八月六日、静岡市民文化会館、セブン・エレメンツのコンサート当日。午後三時半。天候は最悪だった。
美由紀は猛烈な雨と風のなか、傘を飛ばされまいと必死で柄にしがみつきながら、駐車場からホールのエントランスへの道を歩いていった。
並んで歩く由愛香の備えは万全で、全身をレインコートですっぽりと覆い、靴も耐水性のブーツを履いていた。
もうひとりの連れ、雪村藍のほうはずっと苦労を強いられているようだった。
小さな折りたたみ傘しか持っていなかったせいで、きれいにセットしてあった髪も洒落《しやれ》た服もびしょ濡《ぬ》れになっていた。足もとも厚底サンダルのせいで、凹凸のある石畳ではひどく歩きにくそうだ。
「あーもう」藍は大声を張りあげた。「最悪。なんでこの日に限って台風なの」
由愛香がいった。「しかもよりによって、ここ五年で最強の台風だって。超大型、風速が毎秒十五メートル以上の暴風域が半径九百六十キロ。中心付近の最大風速が毎秒八十七メートル。まるでハリケーンね」
「やっぱり」美由紀はため息まじりにつぶやいた。「中止じゃないの?」
「とんでもない。屋外やドーム球場なら強風も危険かもしれないけど、頑強な建造物の屋内でコンサートやるってのに、なんで中止になるの?」
「でも、なんだか人の集まりがまばらだよ? 交通機関もあちこち麻痺《まひ》してるみたいだし、お客さんが来れなきゃやる意味もないでしょ」
「ラッキーじゃない。ほとんど貸しきり状態」
「だから、そんな状況なら延期になるわよ。電話でたしかめたほうがよかったんじゃない?」
「あいにく朝からつながらないの。行けばわかるって。美由紀もさ、このところずっと休みなかったんでしょ? 楽しまなきゃ損よ」
「それはそうだけど……」
「ここまで来たんだから、また急用が入ったとかで姿を消すのは無しよ。例の子、香苗さんだっけ? 順調に回復してんでしょ?」
「うん。PTSDじゃなくて、気分障害であることもはっきりしたしね……。慣れない都会の独り暮らしで、抑うつ気分を伴う適応障害に陥ってた。父親とうまくいっていないことも間接的なストレス要因だったみたいだし。認知療法で人生の無力感や絶望感を修正して、将来について正しい捉《とら》え方ができるようにした。あともう少しかな」
「三か月で回復ってすごくない? 藍も手を洗いたがる癖、治してもらえばいいのに」
藍は黙りこくって、伏し目がちに歩きつづけた。
「あ……ごめん」由愛香は失言に気づいたらしい。「ちょっと調子に乗りすぎちゃって……」
「いいの」と藍が笑っていった。「治したいとは思ってるんだけどさ、そんなに生活に支障もないし、いつも清潔にしてるだけだから、別にいいかなと思って」
美由紀は複雑な気分だった。
本人は辛《つら》さを感じている場合が多いのに、その本人が申し出をしてくれないせいで、助けることができない。カウンセリングの場にそういう状況は頻繁にある。たとえ友人であっても無理強いはできない。
「美由紀さん」藍は話題を変えたがっているらしく、美由紀についてたずねてきた。「浜松への出張は、きょうはいいの?」
「ええ。先月までは一日おきに行くことになってたんだけど、いまは三日にいちどでいいの」
「それもカウンセリングとか?」
「まあ……仕事だし」
ふうん、と由愛香が美由紀を見た。「千里眼の女がわざわざ浜松まで出張するなんて。よっぽどの大物? 症状はうなぎの食べすぎとか?」
「そういうんじゃないって。いろいろ複雑な事情なの」
あの島からの帰還直後には防衛省も神経を尖《とが》らせていたが、危機の兆候が感じられない状況がつづくうちに、しだいに当初の警戒心も薄らぎつつある。
防空において自衛隊と在日米軍が高いレベルでの警戒態勢を維持する一方で、防衛省の上層部が危機感を薄めているのには理由がある。やはり美由紀が指摘したように、敵の戦略の動機が曖昧《あいまい》としか思えないからだった。
海外の製造業の株が買い占められた件の後遺症はまだ市場に色濃く残っているが、それとたった一発のトマホークは結びつきにくいというのが、有識者たちの共通した意見だったらしい。
したがって、最近の日本政府は両者を別個の問題とみなし、経済産業省と防衛省にそれぞれ分担して調査と警戒に当たらせている。
政府の金利政策によって市場はなんとか機能を失わずに維持されているし、防衛省のほうも、美由紀の伝えた情報に基づいてパトロールや監視の要綱をまとめ、実践している。
ベルデンニコフ一家の狙いはどこにあったのだろう。
危機感は減少しても、実際に見えないミサイルが飛来する可能性は消えてはいない。
探知されることも視認されることもなく、本土を直撃するミサイル。依然として存在しつづけるその脅威を払拭《ふつしよく》するためにも、動機が知りたい。なにを破壊することを目的としているのか。
長い階段を上ってホールのエントランス付近まで来ると、まばらな人影のなかで、年配の警備員がメガホンで告げている。「本日のセブン・エレメンツのコンサートは、悪天候により順延となりました。払い戻しをご希望のかたは、チケットの裏にある運営事務局の電話番号まで……」
「ほら」藍がふくれっ面を由愛香に向けた。「やっぱ中止じゃん」
由愛香はレインコートのフードを取り払い、頭をかきむしった。「まったく……。よりによってこんな日のチケットだからいけないのよ」
「わたしが悪いっていうの? それちょっとひどくない、由愛香さん?」
「オークションの落札費用を肩代わりにしたのはわたしでしょ。それとも何? あなたが耳を揃えて払ってくれるの? コーヒー代やパフェ代と一緒に」
「また始まった。銭の亡者。儲《もう》けてるくせにドケチ。脱税でもしてんじゃないの?」
「相手を見てものを言いな、この……」
「やめてよ」美由紀は仲裁に入った。「それより、いつに順延になるのか、聞いたほうがいいわよ」
「そうね」由愛香はつかつかと歩きだした。「文句のひとことも言ってやんなきゃね」
「由愛香……」
「ちょっとすみません」由愛香が警備員に話しかけた。「このていどの天気で中止ってどういうことですか」
老齢の警備員が眉《まゆ》をひそめた。「このていど? 馬鹿なことを言わんでください。静岡は暴風雨圏内ですよ。どこか建物のなかに入られたほうがいいですよ」
「だから、コンサート会場を開けてくれれば……」
そのとき、大きな鉄製の看板が宙を舞い、広場に転がった。周囲の人々が逃げ惑っている。
「見なさい」警備員がまくしたてた。「さっきニュースで、台風の中心は間もなく御前崎《おまえざき》市の上空に差し掛かるといってました。停電や洪水、土砂崩れも各地で発生しているんですよ。コンサートなんかやってる場合じゃないでしょう。さあ、早く退避してください」
由愛香が食いさがった。「そのまま通過していったら夜には晴れるんじゃないの? 開始時刻を遅らせるだけでいいのに」
「速度がそんなに速くないから、待っても無駄ですよ。けさ五時半には三重県の真珠湾あたりだったし……」
美由紀は、頭を殴られたような衝撃を受けた。
「なんですって!」美由紀は警備員に詰め寄った。「いま、なんて言ったの?」
「いや……その、だから、台風はけさ早くには真珠湾に……」
「真珠湾って……」
「ああ、ええと、最近じゃ英虞《あご》湾っていうんだったな。私らの若いころには真珠湾って呼んでた。真珠養殖の発祥の地なのでね。志摩半島の南ですよ。最近はあの辺りじゃ、養殖といえば青《あお》海苔《のり》ぐらいのもんで……」
動悸《どうき》が速まり、鼓動が耳のなかに響いてくるようだった。美由紀はとてつもなく大きな衝撃を受けたあと、脳震盪《のうしんとう》でも起こしたかのようなめまいを覚えていた。
そして、いくつもの浮かびあがった断片が、パズルのようにつながってひとつの形をなしはじめる。
台風の中心が間もなく御前崎市上空……。
ベルデンニコフの狙いはこれだったのだ。三か月ものあいだ動きがなかったのは、自然の天候がチャンスをつくるのを待っていたからだ。
一刻一秒を争う。そう思ったときにはもう、美由紀は身を翻して駐車場へと駆けだしていた。
「美由紀!」由愛香の声が聞こえる。「待ってよ。どこいくの!?」
あいにく、友達を連れて行ける状況ではない。美由紀はひたすら疾走した。間にあわないかぎり、失われるのはコンサートどころのものではない。すべてが消滅してしまう。この国の生きとし生けるもの、すべてが。
美由紀は猛烈な雨と風のなか、傘を飛ばされまいと必死で柄にしがみつきながら、駐車場からホールのエントランスへの道を歩いていった。
並んで歩く由愛香の備えは万全で、全身をレインコートですっぽりと覆い、靴も耐水性のブーツを履いていた。
もうひとりの連れ、雪村藍のほうはずっと苦労を強いられているようだった。
小さな折りたたみ傘しか持っていなかったせいで、きれいにセットしてあった髪も洒落《しやれ》た服もびしょ濡《ぬ》れになっていた。足もとも厚底サンダルのせいで、凹凸のある石畳ではひどく歩きにくそうだ。
「あーもう」藍は大声を張りあげた。「最悪。なんでこの日に限って台風なの」
由愛香がいった。「しかもよりによって、ここ五年で最強の台風だって。超大型、風速が毎秒十五メートル以上の暴風域が半径九百六十キロ。中心付近の最大風速が毎秒八十七メートル。まるでハリケーンね」
「やっぱり」美由紀はため息まじりにつぶやいた。「中止じゃないの?」
「とんでもない。屋外やドーム球場なら強風も危険かもしれないけど、頑強な建造物の屋内でコンサートやるってのに、なんで中止になるの?」
「でも、なんだか人の集まりがまばらだよ? 交通機関もあちこち麻痺《まひ》してるみたいだし、お客さんが来れなきゃやる意味もないでしょ」
「ラッキーじゃない。ほとんど貸しきり状態」
「だから、そんな状況なら延期になるわよ。電話でたしかめたほうがよかったんじゃない?」
「あいにく朝からつながらないの。行けばわかるって。美由紀もさ、このところずっと休みなかったんでしょ? 楽しまなきゃ損よ」
「それはそうだけど……」
「ここまで来たんだから、また急用が入ったとかで姿を消すのは無しよ。例の子、香苗さんだっけ? 順調に回復してんでしょ?」
「うん。PTSDじゃなくて、気分障害であることもはっきりしたしね……。慣れない都会の独り暮らしで、抑うつ気分を伴う適応障害に陥ってた。父親とうまくいっていないことも間接的なストレス要因だったみたいだし。認知療法で人生の無力感や絶望感を修正して、将来について正しい捉《とら》え方ができるようにした。あともう少しかな」
「三か月で回復ってすごくない? 藍も手を洗いたがる癖、治してもらえばいいのに」
藍は黙りこくって、伏し目がちに歩きつづけた。
「あ……ごめん」由愛香は失言に気づいたらしい。「ちょっと調子に乗りすぎちゃって……」
「いいの」と藍が笑っていった。「治したいとは思ってるんだけどさ、そんなに生活に支障もないし、いつも清潔にしてるだけだから、別にいいかなと思って」
美由紀は複雑な気分だった。
本人は辛《つら》さを感じている場合が多いのに、その本人が申し出をしてくれないせいで、助けることができない。カウンセリングの場にそういう状況は頻繁にある。たとえ友人であっても無理強いはできない。
「美由紀さん」藍は話題を変えたがっているらしく、美由紀についてたずねてきた。「浜松への出張は、きょうはいいの?」
「ええ。先月までは一日おきに行くことになってたんだけど、いまは三日にいちどでいいの」
「それもカウンセリングとか?」
「まあ……仕事だし」
ふうん、と由愛香が美由紀を見た。「千里眼の女がわざわざ浜松まで出張するなんて。よっぽどの大物? 症状はうなぎの食べすぎとか?」
「そういうんじゃないって。いろいろ複雑な事情なの」
あの島からの帰還直後には防衛省も神経を尖《とが》らせていたが、危機の兆候が感じられない状況がつづくうちに、しだいに当初の警戒心も薄らぎつつある。
防空において自衛隊と在日米軍が高いレベルでの警戒態勢を維持する一方で、防衛省の上層部が危機感を薄めているのには理由がある。やはり美由紀が指摘したように、敵の戦略の動機が曖昧《あいまい》としか思えないからだった。
海外の製造業の株が買い占められた件の後遺症はまだ市場に色濃く残っているが、それとたった一発のトマホークは結びつきにくいというのが、有識者たちの共通した意見だったらしい。
したがって、最近の日本政府は両者を別個の問題とみなし、経済産業省と防衛省にそれぞれ分担して調査と警戒に当たらせている。
政府の金利政策によって市場はなんとか機能を失わずに維持されているし、防衛省のほうも、美由紀の伝えた情報に基づいてパトロールや監視の要綱をまとめ、実践している。
ベルデンニコフ一家の狙いはどこにあったのだろう。
危機感は減少しても、実際に見えないミサイルが飛来する可能性は消えてはいない。
探知されることも視認されることもなく、本土を直撃するミサイル。依然として存在しつづけるその脅威を払拭《ふつしよく》するためにも、動機が知りたい。なにを破壊することを目的としているのか。
長い階段を上ってホールのエントランス付近まで来ると、まばらな人影のなかで、年配の警備員がメガホンで告げている。「本日のセブン・エレメンツのコンサートは、悪天候により順延となりました。払い戻しをご希望のかたは、チケットの裏にある運営事務局の電話番号まで……」
「ほら」藍がふくれっ面を由愛香に向けた。「やっぱ中止じゃん」
由愛香はレインコートのフードを取り払い、頭をかきむしった。「まったく……。よりによってこんな日のチケットだからいけないのよ」
「わたしが悪いっていうの? それちょっとひどくない、由愛香さん?」
「オークションの落札費用を肩代わりにしたのはわたしでしょ。それとも何? あなたが耳を揃えて払ってくれるの? コーヒー代やパフェ代と一緒に」
「また始まった。銭の亡者。儲《もう》けてるくせにドケチ。脱税でもしてんじゃないの?」
「相手を見てものを言いな、この……」
「やめてよ」美由紀は仲裁に入った。「それより、いつに順延になるのか、聞いたほうがいいわよ」
「そうね」由愛香はつかつかと歩きだした。「文句のひとことも言ってやんなきゃね」
「由愛香……」
「ちょっとすみません」由愛香が警備員に話しかけた。「このていどの天気で中止ってどういうことですか」
老齢の警備員が眉《まゆ》をひそめた。「このていど? 馬鹿なことを言わんでください。静岡は暴風雨圏内ですよ。どこか建物のなかに入られたほうがいいですよ」
「だから、コンサート会場を開けてくれれば……」
そのとき、大きな鉄製の看板が宙を舞い、広場に転がった。周囲の人々が逃げ惑っている。
「見なさい」警備員がまくしたてた。「さっきニュースで、台風の中心は間もなく御前崎《おまえざき》市の上空に差し掛かるといってました。停電や洪水、土砂崩れも各地で発生しているんですよ。コンサートなんかやってる場合じゃないでしょう。さあ、早く退避してください」
由愛香が食いさがった。「そのまま通過していったら夜には晴れるんじゃないの? 開始時刻を遅らせるだけでいいのに」
「速度がそんなに速くないから、待っても無駄ですよ。けさ五時半には三重県の真珠湾あたりだったし……」
美由紀は、頭を殴られたような衝撃を受けた。
「なんですって!」美由紀は警備員に詰め寄った。「いま、なんて言ったの?」
「いや……その、だから、台風はけさ早くには真珠湾に……」
「真珠湾って……」
「ああ、ええと、最近じゃ英虞《あご》湾っていうんだったな。私らの若いころには真珠湾って呼んでた。真珠養殖の発祥の地なのでね。志摩半島の南ですよ。最近はあの辺りじゃ、養殖といえば青《あお》海苔《のり》ぐらいのもんで……」
動悸《どうき》が速まり、鼓動が耳のなかに響いてくるようだった。美由紀はとてつもなく大きな衝撃を受けたあと、脳震盪《のうしんとう》でも起こしたかのようなめまいを覚えていた。
そして、いくつもの浮かびあがった断片が、パズルのようにつながってひとつの形をなしはじめる。
台風の中心が間もなく御前崎市上空……。
ベルデンニコフの狙いはこれだったのだ。三か月ものあいだ動きがなかったのは、自然の天候がチャンスをつくるのを待っていたからだ。
一刻一秒を争う。そう思ったときにはもう、美由紀は身を翻して駐車場へと駆けだしていた。
「美由紀!」由愛香の声が聞こえる。「待ってよ。どこいくの!?」
あいにく、友達を連れて行ける状況ではない。美由紀はひたすら疾走した。間にあわないかぎり、失われるのはコンサートどころのものではない。すべてが消滅してしまう。この国の生きとし生けるもの、すべてが。