厳島咲子の家は白金台の高級住宅街に建つ豪邸で、独身の咲子は何人かの使用人を雇って悠々自適の生活をしているという話だった。
テレビでゲストの芸能人相手に好き勝手な占いの結果を披露しては、視聴者を煽《あお》って存在感を高めようとする咲子のやり方を敵視する者も多く、したがってその屋敷は厳重なセキュリティに守られていると聞いた。
午後七時四十分。美由紀はひとりでその厳島邸を訪ねたが、警備は厳重どころの騒ぎではなかった。
門から玄関に至るまでの庭にはプレハブの警備小屋が建っていて、高齢の警備員が常時そこに詰めていた。
しかも玄関前には空港のように金属探知器のゲートがあり、美由紀は腕時計やアクセサリーの類《たぐ》いを外して警備員に預け、そのゲートをくぐらねばならなかった。
使用人に案内され、ホテルのような絢爛《けんらん》豪華な内装の通路に歩を進めた。
途中、美由紀は警備から返された携帯電話を見たが、電波の受信状態は圏外になっていた。邸内は、コンサートホールのようにジャミング電波で覆われているらしい。
セキュリティが厳重なのはわかるが、携帯電話を使用不能にすることにはどんな意味があるのだろう。
通された部屋は、社長室のように広々としたオフィスで、中央にはアールデコ調のデスクが据え置かれていた。
その向こうでは革張りの椅子に厳島咲子が身をうずめている。
デスクの手前では、咲子に向かい合わせるように置かれた椅子に、香苗が腰かけていた。
ふたりはしきりに話しこんでいるようすだったが、美由紀が入室すると、同時に顔をあげてこちらを見た。
「ああ」咲子は顔をしかめた。「泥棒猫が舞い戻ったみたい」
「岬先生」香苗は目を見張っていた。
美由紀はつかつかと香苗に近づいた。「香苗さん。どうして約束を守ってくれなかったの」
「だって……。どうしても気になってしょうがなかったし……」
「厳島先生」美由紀は派手な身なりをした老婦を見据えた。「香苗さんをそそのかさないでくれますか。彼女にはきちんとしたカウンセリングを受けさせるべきです」
咲子はあくびを噛《か》み殺すしぐさをした。「まったく、人の家に押しかけてきたと思ったら、一方的に文句を言ってくるとはね。てっきり謝罪に来たのかと思ったのに、中に入れて損をしたわ。出ていってくれる? もちろん、盗みとった宝石は置いていってもらうけど」
「盗んでなんかいないわよ。あなたがわたしにくれたんでしょ」
「ああ言えばこう言う、ね。警察にも被害届、出しておいたから」
「ちゃんと正直に被害額を伝えたかしら? ダイヤ七個のうち五個が偽物だったけど」
「盗人猛々《ぬすつとたけだけ》しいとはこのことね。あなた、やくざか何か? わたし、警視庁にも捜査協力したことがあってね。暴力団がらみの事件を受け持っている捜査四課にも友達が大勢いるのよ」
「現在の警視庁にはもう捜査四課はないでしょ。でたらめで人を翻弄《ほんろう》するのもいい加減にしたらどうなの」
「岬先生……」香苗は立ちあがって、悲痛な顔を向けてきた。「厳島先生にもう一度お話をうかがおうと思ったのは、わたしのほうなの。わたしからお願いしたのよ。あの島からの帰りの船も一緒だったし……」
「無事に帰れた? ロシア人たちになにもされなかった?」
咲子がふんと鼻を鳴らした。「岬美由紀さん、あなたは船にいなかったみたいだけど、よっぽど酷《ひど》い目にでも遭ったの? だとしたら天の配剤ね。わたしたちは豪華なクルーザーで、ほとんど船上パーティーのようなもてなしを受けてロシアまで帰ったのよ。そしてウラジオストック空港からファーストクラスで送ってもらえた」
「拉致《らち》や誘拐事件として捜査を始めている全国の警察を黙らせるためにでしょ。被害届が少なければそれだけ犯行の当事者たちは窮屈な思いをせずに済む」
「なにが拉致や誘拐よ。あれはロシアの大富豪がわたしたちを招待したサプライズ・パーティーだったのよ。彼は超能力に興味があって、世界的に評判の高い透視能力の持ち主を一堂に集め、ゲームに参加させた。あとで、いきなりのことですまなかったとしきりに詫《わ》びてくれてたわ」
「そう思えるように、鎖《くさり》帷子《かたびら》や鎧《よろい》の兵士だとか、貴族とか、憲兵隊っていう賑《にぎ》やかな登場人物を仕立てたのよ。彼らの正体はマフィア。パーティーなんかじゃなかったのよ」
「かわいそうに。とんだ思い違いをしてるみたいね。あなたは何もわかってない。いい加減、自分がうすのろだってことに気づいたらどうなの」
美由紀は、咲子に妙なゆとりが備わっているのに気づいた。
どれだけ待遇がよかろうと、国内から無理やり連れだされた事実に変わりはない。それなのに、実行犯らになんの恨みも抱いていないかのような口ぶりだ。
「……どうやら、口止め料を貰《もら》ったようね」美由紀は軽蔑《けいべつ》をこめながら咲子を見つめ、それから香苗に目を移した。「あなたも受けとったの?」
「わたし……」香苗は当惑したように目を伏せた。「お願い、岬先生。わたしはこれからも独りで生きていかないと……。だから道しるべがほしかったの。人生の行方を知らせてくれる人のアドバイスを聞きたかったのよ」
なるほど、そういうことか。美由紀は厳島咲子に視線を戻した。
「香苗さんに支払われた口止め料のすべてを、あなたがカウンセリングの報酬として受け取ったわけ? ほんと懲りない人ね」
「わたしは気の毒な香苗さんの依頼を受けて、できるだけのことをしてあげたにすぎないわ。岬美由紀さん、あなた、本当に香苗さんの苦悩をわかってるの? 彼女は幼いころに負った深い心の傷のせいで、いまも苦しんでるのよ」
「トラウマ論に科学的裏づけはないって言ったでしょ。香苗さんのお父さんは暴行なんか働いていない」
香苗は驚いたように目を丸くして、美由紀を見つめた。
咲子は口もとをゆがめた。「なにを馬鹿なことを。あなたのほうこそ、何か根拠があるの?」
「岬先生」香苗は泣きそうな顔で告げてきた。「わたし、思いだしたんだってば。たしかにお父さんの部屋で乱暴をされたの。相手はお父さんだったのよ」
「落ち着いて。島にいたときにあなたが話してくれた内容では、とりわけ記憶に残っているのは部屋の間取りで、相手に関してははっきりしていなかったはずだわ。マンションは同じ業者が建てれば室内も似通ったものになる。ほかの建物だった可能性もあるのよ」
「ほかの……」
「ねえ、香苗さん。さっきお父さんと会ったとき、お父さんは暴行した覚えはないって否定したでしょ。香苗さんは自分のお父さんをどれだけ信用できるの。自分の育成に全責任を負っていた親という存在にすべての憎しみをぶつけることで、不幸なわが身に感じる苦悩をやわらげたいという衝動は誰にでも起きる。けれども、お父さんは本当にそんな人だった? もういちどよく考えて。お父さんをいい人だと思ったことはないの? 愛情を感じたことはなかったの?」
「やれやれ」咲子は投げやりにいった。「もめるのなら、他でやってくれる? わたしは香苗さんが相談に来たから、答えてあげたまでよ。面倒ごとを持ちこむのを許可した覚えはないわ」
香苗は咲子と美由紀をかわるがわる見て、目を潤ませながらつぶやいた。「わからない。わからないよ……。自分ではわからないから、相談しようと思ったのに。岬先生は千里眼だっていうし、厳島先生もすごく有名でなんでも見通せるっていうし、だから……」
「わかった」美由紀は香苗にいった。「じゃ、わたしについて答えるわ。わたしの人生に誓って、あなたのお父さんは暴行をしていない、そう言いきる」
「けど……。ごめんなさい、岬先生。厳島先生は……たしかに人の知らない未来までも知ることができる人だし……」
美由紀は咲子に目を向けた。
咲子はそ知らぬ顔をして、デスクの上の万年筆をいじっている。
「厳島先生」香苗がいった。「さっき見せてくれた未来予知……でしたっけ。もういちど、お願いできませんか。岬先生にも見せてあげたいんです」
「お断りよ。どうせこんな人、難癖をつけてくるにきまってるから。すなおじゃないしね」
「いいえ」と美由紀は咲子にいった。「あなたにもし本当にそんな力があるなら、わたしは喜んで香苗さんをあなたに預けるわ。あなたが不可能を可能にする人だというのなら……」
しばらくのあいだ咲子は渋い顔をしていたが、美由紀に対して優越感を持てるチャンスかもしれないと考えたのか、いいわ、そういった。「納得したら、さっさと出ていってちょうだい。そこのところ約束できる?」
「ええ」
咲子はおもむろにリモコンを手にした。ボタンを押すと、壁ぎわのテレビが点灯した。
いま東京ドームでおこなわれている巨人・中日戦の生中継が映った。
四回の裏、巨人の攻撃。中日のピッチャーは佐藤、バッターボックスは巨人の小久保。カウントはノースリー。
「内角低め」咲子はいった。「小久保はバントの構えをするも空振り。一塁に送球、セーフ」
振りかぶった佐藤が投げる。すかさず小久保はバットを短く持ってバントを試みる。が、ボールは内角低めでキャッチャーミットにおさまった。立ちあがったキャッチャーが一塁に送球。一塁ランナーが駆け戻る。塁審の判定はセーフ。
香苗が美由紀をじっと見つめてきた。
ほら、間違いないでしょう。香苗の目がそう訴えかけている。
「次の投球はフォーク」咲子はけだるそうにつぶやく。「打ちあげてセンターフライ、でもセンターが取り落として、一塁ランナーは三塁へ、打った小久保は一塁」
今度も咲子の指摘どおりの状況が展開した。
小久保の打球は大きくセンター方面に上がったが、確実に捕球すると思えたそのボールを、センターが落球してしまった。大きく沸く観客席。
アナウンサーが興奮ぎみに告げた。一塁ランナー矢野は三塁へ。小久保は一塁、セーフ。
ポーンと音が鳴った。
八時ちょうどになりました、引き続き東京ドームから巨人・中日戦をお送りします。
美由紀は腕時計を見た。
常に秒までしっかりと合わせてある美由紀の時計は、一秒の狂いもなく八時を指していた。
「どう?」咲子がいった。「エセ千里眼の岬美由紀さん。あなたにこんな真似はできないんじゃなくて? うなずけたなら、黙ってそのドアから退室することね。おとなしく引きさがってくれれば、いままでの失礼は不問にしておくわ」
沈黙のなかで、香苗は無言のままうつむいていた。彼女の心が、厳島咲子に傾いているのを感じる。宗教の信者は、総じていまの香苗のような心境なのだろう。
美由紀は携帯電話を取りだし、開いてみた。時刻は腕時計と同じ。そして、電波状態は圏外。
ため息をついてみせた。
「くだらない」美由紀は咲子を見つめた。「これって厳島先生のお気に入りのパフォーマンス? 来客があったら必ず見せるんでしょうね。金属探知機を通ったときに、腕時計も携帯電話も一時的に預けた。使用人が、一分ほど遅らせたんでしょ。で、このテレビは壁の向こうでHDDレコーダーにつながってて、録画しながら一分間のインターバルを置いて追いかけ再生してる。先生はそのデスクに仕込んであるテレビでリアルタイムの放送を観ているだけ。わたしが納得して部屋を出たら、また玄関先で金属探知機を通らされるんでしょうね。なにも盗みだしていないことをチェックするとかなんとか理由をつけて。そのときに腕時計と携帯電話の時刻は元に戻される」
香苗が面食らったように目を見開いた。
咲子のほうは表情をこわばらせただけだった。
が、美由紀にはそれで充分だった。鼻に皺《しわ》が寄り、上唇が持ちあげられた。図星を突かれ、嫌悪を覚えたに相違ない。
「あなたの想像力には感服するわ」咲子は苦々しくいった。「価値ある説得もあなたには無駄なようね。自分の持ち物まで信じられないなんて。呆《あき》れて物もいえないわ」
「厳島先生。腕時計と携帯電話の時刻をずらしたうえに、ジャミングで通話もできなくすれば電話の時報も聞けない。あなたって人は、本当に詐欺師の素質があるのね。訪ねてきた人はまず間違いなく、あなたの信者になってしまう。けど、先生。来客がもし、小型液晶テレビでも持ってきてたらどうするの?」
「そりゃ、わたしの主張が正しいと思うだけのことよ」
「ああ、そう……。厳島先生のその余裕は、液晶テレビに対しても対処済みって感じね。たぶん、携帯と同じくここではテレビの電波も入らないんでしょうね。どれだけ怪しまれても、証拠を握られない限りは逃げられる、か。いいお歳になられて、そんな欺瞞《ぎまん》に満ちた人生をお送りになられて、疲れない?」
「侮辱はそれぐらいにしてちょうだい。うちには使用人だけじゃなく、顧問弁護士もいるのよ。あなたみたいにしつこい女には、法的に対処して……」
「ご心配なく。厳島先生、ワンセグって知ってる?」
咲子は口をつぐんだ。
表情はまだ硬くはならない。意味がわからず、途方に暮れた。そんな顔をしている。
美由紀は携帯のボタンを押した。「デジタル放送の移動端末向けワンセグメント部分受信サービスってね、携帯電話の電波とはまるっきり別なの。だからジャミングで圏外になってても、入るのよ」
巨人・中日戦の鮮明な映像のうつった携帯電話を、美由紀は叩《たた》きつけるようにデスクに置いた。
香苗は愕然《がくぜん》とした顔で、その液晶画面と壁のテレビ画面とを、かわるがわる見比べた。
咲子の顔面も、たちまち蒼白《そうはく》になった。怯《おび》えきった顔で、身体を痙攣《けいれん》させたように震わせている。いまにも泡を吹いて倒れそうだ。
壁のテレビの実況は、ピッチャー交代を告げている。中日の久本投手がマウンドにあがり、投球練習している。
だが携帯電話の液晶に映った中継は、久本がすでに第一球を投げ、二岡からストライクを奪っていた。
視線の動きで、どこを見ていたかはわかっている。美由紀はデスクの表面を覆うアクリル板を引きはがした。
半透明のそのアクリル板は、向こう側に光さえなければ真っ黒に見える。香苗や美由紀の側からは違和感なく見えたが、咲子の側にのみ向けられた光源が潜んでいた。斜め上方に向けたモニターテレビが、刳《く》り貫《ぬ》かれたデスクのなかに存在していた。
時間が静止したような沈黙が流れた。
やがて、香苗が涙を流しながら、ささやくようにいった。「厳島先生……」
「こ……」咲子は陸にあげられた魚のように、酸欠のごとく咳《せ》きこみながらいった。「こんなの……い、陰謀よ……なんで……わたしが……こんなの……」
美由紀は香苗の肩に手をかけた。「いきましょ」
しばらくのあいだ、香苗は呆然《ぼうぜん》とした面持ちのまま静止していた。虹彩《こうさい》が、わずかに明暗の色あいを変える。
香苗は美由紀をじっと見かえした。やがて小さくうなずいてから、美由紀に抱きついて泣きだした。声を殺して泣きつづけていた。
テレビでゲストの芸能人相手に好き勝手な占いの結果を披露しては、視聴者を煽《あお》って存在感を高めようとする咲子のやり方を敵視する者も多く、したがってその屋敷は厳重なセキュリティに守られていると聞いた。
午後七時四十分。美由紀はひとりでその厳島邸を訪ねたが、警備は厳重どころの騒ぎではなかった。
門から玄関に至るまでの庭にはプレハブの警備小屋が建っていて、高齢の警備員が常時そこに詰めていた。
しかも玄関前には空港のように金属探知器のゲートがあり、美由紀は腕時計やアクセサリーの類《たぐ》いを外して警備員に預け、そのゲートをくぐらねばならなかった。
使用人に案内され、ホテルのような絢爛《けんらん》豪華な内装の通路に歩を進めた。
途中、美由紀は警備から返された携帯電話を見たが、電波の受信状態は圏外になっていた。邸内は、コンサートホールのようにジャミング電波で覆われているらしい。
セキュリティが厳重なのはわかるが、携帯電話を使用不能にすることにはどんな意味があるのだろう。
通された部屋は、社長室のように広々としたオフィスで、中央にはアールデコ調のデスクが据え置かれていた。
その向こうでは革張りの椅子に厳島咲子が身をうずめている。
デスクの手前では、咲子に向かい合わせるように置かれた椅子に、香苗が腰かけていた。
ふたりはしきりに話しこんでいるようすだったが、美由紀が入室すると、同時に顔をあげてこちらを見た。
「ああ」咲子は顔をしかめた。「泥棒猫が舞い戻ったみたい」
「岬先生」香苗は目を見張っていた。
美由紀はつかつかと香苗に近づいた。「香苗さん。どうして約束を守ってくれなかったの」
「だって……。どうしても気になってしょうがなかったし……」
「厳島先生」美由紀は派手な身なりをした老婦を見据えた。「香苗さんをそそのかさないでくれますか。彼女にはきちんとしたカウンセリングを受けさせるべきです」
咲子はあくびを噛《か》み殺すしぐさをした。「まったく、人の家に押しかけてきたと思ったら、一方的に文句を言ってくるとはね。てっきり謝罪に来たのかと思ったのに、中に入れて損をしたわ。出ていってくれる? もちろん、盗みとった宝石は置いていってもらうけど」
「盗んでなんかいないわよ。あなたがわたしにくれたんでしょ」
「ああ言えばこう言う、ね。警察にも被害届、出しておいたから」
「ちゃんと正直に被害額を伝えたかしら? ダイヤ七個のうち五個が偽物だったけど」
「盗人猛々《ぬすつとたけだけ》しいとはこのことね。あなた、やくざか何か? わたし、警視庁にも捜査協力したことがあってね。暴力団がらみの事件を受け持っている捜査四課にも友達が大勢いるのよ」
「現在の警視庁にはもう捜査四課はないでしょ。でたらめで人を翻弄《ほんろう》するのもいい加減にしたらどうなの」
「岬先生……」香苗は立ちあがって、悲痛な顔を向けてきた。「厳島先生にもう一度お話をうかがおうと思ったのは、わたしのほうなの。わたしからお願いしたのよ。あの島からの帰りの船も一緒だったし……」
「無事に帰れた? ロシア人たちになにもされなかった?」
咲子がふんと鼻を鳴らした。「岬美由紀さん、あなたは船にいなかったみたいだけど、よっぽど酷《ひど》い目にでも遭ったの? だとしたら天の配剤ね。わたしたちは豪華なクルーザーで、ほとんど船上パーティーのようなもてなしを受けてロシアまで帰ったのよ。そしてウラジオストック空港からファーストクラスで送ってもらえた」
「拉致《らち》や誘拐事件として捜査を始めている全国の警察を黙らせるためにでしょ。被害届が少なければそれだけ犯行の当事者たちは窮屈な思いをせずに済む」
「なにが拉致や誘拐よ。あれはロシアの大富豪がわたしたちを招待したサプライズ・パーティーだったのよ。彼は超能力に興味があって、世界的に評判の高い透視能力の持ち主を一堂に集め、ゲームに参加させた。あとで、いきなりのことですまなかったとしきりに詫《わ》びてくれてたわ」
「そう思えるように、鎖《くさり》帷子《かたびら》や鎧《よろい》の兵士だとか、貴族とか、憲兵隊っていう賑《にぎ》やかな登場人物を仕立てたのよ。彼らの正体はマフィア。パーティーなんかじゃなかったのよ」
「かわいそうに。とんだ思い違いをしてるみたいね。あなたは何もわかってない。いい加減、自分がうすのろだってことに気づいたらどうなの」
美由紀は、咲子に妙なゆとりが備わっているのに気づいた。
どれだけ待遇がよかろうと、国内から無理やり連れだされた事実に変わりはない。それなのに、実行犯らになんの恨みも抱いていないかのような口ぶりだ。
「……どうやら、口止め料を貰《もら》ったようね」美由紀は軽蔑《けいべつ》をこめながら咲子を見つめ、それから香苗に目を移した。「あなたも受けとったの?」
「わたし……」香苗は当惑したように目を伏せた。「お願い、岬先生。わたしはこれからも独りで生きていかないと……。だから道しるべがほしかったの。人生の行方を知らせてくれる人のアドバイスを聞きたかったのよ」
なるほど、そういうことか。美由紀は厳島咲子に視線を戻した。
「香苗さんに支払われた口止め料のすべてを、あなたがカウンセリングの報酬として受け取ったわけ? ほんと懲りない人ね」
「わたしは気の毒な香苗さんの依頼を受けて、できるだけのことをしてあげたにすぎないわ。岬美由紀さん、あなた、本当に香苗さんの苦悩をわかってるの? 彼女は幼いころに負った深い心の傷のせいで、いまも苦しんでるのよ」
「トラウマ論に科学的裏づけはないって言ったでしょ。香苗さんのお父さんは暴行なんか働いていない」
香苗は驚いたように目を丸くして、美由紀を見つめた。
咲子は口もとをゆがめた。「なにを馬鹿なことを。あなたのほうこそ、何か根拠があるの?」
「岬先生」香苗は泣きそうな顔で告げてきた。「わたし、思いだしたんだってば。たしかにお父さんの部屋で乱暴をされたの。相手はお父さんだったのよ」
「落ち着いて。島にいたときにあなたが話してくれた内容では、とりわけ記憶に残っているのは部屋の間取りで、相手に関してははっきりしていなかったはずだわ。マンションは同じ業者が建てれば室内も似通ったものになる。ほかの建物だった可能性もあるのよ」
「ほかの……」
「ねえ、香苗さん。さっきお父さんと会ったとき、お父さんは暴行した覚えはないって否定したでしょ。香苗さんは自分のお父さんをどれだけ信用できるの。自分の育成に全責任を負っていた親という存在にすべての憎しみをぶつけることで、不幸なわが身に感じる苦悩をやわらげたいという衝動は誰にでも起きる。けれども、お父さんは本当にそんな人だった? もういちどよく考えて。お父さんをいい人だと思ったことはないの? 愛情を感じたことはなかったの?」
「やれやれ」咲子は投げやりにいった。「もめるのなら、他でやってくれる? わたしは香苗さんが相談に来たから、答えてあげたまでよ。面倒ごとを持ちこむのを許可した覚えはないわ」
香苗は咲子と美由紀をかわるがわる見て、目を潤ませながらつぶやいた。「わからない。わからないよ……。自分ではわからないから、相談しようと思ったのに。岬先生は千里眼だっていうし、厳島先生もすごく有名でなんでも見通せるっていうし、だから……」
「わかった」美由紀は香苗にいった。「じゃ、わたしについて答えるわ。わたしの人生に誓って、あなたのお父さんは暴行をしていない、そう言いきる」
「けど……。ごめんなさい、岬先生。厳島先生は……たしかに人の知らない未来までも知ることができる人だし……」
美由紀は咲子に目を向けた。
咲子はそ知らぬ顔をして、デスクの上の万年筆をいじっている。
「厳島先生」香苗がいった。「さっき見せてくれた未来予知……でしたっけ。もういちど、お願いできませんか。岬先生にも見せてあげたいんです」
「お断りよ。どうせこんな人、難癖をつけてくるにきまってるから。すなおじゃないしね」
「いいえ」と美由紀は咲子にいった。「あなたにもし本当にそんな力があるなら、わたしは喜んで香苗さんをあなたに預けるわ。あなたが不可能を可能にする人だというのなら……」
しばらくのあいだ咲子は渋い顔をしていたが、美由紀に対して優越感を持てるチャンスかもしれないと考えたのか、いいわ、そういった。「納得したら、さっさと出ていってちょうだい。そこのところ約束できる?」
「ええ」
咲子はおもむろにリモコンを手にした。ボタンを押すと、壁ぎわのテレビが点灯した。
いま東京ドームでおこなわれている巨人・中日戦の生中継が映った。
四回の裏、巨人の攻撃。中日のピッチャーは佐藤、バッターボックスは巨人の小久保。カウントはノースリー。
「内角低め」咲子はいった。「小久保はバントの構えをするも空振り。一塁に送球、セーフ」
振りかぶった佐藤が投げる。すかさず小久保はバットを短く持ってバントを試みる。が、ボールは内角低めでキャッチャーミットにおさまった。立ちあがったキャッチャーが一塁に送球。一塁ランナーが駆け戻る。塁審の判定はセーフ。
香苗が美由紀をじっと見つめてきた。
ほら、間違いないでしょう。香苗の目がそう訴えかけている。
「次の投球はフォーク」咲子はけだるそうにつぶやく。「打ちあげてセンターフライ、でもセンターが取り落として、一塁ランナーは三塁へ、打った小久保は一塁」
今度も咲子の指摘どおりの状況が展開した。
小久保の打球は大きくセンター方面に上がったが、確実に捕球すると思えたそのボールを、センターが落球してしまった。大きく沸く観客席。
アナウンサーが興奮ぎみに告げた。一塁ランナー矢野は三塁へ。小久保は一塁、セーフ。
ポーンと音が鳴った。
八時ちょうどになりました、引き続き東京ドームから巨人・中日戦をお送りします。
美由紀は腕時計を見た。
常に秒までしっかりと合わせてある美由紀の時計は、一秒の狂いもなく八時を指していた。
「どう?」咲子がいった。「エセ千里眼の岬美由紀さん。あなたにこんな真似はできないんじゃなくて? うなずけたなら、黙ってそのドアから退室することね。おとなしく引きさがってくれれば、いままでの失礼は不問にしておくわ」
沈黙のなかで、香苗は無言のままうつむいていた。彼女の心が、厳島咲子に傾いているのを感じる。宗教の信者は、総じていまの香苗のような心境なのだろう。
美由紀は携帯電話を取りだし、開いてみた。時刻は腕時計と同じ。そして、電波状態は圏外。
ため息をついてみせた。
「くだらない」美由紀は咲子を見つめた。「これって厳島先生のお気に入りのパフォーマンス? 来客があったら必ず見せるんでしょうね。金属探知機を通ったときに、腕時計も携帯電話も一時的に預けた。使用人が、一分ほど遅らせたんでしょ。で、このテレビは壁の向こうでHDDレコーダーにつながってて、録画しながら一分間のインターバルを置いて追いかけ再生してる。先生はそのデスクに仕込んであるテレビでリアルタイムの放送を観ているだけ。わたしが納得して部屋を出たら、また玄関先で金属探知機を通らされるんでしょうね。なにも盗みだしていないことをチェックするとかなんとか理由をつけて。そのときに腕時計と携帯電話の時刻は元に戻される」
香苗が面食らったように目を見開いた。
咲子のほうは表情をこわばらせただけだった。
が、美由紀にはそれで充分だった。鼻に皺《しわ》が寄り、上唇が持ちあげられた。図星を突かれ、嫌悪を覚えたに相違ない。
「あなたの想像力には感服するわ」咲子は苦々しくいった。「価値ある説得もあなたには無駄なようね。自分の持ち物まで信じられないなんて。呆《あき》れて物もいえないわ」
「厳島先生。腕時計と携帯電話の時刻をずらしたうえに、ジャミングで通話もできなくすれば電話の時報も聞けない。あなたって人は、本当に詐欺師の素質があるのね。訪ねてきた人はまず間違いなく、あなたの信者になってしまう。けど、先生。来客がもし、小型液晶テレビでも持ってきてたらどうするの?」
「そりゃ、わたしの主張が正しいと思うだけのことよ」
「ああ、そう……。厳島先生のその余裕は、液晶テレビに対しても対処済みって感じね。たぶん、携帯と同じくここではテレビの電波も入らないんでしょうね。どれだけ怪しまれても、証拠を握られない限りは逃げられる、か。いいお歳になられて、そんな欺瞞《ぎまん》に満ちた人生をお送りになられて、疲れない?」
「侮辱はそれぐらいにしてちょうだい。うちには使用人だけじゃなく、顧問弁護士もいるのよ。あなたみたいにしつこい女には、法的に対処して……」
「ご心配なく。厳島先生、ワンセグって知ってる?」
咲子は口をつぐんだ。
表情はまだ硬くはならない。意味がわからず、途方に暮れた。そんな顔をしている。
美由紀は携帯のボタンを押した。「デジタル放送の移動端末向けワンセグメント部分受信サービスってね、携帯電話の電波とはまるっきり別なの。だからジャミングで圏外になってても、入るのよ」
巨人・中日戦の鮮明な映像のうつった携帯電話を、美由紀は叩《たた》きつけるようにデスクに置いた。
香苗は愕然《がくぜん》とした顔で、その液晶画面と壁のテレビ画面とを、かわるがわる見比べた。
咲子の顔面も、たちまち蒼白《そうはく》になった。怯《おび》えきった顔で、身体を痙攣《けいれん》させたように震わせている。いまにも泡を吹いて倒れそうだ。
壁のテレビの実況は、ピッチャー交代を告げている。中日の久本投手がマウンドにあがり、投球練習している。
だが携帯電話の液晶に映った中継は、久本がすでに第一球を投げ、二岡からストライクを奪っていた。
視線の動きで、どこを見ていたかはわかっている。美由紀はデスクの表面を覆うアクリル板を引きはがした。
半透明のそのアクリル板は、向こう側に光さえなければ真っ黒に見える。香苗や美由紀の側からは違和感なく見えたが、咲子の側にのみ向けられた光源が潜んでいた。斜め上方に向けたモニターテレビが、刳《く》り貫《ぬ》かれたデスクのなかに存在していた。
時間が静止したような沈黙が流れた。
やがて、香苗が涙を流しながら、ささやくようにいった。「厳島先生……」
「こ……」咲子は陸にあげられた魚のように、酸欠のごとく咳《せ》きこみながらいった。「こんなの……い、陰謀よ……なんで……わたしが……こんなの……」
美由紀は香苗の肩に手をかけた。「いきましょ」
しばらくのあいだ、香苗は呆然《ぼうぜん》とした面持ちのまま静止していた。虹彩《こうさい》が、わずかに明暗の色あいを変える。
香苗は美由紀をじっと見かえした。やがて小さくうなずいてから、美由紀に抱きついて泣きだした。声を殺して泣きつづけていた。