美由紀が島からの脱出を果たしてから、四日が過ぎていた。
市谷《いちがや》にある防衛省のA棟、内部部局のフロアにある会議室には見覚えがあった。現役のころにもたびたび呼ばれた。それらは常に、幕僚監部までもが火消しに奔走しなければならないほどの国際的な問題を、美由紀が引き起こしたときと相場がきまっていた。
たとえば、|F15パイロット《イーグルドライバー》としての最後の任務、日本海の不審船をめぐる応酬だ。美由紀は上官の制止を振りきって不審船の行方を追おうとした。北朝鮮の領空を侵犯したという抗議を受けて、美由紀はこの場に出頭を命じられ、内部部局と幕僚監部の面々を前に延々と叱責《しつせき》された。
そのときも、いまのように独りきりで長い時間待たされた。この部屋で過ごす憂鬱《ゆううつ》な時間。まさか自分の人生に戻ってくるとは夢にも思っていなかった。
ドアが開き、あわただしく入ってきたのは制服姿の広門友康空将だった。小脇に分厚いファイルの束を抱えている。
それから、以前にも顔を合わせた防衛計画課の佐々木という職員。ふたりとも苦い顔をしていた。
ファイルを乱暴にテーブルに置き、広門は苛立《いらだ》たしげにいった。「岬。私はきみを信頼していた。その私たちの協力を断っておいて、勝手に動くとはな。事態の収拾のためにどれだけ苦労したと思っている」
美由紀は立ちあがって敬礼しようと腰を浮かせていたが、広門がそれを待つようすもなく椅子に座ったため、また腰掛けざるをえなかった。
「広門空将」美由紀はいった。「あの島での出来事は、わたしが了承したうえでのことではありませんでした。国内で失神させられ、ひそかに連行されたんです」
「しかし、ロシア大使館員の要請を受諾したのは事実だろ」
「あの大使館員のほうこそ、真相を伝えてはいませんでした。知っていたら、あんなところへは……」
「まあ、おふたりとも」佐々木がなだめるように口をはさんだ。「ロシアン・マフィアのベルデンニコフ一家が国際人道支援担当の政府高官を買収し、各国駐在の大使館に働きかけていたことはすでに調べもついております。大使館員らはなにも知らされておらず、誘拐の共犯とは見なされていない」
広門は渋い顔をしたままだった。「われわれから逃げるようにロシア大使館員の招きに応じて、一日早く日本を発《た》とうとした。その態度はいかがなものかと思う」
これには美由紀も黙ってはいられなかった。「わたしは元幹部自衛官ですが、現在は臨床心理士です。彼らは、その臨床心理士であるわたしに支援を求めてきたんです」
「結果は説明とは大きく異なっていたわけだ。きみは相手の感情を読みとれるんじゃなかったのか」
「なにも知らされていない人を前にして、嘘を見抜けというのは無理な相談です」
「それならどうして島から連絡を寄越さなかった。きみの報告では、電話で一分間の国際通話が可能だったそうじゃないか。なぜ真っ先にわれわれに電話しない」
「その時点では誘拐犯がロシアン・マフィアであることや、トマホークのステルス・カバーの可視の度合いを測るという彼らの意図が発覚してませんでした」
「真っ先に気づくべきだろう」
「だから、気づきえないほど精巧な出来だったとご報告申しあげたはずです。佐々木さんに見せていただいたフレキシブル・ペリスコープの試作品よりはるかに進化したものです。数メートルも距離を置けば風景に溶けこんでしまいます。レーダーや熱探知も回避できるとベルデンニコフは言っていました」
「われわれの読みどおりだったわけだ。それをきみは……」
佐々木が咳《せき》ばらいをして、広門の小言を制した。
「よろしいですか」と佐々木は告げた。「どういう経緯にせよ、これで完全なるステルス化を果たしたトマホークの存在は明らかになったわけです。岬さんの脱出後、ロシア領海内のあの島は政府当局および警察による捜査を受けています。拉致《らち》誘拐の被害にあった各国政府に伝えられたところでは、ベルデンニコフ一家は半年ほど前にあの島を買い取り、必要な改装を試みている。ロシア領海内にありながら、複雑な歴史の影響でデンマーク色の濃い建物が多く残ったあの島を選んだのは、いうまでもなく拉致被害者らにその場所を知らせまいとしたためでしょう」
美由紀は佐々木にきいた。「島に残っていた人たちはどうなりましたか。わたしに同行していた水落香苗さんは……」
「ご安心ください。すでに帰国しておりますよ。ほかの拉致被害者の方々も同様です。あなたに関してのみ、事情を聞くため石川県の小松基地から百里《ひやくり》基地、そしてここに移送し、身柄を預かっているわけです」
「経験したことはすべてお伝えしました。セスナで島から離脱したとき、すでに島は無人と化してましたし、そのまま飛んで能登《のと》半島に行き着いてから現在までは、ずっと事情聴取を受けていて新しい情報など得られませんでした」
広門がひとりごとのようにこぼした。「夜間の日本海を、わが国の領土まで飛ぶ腕がきみに備わっているのはなぜなのか、そして、緊急通信の方法がどうして身についていたか、そこのところをよく考えてもらいたいものだな」
「……自衛隊における訓練には感謝しています……。でもわたしは、人道的なボランティア活動だと信じればこそ、海外にいくことを決心したんです……」
しばし室内は沈黙に包まれた。広門はみずからを強情すぎると感じたのか、やや気まずそうに視線を逸《そ》らしていた。
「岬さん」佐々木は身を乗りだした。「事態はしかし、われわれが懸念した通りの状況に向かっています。ベルデンニコフ一家は正体不明のスポンサーの強力な資金援助を得て、日本以外の国の製造業に多額の株式投資をおこなっているのです。ロシア当局による島の捜索でも、核搭載のトマホークの発射および目標への誘導を算出する各種のデータが残っていたと聞きます。幽霊会社を経由して、アメリカの兵器市場から最新式のタクティカル・トマホーク一発を三百万ドルで購入したこともわかっている。正確な攻撃目標の位置は不明ですが、この国が危機に瀕《ひん》していることはあきらかです」
美由紀はまたしても腑《ふ》に落ちなかった。「以前に申しあげた疑問は、依然として残るはずです。たった一発のトマホークでどうやって日本の重工業すべてを壊滅できるんでしょう。島で見ることのできたステルス・カバーはひとつだけでしたし、ベルデンニコフも一発でなんらかの目的を果たしえると口にしていましたが、どう考えても不可能です」
「けれども、彼らが垂直発射管の準備をしている旨を、小耳にはさんだわけでしょう?」
「ええ……。真珠湾のどこかで工事中だとか……。でも、トマホークの射程距離は最大で二千五百キロ、対してハワイから日本までの距離は六千四百キロもあります。到底、届くものではありません」
広門が美由紀を見つめた。「きみに聞かせることを前提とした虚言じゃないのか」
「いいえ。嘘ではありません」
「どうしてそうわかる」
「嘘をついたかどうかは、顔を見ればわかるんです。こればかりはご理解いただけないでしょうが、事実ですからしょうがないんです」
また室内が静かになった。
佐々木が真顔で告げてきた。「岬さん。ベルデンニコフの意図に不可解なところはあっても、見えないトマホークは彼らの手中にある。発射後、高度な誘導システムで進路を変えながら低空を飛行、亜音速で目標まで飛び、確実に命中する。突然、国内に核爆発の火の手があがってもおかしくない状況です。防空に打つ手はありません。これがのっぴきならない状況であることは、ご理解いただけますね?」
「はい……」
「結構。では、岬美由紀元二等空尉。浜松基地に教官として赴任してください」
「え? どういうことですか」
「岬」広門は硬い顔をしていった。「浜松には早期警戒機を擁する警戒航空隊と、ペトリオットや基地防空火器の教導を務める高射教導隊がある。きみはその目でステルス・カバーなる物体を見た。彼らにその特徴と、視認できるポイントを教導する義務がある。彼らはそれを学び、全国の基地の各部隊に伝えてまわることになる」
「視認できるポイントといっても……。わたしも事前の知識があって、ようやく静止しているステルス・カバーの存在が見抜けただけで……」
佐々木は美由紀を見つめてきた。「どんなことでもいいんです。パイロットだったあなたなら、そのカバーを装着したトマホークがどう飛行するか、推測を働かせることもできるでしょう。とにかく、いまのままでは防空はあって無きがごとしです。どんなにささいなことでも、彼らに教えてやってください。一日おきで結構です。それ以外の日は、臨床心理士として働かれるのがいいでしょう。ご了承いただければ、あなたの正式な帰国を認め、今晩は家に帰れます」
「……了承しなかったら?」
広門は咳ばらいをした。「その選択肢自体、存在しないんだよ。岬。わかるだろう」
「……そうですね。そのう、わたしはこの期に及んで、協力することを渋っているわけではないんです。ただし、教えられることがあるかどうか……。心理学でいう認知的不協和が視覚に働くことは誰にでも起こりうる作用ですが、ステルス・カバーに気づけるかどうかは……」
微妙、いや、きわめて困難といわざるをえない。
それでも、広門や佐々木の申し出は理解できる。
不可能とわかっていても、わずかな確率に賭《か》けて挑まねばならないこともある。いまがそのときだろう。
「わかりました」美由紀はため息とともにいった。「やってみます。できる限りのことを」
市谷《いちがや》にある防衛省のA棟、内部部局のフロアにある会議室には見覚えがあった。現役のころにもたびたび呼ばれた。それらは常に、幕僚監部までもが火消しに奔走しなければならないほどの国際的な問題を、美由紀が引き起こしたときと相場がきまっていた。
たとえば、|F15パイロット《イーグルドライバー》としての最後の任務、日本海の不審船をめぐる応酬だ。美由紀は上官の制止を振りきって不審船の行方を追おうとした。北朝鮮の領空を侵犯したという抗議を受けて、美由紀はこの場に出頭を命じられ、内部部局と幕僚監部の面々を前に延々と叱責《しつせき》された。
そのときも、いまのように独りきりで長い時間待たされた。この部屋で過ごす憂鬱《ゆううつ》な時間。まさか自分の人生に戻ってくるとは夢にも思っていなかった。
ドアが開き、あわただしく入ってきたのは制服姿の広門友康空将だった。小脇に分厚いファイルの束を抱えている。
それから、以前にも顔を合わせた防衛計画課の佐々木という職員。ふたりとも苦い顔をしていた。
ファイルを乱暴にテーブルに置き、広門は苛立《いらだ》たしげにいった。「岬。私はきみを信頼していた。その私たちの協力を断っておいて、勝手に動くとはな。事態の収拾のためにどれだけ苦労したと思っている」
美由紀は立ちあがって敬礼しようと腰を浮かせていたが、広門がそれを待つようすもなく椅子に座ったため、また腰掛けざるをえなかった。
「広門空将」美由紀はいった。「あの島での出来事は、わたしが了承したうえでのことではありませんでした。国内で失神させられ、ひそかに連行されたんです」
「しかし、ロシア大使館員の要請を受諾したのは事実だろ」
「あの大使館員のほうこそ、真相を伝えてはいませんでした。知っていたら、あんなところへは……」
「まあ、おふたりとも」佐々木がなだめるように口をはさんだ。「ロシアン・マフィアのベルデンニコフ一家が国際人道支援担当の政府高官を買収し、各国駐在の大使館に働きかけていたことはすでに調べもついております。大使館員らはなにも知らされておらず、誘拐の共犯とは見なされていない」
広門は渋い顔をしたままだった。「われわれから逃げるようにロシア大使館員の招きに応じて、一日早く日本を発《た》とうとした。その態度はいかがなものかと思う」
これには美由紀も黙ってはいられなかった。「わたしは元幹部自衛官ですが、現在は臨床心理士です。彼らは、その臨床心理士であるわたしに支援を求めてきたんです」
「結果は説明とは大きく異なっていたわけだ。きみは相手の感情を読みとれるんじゃなかったのか」
「なにも知らされていない人を前にして、嘘を見抜けというのは無理な相談です」
「それならどうして島から連絡を寄越さなかった。きみの報告では、電話で一分間の国際通話が可能だったそうじゃないか。なぜ真っ先にわれわれに電話しない」
「その時点では誘拐犯がロシアン・マフィアであることや、トマホークのステルス・カバーの可視の度合いを測るという彼らの意図が発覚してませんでした」
「真っ先に気づくべきだろう」
「だから、気づきえないほど精巧な出来だったとご報告申しあげたはずです。佐々木さんに見せていただいたフレキシブル・ペリスコープの試作品よりはるかに進化したものです。数メートルも距離を置けば風景に溶けこんでしまいます。レーダーや熱探知も回避できるとベルデンニコフは言っていました」
「われわれの読みどおりだったわけだ。それをきみは……」
佐々木が咳《せき》ばらいをして、広門の小言を制した。
「よろしいですか」と佐々木は告げた。「どういう経緯にせよ、これで完全なるステルス化を果たしたトマホークの存在は明らかになったわけです。岬さんの脱出後、ロシア領海内のあの島は政府当局および警察による捜査を受けています。拉致《らち》誘拐の被害にあった各国政府に伝えられたところでは、ベルデンニコフ一家は半年ほど前にあの島を買い取り、必要な改装を試みている。ロシア領海内にありながら、複雑な歴史の影響でデンマーク色の濃い建物が多く残ったあの島を選んだのは、いうまでもなく拉致被害者らにその場所を知らせまいとしたためでしょう」
美由紀は佐々木にきいた。「島に残っていた人たちはどうなりましたか。わたしに同行していた水落香苗さんは……」
「ご安心ください。すでに帰国しておりますよ。ほかの拉致被害者の方々も同様です。あなたに関してのみ、事情を聞くため石川県の小松基地から百里《ひやくり》基地、そしてここに移送し、身柄を預かっているわけです」
「経験したことはすべてお伝えしました。セスナで島から離脱したとき、すでに島は無人と化してましたし、そのまま飛んで能登《のと》半島に行き着いてから現在までは、ずっと事情聴取を受けていて新しい情報など得られませんでした」
広門がひとりごとのようにこぼした。「夜間の日本海を、わが国の領土まで飛ぶ腕がきみに備わっているのはなぜなのか、そして、緊急通信の方法がどうして身についていたか、そこのところをよく考えてもらいたいものだな」
「……自衛隊における訓練には感謝しています……。でもわたしは、人道的なボランティア活動だと信じればこそ、海外にいくことを決心したんです……」
しばし室内は沈黙に包まれた。広門はみずからを強情すぎると感じたのか、やや気まずそうに視線を逸《そ》らしていた。
「岬さん」佐々木は身を乗りだした。「事態はしかし、われわれが懸念した通りの状況に向かっています。ベルデンニコフ一家は正体不明のスポンサーの強力な資金援助を得て、日本以外の国の製造業に多額の株式投資をおこなっているのです。ロシア当局による島の捜索でも、核搭載のトマホークの発射および目標への誘導を算出する各種のデータが残っていたと聞きます。幽霊会社を経由して、アメリカの兵器市場から最新式のタクティカル・トマホーク一発を三百万ドルで購入したこともわかっている。正確な攻撃目標の位置は不明ですが、この国が危機に瀕《ひん》していることはあきらかです」
美由紀はまたしても腑《ふ》に落ちなかった。「以前に申しあげた疑問は、依然として残るはずです。たった一発のトマホークでどうやって日本の重工業すべてを壊滅できるんでしょう。島で見ることのできたステルス・カバーはひとつだけでしたし、ベルデンニコフも一発でなんらかの目的を果たしえると口にしていましたが、どう考えても不可能です」
「けれども、彼らが垂直発射管の準備をしている旨を、小耳にはさんだわけでしょう?」
「ええ……。真珠湾のどこかで工事中だとか……。でも、トマホークの射程距離は最大で二千五百キロ、対してハワイから日本までの距離は六千四百キロもあります。到底、届くものではありません」
広門が美由紀を見つめた。「きみに聞かせることを前提とした虚言じゃないのか」
「いいえ。嘘ではありません」
「どうしてそうわかる」
「嘘をついたかどうかは、顔を見ればわかるんです。こればかりはご理解いただけないでしょうが、事実ですからしょうがないんです」
また室内が静かになった。
佐々木が真顔で告げてきた。「岬さん。ベルデンニコフの意図に不可解なところはあっても、見えないトマホークは彼らの手中にある。発射後、高度な誘導システムで進路を変えながら低空を飛行、亜音速で目標まで飛び、確実に命中する。突然、国内に核爆発の火の手があがってもおかしくない状況です。防空に打つ手はありません。これがのっぴきならない状況であることは、ご理解いただけますね?」
「はい……」
「結構。では、岬美由紀元二等空尉。浜松基地に教官として赴任してください」
「え? どういうことですか」
「岬」広門は硬い顔をしていった。「浜松には早期警戒機を擁する警戒航空隊と、ペトリオットや基地防空火器の教導を務める高射教導隊がある。きみはその目でステルス・カバーなる物体を見た。彼らにその特徴と、視認できるポイントを教導する義務がある。彼らはそれを学び、全国の基地の各部隊に伝えてまわることになる」
「視認できるポイントといっても……。わたしも事前の知識があって、ようやく静止しているステルス・カバーの存在が見抜けただけで……」
佐々木は美由紀を見つめてきた。「どんなことでもいいんです。パイロットだったあなたなら、そのカバーを装着したトマホークがどう飛行するか、推測を働かせることもできるでしょう。とにかく、いまのままでは防空はあって無きがごとしです。どんなにささいなことでも、彼らに教えてやってください。一日おきで結構です。それ以外の日は、臨床心理士として働かれるのがいいでしょう。ご了承いただければ、あなたの正式な帰国を認め、今晩は家に帰れます」
「……了承しなかったら?」
広門は咳ばらいをした。「その選択肢自体、存在しないんだよ。岬。わかるだろう」
「……そうですね。そのう、わたしはこの期に及んで、協力することを渋っているわけではないんです。ただし、教えられることがあるかどうか……。心理学でいう認知的不協和が視覚に働くことは誰にでも起こりうる作用ですが、ステルス・カバーに気づけるかどうかは……」
微妙、いや、きわめて困難といわざるをえない。
それでも、広門や佐々木の申し出は理解できる。
不可能とわかっていても、わずかな確率に賭《か》けて挑まねばならないこともある。いまがそのときだろう。
「わかりました」美由紀はため息とともにいった。「やってみます。できる限りのことを」