパーティーにつきあわされたのは不愉快きわまりなかったが、真実を知りえたことはそれなりに価値がある。
長い橋を渡り終えると、森のなかに敷かれた石畳の道が教会へとつづいていた。
美由紀は手にしていたキャンバスを眺めた。さっき自分が描いた絵と、現実を見比べてみる。
あのパラボラアンテナが建つドームへの道は、いまのところ見えない。順路に従って巡るべしというところか。
まずは教会だ。美由紀は石畳の上を歩きつづけた。
ローマ様式の影響を受けたとおぼしきアーチ状の門をくぐって、石造りの巨大な教会に近づいていく。
赤く染まった空の下にそびえる教会はどことなく不気味だった。石に刻まれた羊や馬のレリーフの陰影が奇妙に現実味を帯びて、いまにも飛びだしてきそうに思える。
礼拝堂の観音開きの扉は開いていた。美由紀がそのなかに入ると、扉は背後で自動的に閉じた。
ステンドグラスからわずかに夕陽が差しこむ薄暗い礼拝堂。
正面の祭壇に向かって無数の椅子が設置されている。ロシア正教ではなく、デンマークのキリスト教プロテスタントの趣が濃い。
無人に思われた礼拝堂のなかには、離れた場所に座るふたりの男の姿があった。ふたりとも、こちらを振りかえっている。
顎《あご》ひげをたくわえた男は「放送ノチカラ」の超能力者、スピン・ラドック。もうひとりの金髪の青年は、噴水の前で出会ったフランス人だった。
ラドックはふんと鼻で笑った。「|三人目は若い東洋人女性か《ザ・サードパーソン・イズ・ア・ヤング・アジアンウーマン》」
「|岬美由紀です《アイム・ミサキミユキ》。|どうぞよろしく《マイベスト・リガーズ》」美由紀はフランス人青年に目を移した。「|さっきはどうも《ヌザヴオン・オンコウ・ホンコントレ》。わたしは……」
「|英語なら話せるよ《アイキヤン・スピーク・イングリツシユ》」青年は立ちあがった。「ユベール・ボードォワールだ。きみ日本人?」
「ええ、そうだけど」
「きみもお国で透視能力があるなんて思われてるのかい?」
「いえ……。そんなふうに過大評価してる人がいるみたいだけど、わたしは普通の人間よ」
「僕もさ。ここに連れてこられた理由を知ったときには愕然《がくぜん》としたよ。超能力者だなんて非現実的な……」
「つまり」ラドックが口をはさんだ。「きみらはエセ超能力者ということだな。結果は知れていたが、私以外には本物はいなかったということだ」
「なにが本物だよ」ユベールはラドックにいった。「知ってるぞ。アメリカの大衆紙にいんちきを暴かれただろ。FBIに捜査協力したってのもでたらめで、じつは近所の窃盗事件がらみで刑事があんたの家に聞き込みにきたってだけらしいな。自分の国じゃ稼げなくなったんで、あちこちに海外出張か。一生を詐欺師同然に暮らすわけだ。泣かせるね」
ラドックは憤りのいろを浮かべて立ちあがった。「相手を見てものを言うんだな。私は実際に……」
と、ふいに低い声が響き渡った。「静粛に」
美由紀は辺りを見まわした。
三人以外、礼拝堂のなかには誰もいない。
「岬美由紀。歓迎する」声は祭壇から聞こえていた。「ファントム・クォーターでのテストには合格したわけだが、きみの口から正解が告げられないかぎり、千里眼と認めるわけにはいかない。いまこの場で説明してもらおう。何を見て、何に気づいたかを」
ユベールが美由紀にささやいた。「僕たちはもう答えたよ。きみの番ってことだ」
祭壇に向き直り、美由紀はいった。「その前に約束して。わたしの友達を無事に日本に帰すって」
「問題ない。というより、途中で失格となり連行された者たちも含め、われわれの求めていない人材はすべて迅速に祖国にお帰り願うことになっている。この島からは定期的に船がでていて、彼らはロシア本土に運ばれ、飛行機で各国に強制送還となる。事実を知る者たちでない以上、彼らが社会生活に復帰してもわれわれとしてはなんの支障もないからだ」
「ってことは、わたしたちは違うの? 事実を知ったがゆえに危険分子となったとか?」
「それは、きみの答えいかんによる」
「そう……。じゃ、説明してあげるわ。あなたたちは世界じゅうから透視能力があるとされる人々をさらってきて、この場所に集めて、ある特定の物を発見できる人間が何人いるかを確かめようとした。その物っていうのは、財宝なんかじゃない。ニコライ二世のいったロマノフの財宝なんてものは、強いて言うならシベリア平原に埋まっている石油や石炭のことで、金塊でもなければ骨董《こつとう》品でもない。貧困に窮するロシア政府はそれらを知りつつも、掘りだすだけの財力がない。こんなこと、いまどき新聞を読んでいれば誰でも知ってることよ」
「よかろう。ではわれわれはきみらになにを探させようとしてたんだね」
「それは」美由紀はキャンバスをしめし、絵の一箇所を指差した。「これよ」
ユベールとラドックが振りかえり、美由紀のキャンバスを見つめる。
美由紀はいった。「教会の鐘塔に、鐘はない。なにもないように見えるけど、じつはここにある物体が存在する。ほとんど透明なので、ふつう肉眼では見極められないけど」
「そう」ユベールがうなずいた。「高さ五メートル、直径五十センチぐらいの円筒のガラスがぶら下がってる。クリスタルかな。とても透き通ってて、ほんのわずかな光の反射ぐあいでわかるていどだ。その絵、よく描けてるよ。わざと誇張して描いたんだろうけど、たしかにそんなふうに陽射しを反射して外郭が浮かびあがってた」
「褒めてくれてありがとう」美由紀は微笑してみせた。「ただし、これはクリスタルガラスじゃないの。トマホークミサイルに被《かぶ》せるカバー。東大生が開発したフレキシブル・ペリスコープを〇・五ミリの極細の繊維状にして、光を物体側面に迂回《うかい》させ向こう側に通すことで、何もないように見せかけてる。いうなれば対肉眼《アゲンスト・ネイクドアイ》ステルスね」
「なんだって?」ユベールが驚きのいろを浮かべた。
ラドックも同様に面食らった顔をしていた。
すなわちこのふたりは、鐘塔の物体には気づいたものの、その正体までは知りえていなかったのだろう。
祭壇の脇の扉が開いた。
落ち着いた足どりで礼拝堂に入ってきたのは、三人の黒スーツ姿の男だった。
ひとりは長身で初老の白人。それからプロレスラーのように体格のいい猪首《いくび》の男。そして東洋人の血が混じっているとおぼしき背の低い男だった。
美由紀はその小男に告げた。「また会ったわね、ウェルダン。鶏の首はもういいの?」
小男は目を見開いた。「あ……。なぜわかった?」
「そりゃ体型がまったく同じだもの。気づかないほうが変でしょ」
背の高いリーダー格の男は、頬に傷のような縦じわを無数に刻みこんだ、凄《すご》みのある面持ちをしていた。
男は英語で告げてきた。「驚くべき解答だよ、岬美由紀。初めてお目にかかる。私はベレゾフスキー・ベルデンニコフだ。この用心棒のような男はボブロフ。それから、すでにご挨拶《あいさつ》済みのウェルダン。彼は日本語通訳スタッフとして雇用してるんだが、きみには必要なかったみたいだな」
「いいえ。役には立ったわ。鶏のお面のせいで顔は見えなかったけど、声が震えてたから嘘も見抜きやすかったし」
ベルデンニコフはウェルダンをじろりと見やった。ウェルダンは怯《おび》えたように、巨漢のボブロフの陰に隠れてちぢこまった。
超能力者のラドックがこわばった顔でつぶやいた。「ベルデンニコフ……。まさかロシアン・マフィアのベルデンニコフ一家?」
「そうだとも」ベルデンニコフは醒《さ》めた目をラドックに向けた。「とっくにご存じかと思ったがね。迷宮入りした事件の真犯人を超能力で見抜くことができるスピン・ラドック氏のことだから、私の正体ぐらいは」
「いや……」ラドックは口ごもった。「それは……まあ」
「では諸君」ベルデンニコフは後方の扉を指ししめした。「こちらへどうぞ。くだんの物体をお目にかけようじゃないか」
夕陽に赤く染まったその橋の手前、兵士たちは左右の隊列に分かれて向かい合わせに立ち、道をあけている。
「どうやら、合格者になりえたようね」と美由紀は歩きながらつぶやいた。
「合格したんですか?」香苗が驚いたようにきいた。「ってことは、第四章まででゲームは終わりってこと?」
「いいえ。たぶん第五章も第六章もあるんでしょう。微妙な結果なら憲兵隊にも連れ去られることなく、いつまでもゲームにつきあわされる羽目になる。でもわたしは、抜けることができた。彼らに認めさせたから」
「彼らって……?」
橋のすぐ近くまで来た。
兵士はアイーダトランペットを空に向けて、ファンファーレを奏でた。
それとほぼ同調して、ゲーム機も同じメロディを鳴らしているのがわかる。液晶画面を見ると、日本語の表示がでていた。
�祝・合格!�
思わずため息が漏れる。やっとのことでクリヤーか。
橋に歩を進め、香苗も後をついてくる。が、そのとき、兵士たちが動いた。
美由紀の背後で槍《やり》がX字に突きあわされる。香苗はその向こうで、びくついて立ちつくしていた。
「なにをするの?」と美由紀はいった。
兵士は美由紀をじろりと見て、つぶやくように告げてきた。「ここから先は、合格者以外立ち入り禁止です」
「彼女はわたしの連れよ」
「なりません。こちらでお待ちいただいたうえで、先に祖国にお帰りいただくこととなります」
「日本へ? ……彼女の安全を保証できる?」
「もちろんです。われわれが責任を持ってロシア共和国内の空港までお連れします」
香苗が心配そうな顔でつぶやいた。「岬先生……」
「怖がらないで。わたしが主宰者の目的に気づいた以上、友達であるあなたに手出しできるはずないわ」
「それ……どういうこと? ここのゲームって、いったい何だったの?」
美由紀は黙って香苗を見つめた。
彼女には打ち明けられない。
秘密を知れば、危険にさらされることもあるだろう。何も知らないままなら、安全に帰国できる可能性も高い。それ以外に、選ぶべき道はない。
「わたしを信じて」と美由紀はいった。「先に日本に帰って、臨床心理士会に連絡をして。住所を伝えてくれれば、わたしも帰国しだい、すぐにあなたのところに行くから。わたしがあなたのカウンセリングをして、症状を改善できるように最大限の努力をする。だから、決して記憶回復療法に頼ろうなんて思わないで。厳島咲子みたいな人に頼ろうと思っちゃだめよ。わかった?」
香苗の目には、かすかな当惑のいろが浮かんでいた。
それでも、香苗はうなずいた。「ええ。岬先生も、気をつけて……」
美由紀はうなずくと、踵《きびす》をかえして橋を渡りだした。
本当は、香苗を残していきたくない。
彼女はまだ迷っている。苦痛から逃れたいあまり、奇跡にすがりたい願望をのぞかせている。そもそもわたしを頼ってきたのも、千里眼という評判を聞きつけたからだろう。
だが、彼女に必要なのは宗教的な信仰心ではない。症状を改善するための適切な指導と療法が施されることだ。
香苗のためにも、まずはこの場の責務を果たして、無事に帰国することが最優先だった。
このふざけたパーティーにつきあわされたのは不愉快きわまりなかったが、真実を知りえたことはそれなりに価値がある。
長い橋を渡り終えると、森のなかに敷かれた石畳の道が教会へとつづいていた。
美由紀は手にしていたキャンバスを眺めた。さっき自分が描いた絵と、現実を見比べてみる。
あのパラボラアンテナが建つドームへの道は、いまのところ見えない。順路に従って巡るべしというところか。
まずは教会だ。美由紀は石畳の上を歩きつづけた。
ローマ様式の影響を受けたとおぼしきアーチ状の門をくぐって、石造りの巨大な教会に近づいていく。
赤く染まった空の下にそびえる教会はどことなく不気味だった。石に刻まれた羊や馬のレリーフの陰影が奇妙に現実味を帯びて、いまにも飛びだしてきそうに思える。
礼拝堂の観音開きの扉は開いていた。美由紀がそのなかに入ると、扉は背後で自動的に閉じた。
ステンドグラスからわずかに夕陽が差しこむ薄暗い礼拝堂。
正面の祭壇に向かって無数の椅子が設置されている。ロシア正教ではなく、デンマークのキリスト教プロテスタントの趣が濃い。
無人に思われた礼拝堂のなかには、離れた場所に座るふたりの男の姿があった。ふたりとも、こちらを振りかえっている。
顎《あご》ひげをたくわえた男は「放送ノチカラ」の超能力者、スピン・ラドック。もうひとりの金髪の青年は、噴水の前で出会ったフランス人だった。
ラドックはふんと鼻で笑った。「|三人目は若い東洋人女性か《ザ・サードパーソン・イズ・ア・ヤング・アジアンウーマン》」
「|岬美由紀です《アイム・ミサキミユキ》。|どうぞよろしく《マイベスト・リガーズ》」美由紀はフランス人青年に目を移した。「|さっきはどうも《ヌザヴオン・オンコウ・ホンコントレ》。わたしは……」
「|英語なら話せるよ《アイキヤン・スピーク・イングリツシユ》」青年は立ちあがった。「ユベール・ボードォワールだ。きみ日本人?」
「ええ、そうだけど」
「きみもお国で透視能力があるなんて思われてるのかい?」
「いえ……。そんなふうに過大評価してる人がいるみたいだけど、わたしは普通の人間よ」
「僕もさ。ここに連れてこられた理由を知ったときには愕然《がくぜん》としたよ。超能力者だなんて非現実的な……」
「つまり」ラドックが口をはさんだ。「きみらはエセ超能力者ということだな。結果は知れていたが、私以外には本物はいなかったということだ」
「なにが本物だよ」ユベールはラドックにいった。「知ってるぞ。アメリカの大衆紙にいんちきを暴かれただろ。FBIに捜査協力したってのもでたらめで、じつは近所の窃盗事件がらみで刑事があんたの家に聞き込みにきたってだけらしいな。自分の国じゃ稼げなくなったんで、あちこちに海外出張か。一生を詐欺師同然に暮らすわけだ。泣かせるね」
ラドックは憤りのいろを浮かべて立ちあがった。「相手を見てものを言うんだな。私は実際に……」
と、ふいに低い声が響き渡った。「静粛に」
美由紀は辺りを見まわした。
三人以外、礼拝堂のなかには誰もいない。
「岬美由紀。歓迎する」声は祭壇から聞こえていた。「ファントム・クォーターでのテストには合格したわけだが、きみの口から正解が告げられないかぎり、千里眼と認めるわけにはいかない。いまこの場で説明してもらおう。何を見て、何に気づいたかを」
ユベールが美由紀にささやいた。「僕たちはもう答えたよ。きみの番ってことだ」
祭壇に向き直り、美由紀はいった。「その前に約束して。わたしの友達を無事に日本に帰すって」
「問題ない。というより、途中で失格となり連行された者たちも含め、われわれの求めていない人材はすべて迅速に祖国にお帰り願うことになっている。この島からは定期的に船がでていて、彼らはロシア本土に運ばれ、飛行機で各国に強制送還となる。事実を知る者たちでない以上、彼らが社会生活に復帰してもわれわれとしてはなんの支障もないからだ」
「ってことは、わたしたちは違うの? 事実を知ったがゆえに危険分子となったとか?」
「それは、きみの答えいかんによる」
「そう……。じゃ、説明してあげるわ。あなたたちは世界じゅうから透視能力があるとされる人々をさらってきて、この場所に集めて、ある特定の物を発見できる人間が何人いるかを確かめようとした。その物っていうのは、財宝なんかじゃない。ニコライ二世のいったロマノフの財宝なんてものは、強いて言うならシベリア平原に埋まっている石油や石炭のことで、金塊でもなければ骨董《こつとう》品でもない。貧困に窮するロシア政府はそれらを知りつつも、掘りだすだけの財力がない。こんなこと、いまどき新聞を読んでいれば誰でも知ってることよ」
「よかろう。ではわれわれはきみらになにを探させようとしてたんだね」
「それは」美由紀はキャンバスをしめし、絵の一箇所を指差した。「これよ」
ユベールとラドックが振りかえり、美由紀のキャンバスを見つめる。
美由紀はいった。「教会の鐘塔に、鐘はない。なにもないように見えるけど、じつはここにある物体が存在する。ほとんど透明なので、ふつう肉眼では見極められないけど」
「そう」ユベールがうなずいた。「高さ五メートル、直径五十センチぐらいの円筒のガラスがぶら下がってる。クリスタルかな。とても透き通ってて、ほんのわずかな光の反射ぐあいでわかるていどだ。その絵、よく描けてるよ。わざと誇張して描いたんだろうけど、たしかにそんなふうに陽射しを反射して外郭が浮かびあがってた」
「褒めてくれてありがとう」美由紀は微笑してみせた。「ただし、これはクリスタルガラスじゃないの。トマホークミサイルに被《かぶ》せるカバー。東大生が開発したフレキシブル・ペリスコープを〇・五ミリの極細の繊維状にして、光を物体側面に迂回《うかい》させ向こう側に通すことで、何もないように見せかけてる。いうなれば対肉眼《アゲンスト・ネイクドアイ》ステルスね」
「なんだって?」ユベールが驚きのいろを浮かべた。
ラドックも同様に面食らった顔をしていた。
すなわちこのふたりは、鐘塔の物体には気づいたものの、その正体までは知りえていなかったのだろう。
祭壇の脇の扉が開いた。
落ち着いた足どりで礼拝堂に入ってきたのは、三人の黒スーツ姿の男だった。
ひとりは長身で初老の白人。それからプロレスラーのように体格のいい猪首《いくび》の男。そして東洋人の血が混じっているとおぼしき背の低い男だった。
美由紀はその小男に告げた。「また会ったわね、ウェルダン。鶏の首はもういいの?」
小男は目を見開いた。「あ……。なぜわかった?」
「そりゃ体型がまったく同じだもの。気づかないほうが変でしょ」
背の高いリーダー格の男は、頬に傷のような縦じわを無数に刻みこんだ、凄《すご》みのある面持ちをしていた。
男は英語で告げてきた。「驚くべき解答だよ、岬美由紀。初めてお目にかかる。私はベレゾフスキー・ベルデンニコフだ。この用心棒のような男はボブロフ。それから、すでにご挨拶《あいさつ》済みのウェルダン。彼は日本語通訳スタッフとして雇用してるんだが、きみには必要なかったみたいだな」
「いいえ。役には立ったわ。鶏のお面のせいで顔は見えなかったけど、声が震えてたから嘘も見抜きやすかったし」
ベルデンニコフはウェルダンをじろりと見やった。ウェルダンは怯《おび》えたように、巨漢のボブロフの陰に隠れてちぢこまった。
超能力者のラドックがこわばった顔でつぶやいた。「ベルデンニコフ……。まさかロシアン・マフィアのベルデンニコフ一家?」
「そうだとも」ベルデンニコフは醒《さ》めた目をラドックに向けた。「とっくにご存じかと思ったがね。迷宮入りした事件の真犯人を超能力で見抜くことができるスピン・ラドック氏のことだから、私の正体ぐらいは」
「いや……」ラドックは口ごもった。「それは……まあ」
「では諸君」ベルデンニコフは後方の扉を指ししめした。「こちらへどうぞ。くだんの物体をお目にかけようじゃないか」